第5話 ピアノ
國井は、机の上の道具をもう一度並べ直した。
柔らかい布。
小さなスポンジ。
右手を置くためのクッション。
どれも、これまで福島に使ってきたものだった。
午後の作業療法室は、いつもより静かだった。
平行棒の向こうで、車いすのブレーキが外れる音がした。
スタッフの短い声が続き、また途切れる。
隣では、里奈が小さなメモ帳を開いていた。
國井が名前を呼ぶと、福島が無言で入ってきた。
薄い手袋をつけた右手を、左手で胸元に支えていた。
國井が椅子を引きながら声をかけた。
「今日は、痛みはいかがですか」
福島は座りながら、小さく息を吐いた。
「変わりませんよ」
國井は福島の正面の椅子に座った。
少し迷ってから、口を開いた。
「主治医から、ペインクリニックの話は聞きましたか」
福島の動きが止まった。
「……聞きましたよ」
福島は右手を膝の上へ置こうとして、途中でやめた。
左手で支えたまま、國井を見た。
「ここでは治せないから、別の病院へ行けという話でしょう」
「今の治療をやめるわけではありません。ただ、今の痛みに対して、専門の先生に診てもらうことも必要かもしれないということです」
「専門ね……」
「神経ブロックなどの治療で、痛みが軽くなる方もいるそうです」
福島は黙って聞いていた。
國井は続けた。
「痛みが少しでも落ち着けば、今より手を使いやすくなる可能性があります」
福島の左手が、右手を包み直した。
「可能性?」
國井の言葉が止まった。
「ずっと、それですね」
福島は右手を見た。
「良くなる可能性がある。痛みが減る可能性がある。動くようになる可能性がある」
里奈のペンが止まった。
「折れた骨は治ったのに、手は使えないまま退院したんですよ」
福島が乾いた笑いを漏らした。
「本当に良くなるんですか」
「いや、そういう意味ではありません」
國井は福島の言葉にすぐ反応してしまった。
福島が短く息を吐いた。
「じゃあ、どういう意味です」
國井は答えようとして、口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
以前なら、もう少し早く答えられた。
できることを増やすため。
痛みを抑えるため。
仕事へ戻るため。
どれも間違ってはいない。
何度も患者に説明してきた言葉だった。
だが、福島の右手を見ていると、そのどれも簡単には口にできなかった。
福島は何も言わず、待っていた。
「治療の選択肢を、増やすためです」
國井はようやく言った。
言い終えたあと、自分でも足りないことが分かった。
福島の左手が、右手を包み直した。
「……國井さん」
「はい」
「痛みが減ったら、仕事できるんですか」
國井は答えられなかった。
福島は右手を少し持ち上げた。
「今も触るだけで痛い。指はこわばってうまく動かない。痛みが減るだけで、楽器屋はできるんですか」
「それは……」
「指が、今より少し曲がるようになったら」
福島は親指と人差し指を近づけようとした。
途中で止まった。
「レンチを落とさなくなるんですか」
國井の視線が、その指に止まった。
店で使う工具。
楽器を押さえる手。
弦を張る指。
話では何度も聞いていた。
訓練の中で、それに近い動作も試した。
それでも國井は、福島が実際に仕事をするところを一度も見ていなかった。
痛みのことなら説明できる。
治療のことも、これからの方針も。
だが、福島が聞いているのは、その先だった。
國井は一度、息を吸った。
「……分かりません」
福島は動かなかった。
國井は、自分の口から出た言葉を聞いていた。
「痛みが減ることと、仕事ができることが、同じかどうかは……」
一度、言葉が途切れた。
「今の僕には、分かりません」
福島の左手が、右手を強く包んだ。
「誰も、この手を元に戻せないんでしょう」
國井は口を開いた。
否定しようとした。
けれど、その言葉は出なかった。
福島はしばらく待っていた。
やがて、視線を落とした。
「今日は、もういいです」
「福島さん」
福島は左手で右手を抱え直した。
「……すみません。帰ります」
國井は、それ以上呼び止められなかった。
福島が立ち上がる。
椅子の脚が、床を短く擦った。
國井を見ないまま、作業療法室を出ていった。
空いた椅子の前に、布とスポンジとクッションが残った。
今日は、一つも使わなかった。
痛みが減ったら、仕事ができるのか。
福島の言った言葉が國井の耳の奥で何度も繰り返された。
「國井さん」
里奈が小さく声をかけた。
「え、なに」
里奈は福島が出ていった扉を見ていた。
「福島さんが困ってるのって、痛みだけじゃないんですよね」
國井は答えなかった。
「あの右手は、使えるようになるんでしょうか」
里奈がペンを持ち直した。
「あ、すみません」
「いや」
國井は机のスポンジを手に取った。
「使えるようにしないと……」
それ以上の答えはなかった。
「國井くん」
低い声がした。
振り返ると、宮本が立っていた。
國井は一度息を吐いた。
「福島さんに、ペインクリニックの話をしました」
