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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

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第6話 転調

「仕事を見せてください」


 宮本が言うと、福島はしばらく動かなかった。


 店内には、閉店前の静けさが降りていた。


 壁にはギターが並び、ガラスケースにはマウスピースが収まっている。

 棚には楽譜が積まれ、カウンターの向こうには細い工具が並んでいた。


 外を走る車の音が、ガラス越しに低く聞こえた。


「見せるって」


 福島が言った。


「できないから困ってるんですけど」


「はい」


「病院でも話しましたよね」


「聞いています」


 福島は宮本を見た。

 何を考えているのか、探るような目だった。


「じゃあ、何を見るんです」


 宮本は答えなかった。


 視線をカウンターの奥へ向けた。

 そこに修理台があった。


 弦を外したギターが一台。

 木製のネックレスト。

 蓋の開いた工具箱。

 細いドライバー。

 六角レンチ。

 ニッパー。


 福島は短く息を吐いた。


「……これですか」


 宮本はうなずいた。


 福島は修理台の前へ移動した。

 右手は、まだ胸の前で左手に支えられていた。


 座ってから、福島は右手をそっと台の上へ置いた。


 指は十分には伸びない。

 手首も硬い。

 赤みは残っている。


「これ、常連のお客さんのです」


 福島がギターを左手で引き寄せた。


「ずっと待ってもらってます」


 ギターのネックを木製の台へ乗せる。

 左手で位置を整え、右手を工具箱へ伸ばした。


 指先が、細い六角レンチに触れる。

 福島の肩がわずかに上がる。


 親指と人差し指を近づける。

 だが、細い金属をうまくつまめない。


 六角レンチが修理台の上を滑った。


 カラン。


 福島は手を引いた。


「こんな感じですよ」


 声は平坦だった。

 宮本の視線は、右手ではなく、その少し外側を動いていた。


 浮いた右肘。

 修理台の高さ。

 ギターを支えたままの左手。


 福島の左手はギターのネックを支えたままになっている。


「左なら持てますけどね、楽器を押さえる手がなくなる」


 福島はそう言うと、ギターを置いた。


「ギターなんて、まだいい方です」


 宮本は黙って聞いていた。

 福島は少しずつ言葉を増やした。


「管楽器だと、小さいねじもある。バネもある。少し曲げただけで具合が変わるところもある」


 工具箱から、左手で細い棒状の工具を取った。


「力を入れればいいってものでもないんです」


 指先で工具を回してみせる。


「締めすぎたら駄目だし、緩ければ駄目だし」


 工具を戻す。


「結局、最後は音を出して確かめる」


 福島はギターの弦に左手の指を触れた。

 一本だけ残った弦が、小さく鳴った。

 音はすぐに消えた。


「病院だと」


 福島が続けた。


「これが持てるかとか、どこまで指が曲がるかとか、そういうのを見るでしょう」


 宮本がうなずいた。


「でも、持てたら仕事になるわけじゃないんですよ」


 福島は修理台を見た。


「楽器を傷つけないように押さえて、工具を合わせて、少し動かして、音を聞く」


 少し間を置く。


「ほんの少しの加減なんです」


 福島は右手の指を握ってから開いた。

 動きはぎこちなく、滑らかに動かない。


「この右手ではできないんですよ」


 宮本は何も言わず、店の中へ視線を巡らせた。


 福島がその視線を追った。


「何か分かりました?」


「少し」


「少し?」


「はい」


 福島の口元がわずかに歪んだ。


「店まで見に来て、それだけですか」


 宮本は修理台を見たまま言った。


「今日は、見るだけです」


「……何もしないんですか」


「はい」


 福島はしばらく宮本を見ていた。


「できるって言いましたよね」


「言いました」


「この手でも仕事はできるって」


「はい」


「だったら」


 福島の声が少し強くなる。


「どうすればいいか、教えてくださいよ」


 宮本は福島へ視線を戻した。


「私がする仕事ではありません」


 福島の顔が固まった。


「は?」


「担当は國井さんです」


 福島は何も言わなかった。

