第1話 旋律
廊下の向こうから、かすかなピアノの音が聞こえていた。
ひとつ鳴って、消える。
また少し遅れて、次の音が落ちる。
國井翔太は一度だけ歩みを緩めた。
誰が弾いているのかは分からない。
病院の外なのか、どこかの部屋なのか、それさえ曖昧だった。
けれど、その音は、リハビリテーション室へ向かう廊下の途中で、車いすのタイヤが床を擦る音に紛れていった。
ストレッチャーを押す音。
ナースコールの短い電子音。
受付が名前を呼ぶ声。
ナースシューズの底が床を踏む音。
國井は、その音の中を歩いていた。
入職して三年目の秋。
白いケーシーは、もう身体に馴染んでいる。
ポケットに入れたメモ帳の位置も、ペンの重さも、ほとんど意識しない。
新人のころのように、廊下を歩くだけで肩に力が入ることはなくなった。
患者の前で声が上ずることも少ない。
評価も、訓練も、説明も、自分の中で少しずつ形になってきている。
ただ、この秋からひとつ、変わったことがあった。
「國井さん」
作業療法室の入口で声をかけられ、國井は振り返った。
三好里奈だった。
白いケーシーはまだ新しく、袖口にも襟元にも、どこか硬さが残っている。
上着のポケットには検査道具がいくつも詰め込まれ、学生らしさが残っている。
この春に入職した一年目の作業療法士だった。
「福島さんの評価、同席してもいいですか」
里奈は、両手で小さなメモ帳を持っていた。
表紙の角が少しだけ折れている。
この半年で、何度も開かれ、閉じられてきた跡だった。
國井はうなずいた。
「いいよ。まずは流れを見ていて」
そう言ってから、國井は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
教えられる側ではなく、教える側になった。
そのことは、國井の中に小さな緊張と、同じくらいの手応えを生んでいた。
里奈は、学生のころ、この病院で実習をしていた。
そのとき宮本の担当場面を見て、ここで働きたいと思ったのだと、一度だけ話したことがある。
「宮本先生の作業療法が、忘れられなくて」
その言葉を聞いたとき、國井は少し意外に思った。
宮本の作業療法。
それは、國井にとっても、まだ掴みきれないものだった。
技術も知識も経験もある。
けれど、多くを語らない。
誰に対しても励まさないし、簡単に褒めない。
患者や家族にも、曖昧な希望を渡さない。
その距離が、國井にはときどき冷たく見えた。
里奈も、おそらく知識や技術に憧れたわけではなかった。
入職して半年。
毎日の記録、評価、訓練、申し送り。
覚えることは山ほどある。
宮本の作業療法が何だったのかを考えるより前に、目の前の業務に追われていく。
里奈はそういう時期にいた。
だからこそ、國井はきちんと見せたかった。
作業療法士は、患者を良くする仕事だ。
失われた機能を少しでも取り戻し、生活の中で使えるようにしていく。
そのために評価し、説明し、訓練する。
宮本のようにはできない。
だが、するつもりもなかった。
患者にはわかりやすい説明が必要だ。
励ましや共感も必要だ。
そして、希望も必要だ。
少なくとも、國井はそう考えていた。
そして、それを里奈にも見せたいと思っていた。
作業療法室に入ると、午後の光が床に淡く落ちていた。
窓は少しだけ開いている。
カーテンが、風に小さく揺れている。
室内では、いくつかの机を挟んで患者とセラピストが向かい合っていた。
手指の訓練をする人。
箸を使う練習をする人。
車いすから椅子へ移る人。
そのひとつひとつが、音を持っていた。
木製ペグが台に触れる音。
マジックテープを剥がす音。
誰かが小さく息を吐く音。
その奥に、白いケーシーの男が立っていた。
宮本だった。
無精ひげは相変わらずで、髪も整っていない。
