第5話 氷解
夕方のロビーは、昼間よりも少し広く見えた。
外来の受付はほとんど終わり、自動精算機の前に並ぶ人も少ない。
売店の明かりだけが、まだ白く残っている。
自動ドアが開くたび、外の冷えた空気が足元へ流れ込んだ。
宮本は、病棟へ戻る途中で足を止めた。
ロビーの端。
長椅子のいちばん隅に、孝弘が座っていた。
足元にはランドセル。
膝の上には、折れ目のついたプリントが一枚ある。
孝弘はそれを見ている。
読んでいるというより、見つめているだけだった。
里奈は、宮本の少し後ろでその姿に気づいた。
前に見たときと同じ場所。
同じように、病室から遠いところにいる。
けれど今日は、ただ沈んでいるだけではなかった。
膝の上のプリントを、両手で押さえている。
宮本は、すぐには近づかなかった。
一度、孝弘の様子を見てから、静かに歩いた。
「隣、いいですか」
孝弘は顔を上げた。
泣いてはいない。
だが、目の周りにはまだ前の名残のような赤さが残っていた。
「……うん」
宮本は、ひとつ席を空けて座った。
里奈は少し離れて立つ。
しばらく、ロビーの音だけが続いた。
「病室には行かないんですか」
宮本が聞いた。
孝弘は、プリントを見たまま首を小さく振った。
「まだ」
「怖いですか」
孝弘はすぐには答えなかった。
「……うん」
その声は、前より少しだけ素直だった。
宮本は責めなかった。
行きなさいとも言わなかった。
「学校のですか」
宮本が、プリントに目を向ける。
孝弘はうなずく。
「町のこと、調べる宿題」
「町のことですか」
「うん。住んでいる町で気づいたこととか、気になるところとかを調べるんだって」
孝弘は、プリントの端を指でこすった。
「何書けばいいか分かんない」
宮本は少し間を置いた。
「町のことなら、お父さんに聞くのもいいと思います」
孝弘の手が止まった。
「そう思ったけど、無理」
「はい」
「まだ、顔見れない」
「はい」
「だって……」
孝弘はそこまで言って、口を閉じた。
宮本は待った。
前のように、そこへ言葉を足さなかった。
孝弘は、プリントを強く握る。
「聞いたら、怒るかもしれない」
「どうして怒ると思うのですか」
孝弘はしばらくして、小さく言った。
「……事故のところ、思い出すから」
里奈は息を止めた。
宮本は、孝弘の顔を見ない。
プリントを見る。
それから、低い声で言った。
「今すぐ全部話さなくていいです」
孝弘は、宮本を見る。
「全部?」
「はい。一つだけでもいいと思います」
「一つ?」
「宿題を見せるだけでもいいです」
孝弘はプリントを見た。
紙の端が、少ししわになっている。
「見せるだけ」
「はい」
「それなら……」
そこまで言って、また黙った。
宮本は立ち上がらなかった。
孝弘が動くまで、座ったままだった。
やがて孝弘は、ランドセルを足元から少し引き寄せた。
それから、プリントを両手で持ったまま立ち上がる。
「……行く」
声は小さかった。
宮本は黙ってうなずいた。
里奈は、その後ろを歩いた。
エレベーターに乗るあいだ、孝弘は一度も顔を上げなかった。
プリントの端を、親指で何度もなぞっている。
病棟の階で扉が開く。
廊下は、面会時間の終わりに近づいて少し静かになっていた。
遠くで点滴台の車輪が鳴る。
ナースステーションの中から、相馬の低い声が聞こえた。
黒川の病室の前に、由美が立っていた。
孝弘の姿を見ると、由美の表情が動いた。
驚きと、安堵と、迷いが一緒に浮かぶ。
「孝弘」
孝弘は返事をしない。
プリントを握ったまま、ドアの少し手前で止まった。
由美は少し様子を見てから声をかけた。
「パパの部屋はここだよ」
孝弘はうなずかない。
由美は一歩近づく。
「大丈夫だよ。パパも――」
「もう少し、待ちましょう」
宮本が静かに言った。
由美は口を閉じた。
宮本の顔を見てから、孝弘の手元に視線を落とす。
プリントが、孝弘の手の中でしわになっている。
由美は何か言いかけたが、飲み込んだ。
病室の中から、綾音の声がした。
「ママ?」
引き戸が少し開き、綾音が顔を出した。
「あ、お兄ちゃん」
その声で、孝弘の肩がびくりと動いた。
