第9話 共鳴
國井と里奈が福島楽器店の奥へ進むと、福島が一つの扉の前で足を止めた。
「こっちです」
扉の上には、文字の薄くなった〈ピアノ教室〉の札が残っていた。
福島に続いて、國井と里奈も入った。
部屋の中央には、黒いグランドピアノが置かれていた。
福島はその前まで行き、鍵盤蓋を開けた。
「じゃあ、見てもらいますか」
福島は一音鳴らすと、少し離れた鍵盤も押して耳を澄ませた。
國井と里奈は、その少し後ろに立っていた。
福島はいくつかの鍵盤を確かめたあと、一つの鍵盤を続けて押した。
「ここ、戻りが悪いな」
「調律だけじゃないんですか」
里奈が尋ねた。
「しばらく触ってないからな」
福島は鍵盤の奥を覗いた。
「音を合わせるだけじゃ駄目なんだ。鍵盤の動きも見ないといけないし、ハンマーも揃ってない」
里奈はピアノの中を覗いた。
「弦は大丈夫なんですか」
「今のところ、全部替えるほどじゃないな」
福島は工具箱から調律ハンマーを取り出し、左手で握ってピアノの中へ差し入れた。
位置を決めると、右手で鍵盤を鳴らした。
だが、もう一度押そうとしたところで右手首が止まった。
隣の鍵盤へ動かすにも、指が思うようについてこなかった。
福島は一息吐いてから右手を離した。
「右手は使えないか」
里奈が鍵盤へ近づいた。
「私が鳴らしたら駄目ですか」
福島が顔を上げた。
少し考えてから、一つの鍵盤を指した。
「じゃあ、そこ」
里奈が押すと少しくぐもった音が鳴った。
福島は聞いてから、左手の工具をわずかに動かした。
「もう一回」
里奈が同じ鍵盤を押した。
福島は音を聞き、左手の工具をもう一度動かした。
再び音が響いた。
福島はそれを聞いてから、工具を外した。
「……こうすれば、できるところはありそうだな」
隣へ移ると、今度は同じようにはいかなかった。
左手では工具をかける角度が合わなかった。
福島は無理に続けず、手を止めた。
「全部一緒じゃないですね」
國井が言った。
「そうですね」
福島はしばらくグランドピアノを見ていた。
「やるなら、調律だけじゃ済まないな」
壁際には、小さな椅子がいくつか重ねられていた。
里奈が尋ねた。
「直すんですか」
福島は少し黙った。
「いや」
調律ハンマーを工具箱へ戻した。
「今は、直す理由もないから」
鍵盤蓋を閉じた。
「誰も弾かないし」
福島は扉の方へ歩いた。
「教室も、もうやってないですからね」
***
土曜日の午後。
宮本はその日の訪問を終え、居間へ戻った。
冬木は宮本の前に湯呑みを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
居間のテーブルには、さくらの本が何冊か広がっていた。
恵実はソファに座っていた。
以前は二階にあったさくらの着替えは、一階の棚へ移されていた。
着替えが少なくなると、恵実がまとめて持ってくるようになっていた。
毎日ではないが、冬木が階段を上がる回数は減っていた。
さくらはテーブルの本をめくっていた。
あるページで手が止まった。
大きな黒いピアノが描かれていた。
さくらはその絵を見てから、廊下の奥にあるピアノの部屋へ目を向けた。
「ばあば」
「なに?」
さくらは本を持って冬木のところへ行った。
「これ、ばあばのピアノと違う」
冬木は本を見た。
「これはグランドピアノよ」
「ぐらんど?」
「そう。ピアノの王様なのよ」
さくらは本を見てから、廊下の奥へ顔を向けた。
「ばあばのは?」
「アップライトピアノ」
恵実が答えた。
「形が違うんだよ」
さくらはもう一度、本を見た。
「ばあば、これ弾いたことある?」
冬木は少し笑った。
「あるわよ」
「いつ?」
「昔ね。レッスンとか、発表会とかでね」
恵実が本を覗き込んだ。
「母さん、昔は教える方じゃなくて、弾く方だったんでしょ」
冬木が娘を見た。
「昔の話よ」
「ぴあののせんせいじゃないの?」
さくらが聞いた。
「先生になる前の話ね」
冬木は本のグランドピアノへ目を落とした。
