第15話 情熱の狩人(自称 静寂)
猪が、まっすぐに突っ込んでくる。
赤ずきんは、逃げなかった。ぎゅっと目を閉じ、それでも両腕を大きく広げ、後ろの子供たちを庇うように立ちはだかる。
「みんな、私の後ろに……!」
声は、もう震えを隠しきれていなかった。それでも、その場から一歩も動かない。衝撃を覚悟した、その瞬間だった。
「おめぇら、どうしたんだぁ」
のんびりとした声とともに、誰かが猪の首根っこを、ひょいと片手で掴み上げた。
「……え?」
赤ずきんが、おそるおそる目を開ける。そこにいたのは、猪の首根っこを片手でぶら下げた、うらちゃんだった。
宙に浮いたその猪は、じたばたと足をばたつかせながら、情けない鳴き声を上げている。よく見れば、体格はまだ小さく、体には特徴的な縞模様が入っていた。
……ウリ坊だった。
「これ、猪の……子供?」
子供たちの一人が、恐る恐る聞いた。
「そうだぞ。おめぇらには大きく見えたんだろうけど、まだこいつも子供だ」
うらちゃんは、あっけらかんとそう言った。魚には嘔吐し、女性には震え上がるあの男が、猪の子供相手には、まるで危なげなかった。それどころか、心なしか堂々としている。
「村じゃ、動物の世話も俺の仕事だったからな。これくらいは平気だ」
誇らしげに胸を張るその声には、いつもの弱々しさが、微塵もなかった。
うらちゃんは、暴れるウリ坊を落ち着かせるように優しく撫でると、そっと茂みの奥へと戻してやった。母猪が待っていたのか、遠くでかすかに鳴き声が聞こえ、やがて足音が遠ざかっていく。
その様子を、子供たちは呆然と見送っていた。あれほど大きく、恐ろしく見えていた存在が、緊張が解けた今となっては、なんだかとても小さく感じられる。
「……あの」
うらちゃんが、緊張した面持ちで赤ずきんに近づいた。女性には震え上がるはずのうらちゃんだが、相手が子供だからか、今だけはなんとか踏みとどまっているようだった。
「みんなを守るために……頑張ったんだな。おめぇ、偉ぇぞ」
その声は、少し震えていた。それでも、しっかりと赤ずきんの目を見て言われた言葉だった。
赤ずきんは、しばらく黙り込んだあと、ふいと視線を逸らした。けれど、その口元には、わずかに得意げな笑みが浮かんでいる。
「……別に。当然のこと」
言葉とは裏腹に、その背筋は、どこか誇らしげに伸びていた。
子供たちはそれぞれ「バイバーイ!」「またねー!」と手を振りながら、興奮冷めやらぬ様子で家路についていった。残されたのは、うらちゃんと赤ずきんの二人だけだった。
「あ、そこ抜けたら、確か……」
うらちゃんは、茂みの向こうを指差しながら首を傾げた。
「斗話の家、だったよな」
「……知らない」
「まあ、とりあえず行ってみるか」
二人は、泥だらけの足取りのまま、山道の続きを歩き始めた。
夕方、書斎の窓から裏山を眺めていた僕は、ふと視界の端に、見覚えのある人影を捉えた。
「……うらちゃん?」
庭先に出てみると、そこには全身泥だらけの赤ずきんとうらちゃんが立っていた。
「なんでそんな汚れて……。え、赤ずきんまで一緒に?」
「斗話に会いに行こうと思って、家の方に向かってたんです。そしたら、山の方から子供たちの声が聞こえてきて」
うらちゃんは、額の汗を拭いながら、事の顛末を語り始めた。猪の子供が突然飛び出してきたこと、赤ずきんが子供たちを守るために立ちはだかったこと。話を聞けば聞くほど、僕は驚きを隠せなかった。
「赤ずきん、そんなことがあったのか……」
「……別に、大したことじゃない」
赤ずきんは、ぼそっとそう呟いたが、その顔には、隠しきれない疲労と、それでいて満足げな色が浮かんでいた。
「とりあえず、先にお風呂入ってこい」
「……わかった」
赤ずきんは素直に頷き、家の中へと入っていった。その後ろ姿を見送りながら、僕はうらちゃんから、改めて詳しい話を聞かせてもらった。聞けば聞くほど、あの小さな体でよく踏みとどまったものだと、感心せずにはいられなかった。
風呂上がり、髪をタオルで拭きながらリビングに現れた赤ずきんに、僕は改めて向き合った。
「今日は、よく頑張ったな」
「……別に」
「みんなを守ろうとしたんだろ。すごいことだよ、それ」
珍しく、赤ずきんは少し照れたように視線を泳がせた。冷たい目つきの奥に、年相応の子供らしさが、確かに滲んでいる。
「ただ、危ないことでもあったんだ。次からは、ちゃんと大人を呼ぶんだぞ」
「……わかった」
素直な返事に、僕は思わず頬を緩めた。
「今日から、情熱の狩人だな」
からかい半分でそう言うと、赤ずきんは、むっとした顔で言い返した。
「……わたしは、静寂の狩人」
言うと同時に、いつもの調子で、小さな手刀がこちらへと繰り出される。
「うおっ、おい」
しかし、その一撃は、僕に届く前に、勢い余った本人の指を痛めるだけに終わった。
「……っ、いてっ」
突き指した指先を押さえながら、それでも仏頂面を崩さない赤ずきんの姿に、僕は思わず、声を出して笑ってしまった。




