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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

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第7話 残響

 午後の作業療法室では、國井と里奈が一つの机を挟んで向かい合っていた。


 机の上には、細長い木片と滑り止めのシート、薄いスポンジが置かれている。

 里奈は木片を左手で押さえながら、右手に持ったドライバーを当ててみた。


「これだと、福島さんと同じですね。結局、左手が使えません」


 國井は里奈の手元を見ながら、木片の下に滑り止めを差し込んだ。


「じゃあ、手を離してみて」


 里奈が左手を離すと、今度は木片が動かなかった。

 何度かドライバーを回す真似をしてから、里奈は首を傾げた。


「これならいけそうですけど」


「ギターだったら、どこに当てていいのか分からないな。傷もつけられないし」


「ああ……そうか」


 福島の店で実際の仕事を見てから、空いた時間にいくつかの方法を試していた。

 工具を持ちやすくしても、左手が楽器を押さえたままでは仕事にならない。

 その左手を空けるには、楽器を別の方法で支える必要がある。

 ただ、どこを、どの程度の力で支えていいのかは机の上では分からなかった。


 里奈は木片を持ち上げ、裏側の滑り止めを見た。


「結局、福島さんに聞かないと駄目ですね」


「うん。もう一度、福島さんのところに行ってみよう」


 少し離れたところで、宮本は國井たちの様子を見ていた。

 二人が何かを試すたび、その視線だけが手元へ向いた。


 しばらくして、入口から声がした。


「宮本先生」


 宮本が顔を上げると、冬木聡美が立っていた。


「こんにちは」


 宮本は國井たちの机を一度だけ見て、冬木の方へ向かった。


「こんにちは。今日は寒いですね」


 冬木は両手をこするようにしながら、いつもの席へ向かった。


 ***


 冬木が椅子へ座ると、宮本は両手の腫れを確かめた。

 ゆっくり指を動かしてもらうと、右手の人差し指と中指は途中で止まり、冬木の眉がわずかに寄った。


「朝は、もっと動かなかったです」


「今はどうです」


「朝よりはいいですね」


 宮本は温めたタオルを冬木の両手へ掛けた。

 冬木は手のひらを包み込むようにして、しばらくそのままにしていた。


 作業療法室の向こうでは、里奈がもう一度木片を机へ置いていた。


「恵実が、洗濯物を運んでくれるようになりました」


 冬木がぽつりと言った。


 宮本はタオルの温度を確かめながら尋ねた。


「続いていますか」


「いるときだけですけどね。夜の仕事もありますから」


 宮本はうなずいた。

 冬木は少し笑った。


「本人も毎日は無理って言ってます」


 タオルを外してから、もう一度指を動かしてもらう。

 こわばりは残っていたが、先ほどよりは力が抜けている。


 宮本は机に布を置いた。


 冬木は布を畳み始めた。

 指先だけでつままず、手のひら全体を使う。

 途中で持ち方を変えても、手は止まらなかった。


「家で、今いちばん困るのはどの時間ですか」


 冬木は布を畳みながら少し考えた。


「夕方ですかね。仕事から帰って、ご飯を作って、そのあとさくらをお風呂に入れるころには、膝も手もかなり痛くなってます」


「次の訪問は土曜日でしたね」


「はい」


「夕方に伺ってもいいですか」


 冬木が顔を上げた。


「夕飯を作ってるところですか?」


「普段通りで構いません」


「見られてると、やりにくいですね」


「そうでしたね」


 冬木が笑った。


 宮本もそれ以上は言わず、畳まれた布を冬木の前へ戻した。


 ***


 土曜日の夕方、宮本が冬木家を訪ねると、玄関の奥から貴一が顔を出した。