恵実が笑った。
「母さん、ピアニストになりたかったんだよ」
「恵実」
「いいじゃん。本当でしょ」
冬木は何も言わなかった。
さくらは恵実に視線を向けた。
「ママは?」
「私?」
「ぴあにすと」
恵実は髪を耳にかけた。
「なりたかった時もあったかな」
本のグランドピアノを見た。
「家に戻ってきてから、グランドなんて弾く機会ないけどね」
冬木の視線が、娘の横顔に止まった。
さくらは本を抱えたまま、廊下の奥へ向かった。
「ばあばのぴあの見てくる」
「さっきまで見てたでしょう」
冬木が笑った。
しばらくして、時計を見た。
「そろそろ夕飯やらないと」
「まだ早くない?」
恵実が言った。
「あとで痛くなるから、今のうちにやっておくの」
冬木は立ち上がった。
最初の一歩で、膝の動きがわずかに止まった。
宮本は湯呑みを置いた。
冬木が台所へ向かうのを見てから、立ち上がった。
「恵実さん」
「はい?」
「冬木さんが、何もしなくていい時間ってありますか」
恵実は宮本を見た。
「何もしなくていい時間?」
「はい」
恵実は少し考えた。
台所から、冷蔵庫の扉が開く音がした。
「……寝てるときくらいじゃないですか」
宮本は何も言わなかった。
恵実は台所へ目を向けた。
「でも、寝る前も洗濯とかしてるし」
少し間があった。
「朝は朝で、さくらのこともあるし」
宮本はうなずいた。
「そうですか」
それだけだった。
***
その日の夜、冬木が洗面所へ行くと、洗濯機が回っていた。
「洗濯したの?」
居間の恵実が振り返った。
「した」
「干すのは?」
「私やる」
「明日、仕事じゃないの?」
「夜からだから」
冬木は洗濯機を見た。
「無理しなくていいのよ」
「一回くらい平気」
恵実はまたスマートフォンへ目を戻した。
数日後には、恵実がさくらを風呂へ入れた。
別の日には、買い物へ出た。
冬木が夕食を作る日も変わらずあった。
恵実が仕事から帰って昼まで寝ている日もあった。
貴一の生活は、ほとんど変わらなかった。
それでも、冬木が一人でやることは少しずつ減った。
ある夜、恵実がカレンダーの前に立った。
「母さん」
食器を片づけていた冬木が振り返った。
「なに」
「今度の土曜日、休み取ったから」
「そう」
「さくらも私が見る」
冬木が手を止めた。
「どうしたの?」
「別に」
恵実はカレンダーを見たまま言った。
「母さんも、その日は何もしなくていいから」
冬木が眉を寄せた。
「何もしないって」
「洗濯も、ご飯も、さくらのことも私がやる」
「せっかく休みなのに」
「休みだからできるんでしょ」
冬木は娘を見た。
「別に、そこまでしなくてもいいのよ」
「一日だけ」
恵実はカレンダーに丸をつけた。
冬木はしばらくそれを見ていた。
丸はそのまま残った。
***
数日後、宮本は一人で福島楽器店を訪ねた。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
カウンターの奥で、福島が顔を上げた。
「今日は一人ですか」
「はい」
宮本は店の奥へ一度目を向けた。
「福島さん」
「はい」
「お願いがあります」
福島の手が止まった。
「……何ですか」
「今度の土曜日、奥のピアノを使わせてもらえませんか」
「ピアノ?」
「はい」
福島は店の奥を見た。
「何に使うんです」
「以前、ピアノを教えていた方がいます」
福島が宮本へ視線を戻した。
「その方に、一度ここへ来てもらいたいんです」
「弾くんですか」
宮本は少し間を置いた。
「分かりません」
福島はしばらく何も言わなかった。
それから、奥の扉へ向かった。
宮本も続いた。
扉の上には、文字の薄くなった〈ピアノ教室〉の札が残っていた。
福島は扉を開け、グランドピアノの前まで行くと、鍵盤蓋を上げた。
一音鳴らすと、福島は少し顔をしかめた。
「土曜日ですよね」
「はい」
「このままじゃ駄目ですよ」
「そうですか」
「これは調律だけじゃ済まないんですよ」
