第10話 響きあう場所
第10話 響きあう場所
福島楽器店の前まで来ると、ガラス戸の向こうからピアノの音が聞こえていた。
一つの旋律に、少し遅れて別の鍵盤の音が重なり、さらに途切れがちな数音がその後を追っていた。
途中で止まった音は、少し間を置いてまた初めから繰り返され、ときおり子どもたちの声や笑い声も混じっていた。
三月に入り、日差しには春らしさが感じられるようになっていたが、通りを抜ける風にはまだ冬の冷たさが残っていた。
店のシャッターは上まで開き、入口の脇には営業時間を記した札が掛けられていた。
その隣には、〈ピアノ教室 毎週土曜日〉と印刷された新しい案内が貼られていた。
ガラス戸の向こうには以前と変わらずギターや譜面台、管楽器のケースが並び、カウンターには会計を終えた伝票が残っていた。
その奥には修理や調整を待つ楽器が置かれ、修理台には滑り止めや固定具、スポンジを巻いた工具が並んでいた。
以前、國井と里奈がここで見たものもあれば、その後に手を加えたらしいものもあり、どれにも使い込まれた跡が残っていた。
福島は修理台の前に立ち、固定したギターの調整をしていた。
右手首の動きは外来へ通っていたころと大きく変わっておらず、指も以前のようには動かなかった。
それでも、固定具で楽器を押さえると左手で工具を扱うことができた。右手は必要なところへ添え、途中で工具を置いて持ち替えながら、福島は作業を続けていた。
グランドピアノを店の奥へ戻したあと、福島は予定どおり外来リハビリを卒業していた。
今では修理台にも、以前のように仕事を待つ楽器が並んでいた。
福島が手を止めて店の奥へ目を向けると、その先に國井と里奈が立っていた。
國井は一度、福島の右手を見たあと、修理台に並んだ工具と作業途中のギターへ視線を移した。
隣にいた里奈も福島の手元を見ていたが、やがて國井と同じように修理台へ目を向けた。
二人の向こうには、文字の薄くなった〈ピアノ教室〉の札が掛け直されていた。
開かれた扉の奥には、教室の中央に戻されたグランドピアノがあり、壁際には二台のアップライトピアノが並んでいた。
グランドの長椅子には一人の子どもが座り、恵実はその脇に置かれた椅子に腰掛けていた。
二台のアップライトにもそれぞれ子どもが座っていたが、こちらは順番を待ちながら、先ほど習ったところを小さな音で確かめていた。
一人は同じ数音を何度か繰り返し、もう一人も楽譜と自分の指を交互に見ながら、同じ旋律をゆっくりとたどっていた。
グランドから音が聞こえると二人ともいったん手を止め、耳を傾けてから、また自分の鍵盤へ戻っていた。
壁際には付き添ってきた親たちが座っていた。
子どもの様子を見守る者もいれば、順番を待つ子どもの上着や鞄を膝に載せている者もいた。
その近くには小さな椅子もいくつか並べられ、まだピアノに向かっていない子どもたちが自分の番を待っていた。
三台のピアノを見渡せる位置に、冬木が立っていた。
福島から教室の話を持ちかけられた日、冬木はその場では返事をしなかった。
奥に置かれたグランドピアノを見たあと、自分の手へ視線を落とし、結局その日は何も答えずに店を出た。
返事をしたのは、数日後だった。
それから土曜日の午後が、冬木の予定に加わった。
手指の変形は変わらず、朝のこわばりや膝の痛みも続いていた。
デイケアの仕事も続けていたが、勤務日数は以前より減らしていた。
家事も残っていたものの、洗濯や買い物を恵実が引き受けることが増え、さくらも自分にできることを手伝うようになっていた。
冬木はグランドに座る子どもの手元を見たあと、壁際のアップライトへ目を向けた。
片方の子どもが同じところで何度か指を止めているのを確かめると、再びグランドを見た。
それを受けて、恵実が鍵盤へ手を伸ばした。
短い旋律がグランドピアノから流れると、子どもは恵実の手元を見た。
恵実が手を離してから、同じところへ指を置き直し、ゆっくりと鍵盤を押していった。
壁際のアップライトでは、順番を待つ子どもがその音を聞きながら、膝の上で一度指を動かしてから鍵盤へ戻っていた。
恵実は夜の仕事を辞め、今は昼間に働いていた。
仕事から帰ったあとに楽譜を開く時間も増え、長く離れていたピアノを、もう一度学び直していた。
グランドピアノの譜面台には、《きらきら星変奏曲》の楽譜が開かれていた。
昔の書き込みの間には、新しく書き足された鉛筆の線がいくつも残っていた。
