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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

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第4話 雨音

 訪問の日は、朝から細い雨が降り続いていた。

 午後四時半を過ぎても空は薄暗い。


 外来では見えない動きを確かめるため、主治医の了承を得て冬木の家を訪ねることが決まったのは、数日前のことだった。


 宮本が車を停めた住宅街では、雨粒が屋根や傘を細かく叩いていた。


 冬木の家は、築二十年ほどの二階建てだった。

 外壁に大きな傷みはない。


 庭も荒れているというほどではなかった。

 ただ、端に並んだ植木鉢は空のままで、伸びた雑草が雨に濡れていた。

 手を入れる順番が、まだ回ってきていないように見えた。


 宮本は玄関の前で傘を閉じた。


 呼び鈴を押すと、少し間があって扉が開いた。

 眼鏡をかけ、白いワイシャツ姿の細身の男が立っていた。


「リハビリの先生ですね」


「はい」


「夫の貴一です。今日はありがとうございます」


 貴一は丁寧に頭を下げた。


「訪問があると聞いたので、今日は少し早く帰ってきました」


 玄関には、濡れた革靴と小さな運動靴が並んでいた。

 隅には、中身の入った買い物袋が置かれている。


 畳まれていない段ボール。

 壁に立てかけられた傘。

 子ども用の黄色い雨具。


 物が多いわけではない。

 ただ、それぞれが片づけられる途中で止まっていた。


「すみません。まだ、何も片づいてなくて」


 家の奥から冬木の声がした。

 冬木は両腕に買い物袋を抱えていた。


 右腕で袋の底を支えていた。

 外来で練習した持ち方に近い。


 だが、左手の指には細い持ち手が食い込んでいた。


「先に、これだけ置いてきますね」


「重そうだな」


 貴一が言った。

 冬木はその横を通り、台所へ向かった。


「どうぞ。狭いところですが」


 貴一が宮本を居間へ案内する。


 居間の中央には炬燵が置かれていた。

 その周囲に、取り込まれた洗濯物、子どもの玩具、薬の袋、新聞などが集まっている。


 ソファはあったが、その半分は衣類で埋まっていた。

 床には色鉛筆と画用紙が広がっている。


 小さな女の子が、炬燵の向こうから宮本を見ていた。


「こんにちは」


 宮本が言うと女の子は答えず、貴一の後ろへ少し隠れた。


「孫のさくらです」


 冬木が台所から戻ってきた。


「さくら、ご挨拶は?」


 さくらは宮本を見たまま、小さく頭を下げた。

 宮本の足元に置かれた黒い鞄へ、視線が向いている。


「何が入ってるの?」


「仕事の道具です」


「ふーん」


 さくらは少し残念そうな顔をした。


 宮本は鞄の内ポケットを探り、淡い水色の折り紙を一枚取り出した。


「これはあります」


 さくらの表情が変わった。


「もらっていいの?」


「どうぞ」


 さくらは両手で折り紙を受け取った。


 すぐに炬燵へ戻り、紙を広げる。

 覚えている折り方を探すように、一度三角に折っては開き、別の方向へ折り直した。


 冬木はその様子を見てから、宮本へ向き直った。


「どこから見ますか」


「普段どおりにしてください」


 冬木は少し緊張したように背筋を伸ばした。


「普段どおりって言われると、難しいですね」


「今、しようとしていたことからで構いません」


 冬木は居間を見回した。


 床に散らばった玩具を拾い始める。

 小さな部品を指先でつまみ、一つずつ箱へ入れていく。

 数回繰り返すと、動きが遅くなった。


 床の奥にある人形へ手を伸ばす。

 左手を床につき、身体を支えながら右手で取った。


 変形した指に体重がかかる。

 冬木の眉が、わずかに寄った。


 宮本は記録用紙に目を落とした。


「いつも、この部屋で過ごしていますか」


「そうですね。この茶の間で過ごすことが多いですね」


