第1話 生活の色
空は澄んだ青だった。
雲は高く、遠く、春の朝はまだ静かだった。
病院の建物の脇で、桜が咲いていた。
淡い色も、濃い色も、光の中で区別なく揺れていた。
白いケーシーの上に濃い紺色の上着を羽織った國井翔太が歩いていた。
國井は病院の建物を抜けて、古いアパートのような建物の前で立ち止まった。
そして、扉の前で小さく息を吸い、扉に手を伸ばした。
「おはようございます」
挨拶と同時に扉が軋む音が部屋に響いた。
部屋の中は、仕事用の机が複数置かれており、かなり狭かった。
奥の机に座っている年配の女性が國井に顔を向けた。
「おはよう、所長の栗橋です。今日からよろしくね」
「はい、本日からお世話になります。國井翔太です」
入口の横に立っていた筋肉質の壮年の男性が声をかけた。
「おい、病院のリハの延長だとは思うなよ」
栗橋が穏やかにそれを制した。
「黒羽さん、最初の挨拶にしては辛辣ですよ」
「ははは、悪かったな。理学療法士の黒羽だ」
「はい、よろしくお願いします」
國井は頭を勢いよく下げた。
國井はこの四月で、作業療法士になって四年目を迎えていた。
今年度から、訪問リハビリテーション部門に配属になった。
「國井くんはその机を使って」
國井は、栗橋が指さした窓際の机を見た。
肩に下げた鞄をその机に置いて、息を小さく吐いた。
國井が隣の机に視線を向けると、書類やファイル、汚れたマグカップなどが雑多に置かれていた。
國井は視線を戻して自分の鞄を開けて中身を確認しようとしたとき、無精ひげの宮本が玄関から入ってきた。
宮本は國井に気づくと少し口元を緩めた。
「國井くん、今日からですか」
「はい。訪問の専属になります」
宮本は小さくうなずくと國井の隣の机の汚れたマグカップを手に取った。
マグカップの中を見て宮本は眉をひそめた。
その様子を見ていた栗橋が立ち上がり宮本に声をかけた。
「宮本くん、週一日こっちに来てもらっているけど、机はキレイにしておいてね」
宮本は整っていない髪を掻いてうなずいた。
「あと、今日の午後の訪問は國井くんを同行させてね」
「わかりました」
宮本は栗橋を見てから國井へ視線を向けた。
「國井くん、午後は三件回ります」
「はい、よろしくお願いします」
「午前中は私に付き合ってもらうからね」
栗橋は國井に向かってにやりと笑った。
***
その日の午後、國井と宮本は事務所を出て、裏手にある駐車場へ向かった。
國井の白衣の裾が、午後の風を受けてわずかに揺れた。
駐車場に入ると、白い軽自動車が並ぶ一角で宮本は足を止めた。
「乗ってください」
宮本は自動車のドアロックを外して國井に言った。
國井は小さくうなずいて、助手席に乗り込んだ。
午前中は訪問リハビリテーション部門についての説明で終わった。
午後は宮本に同行して訪問リハビリテーションを見学することになった。
宮本が運転席でエンジンをかけると、車は静かに動き出した。
窓の外で、春の色が後ろへ流れていく。
車内に差し込む光は、わずかに色を帯びて見えた。
車は病院を離れ、住宅街へ入っていった。
ハンドルを握る宮本は、前だけを見ていた。
速度は一定で、ハンドル操作も穏やかだった。
街路樹の若い葉が、午後の光を受けていた。
車内は静かだった。
宮本が何かを話すことはなく、國井も言葉を探さなかった。
運転席に座る宮本の横顔を見ていると、無理に言葉を挟む必要はないように思えた。
訪問リハビリテーションという言葉は、これまで何度も聞いてきた。
病院で関わった人たちは、やがて家に帰っていった。
その先の生活を思い浮かべながら、作業療法をしてきたつもりだった。
しかし、國井は宮本が何を考えているのかを、まだ理解できないことが多かった。
だから、宮本が在宅でどのような仕事をしているのか知りたかった。
***
最初の家は、駅から少し離れた住宅地にあった。
車を降りると、風の音が聞こえた。
宮本はすぐに玄関へ向かわず、門の前で一度立ち止まった。