福島は鍵盤をいくつか押した。
「鍵盤も見ないといけないし、音も揃ってない」
右手を見た。
「今の手で、どこまでできるかも分からない」
宮本は黙って聞いていた。
福島が振り返った。
「どうしても使いたいですか」
「はい」
福島はグランドピアノへ目を戻した。
もう一音鳴らした。
しばらく、その音を聞いていた。
「……これは、人に弾かせられないな」
福島は左手を鍵盤から離した。
「間に合うか分かりませんよ」
「お願いします」
宮本は頭を下げた。
福島は返事をしなかった。
工具箱の方へ歩いた。
***
國井と里奈が福島楽器店を訪ねたとき、奥の部屋には工具が並んでいた。
扉の上にあった〈ピアノ教室〉の札は外され、壁際に立てかけられていた。
グランドピアノの鍵盤蓋は開いており、福島は鍵盤を一つずつ確かめていた。
「始めてたんですね」
里奈が言った。
「時間ないですから」
福島は鍵盤から手を離した。
以前、國井が置いていったスポンジや滑り止めも、修理台から持ち込まれていた。
里奈は福島に言われた鍵盤を鳴らし、國井は頼まれた位置へ椅子や道具を動かした。
右手を添えるだけで済むところもあれば、左手では時間のかかるところもあった。
福島はそのたびに、やり方を変えながら作業を続けた。
しばらくして、福島が手を止めた。
「今日はここまでだな」
工具を置くと、右手を軽く振った。
國井の視線が、その手に向いた。
「痛みはどうですか」
「前よりいいですよ」
福島は右手首を動かしてみたが、途中で止まった。
「でも、動くのはこのくらいだな」
指を曲げても、握り込むところまではいかなかった。
福島はしばらく右手を眺めていたが、やがてグランドピアノへ視線を移した。
「國井先生」
「はい」
「このピアノを戻せたら……」
その言葉に、國井が福島を見た。
鍵盤の前にいた里奈も、いつの間にか手を止めていた。
「外来のリハビリ、卒業しようと思います」
國井はすぐには返事をしなかった。
福島は右手を膝の上へ置いた。
「まだ、こんなですけどね」
視線はグランドピアノへ向いたままだった。
「でも、仕事はできそうだから」
國井はしばらく福島を見てから、うなずいた。
「分かりました」
「それまでは、付き合ってくださいよ」
「はい」
福島も小さくうなずいた。
里奈は黙ったまま、二人を見ていた。
店を出て、しばらく歩いたところで、里奈が國井に声をかけた。
「國井さん」
「なに」
「卒業でいいんですか?」
「うん」
里奈は少し黙ってから言った。
「右手、まだ戻ってないですよね」
國井は前を向いたままだった。
「うん」
二人の背後で、店のベルが小さく鳴った。
***
土曜日。
冬木は福島楽器店の前で足を止めた。
宮本からは、見てもらいたいものがあるとだけ聞いていた。
隣には恵実とさくらがいて、さくらはガラス越しに店の中を覗き込んでいた。
「ギターいっぱい」
「入るよ」
恵実に肩を押され、さくらが入口へ向かった。
宮本が扉を開けると、小さなベルが鳴り、カウンターの奥から福島が出てきた。
冬木の顔を見ると、軽く頭を下げた。
「どうも」
「先日は、どうも」
冬木も頭を下げた。
「福島さん、こちらが冬木さんの娘さんの恵実さんと、お孫さんのさくらちゃんです」
「恵実です。今日はありがとうございます」
恵実が頭を下げると、さくらも隣でぺこりと真似をした。
福島は二人を見てから、宮本へ視線を戻した。
「まったく、あんなこと言ってきて、何をしたいのか知らないけどね」
「申し訳ありません」
宮本が頭を下げると、福島は呆れたように息を吐いた。
「まあ、間に合わせましたけどね」
福島の口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
福島のあとを通路の奥まで進み、福島が旧ピアノ教室の扉を開けると、冬木の足が止まった。
部屋の中央には、黒いグランドピアノがあった。
鍵盤蓋は開き、周囲も以前のような物置じみた様子ではなくなっていた。