「こっちだよ」
綾音はうれしそうに言った。
何の重さも知らない声だった。
由美がそっと引き戸を開ける。
孝弘は一歩だけ中へ入った。
黒川は、ベッドの上にいた。
背を少し上げている。
右腕は固定されたまま。
左手は膝の上に置かれている。
黒川が顔を上げた。
「……孝弘」
孝弘は答えられなかった。
父の足を見る。
固定された腕を見る。
膝の上の左手を見る。
それから、ようやく顔を見た。
黒川も、何を言えばいいのか分からないように孝弘を見ていた。
綾音が無邪気に言う。
「お兄ちゃん、学校の宿題?」
孝弘は、はっとしてプリントを胸に寄せた。
黒川の視線が、その紙に向く。
「宿題?」
孝弘は小さくうなずいた。
「……うん」
「どんな宿題?」
「町のこと、調べるやつ」
「町のこと……」
黒川の声が、少しだけ変わった。
里奈はそれに気づいた。
病室で聞く弱い声とは違う。
遠くに置いてあったものを、少し思い出したような声だった。
「町の何を調べるのかな?」
孝弘は、プリントを見る。
「危ないところ」
黒川の目が止まる。
「危ないところ?」
孝弘は、小さくうなずいた。
「町の中の」
「通学路とか?」
孝弘は首を振った。
振ってから、また迷う。
「……あそこ」
病室の空気が、少しだけ冷えた。
黒川はすぐに分かったようだった。
「……あそこって」
孝弘の手が、プリントを握りつぶす。
「事故にあった交差点」
由美が息をのんだ。
綾音は意味が分からず、母の顔を見る。
孝弘は、下を向いたまま続ける。
「あそこ、調べたい」
声が震えていた。
「だって」
言葉が止まる。
「ぼくのせいで……だから」
由美が反射的に口を開いた。
「孝弘、それは――」
その前に、黒川が言った。
「違う」
声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
孝弘の肩が震える。
「違わない」
「違う」
「ぼくが言った」
孝弘は泣きそうな顔で黒川を見る。
「本屋、行きたいって言った」
「雨だったのに」
「今日じゃなきゃいやだって」
言葉が崩れていく。
「ぼくが、いやだって」
「はやくって」
「はやく行こうって」
黒川の顔がゆがんだ。
孝弘は泣き出した。
ロビーのときとは違う泣き方だった。
責められるのを待つような泣き方だった。
許されることを信じきれない泣き方だった。
「だから」
「パパの手、はなれた」
「ぼくが言ったから」
黒川の目から、涙が落ちた。
大きな嗚咽はない。
ただ、顔をこらえきれなくなったように、涙だけが頬を伝った。
「違う」
黒川は、もう一度言った。
「孝弘が悪いんじゃない」
孝弘は首を振る。
「でも、ぼくが言った」
黒川の声も震えていた。
「お前のせいじゃない」
孝弘は泣きながら黒川を見る。
「でも」
「孝弘が悪いんじゃない」
黒川は、ゆっくりと言った。
「事故だった」
「あの日のことを、お前が背負うことじゃない」
「お前が悪いんじゃない」
孝弘は、言葉を返せなかった。
ただ、泣く。
肩を震わせて、息を詰まらせる。
黒川は、左手を動かそうとした。
膝の上に置かれていた手が、ゆっくり持ち上がる。
だが、思うようには届かない。
右腕は固定されていて、身体も自由に起こせない。
父親なのに、抱きしめることができない。
そのことが、病室の中で見えてしまった。
孝弘が、自分から一歩近づいた。
黒川の指先が、孝弘の手の甲に触れた。
握ることはできない。
包むこともできない。
ただ、触れているだけだった。
それでも、孝弘はその手を離さなかった。
由美は口元を押さえていた。
綾音は、母の服の裾をつかんでいる。
里奈は、動けなかった。
宮本は何も言わない。
ロビーでは、孝弘のそばへ自分から座った。
けれど今は、黒川と孝弘の間に入らない。
言うべき人がいる。
触れるべき人がいる。
そのことを、宮本は分かっているのだと里奈は思った。
しばらく、誰も話さなかった。
孝弘の泣き声が少しずつ小さくなる。
やがて、孝弘が鼻をすすった。
黒川の指先は、まだ孝弘の手の甲に触れていた。
握っているわけではない。
