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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第5章 語らない仕事

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第6話 家族のかたち

 デイルームの窓際に、長い机が置かれていた。


 午後の光は少し弱く、窓の外の空は白く曇っている。

 病棟の廊下からは、車いすのタイヤが床をこする音と、遠くのナースコールがかすかに聞こえた。


 机の上には、町内地図のコピーが広げられていた。


 学校から配られた自由課題のプリント。

 赤と青の色鉛筆。

 のり。

 はさみ。

 小さな丸いシール。

 まだ何も貼られていない画用紙。


 黒川正利は、車いすに座っていた。


 右腕はまだ固定されている。

 肩から肘にかけて、胸の前で支えられている。

 もう片方の手も、細かいものを扱うには頼りない。


 それでも今日は、ベッドではなかった。


 机をはさんで、孝弘が地図をのぞき込んでいる。

 その横で、綾音がシールを色ごとに分けていた。

 由美は黒川の少し後ろに立ち、地図とプリントを見比べている。


「ここ、写真いるよね」


 孝弘が地図の一点を指した。


 黒川は少し身を乗り出すようにして、地図を見る。


「いるね」


 その返事は短かった。

 けれど、前のように遠くへ落ちていく声ではなかった。


 孝弘が顔を上げる。


「どこから撮ればいい?」


「歩道側だけじゃ足りない」


「え?」


「車から見える感じと、歩いてる人から見える感じは違う」


 孝弘は地図を見直した。


「じゃあ、車の方からも?」


「本当はね。でも車道に出るのは危ないから、車が来る方向を撮ればいいよ」


「そっか」


 孝弘は鉛筆で小さく印をつけた。


 由美が少し驚いたように、黒川を見る。


「じゃあ、写真、撮りに行く?」


 その言葉で、机の周りが少しだけ静かになった。


 孝弘の手が止まる。

 綾音も、シールを持ったまま顔を上げた。


 孝弘が黒川を見る。


「パパも行こう」


 黒川はすぐには答えなかった。


 地図の上の交差点。

 そこに引かれた細い道路。

 信号の記号。

 横断歩道。


 ただの線のはずなのに、黒川には雨の音が重なった。


 黄色い傘。

 濡れたアスファルト。

 手が離れた感覚。

 ブレーキの音。


 由美が何か言いかける。


「無理なら――」


 そこで、言葉を止めた。


 黒川は由美を見た。

 由美は口を閉じたまま、黒川の返事を待っている。


 黒川は、もう一度地図を見た。


「……行けるなら」


 孝弘の顔が少し動いた。


「行く?」


「見るなら、昼間がいい」


 黒川はゆっくり言った。


「雨の日じゃなくても、危ないところは分かる」


 孝弘はうなずいた。


「じゃあ、写真撮る」


「撮るなら、横からも撮ったほうがいい」


「横?」


「段差は正面からだと分かりにくい」


「段差も書くの?」


「書いた方がいい。車いすだと、小さい段差でも引っかかるね」


 黒川は自分の足元を見た。


「歩いていたときは、気にしなかったけど」


 その言葉に、由美の表情がわずかに変わった。

 孝弘は、地図にもう一つ印をつけた。


「じゃあ、ここも撮る」


 横から、綾音が手を上げた。


「綾音も写真撮る!」


 孝弘が少し笑った。


「ぶれないようにしてよ」


「ぶれないもん」


 綾音は胸の前で小さな拳を作った。


 黒川が、ほんの少し笑った。


 その笑いは、弱かった。

 けれど確かに、家族の会話の中にあった。



 デイルームの入口から、三好里奈はその様子を見ていた。


 隣には宮本が立っている。


 宮本はデイルームへ入らなかった。

 家族の机へ近づくこともない。

 声をかけることもない。


 少し離れた廊下の端から、ただ見ている。

 里奈も、それに合わせるように立ち止まっていた。


 宮本が、低い声で言った。


「三好さん」


「はい」


「どう見えますか」


 里奈はすぐに答えられなかった。


 安全マップを作っている。

 外出の相談をしている。

 家族で課題に取り組んでいる。


 どれも間違いではない。

 けれど、それだけではない気がした。


 里奈はもう一度、デイルームの机を見る。


 黒川は、孝弘に何かを説明していた。

 孝弘はそれを聞いて、地図に線を書いている。

 綾音は赤いシールを黒川の近くに置いた。

 由美は黒川の言葉を遮らず、必要なときだけ地図を押さえている。


「黒川さんが……」


 里奈は言葉を探した。


「家族と、普通に話しています」


 宮本は何も言わない。


「前は、由美さんが支えている感じでした。孝弘くんも、黒川さんを見るのが怖いように見えました」


 里奈は続ける。


