第19話 不器用な相棒
「……斗話さん、座ってや」
亀は、乾いた声でそう言うと、隣の椅子を軽く叩いた。断る理由もなく、僕はカウンターに腰を下ろした。店主が、何も言わずにお冷やを一つ置いていく。
「今日は、うるさく喋らないのですね」
「……そういう気分やないんですわ」
珍しく、いつもの陽気さが鳴りを潜めている。亀はぐい呑みを傾け、しばらく黙り込んだあと、ぽつりと切り出した。
「斗話さんは、部下に厳しくしたことあります?」
「まあ、多少は」
「わい、あかんのですわ。厳しくするだけで、優しくするのが下手くそで」
その一言に、僕は少しだけ驚いた。ウサギから聞いていた「パワハラ的な」という言葉と、この打ち明け話は、どこか噛み合っていないようで、実は同じ地平にあるのかもしれない。
「あいつのこと……嫌いなわけ、ちゃうんです」
「うん」
「むしろ、逆で」
亀は、ぐい呑みの中身を見つめながら、ぽつぽつと続けた。
「あいつ、飲み込み早いし、賢いし、器用やし。わいなんかより、ずっとできる奴なんです」
「そうなんだ」
「せやから、あいつが手ぇ抜いてるとこ見ると、腹が立つんですわ。おまえ、もっとできるやろって。それだけなんです、ホンマに」
僕は、じっとその言葉に耳を傾けていた。
「なのに、口から出るのは、きつい言葉ばっかりで。『なんでできへんねん』とか『ちゃんとせえ』とか。……伝えたいことと、言うてることが、いっつも噛み合わへん」
亀の太い指が、ぐい呑みを強く握りしめる。その手つきには、日頃の豪快さからは想像もつかない、不器用な繊細さが滲んでいた。
「大事に思ってるからこそ、期待してまうんですわ。せやけど、期待は、優しさの形して出てきてくれへん。いっつも、怒りの形になってまう」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
数日後、僕がその現場を目の当たりにする日が来た。
リフォーム中の家の前を通りかかると、屋根の上で作業していたウサギの手から、金槌がすべり落ちた。
「危な……!」
幸い、下には誰もいなかったが、危うく亀の頭をかすめるところだった。
「おい! 何しとんねん!」
亀の怒声が、あたり一帯に響き渡った。
「す、すみません……」
「すみませんちゃうやろ! 集中せえって、何回言わせるねん!」
「……申し訳ありません」
「ちゃんと確認したんか、命綱! 手ぇ抜くから、こうなるんや!」
ウサギは、うつむいたまま、何も言い返さなかった。ただ、その拳が、白くなるほど強く握られているのが見えた。
「……もう、ええわ」
亀は、吐き捨てるように言った。
「今日はもう帰れ」
その一言に、ウサギは無言のまま、道具を片付け、そのまま帰っていった。あとに残されたのは、苛立ちを隠せない亀と、それを見守る僕だけだった。
その日の夜、仕事を終えた亀が団地に戻ると、部屋の電気はついていなかった。
「……おい、おらへんのか」
いつもならソファで寛いでいるはずのウサギの姿が、どこにもない。荷物も、いくつか消えているようだった。亀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
翌朝、亀のもとに、一通の書類が届いた。
『退職代行サービスより、ご連絡いたします……』
機械的な文字で綴られたその書面を、亀は何度も何度も読み返していた。表情から、いつもの愛想の良さが、すっかり抜け落ちていた。
それから数日、亀は一人でリフォームの仕事を続けようとしていた。だが、案の定、勝手が違う。力仕事はこなせても、細かい採寸や高所の作業は、どうしても不慣れだった。
「……よっしゃ、いける」
誰もいない現場で、亀は一人、梯子に足をかけた。屋根の上、いつもならウサギが軽々とこなしていた作業。それを、慣れない手つきでこなそうとする。
一歩、また一歩。慎重に体を運んでいたその時だった。
バランスを崩した巨体が、大きく傾いた。
「うわっ……!」
鈍い音とともに、亀の巨体は、地面へと転がり落ちた。甲羅を下にして、仰向けにひっくり返ったまま、手足をばたつかせている。
「……あかん、起き上がれん」
周りには、誰もいなかった。
夕暮れの現場に、亀の情けない呟きだけが、虚しく響いていた。