「あ、どうも」


「お邪魔します」


「どうぞ」


 貴一は宮本を居間へ通すと、見ていたテレビの前へ戻った。

 スポーツ中継らしく、ときどき観客の歓声が聞こえてくる。


 冬木はすでに台所に立っていた。


「すみません。ちょうど始めようと思ってたところで」


「そのままでお願いします」


 ソファには恵実がいた。

 部屋着のまま片脚を折って座り、膝の上に古い本を開いている。

 表紙にはピアノ曲の題名と作曲家の名前が並んでいた。


 宮本が入ってくると、恵実は一度顔を上げた。

 宮本が頭を下げると、恵実も軽く会釈をして、開いていたページへ視線を戻した。


 床で遊んでいたさくらも宮本に気づいた。

 立ち上がると、そのまま近くまで来る。


「きょうも来たの?」


 宮本はさくらの高さに少し腰を落とした。


「はい」


 さくらは宮本の顔を一度見上げると、また床へ戻って遊び始めた。

 宮本はその背中を少しだけ見てから、台所へ向かった。


 まな板の下には滑り止めがあり、軽い鍋は取りやすい位置に置かれていた。

 調理台の脇には高さのある椅子も置かれていた。


「椅子は使えていますか」


「使ってますよ。でも、最初から座ると仕事が遅くなる気がして」


 冬木はそう言いながら、冷蔵庫から野菜を出した。


 包丁は指を深く曲げ込まずに持てていた。

 ただ、何度か切っているうちに右肩が上がり、身体が少しずつ調理台へ近づいていった。


 宮本はしばらくその姿勢を見てから、椅子を指した。


「今、座ってみてください」


「もうですか?」


「はい」


 冬木は苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。

 しかし、その位置では調理台まで少し距離があり、包丁を使おうとすると上体が前へ傾いた。


 宮本は椅子を少し前へ動かした。


「このくらいならどうですか」


 冬木がもう一度包丁を持つ。

 肘を身体の近くに置いたまま切れる位置になった。


「あ、こっちの方が楽ですね」


「前だと、身体を支えるために腕にも力が入っています」


 冬木は何度か野菜を切って確かめた。


「座るだけじゃ駄目なんですね」


 宮本は答えず、次の動きを見た。


 冬木は切った野菜を鍋へ移し、コンロへ向かった。

 そのあと冷蔵庫へ戻って調味料を取り、今度は流しへ移る。

 三度目に向きを変えたところで、足がわずかに止まった。


「膝ですか」


「少しだけ」


 宮本は調理台と冷蔵庫の間を見た。


「よく使うもの、最初にここへ出してしまいましょうか」


「調味料も?」


「使う分だけです」


 冬木は冷蔵庫から必要な物をまとめて出し、調理台の端へ置いた。


「これなら、確かに動かなくて済みますね」


「このあと、お風呂でしたか」


「そうです」


 冬木は火加減を見ながら答えた。


「これが終わったら、お風呂を洗って、さくらの着替えを用意して……」


 そこで言葉が止まった。


「あ、今日の着替え、まだ出してなかった」


 冬木は台所を離れ、階段へ向かった。


 宮本も少し遅れてついていく。


「着替えは二階ですか」


「さくらの服もタオルも、全部二階なので」


 冬木は一段目に足を掛け、手すりへ手を伸ばした。


「毎日、風呂の前に取りに上がっていますか」


「そうですね」


 宮本は階段の横にある洗面所を見た。

 棚の下段には、洗剤や古いタオルが置かれていた。

 洗面所の隅には、使っていない浅い籠があった。


「ここに何日分か置けませんか」


 冬木が階段から戻ってきた。


「さくらの着替えを?」


「パジャマと下着だけでも。毎日上がらなくて済みます」


 冬木は棚をのぞいた。


「入るかな」


 話を聞いていた恵実が、本を伏せてやってきた。


「どこ?」


「ここに、さくらの着替え置くんだって」


 恵実も棚の中を見た。