宮本は何も言わずに聞いていた。
「上手く説明できませんでした」
國井は宮本を見た。
「途中で、分からなくなりました」
「何がですか」
「痛みが減ったら、仕事ができるのかって聞かれましたが、答えられませんでした」
國井は手の中のスポンジを握った。
「宮本さんなら、何て答えますか」
宮本はすぐには答えなかった。
「福島さんの店には、行ったことがありますか」
國井が顔を上げた。
「楽器店ですか」
「はい」
「いえ、ありません」
「仕事をしているところを見たことは?」
國井は首を横に振った。
「話は聞いています。ギターの修理とか、管楽器の調整とか」
宮本は短くうなずいた。
それだけだった。
宮本は作業療法室の出口を見た。
「少し、話してきます」
宮本は部屋を出た。
國井と里奈がその背中を見送った。
「宮本さん、説得するんでしょうか」
國井は机の上へ視線を戻した。
「どうだろう……」
外来ロビーの端で、福島はまだ椅子に座っていた。
右手を胸の前に抱え、床を見ていた。
受付で名前を呼ぶ声。
杖の先が床に触れる音。
自動扉が開き、冷たい空気が入ってくる。
宮本は福島から一つ空けた椅子へ座った。
福島がゆっくり顔を向けた。
「リハビリの?」
「宮本です」
「國井さんに頼まれましたか」
「いえ」
福島の眉がわずかに動く。
「じゃあ、何です」
宮本は前を向いたまま尋ねた。
「福島さんのお店は土曜日もやっていますか」
「……店?」
「はい」
福島は宮本を見た。
意味を測るような顔だった。
「やってますけど」
「何時までですか」
「七時です」
「では、土曜日の夕方、お伺いしてもよろしいですか」
福島が黙った。
「何しに来るのですか」
「普段の仕事の様子を見せていただきたいのです」
「右手がこれなのに?」
「はい」
福島の表情が少し硬くなった。
「見て、何が分かるんです」
宮本は少し間を置いた。
「見てみないと分かりません」
福島はしばらく宮本を見ていた。
やがて、鼻から短く息を吐いた。
「変な先生ですね」
宮本は否定しなかった。
福島は左手で胸ポケットを探り、名刺を一枚取り出した。
福島楽器店。
店名の下に住所と電話番号が印刷されている。
「店はここです」
宮本は名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
「勝手にしてください」
「はい」
「今は、開店休業みたいなものです」
福島は立ち上がり、数歩歩いてから振り返った。
「ペインクリニックのことは考えます」
「はい」
宮本はそれ以上言わなかった。
福島は自動扉の向こうへ消えた。
宮本は手元の名刺を一度見た。
それから、白いケーシーの胸ポケットへ入れた。
***
次の日は風が強く、冬のような寒さだった。
冬木聡美は、両手をこすり合わせながら椅子に座っていた。
「今日は駄目ですね。寒いと、朝からこわばってしまって」
宮本は右手の指を確認した。
腫れは前回と大きく変わらなかった。
冬木が曲がった指を伸ばそうとすると、途中で動きが止まった。
「台所は、前に教えてもらったように変えました」
「どうですか」
「料理は少し楽になりました」
冬木は笑った。
「前よりは、ですけど」
冬木の一日は、あまり変わっていなかった。
デイケアでは事務をし、人が足りなければ介助にも入る。
家に帰れば、夕食を作り、洗濯をして、さくらの面倒を見る。
宮本は少し間を置いた。
「次の訪問ですが、娘さんはいらっしゃいますか」
「恵実ですか?」
「はい」
「昼は寝てますよ。夜の仕事なので」
「起きていたら、少しお話しできれば」
冬木は不思議そうに宮本を見た。
「今週の土曜日なら、いると思います」
「では、その日に」
***
土曜日の午後。
宮本が冬木の家を訪ねると、夫の貴一は仕事で留守だった。
居間のソファには、若い女性が横になっていた。
明るい髪。
毛布を腰まで掛け、スマートフォンを見ている。
「娘の恵実です」
冬木が言った。
恵実は宮本に気づいて身体を少し起こした。
「どうも」
「今起きてきたところなんです」
「それ、言わなくていいから」
恵実はそう言って、またソファにもたれた。
床では、さくらが色鉛筆を並べていた。
「ふうせんのおじちゃん」
宮本を見つけて立ち上がった。
「今日は、折り紙ないの?」
「今日はありません」
「えー」
さくらは口を尖らせた。
宮本は恵実に声をかけた。
「恵実さん」
「はい?」
「少しだけ、お母さんが家の中で動くところを見ていてもらえますか」
恵実がスマートフォンから顔を上げた。
「私が?」
「少しだけで構いません」
恵実は少し迷ってから立ち上がった。
「……少しなら」
台所には、前回敷いた滑り止めが残っていた。
重い鍋は下の棚からなくなり、軽い片手鍋が手前に置かれていた。
「いつも通りにやってみてください」
冬木は包丁を持った。
まな板は動かなかった。
太くした柄は、指を深く曲げなくても握れた。
それでも、数回切ると右肩が上がった。
宮本は冬木の右肩に目をやった。