「冬木さん」
庭の方から、返事があった。
植え込みの若草色の中に、冬木聡美がいた。
腰を落とし、片手を地面について身体を支えながら、庭の手入れをしていた。
関節リウマチの診断を受け、外来リハビリにも通っていた。
「今日は若い先生も一緒なのですね」
動きはゆっくりで、一つの作業を終えると、しばらくそのまま動かなかった。
それでも、顔を上げた冬木は、國井を見て穏やかに笑った。
國井は、その表情に目を留めた。
外来で会っていた冬木は、いつも張りつめていた。
冗談を言うわけでもなく、淡々と訓練をこなす人だった。
庭にいる冬木は、少し違って見えた。
以前、一度だけ見たピアノ教室の冬木に近かった。
宮本が軽く会釈をした。
「中、入れますか」
冬木はうなずき、先に玄関へ向かった。
家に入るとき、宮本は一歩遅れて靴を脱いだ。
國井も、それに倣った。
室内は静かだった。
外の光が、レースのカーテン越しに床へ落ちていた。
「今日は、私ひとりなんです」
「お昼はどうしましたか」
「これから昼食の支度をしようと思っていたんですよ」
「では、台所の確認をしましょう」
冬木は、台所へ移動し、調理台の前の椅子に座った。
椅子は少し高めで、作業台との距離も無理がなかった。
冬木は小さく息を吐き、茄子を洗ってまな板の上にのせた。
そして、調理台に置いてある包丁を手に取った。
包丁の柄は太く、冬木の手の中に収まっていた。
速くはないが、包丁の動きは途切れなかった。
國井は、その一連の動きを見ていた。
外来で見ていた動きと、同じではなかった。
宮本は、少し離れた場所で、それを見ていた。
声をかけることも、近づくこともなかった。
國井の中に、一つの疑問が浮かんだ。
――もっと、できることがあるんじゃないか。
訓練も、指導も、調整も、次の手順がすぐに思い浮かんだ。
それでも、宮本は動かなかった。
作業を終え、手を洗う冬木の表情は、やはり穏やかだった。
訪問を終えて家を出た宮本に、國井は我慢できずに口を開いた。
「あれで、終わりですか」
宮本は、少しだけ間を置いた。
「ここは、病院ではないです」
それ以上は言わなかった。
國井は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
病院ではない。
そんなことは、分かっているつもりだった。
車に戻るまでの間、國井は何も言わなかった。
若草色の庭に、光が差し込んでいた。
その中にいた冬木の笑顔が、頭から離れなかった。
***
車は住宅街を離れ、田園風景へ切り替わっていった。
畑が続き、低い建物の間を一本道が伸びており、風光る緑の絨毯は静かに、どこまでも広がっていた。
「次は、ALSの方です」
宮本は、前を見たまま言った。
國井は、窓の外に視線を残したまま、頭の中でその名前を思い浮かべた。
ALS――筋萎縮性側索硬化症。
國井が実際にALSの患者を見るのは初めてだった。
数年かけて、少しずつ、全身の筋肉の機能が失われていく難病で、やがて呼吸にも支えが必要になる。
どう関わるか。
何を支援するか。
その疾患について学んできた知識が、頭の中にいくつも浮かんだ。
車は、古い農家の前で止まった。
母屋の脇に納屋があり、畑が広がっていた。
農機具が置かれ、使われてきた時間が見える場所だった。
畑の端で、作業をしている年配の女性に宮本が声をかけた。
「こんにちは」
振り返った人物は、軽く手を挙げた。
「先生、どうぞ。上がってくださいな」
はきはきとした大きな声だった。
女性はそのまま、畑の方へ戻っていった。
敷地を進みながら、國井は周囲を見た。
午後の光を受けた葉や、土で汚れた農機具が目に入った。
そこでは、時間が途切れずに続いている感じがした。
玄関から家の中に入ると、空気が変わった。
廊下には人の動く気配がなく、外よりも暗く、肌寒さを感じられた。
廊下の奥から、一定のリズム音が聞こえてきた。
人工呼吸器の音だった。