恵実も入口で立ち止まったが、さくらだけは一足先に中へ入った。
「ばあば」
グランドピアノを見上げるさくらの顔が弾んでいた。
「本と同じ」
冬木は少し笑った。
「そうね」
ゆっくりピアノへ近づき、縁へ手を置いた。
「久しぶりですか」
福島に尋ねられ、冬木は鍵盤を見たままうなずいた。
「ええ。ずいぶん久しぶりです」
恵実も隣へ来て、鍵盤を覗き込んだ。
「私も、グランドは大学以来ね」
しばらく、誰も鍵盤には触れなかった。
宮本は冬木と恵実を見てから、福島へ顔を向けた。
「せっかく福島さんが整備してくれましたので、音を出してみませんか」
宮本がそう言うと、福島は鼻で小さく笑った。
恵実が母を見た。
「私、弾いていい?」
冬木の視線は、まだ鍵盤に向いていた。
少し間を置いてから、冬木は福島へ目を向けた。
「いいですか」
「もちろん」
恵実は椅子に腰を下ろすと、いくつか音を確かめてから、《きらきら星変奏曲》の主題をゆっくり弾き始めた。
さくらの顔が明るくなった。
「これ知ってる」
「家でもやったでしょ」
「さくらもやる」
恵実は笑いながら立ち上がり、さくらに場所を譲った。
さくらが鍵盤へ向かうと、恵実もその横から一緒に音を探し始めた。
思うような音が出ず、二人で顔を見合わせて笑っていた。
少し離れたところで、冬木は二人のやり取りを見ていた。
恵実が音を探すより先に、冬木の視線は鍵盤の上を追っていた。
違う音が鳴れば、表情がわずかに動いた。
宮本はピアノではなく、そんな冬木の横顔を見ていた。
しばらく待ってから、冬木に声をかけた。
「冬木さん、どうですか」
冬木は宮本を見たあと、もう一度鍵盤へ目を戻した。
「……今の、違うわね」
恵実が振り返った。
「どこ?」
冬木はさくらの手元を見た。
「もう一回やってみて」
次にさくらが迷ったとき、冬木は少しだけ間を置いてから恵実を見た。
「恵実、今のところ、もう一回弾いて」
恵実が数音だけ弾いた。
さくらはその指を追い、自分でも同じ音を鳴らした。
「そう。もう一回」
冬木が言葉で示し、恵実が音にし、さくらがその音を追った。
自分では、一音も弾いていなかった。
恵実が弾くのを見ていても、弾けないことまで消えるわけではなかった。
それでも、さくらは音をつなぐたびに顔を輝かせ、その隣では恵実が笑っていた。
冬木はしばらく恵実とさくらを見ていた。
「もう一回、最初からやってみようか」
「うん」
さくらが鍵盤へ向き直り、恵実もその隣へ手を置いた。
宮本は何も言わず、冬木を見ていた。
福島も腕を組んだまま、自分が戻したグランドピアノと、その前にいた三人を見ていた。
「先生」
「はい」
福島は冬木たちへ目を戻した。
「こうなると思ってたんですか」
宮本も三人を見た。
「そんなことはありません」
「ふん、やっぱり変わった人だな」
宮本は何も答えなかった。
冬木が声をかけ、恵実が弾く。
その音を、さくらが追っていた。
***
帰るころには、外が少し暗くなっていた。
さくらはまだピアノの方を見ていた。
「またやりたい」
「今日はもう終わり」
恵実がさくらに上着を着せた。
冬木は福島へ頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ」
福島は奥のグランドピアノを見た。
「久しぶりに、ちゃんと使ってもらいましたよ」
壁際には、〈ピアノ教室〉の札が立てかけられていた。
宮本はその前で立ち止まり、文字の薄くなった札に手を触れた。
冬木たちが店の入口へ向かう。
福島もあとに続き、宮本のそばまで来た。
宮本は札から手を離した。
福島の視線が、その札に止まった。
〈ピアノ教室〉
福島はしばらく札を見てから、奥の部屋へ視線を向けた。
グランドピアノの前には、二つの椅子が並んだままだった。
福島は顔を上げて冬木を見た。
「冬木さん」
冬木が振り返った。
「ここで、ピアノを教えてもらえませんか」
――第9話 終




