響きあう音 あとがき
最後に宮本は、「調えただけです」と言いました。
「整える」ではなく、「調える」。
この字を使うことは、この物語を書きながらずっと考えていたことの一つです。
「整える」という言葉には、乱れたものをきちんとした形にするような響きがあります。
一方、この物語で私が使いたかった「調える」は、少し違います。
ピアノの調律のように、一つひとつ違う音を聴きながら、具合を合わせていく。
決まった形に戻すというより、その人、そのとき、その場所に合うように、もう一度音が鳴る条件を探していく。
そんな意味を、この一字に込めました。
福島の右手は、最後まで元には戻りませんでした。
痛みが軽くなっても、手首や指には動かしにくさが残っています。
それでも、楽器を固定する方法を考え、左手を使い、道具に手を加えることで、福島は再び自分の仕事をするようになりました。
冬木の病気も治ってはいません。
指の変形も、朝のこわばりも、膝の痛みも残っています。
そして、以前のようにピアノを弾くこともできません。
けれど冬木は、音を聴くことができました。
間違いに気づき、強さを聞き分け、誰かに伝えることができました。
その音を娘の恵実が鳴らし、孫のさくらや子どもたちが受け取っていきました。
以前のように弾けなくなっても、冬木に残っているものまで失われたわけではありませんでした。
冬木を書きながら、私は何度か、ピエール=オーギュスト・ルノアールのことを思い出しました。
関節リウマチを抱えながら、それでも絵を描き続けた画家です。
彼は病気を克服したわけでも、若いころと同じ身体に戻ったわけでもありません。
それでも、描くこととの関係を失わなかった。
冬木を描くとき、私が見つめたかったのも、そこでした。
以前のようにピアノを弾けるようになることではありません。
弾けなくなったあとも、音とどう関わり続けるのか。
自分の指で鳴らすことができなくても、聴くことはできる。
伝えることもできる。
そして、自分が思い描いた音を、誰かに託すこともできる。
冬木を通して、できなくなったあとにも続いていく関わりを描きたかったのです。
できなくなったことを、もう一度できるようにする。
それだけが、リハビリテーションではありません。
どれだけ努力しても、元には戻らないことがあります。
病気が残ることもある。
障害が残ることもある。
以前と同じ方法では、もうできないこともある。
そんなとき、「できるようにならなかった」で終わらせてしまえば、その人が長い時間をかけて大切にしてきた仕事や役割、楽しみまで、一緒に失われてしまうことがあります。
身体が変わったなら、方法や道具、環境を変える。
誰かの手を借り、ときには自分がしていたことを誰かに託しながら、それでも関わり続ける。
作業療法には、そんな仕事もあります。
ただ、私がここでいう「調える」は、道具や環境だけの話ではありません。
身体の状態を調えていくことも必要です。
痛みや動き、疲れやすさを見ながら、今の身体でできることを探していく。
そして、本人が自分の心を少しずつ調え直していくことも必要なのだと思います。
いくら周囲が動いても、最後に一歩を踏み出すのは本人です。
だから宮本は、答えを与えたり、無理に前を向かせたりしません。
身体や道具、環境、人との関係を調えながら、本人が自分で動き出すのを待つ。
それが、今の宮本のやり方です。
なぜ彼がそこまで「語らない」ことにこだわるのか。
その理由については、もう少し先で描いていくつもりです。
もちろん、「調える」という言葉が作業療法の正式な定義というわけではありません。
これは、この物語を書くために私が選んだ言葉です。
何をしたのかと尋ねられても、宮本は多くを語りません。
「調えただけです」
しかし、それで「よかった」と簡単に言い切れるわけではありません。
國井が最後に残したのも、その問いでした。
國井にとっても、福島との時間は一つの転機になりました。
彼は当初、福島の右手の機能を取り戻し、仕事で使えるようにすることを目標にしていました。
それができなければ、自分の治療はうまくいっていないとも感じていました。
けれど福島の右手は、最後まで元には戻りませんでした。
それでも、福島は仕事へ戻っていきました。
一つの答えを得たというより、簡単に答えを決めなくなった。
私はそこに、國井の変化があると思っています。
そして、この問いは、次の章にも続いていきます。
福島の右手は戻っていません。
冬木の病気も残っています。
失ったものを、すべて取り戻したわけでもありません。
それでも、福島は楽器に触れ、冬木は子どもたちの前に立ち、恵実はもう一度ピアノを学び始めました。
そして、さくらを含めた子どもたちが、その音を受け取っていきます。
最後に聞こえていた《きらきら星》も、きれいにそろった音ではありませんでした。
途中で止まり、また最初から始まります。
けれど、私はそれでいいと思っています。
生活もまた、思いどおりには続かないことがあります。
途切れることも、以前と同じ形では続けられなくなることもあります。
それでも、もう一度始められる場所があれば、音はまた鳴ります。
一人で鳴らせなくても、誰かの音と重なることがあります。
途切れて、また始まって、誰かの音と重なっていく。
そんな「響きあう音」を、この章では描きたかったのだと思います。
比良野 瞬