手には書類も器具も持っていない。
ただ、壁際に立っている。
國井が軽く会釈すると、宮本はわずかにうなずいた。
里奈も慌てて頭を下げる。
宮本はそれ以上何も言わなかった。
國井は視線を切り、担当患者の席へ向かった。
「お待たせしました」
机の前に座っていた男性が、顔を上げた。
「今日もよろしくお願いします」
福島忠男、五十二歳。
爪は、両手とも短く整えられていた。
指先には、細かい作業をしてきた人の癖が残っている。
仕事中に脚立から落ち、右手首を骨折した。
手術と固定を経て、数日前にギプスが外れたばかりだった。
右手首はまだ腫れている。
指も全体にむくみ、関節の動きは鈍い。
皮膚には少し赤みがあり、手を机の上に置く動作にもためらいがあった。
だが、福島の表情は明るかった。
「ギプスが外れたら、だいぶ楽になるかと思ったんですけどね」
苦笑しながら、福島は右手を少し持ち上げた。
「まだ、思うようには動きません」
「固定していた期間がありますから、最初はどうしても硬さが出ます」
國井は椅子に座り、福島の右手を支えた。
「今日も、手首と指の動き、痛みを確認していきます。三好さん、見ていて」
「はい」
里奈は國井の斜め後ろに立った。
メモ帳を開き、ペンを構える。
「触りますね」
國井は福島の右手に触れた。
「はい」
手首の周囲はまだ熱を持っている。
掌側にも背側にも、腫れが残っていた。
國井はそれを確認しながら、ゆっくりと手首を動かす。
「痛みが強くなるところで教えてください」
「分かりました」
福島の手首は、わずかにしか反らない。
曲げる動きも硬い。
指を握ろうとすると、途中で止まる。
「ここはどうですか」
「少し痛いです」
「十段階でいうと、どれくらいですか」
里奈は、その横で福島の右手を見ていた。
國井が支えている手は、動かされる前から少し強ばっていた。
指先は曲げようとしているのに、途中で止まる。
痛みを避けているのか、動かせないのか、里奈にはまだ分からなかった。
「三、くらいです」
福島の声は落ち着いていた。
けれど、國井が手首を支えるたび、指先だけがわずかに遅れた。
國井は記録用紙に数字を書いた。
里奈は何か言おうとして、やめた。
まだ、自分の違和感を言葉にする自信がないようだった。
國井は、福島の右手を支えたまま説明を続けた。
「痛みを避けすぎると、動かせる範囲が狭くなることがあります」
「はい」
「でも、無理に動かすと腫れや熱感が強くなることもあります。そこを見ながら進めます」
國井は福島の手首と指を確認していった。
手首も指も動きは鈍い。
それでも、まったく動かないわけではない。
「昨日より、動く範囲が少し広がっていますね」
國井が言うと、福島は少し息を吐いた。
「よかった」
その声には、安堵が混じっていた。
國井はうなずいた。
「段階を踏めば、動かせる範囲を増やしていけます」
戻る、と言ったつもりはなかった。
断言したつもりもない。
だが、福島の表情が少し明るくなった。
里奈は、その変化を見ていた。
「自営業だから」
福島は右手を見ながら言った。
「できるだけ早く戻りたいんです」
「たしか、楽器店でしたよね」
國井が尋ねると、福島はうなずいた。
「ええ。販売だけなら、片手でも何とかなると思うんです」
そこで言葉を切る。
「でも、修理やメンテナンスが難しい」
福島は右手を少しだけ動かそうとした。
指がぎこちなく曲がり、すぐに止まる。
「ギターの弦を張るのも、管楽器の細かい調整も、右手がないと話にならないんです」
國井は聞きながら、福島の右手を見る。
仕事に必要な動作は、いくつも浮かんだ。
つまむ。
押さえる。
回す。
支える。
細かい力を加える。
どれも今の福島には難しい。
「まだ、ギプスが外れたばかりですから、ここから反応を見ながら進めていきましょう」
