終話 語らない仕事
喫茶チェリーの窓には、夕方の光が薄く残っていた。
古いガラス越しに見える商店街は、もう人通りが少ない。
向かいの文房具店はシャッターを半分下ろし、通りの端では自転車のベルが一度だけ鳴った。
店内には、古い時計の音がしている。
カウンターの奥では、マスターが黙ってカップを洗っていた。
洗い場の水音と、換気扇の低い音だけが、静かに続いている。
宮本は、窓際の席に座っていた。
いつものように、白いケーシーの上に上着を羽織っている。
無精ひげは少し伸び、髪も整っていない。
目の前には、少し冷めかけたコーヒーがある。
湯気はもう弱い。
それでも宮本は、カップを手に取り、一口飲んだ。
苦い。
酸味も少し強い。
相変わらず、うまいとは言いにくい。
「今日も、まずそうに飲むね」
カウンターの横から、小金井実桜が言った。
車いすに座ったまま、伝票を数えている。
髪は肩のあたりで軽く結ばれ、膝の上には小さな電卓が乗っていた。
宮本はカップを置く。
「いつも通りです」
「味じゃなくて、顔の話」
小金井は電卓を置いて、宮本を見る。
「今日は、いつもより少し苦そう」
宮本は答えなかった。
小金井は、それ以上すぐには聞かなかった。
カウンターの上に伝票を重ね、端を揃える。
「病院?」
「ええ」
「患者さん?」
宮本は少しだけ間を置いた。
「家族の形が、少し変わった人がいました」
小金井は、それ以上の説明を待った。
宮本が患者の名前を出さないことを、小金井は知っている。
この店では、病院の話はときどき出る。
だが、名前や事情がそのまま出ることはない。
「車いすになった父親を、家族がどう見るかで、生活は変わります」
宮本は淡々と言った。
「本人が何をできるかだけではなくて」
小金井は少しだけ目を伏せた。
「周りが、何を見るか」
「はい」
「分かるよ」
小金井は、自分の車いすのリムに軽く触れた。
「本人より先に、周りの目の方が変わることあるから」
宮本はカップを見た。
「まだ、困ることは多いと思います」
「うん」
「仕事に戻れば、また傷つくかもしれない」
「うん」
「家でも、うまくいくことばかりではないと思います」
小金井は黙って聞いていた。
宮本が、こうして自分から言葉を続けるのは珍しかった。
「でも」
宮本は、そこで一度言葉を止めた。
「家族が、その人に残っているものを見られるなら」
カップの縁に、薄い光が乗っている。
「少しは、違うと思います」
小金井は小さくうなずいた。
「それは、大きいね」
奥で、マスターがカップを棚に戻す音がした。
「家族ってさ」
小金井はカウンターに肘をつく。
「近いから、見えないこともあるよね」
宮本は答えない。
「できなくなったところばっかり、先に見える。危ないとか、無理しないでとか、そういう言葉も、たぶん悪気じゃない」
「ええ」
「でも、言われる側は、しんどい」
宮本は、ゆっくりうなずいた。
「そうですね」
小金井は少し笑った。
「めずらしい。今日はよく話すね」
「そうですか」
「そうですか、じゃなくて」
そのとき、店のドアベルが鳴った。
古いガラス戸が開く。
夕方の空気が、少しだけ店内へ入ってきた。
入ってきた女性は、淡い色のコートを着ていた。
髪は肩の少し上で切り揃えられ、表情には疲れよりも芯の強さがあった。
篭原千都子だった。
小金井が顔を上げる。
「来た、元嫁」
篭原は入口で足を止めた。
「その呼び方、ほんとやめて」
「じゃあ、元奥さん」
「もっと嫌」
宮本は何も言わず、コーヒーを見ていた。
篭原はため息をつき、カウンター席に座る。
小金井がマスターの方へ顔を向けた。
「まずいの一つ追加」
奥から低い声がする。
「普通のコーヒーだ」
「うちではそういう名前なの」
篭原はコートを脱ぎながら、宮本を見た。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「相変わらず、他人行儀」
宮本は答えない。