「椅子は使いませんか」


「使うこともありますけど、ここに座った方が近いので」


 さくらが折り紙から顔を上げた。


「ばあば、ここどうするの」


 冬木が振り返る。


「何を作ってるの?」


「つる。幼稚園で見たの」


 紙には、いくつもの折り目がついていた。


「最初に三角に折るんじゃない?」


 冬木はそう言いながら、床へ膝をついた。


 折り紙を受け取り、角と角を合わせようとする。

 だが、紙を押さえる指がうまく伸びない。

 人差し指の側面で折り目をつけようとすると、紙がずれた。


「あとで、ゆっくりやろう」


 冬木は紙をさくらへ戻した。


「今は先生が来てるから」


 さくらは不満そうに口を尖らせた。


 冬木が立ち上がろうとする。

 炬燵の天板に両手をつき、腕へ体重をかけた。

 一度で立ち上がれず、膝の位置を変える。


「手だけでなく、膝も痛みますか」


 宮本が尋ねた。


「夕方は少し」


「朝は」


「朝の方が動きにくいです。でも、時間が経てば何とか」


 冬木は立ち上がると、炬燵の上の紙やコップを片づけ始めた。


「今日は、デイケアの仕事でしたか」


「ええ。パートの事務なので、三時までです」


 冬木は少し間を置いた。


「ただ、人が足りなくて。お風呂の方を少し手伝いました」


「どこまでしましたか」


「着替えと、立つ時の介助を」


 宮本は冬木の手を見た。


「そのあとに買い物を?」


「買い物をして、さくらを迎えに行って、帰ってきたところです」


「娘さんは」


「もう仕事へ行きました。夜の仕事なので」


 冬木は炬燵の上のコップを二つ持って台所へ向かった。

 しばらくして、三つのコップを両手で持って戻ってきた。


 一つを宮本の前へ置く。

 一つを貴一へ。

 一つをさくらへ。


 冬木自身の分はなかった。


 貴一は炬燵の前に座ったまま言った。


「聡美は、帰ってきてから座らないんです。少し休めばいいと言っているんですが」


 冬木は返事をせず、ソファの衣類を寄せた。

 その下から、さくらの薄い上着が出てきた。


「これ、今日持っていかなかったの?」


 さくらへ尋ねる。


「いらなかった」


「雨だったでしょう」


「いらなかったの」


 冬木は上着を畳み、別の衣類の上へ置いた。


 宮本は居間を見回した。

 ソファに座るスペースはある。

 だが、冬木が座れば、目の前には畳まれていない洗濯物がある。

 足元には玩具がある。


「台所も見せてもらえますか」


「はい」


 冬木は宮本を案内した。

 廊下の奥へ進む。


 その途中、扉が少しだけ開いた部屋があった。

 中は薄暗い。


 窓際に、黒いアップライトピアノが置かれていた。

 蓋は閉じられている。

 その上には段ボールと畳まれていない布が積まれていた。


 椅子には、さくらの服と鞄が置かれている。


「ピアノですか」


 宮本が尋ねた。

 冬木の足が止まった。


「ええ。でも、もう使っていません」


 冬木は扉へ手をかけた。


「そうですか」


「物置みたいなものです」


 扉がゆっくり閉じられた。


 その直前、雨粒が部屋の窓を打つ音が聞こえた。



 台所は広くなかった。

 調理台には、朝に使ったらしい皿が二枚残っている。

 買い物袋から、野菜と魚が半分だけ出されていた。


 流しの脇には濡れた布巾が置かれている。

 冷蔵庫には、さくらが描いた絵と予定表が磁石で留められていた。

 予定表には、娘の出勤日、さくらの迎え、冬木のパート、病院の予約が細かく書き込まれていた。


 宮本は一通り視線を巡らせた。


「今日は、何を作りますか」


「煮物と、焼き魚です」


「準備するところを見せてください」


 冬木はうなずいた。


 調理台の下段から、大きな鍋を取り出す。

 鍋の縁へ指を掛け、両手で手前へ引いた。


 深く腰を曲げる。

 鍋を持ち上げ、調理台へ置いた。

 鈍い音がした。


 次に大根を取り出す。

 まな板の上へ置き、包丁を握った。