子どもがもう一度弾くと、恵実は手を出さずに待った。
冬木も鍵盤には触れず、その手元を見ていた。
子どもの指が途中で止まると、冬木の視線が恵実へ移り、それを受けた恵実が短く音を鳴らした。
子どもはもう一度、同じところから弾き始めた。
その間にも冬木は、ときおり二台のアップライトへ目を向けた。
二人が同じところを小さな音で繰り返しているのを確かめると、またグランドへ目を戻した。
順番を待つ子どもたちの中には、さくらもいた。
冬木の隣でも恵実のそばでもなく、ほかの子どもたちと同じ小さな椅子に腰掛けていた。
グランドから旋律が聞こえるたび、さくらは身体を少し前へ寄せ、膝の上でその音を追うように指を動かしていた。
その様子を、部屋の後ろから貴一が見ていた。
仕事で帰りが遅くなる日は相変わらずあったが、最近は帰宅する前に冬木へ連絡を入れ、買って帰るものがないか尋ねることがあった。
貴一はしばらくさくらの様子を見ていたが、やがて三台のピアノの間に立つ冬木を見た。
その隣では、福島が右手を身体の脇に下ろしたまま、教室の中を見ていた。
グランドの子どもが椅子を降りると、待っていた子どもの一人が立ち上がった。
壁際のアップライトでも一人が鍵盤から手を離し、次の順番に備えて楽譜を閉じた。
椅子が床を擦る音に、子どもたちの小さな声と親たちの動く気配が重なった。
次の子どもがグランドの前へ座るまでのあいだにも、もう一台のアップライトからは途切れがちな音が続いていた。
少し離れたところで、國井と里奈もその様子を見ていた。
國井は福島へ目を向け、そこから冬木、グランドの恵実、壁際のアップライト、順番を待つ子どもたちへと視線を巡らせた。
しばらく見ていた國井が、ふと腕時計へ目を落とした。
隣にいた里奈へ目を向け、入口のほうへわずかに顎を動かすと、里奈もうなずいた。
二人は教室の邪魔にならないよう、静かに店の入口へ向かった。
ガラス戸を開けると、小さなベルが鳴った。
二人の背後で扉が閉じたあとも、店の奥では旋律が何度か途切れ、そのたびに同じ最初の数音がまた鳴り始めていた。
***
ガラス戸の外では、通りを抜ける風が頬に冷たかった。
日差しは店の軒先まで届いていたが、外の空気にはまだ冬の名残があった。
閉じたガラス戸の向こうでは、《きらきら星変奏曲》の旋律がくぐもって聞こえていた。
少し先に宮本が立っていた。
店には背を向け、通りのほうを向いたまま目を閉じていた。
風が抜けても動かず、ガラス越しの旋律に耳を傾けていた。
國井が足を止めた。
「宮本先生。来てたんですか」
宮本はゆっくりと目を開け、國井たちを振り返った。
「ええ」
里奈も宮本を見たあと、背後の店へ一度目を向けた。
國井はしばらく黙ってから、宮本に向き直った。
「福島さんの右手、結局、戻りませんでしたね」
「ええ」
店の中から、今度はゆっくりとした旋律が聞こえてきた。
「それでも、よかったんでしょうか」
宮本はすぐには答えず、店から聞こえてくる音に耳を傾けた。
旋律は途中で止まり、間を置いて同じ音がもう一度鳴った。
「どうでしょうね」
國井は何か言いかけたが、その前に里奈が口を開いた。
「でも、福島さん、仕事してるとき、いい顔してましたよね」
里奈はガラス戸の向こうへ目をやった。
「冬木さんも。外来に来てたときより、ずっと生き生きして見えました」
しばらく誰も話さなかった。
店の中で一つの音が止まり、別のピアノが同じところを弾き直した。
少し遅れて、最初のピアノもそれを追った。
國井はその音を聞いてから、宮本を見た。
「先生、二人に何をしたんですか」
「調えただけです」
國井はしばらく宮本の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……やっぱり、よく分からないですね」
「そうですか」
宮本の口元が、わずかに緩んだ。
里奈がふと店のほうを振り返った。
そのとき、ガラス戸の向こうから《きらきら星》の最初の数音が聞こえてきた。
先ほどとは速さが違っていた。
「そろそろ、戻りましょうか」
宮本がそう言って通りの先へ歩き出し、國井と里奈がそのあとをついていった。
三人が歩き出してからも、福島楽器店の奥からは、途切れてはまた始まる《きらきら星》の旋律が聞こえていた。
――第10話 終
第1章 響きあう音 完