小金井が篭原の前に水を置いた。
「今日は何の用?」
「近くまで来たから」
「それ、たいてい用がある人の言い方」
篭原は笑わなかった。
それでも、店の空気は少しだけやわらいだ。
マスターがコーヒーを置く。
篭原は一口飲み、眉を寄せた。
「相変わらずね」
「うまいだろ」
「何も言ってない」
「顔で言ってる」
小金井がくすりと笑った。
少しの沈黙のあと、篭原が宮本を見る。
「そういえば、田島さん」
宮本の指が、カップの近くでわずかに止まった。
「うちのデイケアで働き始めたよ」
「ええ、田島さんから聞いています」
宮本は短く答えた。
篭原は、その反応を見る。
「それだけ?」
「ええ」
「もうベテランのスタッフみたいに利用者さんの様子を見てる。杖の置き方とか、座りかたとか、やたら気づくの」
宮本は黙って聞いている。
「文句は多いけど、気配りだけはすごいのよね」
篭原はコーヒーを見た。
「あと、次の祭りはいつやるんだって、うるさいし」
宮本の顔が、ほんの少しだけ動いた。
「祭りですか」
「そう。自分が仕切る気でいる」
篭原は少し笑った。
「でも、そういう話をしてる時は、生き生きしているんだよね」
宮本は、しばらく黙っていた。
「よかったです」
「声に出すと、全然よかった感じがしない」
篭原が言うと、小金井が笑った。
宮本は答えなかった。
篭原は、今度は少し声を落とした。
「森先生のところも、落ち着いてる」
宮本が顔を上げる。
「元の診療所、デイホームになったでしょう」
「聞いています」
「近所のお年寄りが来てる。昔、あそこで診てもらってた人たち」
篭原はカップを両手で包んだ。
「森先生も、娘さんとそこにいる」
篭原は続けた。
「でもね、今でも聞くみたいなのよ」
「何をですか」
宮本が尋ねた。
篭原は、宮本の方を見た。
「眠れてますか、って」
店内が少し静かになった。
マスターの洗い物の音も、いつの間にか止まっていた。
「診察をしているわけじゃないけど」
篭原は言う。
「でも、評判がいいみたいよ」
宮本は黙っていた。
篭原は、少しだけ息を吐いた。
「森先生は、まだ先生なのかもしれない」
宮本は、静かに言った。
「そうですか」
篭原は眉を寄せた。
「また、それ」
「え」
「そうですか、って」
宮本はカップを見た。
篭原は、少し苛立ったように言う。
「あなたが関わった人たちの話をしてるのに」
宮本はすぐには答えなかった。
「私が続ける仕事ではありません」
篭原の表情が変わる。
「田島さんの生活で、森先生の生活です」
宮本は淡々と続けた。
「私のものではありません」
篭原は黙った。
小金井が、カウンターの上の伝票を指で揃えた。
「そういえば、前に写真見たよね。車いすで舞台に出てた人」
篭原が顔を上げる。
「車いすで、日本舞踊?」
「うん。片手で扇子持ってた」
「……できるものなの?」
「分かんない。でも、きれいだった」
宮本は短く言った。
「菊川さんが、やったことです」
「あなたは?」
「扇子を返しただけです」
篭原はあきれたように息を吐いた。
「それを、大事なことって言うんじゃないの」
宮本は答えなかった。
やがて篭原が言った。
「ほんと、そういうところ」
宮本は少しだけ視線を上げる。
「そういうところ、ですか」
「自分のことみたいに言わないところ」
篭原の返事は早かった。
「関わるところまで関わって、必要がなくなったら下がる。患者さんが歩き出したら、もう自分はそこにいないみたいな顔をする」
宮本は答えない。
「でも」
篭原は、カップを置いた。
「それで助かる人がいるのも、分かってる」
小金井が、二人を見比べた。
篭原は続ける。
「分かってるから、腹が立つの」
宮本は何も言わなかった。
代わりに、小金井が口を開いた。
「冷たく見える時はあるよ」
篭原が小金井を見る。
「実桜」
「でも、冷たいだけじゃない」
小金井は、自分の膝に置いた手を見た。
車いすのフレームに、指先が軽く触れている。