 宮本の言葉の意味を測るように、しばらくその顔を見ていた。


「國井さんに何が分かるんですか」


「ここを見なければ分かりません」


 福島が鼻から息を吐いた。


「結局、それですか」


 宮本は答えずに店の奥に視線を向けた。


 カウンターの横に細い通路があり、その先に扉が見えた。


「奥もお店ですか」


 福島が振り返った。


「ああ」


 少し間があった。


「亡くなった母がピアノ教室に使ってた部屋です」


 福島は立ち上がった。


「今は物置みたいなもんですけど」


 通路を進み、扉を開いた。


 店の奥に、もう一つ部屋があった。

 中央に、グランドピアノが一台置かれていた。

 鍵盤の蓋は閉じたままだった。

 壁際には、小さな椅子がいくつか重ねられていた。


 宮本は部屋の入口に立ったまま見ていた。


「今は使っていないんですか」


「母が亡くなってからは誰も触ってないです」


 福島は照明をつけなかった。

 薄暗い部屋の中で、ピアノの表面だけが店の灯りを返していた。


 福島が扉を閉める。

 小さな札が扉の上に残っていた。


 〈ピアノ教室〉


 端が少し反り、文字が薄くなっている。

 宮本はその札を一度見た。


「週明けに、病院から連絡します」


「何の連絡です」


「國井さんに、仕事を見てもらいます」


 福島が眉を寄せた。


「今度は國井さんが来るんですか」


「はい」


 福島は右手を見たが、返事はしなかった。


 宮本は頭を下げた。


「今日はありがとうございました」


 福島が苦笑した。


「まだ何もしてないでしょう」


「はい」


 宮本は店を出た。

 扉のベルが一度鳴った。


 福島は、閉じた扉をしばらく見ていた。


 ***


 週が明けた月曜日は、朝から雨が降っていた。


 外来が少ない作業療法室にも雨音が途切れなく続いていた。


 國井はスタッフルームのパソコンの前に座っていた。

 福島のカルテを開いたまま、國井の手はしばらく止まっていた。


「國井くん」


 いつの間にか宮本が國井の横に立っていた。


「今週、夕方に時間はありますか」


 國井は宮本のほうへ顔を向けた。


「水曜日の夕方なら空いてます」


「では、福島さんの店へ行ってみませんか」


 國井は画面へ視線を戻した。


「宮本さんが行ったんじゃないですか」


「行きました」


 國井の眉が寄った。


「それ、僕が行く意味ありますか」


「あります」


「どんな意味が――」


 國井は声を抑えた。


 宮本は國井を見た。


「福島さんの手は、病院で見ていますね」


「見ています」


「店では、その手だけを見ないでください」


 國井は少し黙った。


「……手だけを見ない?」


「はい」


 宮本はそれ以上説明しなかった。

 國井の中に、小さないら立ちが残った。


 いつもそうだった。


 宮本は、答えを持っているように見える。

 だが、それを渡さない。


「三好さんも一緒に行ってください」


「は、はい」


 少し離れたところから返事があった。

 里奈はメモ帳を持ったまま、こちらを見ていた。


 國井が振り返る。


「三好さんも?」


 里奈は少し不安そうに宮本と國井を見た。


「福島さんはちょっと怖いですが、見てみたいです」


 宮本がうなずいた。


「では、お願いします」


 里奈の表情が少し緩む。

 國井は納得しきれないままパソコンへ視線を戻した。


「何を見ればいいんですか」


 もう一度聞いた。

 宮本は短く答えた。


「仕事です」


 それだけ言って、スタッフルームから出て行った。

 國井はその背中を見た。


 仕事を見る。

 福島の仕事については、何度も聞いている。


 必要な動きも考えた。


 つまむ。

 回す。

 押さえる。

 持ち上げる。


 訓練の中で、それに近い動作も試していた。


 何が足りないのか。

 國井には、まだ分からなかった。


 ***


 水曜日には、雨は上がっていた。


 冬木の家では、洗濯機が止まる音がした。

 冬木が立ち上がろうとすると、ソファにいた恵実が声をかけた。


「いいよ」


「え?」


「洗濯」


 恵実はスマートフォンを置いて立ち上がった。


「私、やるから」


 冬木は少し驚いたように娘を見る。


「仕事、今日休みなの?」


「夜から」


「だったら寝てればいいじゃない」


「あとで寝るからいい」


 恵実は洗面所へ行って、洗濯機から濡れた衣類を籠へ入れた。

