↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/48

第8話 伴奏

 福島楽器店のガラス扉を開けると、小さなベルが鳴った。

 カウンターの奥では福島が伝票を整理しており、二人に気づくと左手で紙を揃えて脇へ置いた。


「どうぞ」


 前回と同じ修理台には、弦を外した古いギターが置かれていた。

 店で調整や確認に使っているものだった。


 國井は福島の右手を見た。

 腫れはまだ残り、手首も大きくは動かなかった。

 ただ、以前のように左手で抱えることはなく、右手は身体の脇に下りていた。


「痛みはどうですか」


「前よりはいいですよ」


 福島は右手を持ち上げ、ゆっくりと手首を反らした。

 途中で止まり、その位置から先には動かなかった。


「触っただけで痛いのは、だいぶ減りました。夜も前よりは眠れますね」


「動かしたときは?」


「痛みより、こっちが気になるんですよ」


 福島は止まった手首を見た。


「ここから先、行かないなって」


 國井は修理台へ目を移した。


「今日も、仕事を見せてもらっていいですか」


「ああ、その前に」


 福島は修理台へ移り、工具箱から小さなクランプを取り出した。

 國井は向かい側に立ち、里奈はその少し横から手元を覗き込んだ。


「ちょっと試してみたいことがあるんです」


 金属のクランプを台へ置き、古いギターのネックを木製のレストに載せた。


「左手が空けば、工具を使えるかなと思って」


 左手を離すと、ギターはわずかに傾いた。


「ただ、このままだと動くんだよ」


 福島は修理台の脇にあった布巾を何度か折り、クランプが触れるところへ当てた。


「布を挟むんですね」


 里奈が言った。


「直接はちょっとね。跡が残ったら困るから」


 福島は布巾の位置をずらし、クランプが塗装面に触れないことを確かめてから、軽く締めた。

 左手を離してみると、ギターはまだ少し動いた。


 もう一度締めようとして、福島の手が止まった。


「これ以上は怖いな」


「傷みますか」


 國井が尋ねた。


「ここなら、まだいいんですけどね」


 福島はクランプの当たる位置を横から見た。


「場所によっては嫌ですね」


「締めれば止まりそうですか」


「止まります。でも……楽器ですからね」


 福島はクランプを緩めた。

 國井は持ってきた鞄から滑り止めのシートを取り出した。


「これはどうでしょう」


 福島が受け取り、指先で表面を確かめた。


「下に敷くんですか」


「はい」


 福島はギターを持ち上げ、ボディの下へ滑り止めを敷いた。

 何度か置き直すと、先ほどより横へのずれは少なくなった。


「これはいいな」


 福島はギターを少し動かし、もう一度確かめた。


「ここなら大丈夫そうだ」


 もう一度布巾を挟み、クランプを軽く締めた。

 左手を離しても、ギターは大きく動かなかった。


「これなら、左は空くか」


 福島は固定具合を確かめてから、工具箱へ左手を伸ばした。


 細いドライバーを一本取り、左手で柄を握ってペグのねじへ近づけた。

 位置までは届いたものの、先端を合わせようとすると手元が揺れた。

 一度外れ、もう一度合わせようとしたところで先端が滑った。


 福島はすぐに工具を離した。


「こうなるんですよ」


「握るのが難しいですか」


 里奈が尋ねた。


「握れるけど、これじゃ回しにくいな」


 福島は少し柄の太いドライバーへ持ち替えた。


「こっちはまだ持ちやすい。でも短いな」


 さらに一本を左手で握り、今度は首を振った。


「長さはいいんだけどな」


 福島は左手の中で柄を転がした。


「やっぱり細いな」


 國井は、工具を替えるたびに変わる福島の肩と肘の位置を見ていた。

 短い工具では、身体ごと修理台へ寄っていった。


「柄は、太い方が使いやすそうですか」


「物によりますね」


 福島は二本を並べた。


「こっちは、もう少し太くてもいい」


 もう一本を指した。


「こっちは長さかな」


 里奈が先ほど使った布巾を手に取った。


「柄にこれ巻いたら、太くなりませんか」


「やってみますか」


 福島は細いドライバーの柄に布を巻きつけ、左手で握った。


「太さは、このくらいでもいいな」


 ねじへ近づけ、柄を回した瞬間、巻いた布がずれた。


「ああ、駄目だ」


 福島は笑いながら布を外した。


「握りやすくなっても、これが動いたら仕事にならない」


 里奈は外された布を見たあと、クランプの下に挟まれた布巾へ目を向けた。


「こっちも、同じようなことですかね」


 福島もクランプを見た。


「そうですね。傷はつけたくないけど、滑るのも困る」


「布じゃない方がいいんですかね」


 國井は少し考えた。


「病院に材料がいくつかあります。使えるかどうかは分からないですけど」


「そういうの、あるんですか」


「あります。柄を太くするものもあります」


「長くもできます?」


「方法はあると思います。ただ、どのくらいがいいかは……」


 國井が工具を見ると、福島がうなずいた。