「これ、もう使ってないでしょ」


 古い容器を一つ取り出すと、その分だけ棚が空いた。

 籠を入れてみると、思ったより余裕がある。


「入るじゃん」


 冬木はまだ少し考えていた。


「でも、結局二階から持ってくるでしょう」


「減ったときだけで済みます」


 宮本が言うと、恵実が籠を持った。


「じゃあ、今持ってくるよ」


「いいの?」


「今いるし」


 恵実はそのまま階段を上がっていった。

 冬木は娘の背中を見送ってから、空いた棚へ目を戻した。


「毎日、取りに上がるものだと思ってたんですよね」


 冬木は空いた棚をしばらく見ていた。

 宮本は位置をもう一度確かめると、先に台所へ戻った。


 台所では、鍋から湯気が上がり始めていた。


 恵実が二階から戻ってきた。

 籠には、さくらのパジャマと下着、タオルが数日分入っている。


「これくらい?」


「十分だと思います」


 宮本が答えると、恵実は籠を棚へ戻した。


「じゃあ、なくなったら持ってくる」


「ありがとう」


 恵実は母から目を逸らし、ソファへ戻った。


 宮本が訪問を終えるころには、鍋の中から小さく煮える音がしていた。


 宮本が鞄を持ち上げると、ソファの恵実はまた先ほどの本を開いていた。

 ページには五線譜が載っている。


「それ、まだあったのね」


 冬木が言った。


「部屋にあったから」


 恵実が表紙を見てから答えた。


「母さんが捨ててないんでしょ」


「恵実のものだから、勝手に捨てられないでしょう」


 宮本は二人のやり取りを聞いていた。

 冬木が少し笑った。


「この子、小さいころからピアノやってたんです。私が教えてましたから」


 宮本の視線が冬木へ向いた。


「教えていたんですか」


「昔ですよ。恵実だけじゃなくて、近所の子も何人か」


 宮本は小さくうなずいた。


「では、また外来で」


 玄関まで来たところで、さくらが居間から手を振った。

 宮本も小さく手を上げた。


「またね」


 さくらが言った。

 宮本は一瞬だけ足を止めた。


「はい」


 扉が閉まるまで、さくらはそこに立っていた。


 ***


 宮本が帰ったあとも、居間ではテレビの音が続いていた。


 冬木は夕食の続きを始め、恵実はしばらくソファで本を読んでいた。

 何ページかめくったところで手を止め、廊下の奥へ目を向ける。


 やがて本を閉じ、立ち上がった。


「どこ行くの?」


 床にいたさくらが尋ねる。


「ちょっとね」


 ピアノの部屋へ入ると、棚には昔使っていた楽譜がそのまま残っていた。

 恵実は一冊を抜き取った。

 モーツァルトの《きらきら星変奏曲》だった。


 椅子に座り、しばらく鍵盤を見た。


 右手で一つ音を鳴らした。

 久しぶりに聞く音は、記憶より少し硬かった。


 恵実はもう一度同じ鍵盤を押してから、左手も乗せた。

 楽譜の最初へ視線を戻し、ゆっくりと弾き始める。


 主題は途中で止まらなかった。

 最初の変奏に入ると、数小節で指が止まった。

 少し戻って弾き直す。

 何度か繰り返すうちに、途切れながらも少しずつ先へ進めるようになった。


「ママ、すごい」


 いつの間にか、さくらが入口に立っていた。


 恵実が振り返る。


「いつからいたの」


「いま」


「ほんと?」


「きらきらぼし?」


「そう。よく分かったね」


 さくらは答えず、ピアノのそばまで来た。


「さくらもやりたい」


「すぐやりたくなるんだから」


 恵実は笑いながら椅子の端へ寄り、さくらを隣へ座らせた。


「じゃあ、最初のところやってみる?」


 白い鍵盤を一つ指した。

 さくらが人差し指で勢いよく押すと、大きな音が鳴った。


「強い、強い。もうちょっと、そっとでいいよ」


 二度目の音は小さかった。


「そう。次は、こっち」


 恵実が少し離れた白い鍵盤を示した。