 指の変形に合わせて、柄を強く握り込んでいる。


 手首は外側へ傾き、肩が上がっていた。

 大根を押さえる左手にも力が入る。

 包丁を下ろす。


 まな板がわずかに動いた。

 冬木はもう一度、強く大根を押さえた。


 宮本は、調理台の高さから包丁の握り方、まな板の位置、鍋の形状と置き場所まで、台所の中を一つずつ確認していった。


「ばあば」


 居間から、さくらの声がした。


「なに?」


「できない」


「ちょっと待ってね」


 冬木は包丁を動かし続けた。


「ばあば」


「今、お料理してるから」


 声が少し強くなった。

 さくらは黙った。


 冬木は大根を何切れか切ると、流しに残った皿を洗い始めた。


 蛇口をひねる。

 濡れた布巾を両手で絞る。

 指の関節がさらに曲がった。


 口元が固くなる。

 それでも手は止まらなかった。


「このあと、何がありますか」


 宮本が尋ねた。


「夕食を作って、お風呂を入れて」


 冬木は皿を流しへ戻した。


「食べ終わったら片づけて、洗濯物を畳みます」


「何時頃に終わりますか」


「日によります」


 冬木は小さく笑った。


「終わらないこともあります」


 貴一は台所の入口に立って、二人のやり取りを聞いていた。


 冬木は鍋を流しへ置き、水を入れた。


 水の入った鍋を両手で持ち上げようとする。

 指先と手首だけでなく、肩や背中にも力が入った。


 そのとき、さくらが再び居間から顔を出した。

 手には折り紙を持っている。

 水色の紙は、何度も折り直され、皺だらけになっていた。


「ばあば、つるにならない」


 冬木は鍋を持ち上げかけたまま、さくらを見た。


「あとで一緒にやろう」


「いつ?」


「ごはんができたら」


 さくらは紙を見下ろした。


「もう、できない」


 紙を強く引っ張った。

 端が少し破れた。

 さくらの顔が歪んだ。


「だから、あとでって言ったでしょう」


 冬木の声が強くなった。

 言った直後に、冬木自身が黙った。


 さくらは折り紙を握ったまま、居間へ戻っていった。

 小さな泣き声が聞こえた。


 冬木の手が止まった。

 だが、水の入った鍋と、切りかけの食材が残っている。

 すぐに追うことはできなかった。


「すみません」


 冬木が言った。

 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


 宮本は居間の方を一度見てから記録用紙を閉じ、足元の鞄を引き寄せた。


 そして、鞄から滑り止めシートを取り出し、まな板の下へ敷いた。


「これで切ってみてください」


 冬木が大根を置く。


 まな板は動かなかった。

 左手で強く押さえなくても、包丁を下ろすことができる。


「少し楽です」


 次に宮本は、柄に滑りにくいグリップ材を巻いた。


「柄を太くします」


 冬木が握る。

 指を深く曲げなくても、包丁が手の中に収まった。


 冬木が大根を一切れ切る。

 先ほどほど、肩は上がらなかった。


「楽に動かせますね」


「強く握らずに済みます」


 宮本は水の入った鍋を見た。


「次からは、空の鍋を先にコンロへ置いてください」


 宮本はやかんを示した。


「水は、あとから入れた方が安全です」


 冬木は鍋の水をいったん流しへ戻した。

 空になった鍋をコンロへ置き、やかんで水を入れてから火をつけた。


「やり方を変えればいいんですね」


 冬木が言った。


「それだけではありません」


 宮本は調理台を見たあと、廊下の向こうへ目を向けた。


「作業が、この時間に重なりすぎています」


「でも、わたしがやらないと……」


「道具を変えるだけでは追いつきません」


 冬木は宮本を見た。

 貴一が少し身じろぎした。


 宮本は冬木の手を見た。


「関節を守る方法を知っていても、急いだり無理をすると守れません」


 冬木は包丁の柄に巻かれたグリップ材を見た。


「今日は、何を変えられそうですか」


 冬木は台所を見回した。


