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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 響きあう音

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第2話 不協和音

 福島忠男の右手は、思ったようには変わらなかった。


 ギプスが外れてから数日が経っている。

 最初に比べれば、わずかに動く範囲は広がっているようにも見えた。


 だが、それは國井が記録用紙の数字を見比べて、ようやく拾える程度の変化だった。


 手首の背屈。

 掌屈。

 前腕の回内・回外。

 手指の屈伸。


 どれも少しずつ確認している。

 痛みの出方も、毎回聞いている。

 浮腫も、熱感も、皮膚の色も見ている。


 それでも、福島の右手は、いつも同じところで止まった。


「ここはどうですか」


 國井が手首を支えながら尋ねると、福島は少しだけ眉を寄せた。


「……少し、痛いです」


「十段階でいうと」


 福島は一拍置いた。


「三、くらいです」


 また、三だった。


 里奈は、國井の斜め後ろでメモ帳を開いていた。

 ペン先は紙に触れている。

 だが、すぐには書けなかった。


 福島の声は落ち着いている。

 表情も崩れていない。

 だが、右手を動かされるたびに、肩がわずかに上がる。

 息も、ところどころ止まる。


 三。


 その数字だけが、福島の身体から少し浮いているように見えた。


 國井は、福島の右手をそっと机に戻した。


「今日は、少し量を調整しましょう。腫れと熱感がまだ残っていますから、無理に動かすより、手指の軽い運動を中心にします」


「はい」


 福島はすぐに答えた。


 返事は素直だった。

 だが、その右手は机の上で固まっている。

 動かすことをためらっているのか、動かせないのか、國井にはすぐに分からなかった。


「福島さん、リハの時間以外で痛みは強くないですか」


「え、そんなに痛くないですよ」


 福島は答えた。


「そうですか。痛みが強く残るようなら、言ってください」


「分かっています。でも、動かさないと良くならないからね」


 返事は早かった。


 國井は、そこで少しだけ違和感を覚えた。

 分かっている、という言葉が、理解ではなく、話を終わらせるために置かれたように聞こえた。


 リハビリの時間が終わると、福島は右手を膝の上に乗せた。

 その動作は、前よりも丁寧になっている。

 丁寧というより、刺激を避けるような動きだった。


「とにかく、無理はしないようにしてください」


「ええ」


 福島は立ち上がった。


「ありがとうございました」


 礼はいつもと同じだった。

 だが、声の端に、わずかに硬いものが混じっていた。



 その日の夕方、里奈は病棟へ書類を届けに行った。


 廊下は、リハビリテーション室よりも少し静かだった。

 夕食前の時間で、ナースステーションには人の出入りがある。

 配膳車の金属音が遠くで鳴り、誰かのテレビの音が病室の扉越しに漏れていた。


 福島の病室の前を通りかかったとき、里奈は足を止めた。


 カーテンの隙間から、福島の姿が見えた。


 ベッドの上で、福島は右手を膝に置いていた。

 左手で右手首を支え、指を一本ずつ曲げようとしている。


 ゆっくりと曲げる。

 途中で止まる。

 もう一度、曲げる。


 福島の肩が上がった。

 顔は下を向いている。

 奥歯を噛んでいるのが分かった。


 右手の指は、思うようには曲がらない。

 それでも福島は、何度も動かそうとした。


 左手がシーツを握っている。

 白い布に、指の跡が残るほど強く。


 里奈は、声をかけるか迷った。


 見てはいけないものを見てしまったような気がした。

 けれど、そのまま通り過ぎることもできなかった。


「福島さん」


 小さく声をかけると、福島ははっと顔を上げた。

 すぐに右手を膝の上に置き直し、笑った。


「三好さん。どうしました」


「すみません。通りかかったら……」


 里奈は、言葉を探した。


「痛み、強くないですか」


 福島は首を横に振った。


「大丈夫です」


 少し間を置いてから、いつものように言った。


「このくらい、どうってことない」


 里奈は、何も返せなかった。


 福島は笑っている。

 だが、その額には薄く汗がにじんでいた。


「早く戻さないといけないんです」


 福島は、右手を見ながら言った。