「でも今は……黒川さんが、家族の中にいるように見えます」


 宮本は、デイルームの方を見たまま小さくうなずいた。


「そうですね」


 少し間が空いた。


「あれが、今の黒川さんたちの家族の形かもしれません」


 里奈は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 家族の形。


 黒川は事故の前の身体に戻ったわけではない。

 腕は固定され、車いすに座っている。

 外出にも誰かの手がいる。


 それでも、机の上の地図を見ている黒川は、家族の中で何かを担っていた。


 里奈は、作業という言葉を思い出した。


 箸を持つこと。

 更衣動作。

 トイレ動作。

 調理練習。


 そして今、目の前にあるものも、たぶんそうだった。


 安全マップを作ること。

 家族と話すこと。

 行くかどうかを一緒に考えること。

 誰かに質問され、答えること。


 里奈は何かを言いかけた。


「作業療法って……」


 宮本は答えなかった。


 ただ、短く言った。


「見ていてください」


 その声は、いつもと同じだった。

 答えを渡す声ではなかった。



 その日の外出は、短い時間で終わった。


 由美が車を出した。

 孝弘が車いすの後ろに立った。

 綾音は首からカメラを下げていた。

 黒川は交差点の前で、一度だけ長く黙った。


 それから、車道の方を見て言った。


「少し、右から見よう」


 その場に宮本はいなかった。

 里奈は、そのことを意外に思わなくなっていた。



 翌日、黒川は病室で車いすに座っていた。


 宮本は黒川の肩の位置と体幹の傾きを確認している。

 里奈は少し後ろに立ち、メモ帳を持っていた。


「疲れは残っていますか」


「少し」


「痛みは」


「大丈夫です」


 宮本はうなずき、車いすの背もたれと黒川の肩甲帯の位置を確認した。


 黒川が、ぽつりと言った。


「まだ、外は怖かったですね」


 宮本は手を止めなかった。


「そうですか」


 黒川の声は落ち着いていた。

 だが、軽い言葉ではなかった。


「やっぱり、思い出しました。事故の日のことを」


 病室の空気が少し重くなる。

 宮本は何も言わない。


「でも」


 黒川は続けた。


「孝弘が後ろにいました」


 少しだけ、表情が変わる。


「由美が車を出して、綾音が写真を撮って」


 そこで、ほんの少し笑った。


「けっこう、ブレてましたけど」


 里奈は思わず口元を緩めた。

 黒川も、綾音の姿を思い出しているようだった。


「私は、見ていただけなんです」


 黒川はそう言った。


「でも、見えたんです」


 宮本の手が、そこで一度だけ止まった。


「孝弘の課題で見に行って、車いすだから見えることがあるんだと思いました」


 声は静かだった。

 黒川は、自分の膝の上に目を落とした。


「でも、復職は、まだ怖いです」


 はっきりした声だった。


「また同じようになったら、たぶんきついです」


 宮本は励まさない。

 ただ、聞いている。


「でも」


 黒川は、少しだけ背を起こした。


「家族となら、今の自分でできることを、少し探せる気がします」


 宮本は短く言った。


「そうですか」


 それだけだった。

 だが、黒川はその返事で十分だったように、静かにうなずいた。



 さらに数日が過ぎた。


 黒川の右腕のギプスが外れた。


 外れた腕は、以前より細く見えた。

 皮膚は少し乾き、関節の周りには硬さが残っている。


 黒川はベッドの端に座り、宮本はその横に腰を下ろしていた。

 里奈は少し斜め後ろに立っている。


「手首、少し動かします」


 宮本が言う。

 黒川はうなずいた。


「痛かったら言ってください」


「はい」


 宮本は黒川の前腕を支え、ゆっくりと手関節を動かす。

 背屈。

 掌屈。

 回内。

 回外。


 動きは小さい。

 思うようにはいかない。


「ここは?」


「少し痛いです」


「では、ここまでにします」


 宮本は無理に動かさなかった。


 里奈は、その手元を見ていた。

 記録に書くべきことはいくつもあった。


 だが、里奈の意識は、別のところにも向いていた。


 そのとき、病室の引き戸が勢いよく開きかけて、途中で止まった。


「……入っていい?」


 孝弘の声だった。

 黒川が顔を上げる。


「いいよ」


 孝弘が病室に入ってきた。


 手には、大きな画用紙を持っている。

 端が少し丸まっていて、何度も開いた跡があった。


 その後ろから、由美と綾音も顔を出す。


「パパ」


 孝弘が画用紙を広げる。


「先生に褒められた」


 黒川は一瞬、何のことか分からない顔をした。


 孝弘が机の上に、安全マップを広げた。


 町内地図の上に、写真が何枚も貼ってある。

 赤い丸。

 青い矢印。

 歩道の段差を示す線。

 信号の位置。

 車の進む方向。