「使ってみないと分からないですね」


「はい」


 福島は修理台のギターへ目を戻した。


「固定できれば、それでいけると思ったんだけどな」


「僕も、そう思ってました」


 福島が國井を見た。


「次から次だな」


 國井は苦笑した。


「次、使えそうな材料をいくつか持ってきます」


 福島はすぐにうなずいた。


「お願いします」


 ***


 冬木がいつもの席に腰を下ろすと、宮本はその座面へ目をやった。


「台所の椅子、その後どうですか」


「あれ、使ってますよ。だいぶ楽です」


「立つときは?」


「座ってる間はいいんですけど、立つときがね」


 冬木は膝を軽く撫でた。


「夕飯のころだと、ここが結構痛くて」


 宮本は棚から薄いクッションを一枚持ってきた。


「一度、立ってください」


 冬木が立つと、宮本は座面へクッションを置いた。


「座ってみてください」


 冬木は腰を下ろした。


「ちょっと高いですね」


「そこから立ってみてください」


 冬木は両足を引き、身体を前へ傾けて立ち上がった。

 机へ伸びかけた手は、そのまま膝の横に残った。


「ああ。楽かも」


 冬木は振り返って椅子を見た。


 宮本はクッションを外し、元の高さでもう一度試してもらった。

 今度は立ち上がる途中で身体が止まり、冬木の右手が机の端へ伸びた。


「やっぱり違いますね」


 宮本は再びクッションを置いた。


「家でも、このくらい上げられそうですか」


「座布団ならありますけど、柔らかいかな」


「沈みすぎないものがいいです」


「探してみます」


 冬木はもう一度座ると、膝を伸ばして少し休んだ。


「そういえば」


 宮本が顔を上げた。


「あのあと、恵実が久しぶりに弾いたんですよ。そしたら、さくらまでやるって言い出して」


 冬木は少し笑った。


「私まで口出ししちゃって。指はそこじゃないとか、もう少し弱くとか」


「恵実さんにも?」


「音、違うよって」


 宮本は小さくうなずいた。


「それで、まだ先生じゃんって言われました」


 冬木は少し間を置いた。


「先生なんて、もう昔の話ですけどね」


 膝を伸ばしながら、右手を見た。


「もう弾けませんし」


 宮本はその手へ視線を落とした。


「でも、教えたんですね」


 冬木が顔を上げた。

 宮本はそれ以上言わず、クッションの位置を直した。


「もう一度、立ってみましょう」


 冬木は宮本を見たまま、しばらく動かなかった。


 やがて両足を引いた。


 ***


 福島楽器店の修理台には、前回と同じ古いギターが置かれていた。

 國井はその横へ、少し膨らんだ鞄を下ろした。


「何を持ってきたんです」


 福島が笑った。


「使えるか分からないものを、いくつか」


 國井が鞄を開くと、厚さや硬さの違うクッション材がいくつか入っていた。

 細い工具の柄に被せる筒状のスポンジや、柄を延長するための筒もあった。


 福島は一つずつ手に取った。


「病院って、こういうのあるんですね」


「こういう材料は結構あります。ただ、楽器に使うのは初めてです」


「でしょうね」


 福島は笑い、ギターを修理台の中央へ寄せた。

 國井はギターを少し持ち上げ、ボディの下へ前回使った滑り止めを敷いた。


 福島はクランプを取り出し、布巾を挟んで軽く締めた。


「前は、ここが怖かったんですよ」


 左手を離すと、やはりわずかに動いた。


 國井がクッション材を二つ並べると、福島はすぐに柔らかい方を指で押した。


「こっちは柔らかすぎるな」


「沈みます?」


 國井も同じ場所を指で押した。


「締めたらね。こっちかな」


 福島は選んだ素材をギターに当て、何か所か位置を変えた。


「ここなら大丈夫。そこはちょっと嫌だな」


 國井は福島が示した位置にクッション材を当て、クランプをずらした。


「もう少し上。……そこ」


 國井が軽く締めた。


 福島がギターに手をかけ、横へ動かしてみた。


「もっと締めた方がいいですか」


「いや、このくらいでいい」


 國井はそこで手を止めた。

 福島が左手を離しても、ギターは安定していた。


「これなら大丈夫そうだ」


 福島が言った。


 國井は、前回福島が使った細いドライバーを手に取った。


「じゃあ、こっちも」


 柄へ太さの違うスポンジを順に被せ、福島へ渡した。


「これは細いな。こっちは太すぎる」


「真ん中くらい?」


「これが一番近いですね」


 福島は左手の中で何度か柄を転がし、ねじへ先端を近づけた。


「前の布より全然いい。ずれないから」


 先端を合わせたところで、福島は一度手を止めた。


「もう少し長いと楽なんだけどな」


「このくらいですか」


 國井は延長用に持ってきた短い筒を、柄の後ろへ仮に付けた。


 福島が握ってみる。


「長いですね」


「あ、長いか」


「長けりゃいいってもんじゃないですよ」


 福島が笑い、里奈もつられて笑った。


 國井はもう少し短いものに替え、柄へ付け直した。


 福島は左手で握り、ねじへ向けた。