「店を閉めっぱなしにするわけにもいきませんから」


 その声は穏やかだった。

 穏やかだからこそ、里奈は何を言えばいいのか分からなかった。


 リハビリ室へ戻ったあと、里奈は、福島が病室で何度も指を動かしていたことを國井に伝えた。



 翌日の作業療法で、國井は訓練を始める前に福島へ向き直った。


「福島さん」


「はい」


「病室で、かなり自主訓練をされているのですか」


 福島の表情が、わずかに止まった。


 里奈は、國井の後ろでメモ帳を握り直した。


「過度に動かすと、かえって悪化してしまうことがあります。今はまだ腫れがありますので、無理はしないでください」


 國井はできるだけ穏やかに言った。


 説明としては、間違っていない。

 むしろ、今の福島には必要なことだった。


 右手を見たまま黙っていた福島が口を開いた。


「でも」


 声は低かった。


「動かさないと、良くならないんですよね」


 國井は一瞬、言葉に詰まった。


「動かすことは必要です。ただ、今は――」


「先生、最初はそう言いましたよね」


 福島は顔を上げた。


 怒鳴ってはいない。

 表情も大きく崩れてはいない。


 だが、目の奥だけが赤くなっていた。


「痛みを避けすぎると、動かせる範囲が狭くなるって」


 國井は、その言葉を覚えていた。

 自分が言った言葉だった。


「はい。言いました」


「じゃあ、どうしたらいいんですか」


 福島の右手が、机の上でわずかに震えた。


「動かせば痛い。動かさなければ戻らない。やりすぎるなと言われる。でも、店は待ってくれないんです」


 里奈は、ペンを動かせなかった。


 國井は福島の手を見た。

 腫れた指。

 赤く熱を帯びた皮膚。


「やり方を、少し考えます」


 國井は言った。


「考える?」


「今の状態を見ながら、負担が少ない方法に調整します」


 福島は、わずかに口元を歪めた。


「それで、良くなるんですか」


 國井は、すぐに答えられなかった。


 良くなる。

 その言葉を、簡単に使えなくなっていた。



 同じ日の午後、外来の時間帯に、一人の女性が作業療法室へ入ってきた。


 冬木聡美、四十四歳。

 関節リウマチで、手の使いづらさが増えてきたと紹介された患者だった。


 受付票を手に、少し慎重な足取りで歩いている。

 髪は後ろでまとめられ、薄い色のカーディガンを羽織っていた。

 表情は落ち着いている。

 だが、両手は胸の前で軽く重ねられていた。


 その指は、大きく変形していた。

 関節は腫れ、いくつかの指はまっすぐには伸びない。

 手を握ろうとしても、指は途中で止まった。


「冬木さんですね」


 宮本が声をかけた。


「はい。よろしくお願いします」


 冬木は小さく頭を下げた。


 國井は、福島の記録を書きながら、その声を聞いていた。

 宮本が新患を担当するらしい。


 宮本は、いつものように余計なことは言わなかった。

 冬木の指の腫れと動きを確認すると、机の上に瓶を置いた。


 冬木は自然に右手を伸ばし、親指と人差し指に力を入れようとした。


「待ってください」


 宮本が止めた。


 冬木の手が空中で止まる。


「その持ち方は、指に負担がかかります」


「でも、ずっとこれでやってきました」


「だから、変えます」


 短い言葉だった。

 冬木は少し驚いたように宮本を見た。


 宮本は、瓶の下に滑り止めを敷き、手のひら全体を使える位置を示した。


「関節リウマチでは、痛いところを鍛えて戻す、という考え方だけではうまくいきません」


 國井のペンが止まった。


 宮本の声は大きくない。

 だが、はっきり聞こえた。


「関節に負担をかける使い方を続けると、痛みや変形が進みます」


 冬木は黙って聞いていた。


「手を使わないようにするのではありません。負担の少ない使い方に変えます」


「負担の少ない使い方……」


「関節保護法です」


 宮本はそう言って、瓶の向きを少し変えた。


「今日は、開ける練習ではありません」


 冬木が小さく笑った。


「では、何の練習ですか」


「開け方を変える練習です」


 國井は、記録用紙に視線を戻した。


 福島の手。

 冬木の手。


 良くなるために動かす手。

 守りながら使い続ける手。


 同じ作業療法室の中で、まったく違う時間が流れていた。

 國井は福島の記録を見つめたまま、しばらく動けなかった。


「宮本さん」


 冬木の評価が終わり、宮本が記録をまとめているところへ、國井は意を決して声をかけた。