「一度、包丁を置きましょう」
冬木が手を止めた。
「続けてやらなくていいです。ここまで切ったら、一度手を休めてください」
「でも、夕飯だと一気にやっちゃいますね」
「それでも、途中で一度、手を離してください」
冬木は少し笑った。
恵実は少し離れたところで、スマートフォンの画面を消した。
冬木が洗面所へ移ると、恵実もそのままついてきた。
冬木が洗濯籠を持ち上げた。
取っ手に指を掛けず、籠の底を前腕で支えた。
「こうすると、楽です」
「持ち方はいいですね」
宮本は籠の中を見た。
「これを、どこまで運びますか」
「二階です。ベランダがあるので」
宮本は廊下の先の階段を見た。
「膝は、階段で痛みませんか」
「上りより、下りが少し」
宮本は恵実を見た。
「いつも、二階まで?」
突然聞かれ、恵実は少し遅れて答えた。
「……たぶん」
冬木が笑った。
「寝てる時間だからね」
恵実は何も言わなかった。
宮本は洗面所を出て、居間へ戻った。
掃き出し窓の前で足を止めた。
「ここに、室内物干しは置けませんか」
「ここですか?」
「膝の調子が悪い日は、二階へ持っていかない方がいいです」
そのとき、廊下の奥で扉が開く音がした。
「さくら」
冬木が振り返った。
さくらが、前回の訪問時に閉じられていた部屋に入っていた。
「ピアノ」
さくらの声がした。
宮本は廊下の奥へ向き直った。
「この前のピアノ、見てもいいですか」
冬木は少しだけ間を置いてから、うなずいた。
窓から入った光の中に、黒いピアノがあった。
前回は上に物が積まれていて、全体がよく見えなかった。
背の高いアップライトピアノだった。
狭い部屋の一角を、その本体が大きく占めていた。
塗装には細かな傷があったが、艶は残っていた。
高さを変えられる幅の広い椅子。
棚には厚い楽譜が何冊も並んでいた。
その端には、古い調律記録のカードが挟まっていた。
「立派なピアノですね」
宮本が言った。
冬木はピアノを見た。
「昔は、よく弾いてましたから」
「ばあば、ピアノ弾けるの?」
さくらが聞いた。
「昔はね」
「いまは?」
冬木は自分の右手を見た。
「ほら」
さくらの前に手を出した。
「さくら、お手てを開いてみて」
さくらが小さな手をいっぱいに広げた。
五本の指が、きれいに開いた。
冬木も右手を開こうとした。
人差し指と中指は小指側へ傾き、薬指は曲がったままだった。
指を一本ずつ離そうとしても、隣の指がついてくる。
冬木は左手で、右の指の位置を直そうとした。
それでも、さくらの手のようには開かなかった。
「ほら。ばあばの手、きれいに開かないでしょう」
さくらは二人の手を見比べた。
「うん」
冬木は少し笑った。
「だから、この手ではもう弾けないのよ」
さくらは冬木の手をじっと見ていた。
少し離れたところに、恵実が立っていた。
恵実は何も言わなかった。
スマートフォンを持ったまま、母の右手を見ていた。
ピアノの前で、冬木はゆっくり手を下ろした。
宮本はそれ以上、何も聞かなかった。
宮本がピアノの部屋を出ると、冬木が玄関までついてきた。
「では、また」
「はい」
***
玄関の扉が閉まった。
居間から、さくらが色鉛筆を転がす音がした。
冬木は洗面所へ向かった。
恵実は自分の部屋に戻った。
時計を見る。
仕事へ出るまで、あまり時間はなかった。
部屋着を脱ぎ、仕事用の服に着替える。
髪を整え、鏡の前に座った。
下地を塗る。
眉を描く。
片方の目にアイラインを引いたところで、廊下から音がした。
ガタン。
ペン先がまぶたの際で止まった。
「……母さん?」
返事がない。
恵実は化粧道具を置き、部屋を出た。
洗面所の前で、冬木が片膝をついていた。
そばで洗濯籠が倒れ、中の衣類が床へこぼれていた。
「母さん!」
恵実が駆け寄った。
冬木は左膝を押さえていた。
「大丈夫」
そう言って立とうとした。
恵実が反射的に右手首へ手を伸ばした。
「そこ、引っ張らないで」
恵実の手が止まった。
「肘のほう」
言われた通り、肘と背中を支えた。
冬木は恵実に支えられながら、ゆっくり立ち上がった。
支えた肘の先に、母の右手があった。
赤く腫れた関節。
小指側へ傾いた指。
まっすぐ伸びない指先。
さっき、さくらの前で開こうとしていた手だった。
恵実は何も言わなかった。
自分の部屋から、スマートフォンのアラーム音が聞こえた。
出勤の時間が近づいていた。
それでも恵実は、すぐには動かなかった。
化粧の途中の顔のまま、母の手を見ていた。
***
その日の夕方。
宮本は福島楽器店の前に車を停めた。
ガラス扉の向こうに、店の灯りがついている。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
カウンターの奥の福島が振り向いた。
「本当に来たんですか」
「はい」
「それで、何をするんです」
宮本は店の奥を見た。
壁に並ぶギター。
工具の置かれた作業台。
弦を外したままの楽器。
「仕事を見せてください」
――第5話 終