 ところどころに、綾音が貼ったらしい星形のシールが少し曲がってついている。


「ここ、綾音が貼ったのか」


 黒川が聞く。


 綾音が胸を張る。


「うん!」


 孝弘が小さく言う。


「ちょっとずれてるけど」


「ずれてないもん」


 綾音がむっとする。


 黒川は地図を見たまま、少し笑った。


「いいんじゃないか」


 綾音の顔が明るくなる。


 孝弘は、地図の一角を指した。


「ここ、発表で言った」


 黒川はそこを見る。

 事故のあった交差点だった。


 貼られた写真は、少し斜めだった。

 だが、歩道の狭さも、電柱の位置も、車道との距離も分かる。


 孝弘の字で、説明が書かれていた。


 雨の日は、傘で子どもが車から見えにくい。

 歩道がせまいので、車道側に出ないように注意する。

 車いすから見ると、段差が分かりにくいところがある。


 黒川は、その文字をしばらく見ていた。


 孝弘が言う。


「パパが教えてくれたって、言った」


 黒川は黙った。


 それは、何かを抱え込む沈黙ではなかった。

 渡されたものを、ゆっくり受け取るための沈黙だった。


 やがて、黒川は小さく言った。


「そうか」


 孝弘はうなずく。


「うん」


「ちゃんと言えたか」


「言えた」


 孝弘は少し照れたように視線を落とす。


「先生が、よく調べたねって」


 黒川は、もう一度安全マップを見た。


 赤い丸。

 青い矢印。

 ぶれた写真。

 少し曲がったシール。

 孝弘の字。

 由美が手伝ったらしい、小さく整った説明文。


 そこには、事故の前と同じ家族はなかった。

 けれど、今の黒川を含んだ家族があった。


 孝弘が地図をたたみかけて、ふと手を止めた。


「また、ほかの場所も見たい」


 黒川は孝弘を見る。


「ほかの場所?」


「うん。通学路とか。綾音の幼稚園の近くとか」


 綾音が横から言う。


「綾音も行く!」


 由美が苦笑する。


「まずは退院してからね」


 黒川は自分の右腕に視線を落とした。

 まだ硬い。

 痛みもある。

 できないことは、たぶんこれからもある。


 復職のことを考えると、胸の奥はまだ重くなる。


 だが、目の前には地図があった。

 孝弘がいる。

 由美がいる。

 綾音がいる。


 黒川は、孝弘に言った。


「そうだな」


 少し間を置く。


「退院したら、少しずつな」


 孝弘の顔が、ぱっと明るくなった。


「うん」


 宮本は何も言わなかった。

 黒川のそばから少しだけ身体を引き、家族の間に入らない位置にいる。

 里奈は、その横顔を見た。


 以前なら、何か言うべきだと思ったかもしれない。

 よかったですね。

 頑張りましたね。

 いい発表でしたね。


 だが今は、何も言わない方がいいと思った。


 この時間は、黒川と孝弘のものだった。

 医療者の言葉で、上書きしてはいけないものだった。



 病室を出たあと、廊下には夕方の光が薄く差していた。


 里奈はしばらく歩いてから、宮本に声をかけた。


「先生」


 宮本が足を止める。


「さっき、何も言わなかったんですね」


 宮本は少しだけ里奈を見た。


「言うことがありませんでした」


 里奈はうなずいた。


「黒川さんと孝弘くんで、話していました」


「はい」


 里奈は、少し考えてから言った。


「ああいう時間を残すことも、作業療法なんですね」


 宮本はすぐには答えなかった。

 廊下の奥で、誰かの病室の引き戸が閉まる音がした。


「そう見えましたか」


「はい」


 里奈ははっきり答えた。


 宮本は、小さくうなずいた。


「なら、記録に残してください」


 それだけ言って、歩き出した。


 里奈は、遠ざかるその背中を見送った。


 初めてこの病院に来た日、宮本の背中は何を考えているのか分からなかった。

 説明しない。

 答えをくれない。

 何も教えてくれない。


 今も、宮本は多くを語らない。

 けれど、里奈には少しだけ分かった気がした。



 その日の夜、里奈は実習記録を書いた。


 黒川さんは、事故前の身体に戻ったわけではない。

 復職への不安も残っている。

 しかし、安全マップを作る時間の中で、黒川さんは車いすの高さから町を見て、危険を見立て、家族に伝えていた。

 それは、今の黒川さんだからできる父親の姿だった。


 宮本先生は、ほとんど何もしなかった。

 デイルームでも、病室でも、必要以上に言葉を足さなかった。

 けれど、その沈黙があったから、黒川さんは自らの力で家族の中の居場所を見つけることができたのだと思う。


 里奈は、そこで一度ペンを止めた。


 窓の外は暗い。

 病棟のどこかで、夜勤の看護師の足音がした。


 少し迷ってから、最後の一文を書いた。


 私には、その何もしなかった時間が、いちばん作業療法に見えた。


 ――第6話 終


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