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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

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第3話 乾いた音

 作業療法室前の待合には、時計の秒針の音がよく聞こえた。


 福島忠男は、壁際の椅子に座っていた。


 予約の時間を、十五分ほど過ぎている。


 右手は、胸の前で左手に支えられていた。

 薄い手袋の下には、まだ腫れが残っている。

 指は軽く曲がったままで、膝の上に置くこともためらわれた。


 作業療法室の中から、國井の声が聞こえる。


「はい。もう一度やってみましょう」


 少し間があって、木の道具が机に触れる音がした。


「前より、動きが滑らかになっていますね」


 患者のものらしい笑い声が返ってくる。


 福島は、待合の時計を見た。

 秒針が一つ進む。


 別の患者が良くなることに腹を立てているわけではない。

 そう思った。


 國井が忙しいことも分かっている。

 病院では、予定どおりにいかないこともある。


 それでも、胸の奥に硬いものが少しずつ溜まっていった。


 店を閉めて来ている。


 販売だけなら、左手でも何とかできる。

 だが、接客の途中で右手が痛みだすことがある。

 商品の箱を棚から下ろすだけでも時間がかかる。


 修理を頼みに来た客には、今は受けられないと頭を下げている。

 いつ再開できますかと聞かれても、答えられない。

 店の奥には、手をつけられない楽器が残っている。


 福島は左手で右手を持ち直した。

 手袋の布が手の甲を擦り、熱が走った。

 息を止める。


 作業療法室の中から、再び國井の声が聞こえた。


「今日はここまでにしましょう」


 椅子を引く音がする。


 しばらくして、國井が扉から出てきた。


「福島さん、お待たせしました。申し訳ありません」


 國井は少し息を切らしていた。


「いえ」


 福島は立ち上がった。


「お忙しいでしょうから」


 口調は丁寧だった。

 國井はその声に何かを感じたようだったが、何も言わずに作業療法室へ案内した。



 室内には、まだ何人かの外来患者がいた。

 少し離れた机では、宮本が冬木聡美と向かい合っている。

 机の上には、小さな容器と布製の袋が置かれていた。


 冬木は変形した指で袋の持ち手をつかもうとしている。


「指に掛けないでください」


 宮本が短く言った。

 冬木は手を止めた。


「手のひらで支えます」


 宮本が持ち方を示す。

 冬木は袋の底へ手を回し、前腕に近いところで支え直した。


「こうですか」


「ええ」


 冬木は持ち上げてみた。


 先ほどより指への負担は少ない。

 だが、動作には時間がかかった。


「普段でも、このような持ち方ができそうですか」


 宮本が聞くと、冬木は少し考えてから苦笑した。


「余裕があれば、ですけどね」


 宮本は返事をしなかった。

 冬木がもう一度袋を置く。


 その向こうで、國井は福島の右手に触れていた。


「今日は、痛みはいかがですか」


「変わりません」


 福島はすぐに答えた。


「夜は眠れていますか」


「まあ、それなりに」


「自主訓練は」


「言われた通りにしています」


 答えは短かった。


 國井は福島の手袋を外し、手背を確認した。


 腫れは残っている。

 皮膚には赤みがあり、触れると熱を持っていた。