うす暗い廊下を進むと、突き当たりに一つの部屋があった。
部屋の主である芳野啓吾は六十六歳で、ALSを発症して五年になっていた。
介護用ベッドの上で、芳野は枕に頭を預けていた。
気管切開部から伸びた回路が、ベッド脇の人工呼吸器につながっていた。
目の前には、パソコンのモニターが設置されており、画面の淡い青が、部屋の中を静かに照らしていた。
芳野の視線はモニターに向かって動いており、画面のポインターを視線で操作していた。
宮本が近づいて声をかけた。
「トマトの栽培ですか」
芳野は、画面に視線を向けたまま、ゆっくりとうなずいた。
画面には、日付や天候、作物の成長の記録が並んでいた。
「とうちゃん、今年のトマトはどこに植えんだっけ」
外にいた女性が、部屋に入ってきて芳野のモニターをのぞき込んだ。
モニターが別の画面に切り替わり、西側・去年使っていない場所と表示された。
「ああ、西側の水はけがいいところだね」
女性は芳野の頭を撫でまわしてから、宮本に挨拶をして外に出て行った。
「奥さんはお元気ですね」
宮本は芳野の頭の位置を見ながら言った。
國井には、芳野の顔が少し動いたように見えた。
「少し、枕が低いようですね」
宮本はそう言うと、芳野の頭とモニターの位置を確認し、枕の高さを調節した。
芳野の手足は動かなかったが、モニターには◎が表示された。
それを見た宮本は小さくうなずいた。
部屋の中に、やわらかい日差しが差し込んでいた。
古い家具の色が、光を受けて落ち着いて見えた。
國井は、その光の中に立っていた。
時間が止まっているような部屋だった。
淡い青の光の中で、琥珀色の世界にいるような気がした。
芳野が、もう一度ポインターを動かして画面の文字を少し進めた。
宮本は、何も言わずにそれを見ていた。
國井も黙ってその様子を見ていた。
芳野の手足は動かず、声も出せなかった。
それでも、芳野は自分の役割を持っていた。
それは、國井がこれまで学んできたものと、大きくずれてはいなかった。
家を出ると、外の空気も少し冷たく感じられた。
***
日が傾くころに、宮本たちが乗る車は住宅街へ戻ってきた。
先ほどまでの田園風景とは違い、道沿いの家並みは少し古びて見えた。
店を閉めたままの建物や、色あせた看板が目に入った。
國井は、車窓を見ながら、芳野家の訪問を思い返していた。
芳野は視線でパソコンを操作し、記録を残し、畑のことを妻に伝えていた。
國井にとっては、腑に落ちる作業療法だった。
車が静かに止まった。
「今日は、この家が最後です」
宮本はそう言ったが、どんな家かは語らなかった。
家は、住宅街の一角に静かに建っていた。
表札はかすれていたが、近づくと「河本」と読めた。
玄関には、白い靴が揃えて置かれており、訪問者が来ていることが分かった。
家に入った瞬間、薬品と湿った布の混じった臭いが鼻に残った。
國井は一度だけ浅く息を吸い直した。
年老いた女性に家の中へ招かれ、玄関のすぐ横の部屋に入った。
窓はあるが、光は十分に入ってこない部屋は薄暗かった。
ベッドが中央にあり、横たわる人影があった。
その脇で、看護師が作業をしていた。
年老いた女性は、部屋の隅の椅子に静かに腰を下ろした。
横たわっているのは河本茂之。
末期がんで、自宅療養を続けていた。
部屋の隅に座っているのが妻だと、宮本が國井に伝えた。
河本の顔色は青白く、痩せ細っているが、腹部だけが張って見えた。
呼びかけに対して唇は動いたが、言葉にはならなかった。
ベッドの周囲には、点滴、吸引器、薬品が置かれているが、どれも使われているはずなのに、動いている感じがしなかった。
部屋の壁は、古い漆喰で白とは言えない色をしていた。
家具も、床も、カーテンも色褪せていた。
國井には部屋全体が、灰色に包まれているように見えた。
看護師は、伊藤と紹介された。
伊藤は必要な処置を淡々と進めていた。
動きに迷いがなく、手順にも無駄がなかった。