 今度は身体を大きく寄せなくても先端が届いた。


「これなら近い」


 ゆっくり先端を合わせ、押しながら回した。


 一度目は滑った。


 福島はすぐに手を止め、工具の位置を見直した。


「もう少し押さないと駄目だな」


 肘の位置を変え、身体もわずかに修理台へ向けた。

 二度目は先端がねじの頭へ収まり、左手がゆっくり動いた。


 ねじが少し回った。


 福島はそこで止め、もう一度同じ位置へ工具を当てた。

 今度は滑らなかった。


「……これなら」


 もう少しだけ回したあと、工具を離した。


「力加減はまだ分からないけど、これは使えそうだな」


 里奈が横から覗き込んだ。


「回りました?」


「ここだけね」


 福島は隣のねじへ工具を移した。


 だが、今度は同じようにはいかなかった。

 ねじの位置が外側にあり、延長した柄では角度が合わなかった。


「これは駄目だな」


 福島は無理に回さず、延長部分を外した。

 里奈が修理台に並んだ工具を見た。


「これも変えるんですか」


「ここは短い方がいいな」


 福島は別の細いドライバーを左手で握った。


「こっちは、このままでいい」


「細い方が?」


「指先で回すからね」


 國井は修理台に並んだ工具を見た。


「これも、一本ずつ試した方がよさそうですね」


「そうですね」


 福島は最初に使ったドライバーをもう一度握り、柄の太さを確かめた。


 しばらくして、國井たちが材料を片づけ始めると、福島が声をかけた。


「國井先生」


 國井は鞄へ戻しかけたスポンジを持ったまま顔を上げた。


「はい」


「このクッションと、これ」


 先ほど柄に被せたスポンジを指した。


「次まで置いていってもらっていいですか」


「もちろんです」


「もう少し試してみます」


 國井はうなずいた。


「分かりました」


 福島は短いドライバーを一本持ち上げた。


「あと、これ用にもう一段細いのってあります?」


「探してみます」


「お願いします」


 片づけが終わるころ、福島は修理台の古いギターを持ち上げた。


「ギターなら、まだこうやって向きを変えられるんですよ」


 福島はネックの角度を変え、台へ戻した。


「こっちがやりやすい方へ持ってこられる」


 それから店の奥を見た。


「ピアノは、そうはいかないけどな」


 里奈が顔を上げた。


「ピアノですか?」


 福島はカウンター横の通路を進み、奥の扉を開けた。


 扉の上には、文字の薄くなった〈ピアノ教室〉の札が残っていた。


 部屋の中央を、黒いグランドピアノが占めていた。

 壁際には、小さな椅子がいくつか重ねられていた。


 里奈が足を止めた。


「……大きいですね」


「母が使ってたピアノです」


 福島はピアノの横へ立った。


「母が亡くなってから、そのままです」


 福島は左手をピアノの縁に置いた。


「調律もしてない」


「福島さんが調律するんですか」


 里奈が尋ねた。


「まあ、楽器屋ですから」


 福島は左手を置いたまま言った。


「でも、こいつはギターみたいに動かせないからな」


 國井はグランドピアノを見た。


「調律するときの動きを見せてもらっていいですか」


 福島が振り返った。


「今の手じゃ、できないですよ」


「全部じゃなくていいです。どうやってたのか、まず見たいです」


 福島は少し黙ったあと、ピアノへ視線を戻した。


「……そうですね」


「じゃあ、今度」


「お願いします」


 里奈は壁際の小さな椅子へ一度だけ目を向けたが、何も聞かなかった。


 三人が部屋を出ると、福島は扉を閉めた。


 店を出ると、もう通りの灯りがついていた。

 ガラス扉が閉まり、背後でベルが一度鳴った。


 しばらく歩いてから、里奈が言った。


「國井さん」


「なに」


「福島さん、さっき國井先生って呼びましたね」


 國井の歩調が、ほんの少しだけ遅くなった。


「……そうだっけ」


「呼びましたよ」


 里奈はそれ以上言わなかった。

 國井も前を向いたまま、何も答えなかった。


 信号が変わり、二人は横断歩道を渡った。


 國井は一度だけ目元をこすり、そのまま前を向いた。


 ***


 冬木の作業療法が終わりかけたころ、少し離れたところから國井と里奈の声が聞こえた。


「グランドピアノだと、ギターみたいには動かせないですよね」


 冬木はバッグを膝へ載せかけたまま、手を止めた。


「うん。まず、調律するときの動きを見せてもらおう」


「工具も違いますよね」


「たぶんね。まだ分からないけど」


 冬木の視線が、わずかに二人の方へ動いた。

 宮本はそれを見た。


 冬木はすぐに視線を戻し、バッグを膝に置いた。

 宮本は何も言わず、記録用紙を閉じた。


 やがて冬木は立ち上がり、バッグを肩に掛けた。


 國井と里奈は、まだ小さな声で話していた。


 出口へ向かう冬木の背後で、もう一度「調律」という言葉が聞こえた。


 ――第8話 終


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。