「触りますね」


「はい」


 柔らかい布を手背に当てる。

 福島の肩がわずかに上がった。


「痛みますか」


「大丈夫です」


 國井は少し手を止めた。


「我慢していませんか」


「していません」


 返事は早かった。

 國井はそれ以上聞かず、刺激の範囲を少し狭くした。


 里奈は國井の斜め後ろでメモ帳を開いている。


 福島が質問をしなくなったことに、里奈も気づいていた。


 以前は、家で何回動かせばいいのか。

 どこまで痛みが出てもいいのか。

 仕事へ戻るには何が必要なのか。


 福島の方から、いくつも尋ねていた。

 今は、國井に聞かれたことへ答えるだけだった。


 國井は福島の右手を机へ戻した。


「お店の方は、どうですか」


 福島の視線がわずかに動いた。


「開けています」


「何か困ったことはないですか」


「左手でできることは、何とかやっています」


「そうですか」


 國井の表情が少し緩んだ。


「右手の使用は、まだ控えていますか」


 その瞬間、福島の表情が固まった。

 國井は言葉を継ごうとして、やめた。


「控えてるんじゃないです」


 低い声だった。


「できないんです」


 國井の表情が止まった。

 福島は右手を見たまま続けた。


「退院した次の日に、ギターの調整をやろうとしました」


 里奈のペンが止まった。


「前なら、十分もかからない仕事です。六角レンチで少し調整するだけでした」


 福島の左手が、右手を包み込む。


「工具をつまめなかった」


 声はまだ落ち着いていた。


「ギターを支えることもできなかった。レンチを床に落として、拾うのにも時間がかかった」


 國井は黙って聞いていた。


「結局、楽器の修理や調整をすることはできません」


「福島さん……」


「この手では、修理や調整の依頼は断るしかないです」


 福島は顔を上げた。


「仕方ない、ですよね」


 問いかけではなかった。

 國井は一度息を吸った。


「い、いまの手の状態では、細かい修理作業の負荷は、まだ強いと思います」


 福島の目が細くなった。


「まだ」


「はい。まずは道具を持つ、支えるといった動作を分けて――」


「また、それですか」


 國井の言葉が止まった。

 福島は右手を胸の前へ戻した。


「痛みがない程度とか、反応を見るとか、無理をするなとか」


 声が少しずつ大きくなっていく。


「ずっと同じことを言ってますよね」


「福島さん、今は症状を悪化させないことも必要なんです」


 國井はできるだけ落ち着いて言った。


「できる動作から段階的に戻していけば――」


「いつですか」


 福島が遮った。


「え?」


「いつ戻れるんですか」


 國井は答えられなかった。


 福島は國井を見ている。

 逃げずに答えなければならない。

 國井はそう思った。


 だが、言えることは限られていた。


「今の段階では、はっきりした時期までは……」


 福島の口元が歪んだ。


「そうでしょうね」


 左手が机の上へ置かれた。


「先生は、そう言っていればいいんでしょうけど」


「福島さん」


「俺は、生活がかかっているんですよ」


 声が震え始めていた。


「店を開いていても、断るしかないことばかりなんですよ」


 福島の左手に力が入る。


「この右手じゃ、仕事はできないんです」


 國井は椅子から腰を浮かせた。

 何かを言わなければならなかった。


「だから、できる仕事を整理して――」


 福島の左手が上がった。

 次の瞬間、掌が机を打った。


 バン!