國井は部屋の隅に立っていたが、視線をどこに置けばいいのか、分からなかった。
「少し横を向きますね」
宮本は、そっと河本を横に向けた。
伊藤はそのまま、背中の処置を始めた。
創部を丁寧に洗浄し、被覆材を交換していた。
國井はその光景を前に、自分の入る余地を見つけられなかった。
伊藤は処置が終わると、短く宮本に意識、呼吸、皮膚の状態を伝えた。
宮本はうなずき、河本のそばに寄り呼吸を見た。
「河本さん、少し動きます」
宮本は身体へそっと手を添え、右へ傾けてから上半身をわずかに起こした。
少しすると、河本の肩の上下がやや小さくなった。
そのとき、玄関でチャイムが鳴った。
河本の妻が立ち上がり、玄関へ向かった。
しばらくして、白衣の初老の男性が部屋に入ってきた。
在宅医療を担当している医師の富田だった。
富田は部屋にいる人物を確認すると、明るい声をかけた。
「やぁ、少し遅くなってしまったよ」
伊藤と宮本が会釈し、状況を簡単に伝えた。
富田はうなずき、河本の様子を見た。
河本の妻が小さな声で言った。
「最近は、寝てばっかりで……あんまり痛いとも言わなくなりました」
富田は、河本の口元を見ながら静かに答えた。
「苦しそうな様子は、前より少ないね」
富田は、顔を河本の妻へと向けて続けた。
「でもね、いつ何が起きても、不思議ではないからね」
河本の妻は、何も言わずに聞いていた。
富田の言葉を受けて、伊藤は少しでも苦しまないためのケアについて説明を続けた。
國井は、その場でただ立っているしかできなかった。
國井には、死に向かう時間の中に、芳野のように続いているものを見つけられなかった。
車に戻るまで、國井は言葉を発することができなかった。
窓の外には、まだ夕方の光が残っていた。
それでも、國井の目には色が薄く見えた。
それが、時間のせいなのか、自分の中の何かのせいなのか、國井には分からなかった。
しばらくして、宮本が言った。
「どうでした?」
國井は、すぐに答えられなかった。
脳裏に浮かんだのは、三つの光景だった。
冬木が台所で包丁を動かしていた手。
芳野の視線に合わせて動いたポインター。
河本の胸元の浅い呼吸。
そのことを、國井は言葉にできなかった。
車は、静かに病院へ戻っていった。
宮本は一瞬だけ國井の顔を見たが、何も言わなかった。
***
日が沈んだころ、宮本は郊外の喫茶店にいた。
――喫茶チェリー。
色褪せた看板にはそう書かれていた。
店内には宮本以外に客はいなく、スピーカーからはレトロな歌謡曲が流れていた。
私服の宮本は、いつも座る窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。
そこに車いすに乗った小金井実桜が、宮本の席の横までやってきた。
「はい、いつものコーヒー」
実桜は膝の上のトレーから、ソーサーとカップを宮本の前に置いた。
「ありがとうございます」
宮本はカップを手に取り、一口含んだ。
実桜は宮本の顔をのぞき込んで声をかけた。
「今日のは自信があるそうだけど、どうかな?」
「……いつも通りです」
宮本の顔は特に変わらなかった。
カウンターの奥にいるマスターは鼻を鳴らした。
実桜はそこから移動せず、宮本がコーヒーを飲む姿を見ていた。
「今日、訪問に新しい人が配属されました」
「新人さん?」
「いいえ、四年目です」
宮本はテーブルクロスの模様を指でなぞった。
その口元は、少し緩んでいた。
「めずらしい」
「そうですか?」
「今日はなんだか、嬉しそうに見える」
「一緒に訪問しましたが、彼が少し戸惑っていました」
「宮本さんが、困らせたんじゃないの?」
宮本は残ったコーヒーを一気に飲んだ。
その眉間に一瞬だけ皺が寄った。
「いえ、何もしていません」
「あー、何も言ってないんだ」
宮本はカップを置いて、窓の外を見てつぶやいた。
「彼が考えていましたから」
窓ガラスに、店内の灯りが淡く映っていた。
第1話 終