「私がこうしてここで働けてるのも、二人のおかげなんだから」
宮本が、ほんの少しだけ顔を上げた。
小金井は、笑ってみせた。
「私が全身性エリテマトーデスで入院したときもさ」
奥で、マスターの手が止まった。
「足に力が入らなくなって、もう家の中でも邪魔になるだけだと思ってた」
篭原は何も言わない。
「そのときも、二人とも優しくなかったよ」
「ひどい言い方」
篭原が小さく言う。
「本当でしょ」
小金井は少し肩をすくめた。
「できないことを慰めるんじゃなくて、ここで何ができるかを見てくれた」
宮本は黙っている。
「千都子は、何回も怒ってくれた。私が勝手に諦めようとすると、ちゃんと怒った」
篭原は視線を逸らす。
「怒ってない」
「怒ってた」
小金井は次に、宮本を見る。
「宮本さんは、何も言わなかった」
宮本は答えない。
「でも、車いすの向きとか、カウンターの高さとか、トレーの持ち方とか、黙って変えていった」
小金井はカウンターを軽く叩いた。
「だから今、私はここでコーヒーを運んでる」
少し間を置いて、つけ足す。
「まずいけど」
奥から、マスターの低い声がした。
「帰ってきただけで、十分だった」
店内が、ほんの少しだけ静かになる。
小金井は振り返った。
「パパ、そういうの、急に言わないでよ」
マスターはカップを手に取り、洗い場へ向かう。
「あと、まずいは余計だ」
「そっちは余計じゃない」
「余計だ」
篭原が小さく笑った。
少しだけ、空気が戻る。
小金井は二人を見た。
「だからさ」
篭原が嫌な予感をしたように眉を上げる。
「そこまで分かってるなら、もう一回一緒にやればいいのに」
篭原の動きが止まった。
宮本も、カップに手を伸ばしたまま止まる。
小金井は、少しだけ目を細めた。
篭原が言う。
「仕事の話?」
小金井は笑った。
「さあ」
沈黙が落ちた。
古い時計の音だけが聞こえる。
奥で、マスターがカップを置く音がした。
篭原は、すぐには笑わなかった。
宮本も、何も言わなかった。
小金井は、その空気を見て、少しだけ口元を引っ込めた。
「……冗談」
篭原は、短く息を吐く。
「冗談に聞こえるように言いなさいよ」
「難しいね」
「実桜は昔からそう」
「そこは変わらない」
宮本は、冷めかけたコーヒーを見ていた。
篭原が言う。
「変わらないものって、面倒だね」
小金井が返す。
「変わったものも、面倒だよ」
篭原は何も言わなかった。
しばらくして、小金井がカウンターに肘をついた。
「でも、どっちも残るんでしょ」
宮本が、ゆっくり顔を上げる。
小金井は宮本を見ていた。
「形が変わっても」
小金井は、カウンターの縁を指で叩いた。
「残るものって、あるんでしょ」
宮本は、すぐには答えなかった。
篭原も、小金井も、急かさない。
喫茶チェリーの中に、夕方の光が薄く残っている。
窓の外では、商店街の街灯が一つずつ灯り始めていた。
宮本はカップを持ち上げた。
「あります」
それだけ言った。
篭原は、何か言いかけてやめた。
小金井は少し笑う。
「じゃあ、もう一杯?」
宮本はカップの中を見た。
「まだ残っています」
「冷めてるよ」
「分かっています」
篭原がコーヒーを一口飲む。
「冷めると、もっとまずい」
奥からマスターが言う。
「聞こえてるぞ」
小金井が返す。
「聞こえるように言ってる」
篭原が少し笑う。
宮本は、何も言わなかった。
田島光太郎は、デイケアの玄関で、杖の向きを直している。
その口は、次の祭りの話をしている。
森先生は、かつての診療所で、誰かに尋ねている。
眠れてますか、と。
菊川よし恵は、車いすの上で扇を開いている。
弟子たちは、その間を見ている。
黒川正利は、家族と一緒に、町の地図を見ている。
小金井美桜は、この店で、まずいコーヒーを運んでいる。
そのどの場所にも、宮本はいない。
宮本は何も言わず、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
――語らない仕事 終