 机の上のペンが跳ねた。


 訓練器具が小さく揺れ、硬い音を立てた。

 作業療法室の声が、一斉に途切れた。


 福島は立ち上がっていた。


 右手を胸の前に抱えたまま、肩で息をしている。


「できる仕事って、何ですか!」


 顔は赤くなり、目の奥には涙とも怒りともつかない色が浮かんでいた。


「俺は楽器屋なんですよ!」


 國井の身体が動かなかった。


「言われたことはやりましたよ!」


 福島の声が室内へ響く。


「動かせと言われたから動かした。やりすぎだと言われたから止めた。毎日、言われた通りにやった!」


 胸の前の右手が震えていた。


「それで、何が変わったんですか!」


 國井は口を開いたが、声が出なかった。


「何のためのリハビリなんですか!」


 福島の左手が、もう一度上がりかけた。

 だが、机には落ちなかった。

 拳になりきらない手が宙で止まり、そのまま力なく下がった。


「治らないなら」


 最後の言葉は掠れていた。


「最初から、そう言ってくれればよかったんだ」


 福島は崩れるように椅子に座り、重い沈黙だけが残った。


 國井は福島を見ているつもりだった。

 だが、実際には叩かれた机から目を上げられなかった。


 説明しなければならない。

 謝らなければならない。

 落ち着いてもらわなければならない。

 頭の中にはいくつもの言葉が浮かんだ。


 どれも声にならなかった。


 後ろにいた里奈の手から、ペンが落ちた。

 床に当たり、軽い音を立てて転がった。


 里奈は拾おうとした。

 だが、膝が動かなかった。


 病室で、福島が右手の指を何度も曲げようとしていた姿が浮かんだ。

 額に汗を浮かべながら、このくらいどうってことない、と言っていた。


 自分が國井に伝えた。

 止める必要があると思った。


 間違っていたとは思わない。

 それでも、福島は目の前で壊れそうになっている。


 視界がにじんだ。

 頬に冷たいものが触れ、里奈は初めて自分が泣いていることに気づいた。


 少し離れた机で、宮本の手も止まっていた。


 宮本は冬木の向かいに座ったまま、福島と國井を見ていた。

 國井の止まった足。

 涙を拭うこともできない里奈。

 うなだれる福島。

 守られるように胸の前へ抱えられた右手。


 そして、目の前でゆっくりと椅子から立ち上がる冬木。


 宮本は黙って冬木を見た。


 冬木は何も言わず、福島の方を見ている。


 しばらくして、一歩を踏み出した。

 宮本は止めなかった。


 冬木はゆっくりと福島へ近づいた。

 足取りは速くない。


 福島の前まで来ると、冬木は立ち止まった。

 人の気配に福島が顔を向ける。


 冬木は自分の両手を福島の前に差し出した。


「見てください」


 福島の視線が、その手に落ちた。


 腫れた関節。

 小指側へ流れた指。

 不自然に曲がった指先。


 長い時間をかけて、少しずつ形を変えてきた手だった。


「私は、十年です」


 冬木の声は静かだった。


「治らない病気だと言われてから」


 福島は何も言わなかった。


 冬木は両手を福島の前に出したまま続けた。


「最初は、薬を飲めば治ると思っていました」


 指を少し開こうとする。

 途中で止まる。


「今でも、朝になると、今日は少し動くんじゃないかと思います」


 冬木は自分の手を見た。


「動かないと、腹が立ちます」


 福島の呼吸は、まだ荒かった。


「……同じじゃないでしょう」


 怒りの残った声だった。

 冬木はうなずいた。


「そうですね。同じではないです」


 冬木は一度息を整えた。


「でも、治ってほしいのに治らない手を、毎日見ることは、少し分かります」


 福島の視線は、冬木の指から離れなかった。

 作業療法室の誰も動かなかった。


「それで」


 福島が低い声で尋ねた。


「諦めたんですか」


 冬木は少し考えた。


「いいえ」


 小さく首を振る。


「諦められないままです」


 福島が顔を上げた。

 冬木は、変形した両手を自分の胸元へ戻した。


「でも、使わないわけにもいかないので」


 それ以上は言わなかった。


 福島の肩が、少しだけ下がった。

 怒りが消えたわけではない。

 納得したわけでもない。

 ただ、冬木の手を前にして、怒鳴り続けることができなくなったようだった。


 福島は長く息を吐いた。

 室内を見回しかけて、すぐに目を伏せた。


「……すみません」


 誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。


 福島は椅子の背に掛けていた上着を左手で取った。


