まだ知らない沈黙
初秋の午後、リハビリテーション室の窓は少しだけ開いていた。
夏の湿った空気はまだ残っている。
それでも、風の中には、季節がひとつ進んだ気配が混じっていた。
床を踏む音。
平行棒を握る手の音。
車いすのタイヤが床を擦る音。
誰かが小さく笑う声。
國井翔太は、その音の中で患者の手を支えていた。
「はい、そのままで大丈夫です。もう一度、同じようにやってみましょう」
向かいに座る六十代の男性が、ゆっくりと左手を動かす。
脳梗塞後、膝の上に置かれたままだった手は、今ではテーブルの上のタオルを少しずつ押せるようになっていた。
指はまだぎこちない。
肩には余計な力も入る。
それでも、動いている。
「……先生、これ、前より動いてますよね」
男性が、信じきれないような顔で言った。
國井はうなずいた。
「はい。動いています」
隣で見ていた妻が、口元を押さえた。
「よかったね」
その声を聞いたとき、國井は胸の奥に小さな手応えを感じた。
入職して三年目を過ぎた。
新人のころのように、声が上ずることはもうない。
評価も、訓練も、説明も、少しずつ自分のものになってきている。
できなかったことが、できるようになる。
動かなかった手が、動く。
立てなかった人が、立つ。
自分で食べられなかった人が、もう一度スプーンを持つ。
その変化を、國井は何度も見てきた。
患者を良くすること。
失われた機能を、少しでも取り戻すこと。
それが、自分の仕事だと思っていた。
そして、その考えは間違っていないとも思っていた。
「今日はここまでにしましょう」
訓練を終えた男性が、妻に車いすを押されて部屋を出ていく。
國井はその背中を見送った。
その視界の端に、白いケーシーの男が立っていた。
宮本だった。
無精ひげは相変わらずで、髪も整っていない。
手には書類も器具も持っていない。
ただ、そこに立っている。
國井が会釈すると、宮本はわずかにうなずいた。
それだけだった。
國井は、宮本が何も見ていないわけではないことを知っている。
患者の手だけではない。
姿勢、呼吸、視線、家族の立つ位置。
病室の椅子の向き。
宮本は、そういうものを見ている。
それは分かる。
以前よりは、分かるようになった。
だが、納得できるかどうかは別だった。
宮本は多くを語らない。
励まさない。
簡単に褒めない。
頑張ることすら、むやみに肯定しない。
患者が元に戻りたいと言っても、すぐには頷かない。
家族が良くなりますよねと尋ねても、曖昧な希望を渡さない。
冷たく見えることがある。
何もしていないように見えることさえある。
それなのに、宮本が関わった人は、いつの間にか少し違う場所に立っている。
元に戻ったわけではない。
病気が治ったわけでもない。
失われたものが、すべて返ってきたわけでもない。
それでも、その人の時間が、また動き始めることがある。
國井には、そこがまだ分からなかった。
そのとき、廊下のほうから小さな声が聞こえた。
外来ロビーだった。
リハビリテーション室の扉の向こうで、小さな女の子が床に座り込んでいる。
五歳くらいだろうか。
薄い桃色の服を着て、両手を床についたまま、驚いた顔で固まっていた。
女の子のそばには、潰れた紙風船が落ちていた。
転んだらしい。
宮本が先に動いた。
急いだようには見えなかった。
だが、気がつけば女の子の前にしゃがんでいた。
「立てますか」
低い声だった。
女の子は宮本を見上げる。
泣きそうな顔をしたが、泣かなかった。
宮本は手を出さずに待った。
女の子が自分で立ち上がろうとする。
けれど、膝に力が入りきらず、少しよろけた。
その瞬間だけ、宮本の手が女の子の背中に添えられた。
支えすぎない。
突き放しもしない。
倒れないために必要な分だけ、そこにある手だった。
「さくら、大丈夫?」
後ろから女性の声がした。
宮本の手が、女の子の背中に添えられたまま止まった。
ほんの一瞬だった。
女の子は、それに気づかない。
膝に力を入れ、自分で立ち上がろうとしている。
宮本は遅れて手を離した。
四十代くらいの女性が、ロビーの椅子から立ち上がって駆け寄ってくる。
足取りは急いでいるが、どこかぎこちない。
「転んじゃったの?」
女性が女の子の肩に触れようと、手を伸ばした。
その手指は、大きく変形していた。
関節が腫れ、指は曲がったまま伸びきらない。
女の子は首を振った。
「ころんでない」
どう見ても転んでいた。
だが、女性は笑わなかった。
「そっか」
そう言って、女の子の膝についた埃を払おうとした。
けれど、曲がった指ではうまく払えない。
宮本が、何も言わずに女の子の膝の埃を軽く払った。
「……さくら」
名前を確かめるような声だった。
女の子が顔を上げる。
「うん。さくらだよ」
女の子は、不思議そうに宮本を見た。
「おじさん、だれ?」
「こら、失礼でしょ」
女性が慌てる。
宮本は何も言わなかった。
ただ、床に落ちていた小さな紙風船を拾い上げた。
赤と白の紙が、少し潰れている。
宮本はそれを指先で静かに整えた。
紙がこすれる音が、かすかにした。
そして、女の子に差し出す。
「ありがとう」
女の子は両手で受け取った。
宮本は、その手が紙風船を掴むまで見ていた。
それから、ゆっくり立ち上がる。
いつもの宮本だった。
無精ひげで、表情は薄く、何を考えているのか分からない。
だが、國井には、その一瞬だけが引っかかった。
「知っている子ですか」
國井は、思わず聞いていた。
宮本は少し間を置いた。
「いえ」
それだけだった。
女性は女の子の手を引いて、ロビーの椅子へ戻っていく。
女の子は紙風船を胸に抱えたまま振り返った。
「ばいばい」
宮本は小さくうなずいた。
声は出さなかった。
國井は、宮本の横顔を見ていた。
患者を見る目でもない。
動作を評価する目でもない。
もっと遠いものを見ている目だった。
さくら。
名前は、ロビーのざわめきにすぐ紛れた。
それなのに、宮本だけが、その音を拾っていた。
リハビリテーション室の奥で、誰かが平行棒を握り直す音がした。
窓から入った風が、カーテンをわずかに揺らす。
いつもの午後だった。
けれど國井には、宮本の沈黙だけが、少し違って聞こえた。
國井はまだ知らなかった。
宮本が何を語らないのか。
そして、何を語れないのか。
窓の外から、どこかで弾かれるピアノの音がかすかに聞こえた。
――第2部 序章 終