「少しいいですか」


 宮本は顔を上げた。


「はい」


「福島さんの経過なのですが」


 國井は、自分の声が少し硬いことに気づいた。


「骨折後として、少し違う気がします」


 宮本は、すぐには答えなかった。


「どこが違いますか」


 國井は記録用紙を見た。


「浮腫と熱感が引かず、可動域があまり改善しません。疼痛の訴えはそれほどではないのですが……」


 言葉にしていくと、違和感は少しずつ形を持ちはじめた。


「訓練後も、自分でかなり動かしているようです」


 宮本は、ペンを置いて聞いていた。


「浮腫と熱感は、むしろ悪化しています。皮膚の赤みも、動きの硬さもあります」


「それを、どう見ていますか」


 國井は少し黙った。


「骨折後の炎症と、固定後の拘縮だと……」


「それで全部、説明できますか」


 國井は、もう一度記録用紙を見た。


 項目ひとつずつなら、説明できる。

 だが、全部を並べると、どこか合わない。


「……つながらないです」


 宮本は、そこで初めて小さくうなずいた。


「骨折だけで説明しきれない時は、別の反応として見る必要があります」


 國井は、もう一度福島の右手を思い出した。


 骨折のあとに、まれに起こる経過。

 痛みだけではなく、腫れも、熱も、皮膚の色も、動きの硬さも巻き込んでいくもの。


 國井は、その名前を思い出した。


「……CRPS」


 宮本は何も言わなかった。


 肯定もしない。

 否定もしない。


 國井は記録用紙を握った。


「主治医に確認します」


「その方がいいです」


 國井はその日のうちに福島の主治医へ報告した。

 主治医も、複合性局所疼痛症候群(CRPS)の可能性を否定しなかった。



 翌日から、國井は福島への介入を組み替えた。


 國井は、机の上に柔らかい布を置いた。


「今日は、ここからです」


 福島は布を見た。


「これに触るんですか」


「はい。強い動きより、まずは刺激に慣らしていきます」


「……これで、仕事に戻れるんですか」


 福島の声は平坦だった。


 國井は痛みを感じる仕組みが過敏になっている可能性について説明した。


 無理に動かすと、かえって反応が強くなること。

 まずは触れること、置くこと、軽い動きから始めること。


 説明は、以前より丁寧だった。

 専門用語を避け、福島の仕事に結びつくように言葉を選んだ。


 だが、福島の表情は変わらなかった。


「最初と、言っていることが違いますね」


 國井は息を止めた。

 福島はすぐに視線を落とした。


「すみません。先生が悪いと言っているわけじゃないです」


 その謝罪が、かえって國井の胸に残った。


 布、スポンジ、机の面。

 國井は刺激の種類や時間を変え、翌日の反応を確かめた。

 浮腫への対応も、自動運動の量も見直した。


 だが、福島の熱感は引かなかった。

 福島は訓練には従ったが、次第に質問をしなくなった。



 ある日、リハビリ室を出たところで福島は里奈に声をかけた。


「三好さん」


「はい」


「國井先生って、結局どうしたいんですかね」


 里奈は、すぐには答えられなかった。

 福島は右手を胸の前で軽く支えていた。


「動かせと言われて、動かしていたら、今度は動かしすぎだと言われる。今度は布を触るだけです」


 笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「この右手は、元に戻るんでしょうか」


 里奈は、喉の奥が詰まるような感じがした。


 國井の説明が間違っていないことは分かる。

 福島の焦りも分かる。

 けれど、自分にはどちらにも答えられない。


「すみません」


 思わず、そう言った。

 福島は首を振った。


「三好さんが謝ることじゃないですよ」


 その言葉は優しかった。

 だが、その優しさのぶんだけ、里奈は苦しくなった。


 記録室に戻ると、國井は別の患者の記録を書いていた。


 福島の言葉が耳に残っていた。

 その向こうには、疲れた國井の背中がある。

 どちらを見ても、里奈には否定できるものがなかった。


「三好さん」


 声をかけられ、里奈は顔を上げた。

 宮本だった。


「はい」


「止まっていますね」


 里奈は、自分が記録用紙の前でペンを止めていたことに気づいた。


「……すみません」


「謝ることではありません」


 宮本はそれだけ言って、カルテ棚の方へ視線を移した。

 里奈は、迷いながら口を開いた。