「まな板の滑り止めは、使えそうです」


「ほかには」


「鍋を、もう少し軽いものにすることと」


 少し考える。


「下に置いてある物を、上へ移すこと」


「それでいいです」


 宮本はうなずいた。


「一度に全部変える必要はありません」


 貴一が口を開いた。


「私も、できることはした方がいいですね」


 宮本は貴一を見た。

 貴一は台所と居間へ視線を巡らせていた。

 冬木は答えず、鍋の中を見た。


 貴一も、それ以上は言わなかった。


 宮本が記録用紙を鞄へ戻していると、居間から小さな鼻をすする音が聞こえた。


 さくらはまだ炬燵の前にいた。

 水色の紙は、折り目だらけになり、端が破れている。


 冬木が近づこうとした。

 だが、火にかけた鍋を振り返り、台所へ戻った。


 宮本は鞄を閉じかけた手を止めた。


 炬燵に伏せた小さな頭。

 握りしめられた紙。

 小さく震える細い肩。


 一瞬だけ、別の背中が重なった。

 宮本はまばたきをした。


「さくらさん」


 宮本が呼ぶ。

 さくらは顔を上げなかった。


 宮本は鞄を開き、新しい折り紙を一枚取り出した。

 今度は薄い桃色だった。


「その紙は、折りにくくなっています」


 さくらが顔を上げた。

 頬が濡れている。


「もう、できない」


「新しい紙があります」


 宮本は、桃色の折り紙を炬燵に置いた。


「もう一度やりますか」


 さくらは破れた紙と、新しい紙を見比べた。


 やがて、小さくうなずいた。

 宮本は炬燵の前へ座った。


「何を作りますか」


「つる」


「鶴は、少し難しいです」


 さくらの顔がまた曇る。


 宮本は続けた。


「紙風船なら、できます」


「ふうせん?」


「息を入れると膨らみます」


 さくらは少し考えた。


「それにする」


 宮本は紙をさくらの前へ置いた。


「まず、角と角を合わせます」


 さくらが紙を折る。


 角が少しずれた。


 宮本は直さなかった。


「ここを押さえてください」


 さくらが左手で角を押さえる。


「反対の手で、折り目をつけます」


 小さな指が紙の上を滑る。


 宮本は必要なところだけ、紙の向きを変えた。

 一つ折るたび、さくらの呼吸が落ち着いていく。


 途中で分からなくなると、宮本を見る。

 宮本は紙へ手を出さず、次に動かす角だけを指で示した。


「ここです」


 さくらが折る。

 少し歪んだ形の紙風船ができた。


 宮本は最後の穴を示した。


「ここから息を入れてください」


 さくらが口を近づける。


 ふう、と息を吹く。


 紙は少し開いただけだった。


「もう一度」


 さくらが大きく息を吸った。


 ふう、と吹く。


 紙風船がゆっくりと膨らんだ。

 さくらの目が大きくなる。


「できた」


 声が弾んだ。


 笑った目元が、一瞬だけ、宮本の記憶の中にある顔と重なった。

 宮本は視線を紙風船へ戻した。


「できましたね」


 冬木と貴一が台所の入口に立っていた。

 宮本とさくらを見ている。


 宮本は破れた紙を見た。

 その隣に、膨らんだ桃色の紙風船が置かれていた。


 宮本は立ち上がった。


「おじちゃん、ありがとう」


 さくらは顔いっぱいに笑っていた。


 宮本は鞄を持ち、玄関へ向かった。

 貴一が先に扉を開ける。


「今日はありがとうございました」


「また伺います」


 宮本が靴を履く。

 外では、まだ雨が降っていた。


 冬木は廊下の奥へ一度目を向けた。

 ピアノのある部屋は、扉が閉じられている。


 玄関の扉が閉まる。

 家の中から、さくらの声が聞こえた。


「じいじ、見て。ふうせん」


 少し遅れて、貴一の声が返った。


 外へ出て、傘を開く。

 布を打つ雨音が、頭上に広がった。


 宮本は雨の中を車へ向かった。


 閉じられた部屋の奥で、ピアノは沈黙したままだった。


 ――第4話 終


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