「今日は、帰ります」


 國井は顔を上げた。


「福島さん」


 ようやく声が出た。

 だが、その先が続かなかった。


 福島は振り返らず、作業療法室を出ていった。


 扉が閉まる。


 先ほどの音に比べれば、ひどく小さな音だった。

 誰もすぐには動かなかった。


 作業療法室の時計だけが、変わらず進んでいた。


 宮本が椅子から立った。

 床に落ちた里奈のペンを拾い、机の上へ置く。


「三好さん」


 里奈が顔を上げる。


「少し、休んできてください」


「でも……」


「大丈夫です」


 里奈は唇を噛み、うなずいた。


「……すみません」


 小さく頭を下げ、作業療法室を出ていった。


 宮本は國井の横へ来た。

 國井はまだ立ったままだった。


 叩かれた机の上に、福島の左手の跡が残っているような気がした。


「……すみません」


 國井は言った。


「何も、言えませんでした」


 宮本は机を見た。


 それから、國井へ視線を向けた。


「方法は、間違っていません」


 國井は顔を上げた。


「でも」


 喉が詰まった。


「届きませんでした」


 宮本はすぐには答えなかった。


 少し間を置いて、静かに言った。


「あとで一緒に確認しましょう」


 國井は唇を結んだ。

 慰められたとは思わなかった。

 許されたとも思わなかった。

 それでも、完全に間違っていたわけではないという言葉だけが、かろうじて足元に残った。


 宮本はそれ以上何も言わず、冬木の席へ戻った。

 冬木は椅子に座り、両手を膝の上に置いていた。

 先ほどまで机にあった袋も、容器も、そのまま残っている。


「すみませんでした」


 冬木が言った。


「勝手なことをしました」


 宮本は首を横に振った。


「私たちの言葉では、届かないことがあります」


 冬木は少し驚いたように宮本を見た。

 それから、小さく笑った。


「続けられますか」


「はい」


 宮本は袋を冬木の前へ戻した。


 冬木は先ほど教わったように、指へ持ち手を掛けず、手のひらと前腕で支えようとした。


 ゆっくりと位置を変える。

 持ち上げるまでに時間がかかった。


 その途中で、冬木は壁の時計を見た。

 手の動きが急に速くなる。

 袋の位置がずれ、結局、いつものように持ち手を指へ引っかけた。


 宮本がその手を見た。


「このあと、何かありますか」


 冬木は袋を置いた。


「買い物をして帰ります」


 少し考えて付け足す。


「夕食の準備もありますから」


「明日は仕事ですか」


「はい」


 冬木は笑った。


「短時間ですけど、帰ったら次の日の支度もあります」


 宮本は、冬木の両手を見た。


「手を休ませる時間はありますか」


 冬木は、一瞬答えに詰まった。

 それから、困ったように笑った。


「休ませる余裕なんてありませんよ」


 福島に向けて言った言葉が、そのまま冬木の生活へ戻ってきた。

 使わないわけにもいかない。


 宮本は、机の上の袋と、冬木の指を交互に見た。

 関節を守る持ち方を、冬木は理解している。

 ここではできる。


 だが、家事や仕事の中では続かない。

 手の使い方だけの問題ではなかった。


 使わなければ終わらない仕事があり、急がなければ回らない時間がある。

 外来の机の上だけでは、その量も、速さも、見えてこない。


 宮本が口を開いた。


「一度、ご自宅を見せてもらえませんか」


 冬木は顔を上げた。


「家を、ですか」


「ええ」


「でも、家では特別なことは……」


 宮本は冬木の手を見たまま言った。


「ここでできても、家で続けられなければ意味がありません」


 冬木は黙った。


「家で、どう手を使っているのか確認したいです」


 窓の外が暗くなっていた。

 先ほどまで差していた午後の光はなく、空には低い雲が広がっている。


 冬木は膝の上で両手を重ねた。


「散らかっていますよ」


 宮本は表情を変えなかった。


「構いません」


 冬木は少しだけ笑った。


 しばらく迷ったあと、うなずいた。


「……分かりました」


 作業療法室には、少しずつ音が戻ってきていた。


 椅子を動かす音。

 記録用紙をめくる音。

 遠くで誰かが名前を呼ぶ声。


 それでも、先ほど机を打った音だけは、まだ室内のどこかに残っているようだった。


 冬木は窓の外を見た。

 ガラスに、小さな水滴がひとつついた。

 少し遅れて、もうひとつ。


 雨が降り始めていた。


 ――第3話 終


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