 籠を持ち上げようとして、止まった。


「これ、二階?」


 冬木が居間から答えた。


「うん。今日は外に干せそうだから」


 恵実は掃き出し窓の前に置かれた室内物干しを見た。


「下じゃなくていいの?」


 冬木は少し迷った。


「……お願いしていい?」


 洗濯物を干し終えると、恵実が言った。


「毎日は無理だからね」


「分かってる」


「昼、寝てるし」


「分かってます」


 冬木が少し笑った。

 恵実はそれを見て、何も言わなかった。


 冬木は、物干しに並んだ洗濯物をしばらく見ていた。

 ふと気づくと、さっきまで床で遊んでいたさくらがいない。


「さくら?」


 冬木が呼ぶ。

 廊下の奥から古い教本を持ってさくらが戻ってきた。


 その教本の表紙の角は擦れ、何度も開かれた跡があった。


「勝手に出したら駄目でしょう」


 さくらが冬木に近づく。


「これ、なに?」


「ピアノの本よ」


 ページには、大きな音符が並んでいる。

 その横に、赤い鉛筆で小さな丸がついていた。


 さくらが指でなぞる。


「これ、ばあばが書いたの?」


 冬木の手が止まった。


 後ろから恵実が部屋へ入ってきた。

 教本を見て、少し目を細める。


「それ、私のじゃない?」


 冬木は教本の背表紙を見た。


 ――冬木恵実


 子どもの字でそう書かれていた。

 恵実が笑う。


「まだあったんだ」


 さくらが二人を見る。


「ママ、ピアノひける?」


「ちょっとね」


「ばあばがせんせい?」


 冬木はすぐには答えなかった。


「……昔ね」


 冬木の視線が、自分の右手へ落ちた。


 恵実は何も言わなかった。


 さくらが教本をめくる。

 紙の擦れる音だけが、静かに続いた。


 ***


 日が傾き、街路樹の紅葉が夕日に照らされていた。

 國井と里奈は、福島楽器店の前に立っていた。


 看板も建物も古いが、ガラスはきれいに拭かれている。

 中にはギターが何本も並んでいた。


 里奈がガラス越しに中を見る。


「思ったより広いですね」


 國井が扉を開けるとベルが鳴った。


 カウンターの奥で福島が顔を上げて二人を見た。


「……来ましたか」


 國井は頭を下げた。


「今日はよろしくお願いします」


 里奈も続けて頭を下げる。


 福島は何も言わず、修理台へ向かった。


「この間も見せましたよ」


 福島は椅子に座った。


「今度は、何が見たいんですか」


 國井は迷ったが、宮本の言葉を思い出して修理台へ視線を向けた。


「普段、どうやって仕事をしていたのか。順番も含めて見せてください」


 福島はしばらく國井を見ていた。

 納得したようには見えない。


 それでも、修理台の上へギターを置いた。


「じゃあ、これで」


 ネックを木製の台へ乗せた。


「まず状態を見ます」


 福島は左手でネックを支え、ペグのあたりへ顔を近づけた。


 左手の動きには迷いがなかった。

 右手だけが、途中で置き場所を失っていた。


「これ、どこを直すんですか」


 里奈が尋ねた。

 福島が少し顔を上げた。


「ペグが少し緩んでいます」


「ペグ……」


 里奈はギターの先端を見る。


「あ、弦を巻いてるところですか」


「そう」


 福島の声が少しだけ変わった。


「ここのねじが緩いと、チューニングが狂いやすくなるんです」


「高校のとき、吹奏楽部だったんです」


 里奈が言った。

 福島は目を大きくして里奈を見た。


「何の楽器?」


「クラリネットです」


「クラか」


 初めて、福島の口元が少し動いた。


「じゃあ、音が合わない気持ちは分かるでしょう」


 里奈が笑った。


「はい。合奏で私だけ高いと、すごく目立ちました」


「クラは温度でも変わるからね」


「そうなんです。冬、全然合わなくて」


 國井は二人を見ていた。


 福島の説明は、そこで途切れなかった。

 里奈は修理台へ少し近づいた。


「ギターのチューニングって、最後に一回合わせればいいんですか」


 福島は首を横に振った。


「そんな簡単じゃないよ」


 福島は間を置かずに続けた。


「一回合わせて終わりじゃない。調整したら音を見る。また触ったら、また見る」


 ギターのネックに左手を添える。


「少し締めただけで変わることもある。だから、ちょっとずつ」


「繊細なんですね」


「そう」


 福島は小さなドライバーを左手で取った。


「でも、場所によっては力も要る」