「國井さんも、福島さんも、間違っていないと思うんです」


 宮本は、黙って聞いていた。


「國井さんは状態に合わせて訓練をしているし、福島さんも良くなろうと頑張っています。でも、良くならないんです」


 言葉にしても、答えにはならなかった。


「何が正しいのか、分からないです」


 宮本は、すぐには答えなかった。


「正しさより、今、どこでずれているかを見ます」


「ずれている、ですか」


 宮本は、カルテ棚から一冊のファイルを抜いた。


「身体と、本人と、こちらです」


 それだけ言うと、宮本はファイルを持って記録室を出ていった。

 里奈は、しばらくペン先を見ていた。


 福島の希望と焦り。

 國井の治療と説明。

 右手の腫れと痛み。


 それぞれがバラバラに主張しているようだった。

 里奈は、記録用紙に小さく書き足した。


 退院後の仕事復帰への焦りあり。

 自主訓練量と疼痛・腫脹反応のずれあり。

 説明内容への不安あり。


 それが正しい記録なのかは、まだ分からなかった。

 それでも、さっきよりは少しだけ、書く場所が見えた気がした。



 数日後、福島の退院が決まった。


 骨の癒合に問題ない。

 全身状態も安定している。

 外来でリハビリを継続する方針となった。


 退院前の最後の作業療法で、國井は福島に生活上の注意を説明した。


「退院後も、痛みが強くなる作業は避けてください」


 福島はうなずいた。


「はい」


「店の作業も、短時間から始めてください。いきなり右手に負担がかかるのは避けた方がいいです」


「分かりました」


「外来で、反応を見ながら段階を決めましょう」


「はい」


 返事は丁寧だった。

 だが、國井は分かっていた。


 届いていない。


 説明を重ねれば重ねるほど、福島との間に透明な板が一枚ずつ増えていくようだった。


「福島さん」


 國井は言葉を探した。


「焦るお気持ちは分かります。ただ――」


「大丈夫です」


 福島は、静かに遮った。


「気をつけます」


 それ以上の言葉はなかった。


 國井は、退院時の自主訓練表を渡した。

 福島は左手でそれを受け取った。


 右手は、胸の前で軽く支えられていた。


「お世話になりました」


 福島は頭を下げた。

 國井も頭を下げた。


「外来でお待ちしています」


 福島は、わずかに笑った。

 その笑みは、リハビリが始まったころのものとは違っていた。


 福島が去ったあと、作業療法室には、いつもの音が戻っていた。

 ペグを差す音。

 椅子を引く音。

 誰かが笑う声。


 けれど、國井には、そのどれも少しずつ合っていないように聞こえた。



 退院した翌日の夕方、福島は店の鍵を開けた。


 駅前通りの外れにある、小さな楽器店だった。

 看板は少し古いが、手入れはされている。

 ガラス扉の向こうには、ギターや譜面台、管楽器のケースが並んでいる。


 福島は照明をつけた。

 蛍光灯が一度だけ瞬き、棚の楽器を照らす。


 カウンターの奥には、修理を待つギターが置いてあった。

 常連客から預かったものだった。

 弦交換と、簡単な調整。

 以前なら、十分もかからない作業だった。


 福島は椅子に座り、工具箱を開ける。


 左手でギターのネックを支え、右手を工具へ伸ばす。

 指先が、六角レンチに触れた。


 その瞬間、手の甲から手首にかけて、熱いものが走った。


 福島は息を止めた。

 工具はまだ、机の上にある。

 ただ触れただけだった。


 もう一度、指を寄せて、つまもうとする。

 親指と人差し指の距離が、うまく決まらない。


 左手で補おうとした。

 ギターがわずかに傾く。

 慌てて右手を添えようとして、指が工具に引っかかった。


 六角レンチが机の端を滑った。


 カラン。


 床に落ちた音が、店の中に響いた。


 福島は、右手を見た。


 腫れはまだ残っている。

 皮膚は赤く、熱を持っている。

 指は、思うようには曲がらない。


「……なんだよ」


 声は小さかった。


 福島は、右手を膝の上に置いた。

 何もしていないのに、その手は熱を持っていた。


 店の奥には、修理を待つ楽器が並んでいる。

 どれも、まだ音を出していない。


 福島は、床に落ちた六角レンチを見たまま、静かに涙を流した。

 声は出なかった。


 六角レンチは、蛍光灯の下に転がったままだった。


 ――第2話 終


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