それでも、孝弘は動かなかった。
「……パパ」
黒川が目を向ける。
「宿題、あの交差点でいい?」
孝弘は、しわになったプリントを少し持ち上げた。
黒川は、プリントを見る。
目を閉じるように、一度だけ瞬きをした。
「ああ」
声はまだ震えていた。
「どう書けばいいかな」
孝弘は、プリントを見た。
「どこが、危ないの」
黒川はすぐには答えなかったが、今までの目ではなかった。
病室の白い壁ではなく、町のどこかを見ている目だった。
「あそこは、雨の日に見えにくい」
孝弘が顔を上げる。
「見えにくい?」
「歩道が広くなくて、建物が近いんだ」
「だから、車からは背の低い子どもが見えにくい」
言葉はゆっくりだが、弱くはなかった。
「あと、雨の日は、車も止まりにくい」
「水たまりをよけようとして、車が少し寄ることもある」
孝弘は、涙の残った顔で聞いている。
「パパ、なんで分かるの」
黒川は、少しだけ口を閉じた。
それから、小さく答えた。
「町の仕事をしてたからね」
その一言で、孝弘の表情が変わった。
父親を見る目が、ほんの少しだけ変わった。
黒川は、まだプリントを見ている。
「それに、車いすだと分かることもある」
孝弘は目を瞬く。
「車いす?」
「ああ、段差や坂、溝なんかがあると、かなり困る」
「すわっている分、目線が低くなって視野が狭くなるね」
由美が、黒川の方をまっすぐ見た。
さっきまでのように、痛みや不自由さを心配する目ではなかった。
何かを知っている人を見る目だった。
綾音が、小さく口を挟む。
「じゃあ、ここは赤にしようよ」
孝弘は少しだけ綾音を見る。
「まだ決めてない」
「危ないなら赤だよ」
綾音は真剣だった。
黒川の口元が、ほんの少し緩む。
そのとき、宮本が静かに言った。
「お父さんの頭の中にある景色を、その紙の上に置いてみてはどうですか」
全員の視線が、宮本に向く。
孝弘はプリントの白い余白を見る。
「紙の上に?」
「はい。ほかの人にも分かるように」
黒川が、はっとしたようにプリントを見た。
「……地図、か」
由美が小さく言う。
「安全マップ……みたいなものですね」
「安全マップ」
孝弘が、その言葉を小さく繰り返した。
黒川は、プリントの余白を見ていた。
事故のあった交差点。
町の道。
雨の日の視界。
子どもの高さ。
車いすで見える段差。
ばらばらだったものが、ひとつの形になろうとしていた。
「それなら」
黒川が言った。
「ここだけじゃ足りないね」
孝弘が顔を上げる。
「ほかにもあるの?」
「ある」
黒川はゆっくり言う。
「小学校の前の道も、朝は車が多い」
「駅の近くの歩道は、古くて段差がある」
孝弘は、プリントを見つめた。
「パパ、いっぱい知ってる」
黒川は、困ったように笑った。
「まあ、市役所にいたからね」
その声は、少しだけ父親の声に戻っていた。
孝弘は、プリントを両手で持った。
もう握りつぶしてはいない。
「じゃあ、教えてもらう」
黒川が孝弘を見る。
「危ないところ」
孝弘は、少しだけ迷ってから言った。
「パパ、いい?」
黒川は答えなかった。
ただ、目をそらさなかった。
宮本は、何も言わずに見ていた。
病室の外では、ナースステーションのコールが鳴っている。
誰かの足音が廊下を通り過ぎる。
それでも、この病室の中だけは、時間が少しだけゆっくりになっていた。
黒川がプリントを見る。
「ここは、写真があった方がいいな」
「写真?」
孝弘が聞く。
「ああ」
「見に行けるなら、直接見たほうがいい」
孝弘の目が、少しだけ大きくなる。
「パパも?」
黒川はすぐには答えられなかった。
固定された右腕を見る。
思うように開かない左手を見る。
それから、孝弘を見る。
「……先生に、聞いてみよう」
孝弘は、宮本の方を見た。
宮本は、何も言わずに黒川の顔を見て、小さくうなずいた。
里奈は、その横で宮本を見ていた。
宮本は、もう何も言わなかった。
病室の白い灯りの下で、しわになったプリントが開かれている。
その紙の上には、まだ何も書かれていない。
けれど孝弘は、もうあの重い荷物を、一人で抱えてはいなかった。
――第5話 終