 里奈が工具を見る。


「細いのに?」


「細いから難しいんだ」


 福島は指先で柄を回してみせた。


「押しながら回さないと滑る。でも押しすぎるとねじを潰す」


「それを片手で楽器を押さえながら?」


 里奈が聞く。

 福島の手が止まった。


「……そう」


 自分で言ってから、福島はギターを見た。

 國井もその視線を追った。


 左手はネックを押さえている。

 右手は工具を操作する。

 工具だけ動かせても、仕事にならない。


 福島が右手を伸ばした。

 ドライバーに触れる。

 親指と人差し指が十分に閉じない。


 柄をつまもうとすると、前腕が浮く。

 肩が上がる。


 國井は反射的に福島の手を見た。


 手首の角度。

 指の位置。


 そこまで見たところで、視線を止めた。


 右手の向こうに、修理台がある。

 左手は、まだギターを支えている。


「ずっと、この手でギターを押さえているんですね」


 里奈が左手を見ていた。


「そうだね」


「右手だけじゃないんだ……」


 國井は、もう一度修理台を見た。

 病院では、右手で工具を持てるかを考えていた。

 ここでは、それだけでは仕事にならない。


 福島がドライバーから手を離した。


「これでいいですか」


 里奈が修理台を見ている。


「楽器が壊れたら、先生が修理に出してくれてたんです」


「そうだろうね」


「直って戻ってくるだけだったから」


 里奈は工具箱を見る。


「こんなに細かいことしてるって、考えたことなかったです」


 福島は少し笑った。


「普通は、考えないよ」


 國井は福島に向かって頭を下げた。


「福島さん、ありがとうございます」


 福島が怪訝な顔をする。


「何がです」


 國井はすぐには答えなかった。


「病院で聞いていた仕事と」


 國井は修理台へ目をやった。


「実際に見るのとでは、違いました」


 福島は自分の右手を見た。


「持てれば仕事になるわけじゃないって、そういうことです」


 福島の声が、少しだけ柔らかくなった。


「はい」


 國井はうなずいた。

 今度は、その言葉の意味が少し分かった。


 福島が二人を見た。


「それで、何か分かりました?」


 國井は一瞬だけ黙った。


「少しだけ」


 福島は呆れたように息を吐く。


「宮本先生と同じこと言いますね」


 里奈が思わず小さく笑った。

 國井も少しだけ笑った。


 店を出るとき、里奈が振り返った。


「福島さん」


「はい」


「今度、クラリネットのことも聞いていいですか」


 福島が少し驚いた顔をした。


「リハビリと関係あります?」


 里奈は少し言葉に詰まった。


「……ないかもしれません」


 福島がほんの少し笑った。


「じゃあ、今度ね」


 扉のベルが鳴る。

 店の外は、もう暗くなっていた。


 ***


 数日後。


 福島は、ペインクリニックから戻って店を開けた。


 痛みが消えたわけではない。

 指も、動くようになったわけではない。


 それでも、袖が触れただけで身構えていた痛みは、少し弱くなっていた。

 右手を台の上へ置いていられる時間も、前より長くなった。


 福島は修理台の前へ座り、置いてあるギターに目を向けた。

 小さく息を吐いてギターに手を伸ばした。

 福島は左手でネックを支え、右手を修理台へ置いた。


 痛みはある。


 細いドライバーに手を伸ばしかけて、止めた。


 福島はネックを支えている左手を見た。


 左手で楽器を押さえる。

 右手で工具を使う。

 ずっとそうしてきた。


 福島は左手を離してみた。

 ギターが少し動いた。

 いったん支え直し、もう一度離してみる。

 やはり動いた。


 福島は修理台の上を見回した。


 右手を治すことばかり考えていた。


 前の手に戻れば。

 前のように動けば。

 前と同じ仕事ができれば。


 棚の下に、小さなクランプがあった。

 福島の視線が、クランプからギターへ移った。


「……押さえなくて済めばいいのか」


 左手でクランプを取り出し、修理台の上へ置いた。


 カチン。


 金属の音が、小さく店内に響いた。


 福島は、クランプから目を離さなかった。


 使えるかどうかは分からない。

 まだ、何も試していない。

 右手は、膝の上に置かれたままだった。


 ――第6話 終


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