國井は言った。
「骨の癒合は問題ないと聞いています。まずは腫れと痛みを見ながら、動かせる範囲を増やしていきましょう」
説明は自然に出てきた。
自分でも、悪くないと思った。
福島も真剣に聞いている。
里奈もメモを取っている。
國井は、記録用紙の端を指で押さえた。
訓練は丁寧に進んだ。
手首の自動運動。
指の屈伸。
浮腫を悪化させない範囲での軽い使用。
自宅で行う運動の回数と注意点。
福島はよく聞いた。
質問も的確だった。
「痛みが出ても、少しは動かしたほうがいいんですよね」
「痛みを無視して動かすのはよくありません。ただ、完全に使わない状態が続くのもよくないです。痛みが強く残るようなら、回数を減らしてください」
「分かりました」
福島はうなずいた。
そのうなずきが、少し強かった。
國井は続けた。
「目標は、仕事で使える手に戻していくことです。ただ、焦らずにいきましょう」
「はい」
福島は答えた。
その声は落ち着いていた。
だが、右手を見る目だけは、少し違っていた。
焦り。
期待。
不安。
その全部が、腫れた手の上に乗っているように見えた。
國井の斜め後ろで、里奈はペンを止めたまま、困惑したように手元のメモ帳を見つめていた。
しばらくして、訓練は終わった。
「今日はここまでにしましょう」
國井が言い、次回の予約を書き込むために記録用紙を手に取った。
その横で、福島が右手をそっと膝の上に戻す。
シャツの袖口が、手の甲に触れた。
その瞬間、福島の呼吸が一度だけ止まった。
國井は記録用紙に目を落としていた。
顔を上げていた里奈は、それを見ていた。
「ありがとうございました」
「夜に痛みが強くなるようなら、回数を減らしてください。次回、反応を見て調整します」
「分かりました」
福島はそう答えた。
声は落ち着いていた。
福島が作業療法室を出ていったあと、國井は記録用紙を見直した。
疼痛。
熱感。
腫脹。
可動域。
自主訓練の指導。
必要な項目は書けている。
見落としはないはずだった。
「國井さん」
里奈が小さく声をかけた。
「ん?」
「福島さん、痛み……本当に三くらいだったんでしょうか」
國井は記録用紙から顔を上げた。
里奈は少し迷ったように、メモ帳を握り直す。
「声は落ち着いていたんですけど……動かす前に、少し止まった気がして」
「右手が?」
「はい。あと、袖が触れたときも……一瞬だけ」
里奈はそこで言葉を探した。
「うまく言えないんですけど、痛いって言う前に、手のほうが避けていたように見えました」
國井は一瞬黙った。
その観察は悪くなかった。
ただ、まだ言葉にするには粗い。
「本人が三と言ったなら、まずはそれを基準にする」
國井はできるだけ穏やかに答えた。
ギプス固定を外した直後なら、痛みに敏感になり、動きを避けることはよくある。
段階を踏んで動かしていけば、良くなるはずだ。
國井には、その手応えがあった。
「ただ、痛みは数字だけじゃない。表情とか、呼吸とか、触られる前の手の動きも見る」
「はい」
「次回も確認しよう。腫れと熱感も、もう少し丁寧に見ておいた方がいい」
里奈はうなずいた。
納得したようにも見えたし、まだ何か引っかかっているようにも見えた。
少し離れた場所で、宮本が立っていた。
いつから見ていたのかは分からない。
福島の右手を見ていたのか。
國井の説明を聞いていたのか。
里奈の問いを拾っていたのか。
宮本は何も言わなかった。
ただ、福島が出ていった扉のほうを見ていた。
その視線は、福島の背中を追っているようには見えなかった。
作業療法室の奥で、誰かが金属製のペグを落とした。
乾いた音が、床に跳ねた。
その音はすぐに、室内のざわめきに紛れた。
けれど國井には、なぜか少しだけ耳に残った。
――第1話 終