 さくらが腕を伸ばし、三つ目の音を鳴らした。


 台所で水の音が止まった。


 冬木が廊下へ出てきた。

 ピアノの部屋から聞こえる音に気づき、入口で足を止める。


「今度は三つ続けてみようか」


 恵実が最初の鍵盤を示す。

 さくらが人差し指を置いたところで、冬木の声がした。


「そこは親指からの方がいいわ」


 恵実とさくらが振り返る。

 冬木は入口に立ったままだった。


「ああ、そっか」


 恵実がさくらの手を取る。


「最初は親指?」


「そう。最初の二つは同じ指でいいわ。次の音は小指で」


 さくらが親指を置いた。

 一つ鳴らし、もう一度同じ音を鳴らす。

 それから少し離れた鍵盤へ小指を伸ばした。


 三つの音が、さっきより落ち着いてつながった。


「できた」


「もう一度やってみたら?」


 冬木に言われ、さくらは最初へ戻った。

 今度は少し急いだせいで、三つ目の鍵盤を強く叩いた。


「そんなに力を入れなくていいの。もう少しそっと」


 冬木はそこまで言って、ふと黙った。

 恵実が冬木を見た。


「懐かしい」


「何が?」


「それ。私もずっと言われた」


「だって、あなたは力ばっかり入れてたから」


 恵実は笑った。


 さくらは二人を交互に見た。


「ママも、ばあばにおしえてもらったの?」


「そうだよ」


 恵実は鍵盤を見た。


「これ、私も最初に母さんに教えてもらった曲」


「きらきらぼし?」


「そう」


「ほかのも?」


「いっぱい。あんまり練習しなかったけどね」


 冬木が言うと、恵実がすぐに振り返った。


「したよ」


「言われた日だけでしょう」


「それは……まあ」


 さくらが笑った。


「ママも、せんせいだった?」


 恵実は少し黙った。


「私は先生にはなってないよ」


「なんで?」


 恵実は鍵盤の上に置いていた手を膝へ戻した。


「大学、途中で辞めたから」


「ピアノのだいがく?」


「うん」


「なんでやめたの?」


 さくらの問いに、恵実は少しだけ迷った。

 冬木も何も言わない。


「さくらがお腹にいたから」


「わたし?」


「そう」


 さくらが自分のお腹へ手を当てる。

 恵実はそれを見て笑った。


「一緒に育てるはずだった人も、いなくなったからね。それで大学を辞めて、ここに戻ってきたの」


「恵実」


 冬木が低く名前を呼んだ。


「いいじゃん。本当のことだし」


 恵実は鍵盤へ視線を戻した。


「ママ、もう一回ひいて」


「はいはい」


 恵実は楽譜を最初の変奏へ戻し、もう一度鍵盤へ手を置いた。

 今度は先ほど止まったところを越えたが、左手が一音外れた。


「違う」


 冬木の声が飛んだ。

 恵実の手が止まる。


「どこ?」


「今の左。もう一つ下」


 恵実が鍵盤を押す。


「ここ?」


「そう」


 恵実は少し戻って弾き直した。

 数小節進む。


「そこ、もう少し弱く」


「細かいなあ」


「そういう曲でしょう」


 恵実は笑いながら弾き続けた。

 冬木は入口から動かなかった。


 最初の変奏が終わると、恵実は鍵盤に手を置いたまま母を見た。


「母さん」


「なに」


「まだ先生じゃん」


 冬木は眉を寄せた。


「何言ってるの」


「だって、全部分かってるじゃん」


 冬木は答えなかった。


 さくらがもう一度、鍵盤の前へ座り直した。


「ばあば、最初これ?」


 親指を白い鍵盤へ置いた。


 冬木はその指を見て、小さくうなずいた。


「そう。そこから」


 さくらは親指で一つ鳴らし、もう一度同じ音を鳴らした。

 それから、少し離れた鍵盤へ小指を伸ばす。


 三つの音はまだたどたどしかったが、今度は途中で止まらずにつながった。


 ――第7話 終

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