第4話 ロビーの少年
面会時間の黒川の病室には、由美と綾音がいた。
窓の外は、夕方に向かって少しずつ暗くなっている。
低い雲はまだ残っていた。
雨は降っていないが、空気の底には湿った重さがあった。
黒川は、ベッドの背を少し上げていた。
右腕には固定がある。
胸の前に置かれた腕は、動かすだけで痛みが出そうだった。
左手は膝の上に置かれ、指は軽く曲がったままだった。
ベッドの脇に、由美が座っている。
足元には綾音がいた。
小さな犬のぬいぐるみを、胸の前で抱えている。
「パパ、これね、きのう名前つけたの」
黒川は、綾音の方へ顔を向けた。
「……そうか」
声は小さい。
だが、綾音に返そうとしているのは分かった。
「ポチじゃないよ。モモ」
「モモか」
「うん」
綾音はうれしそうにうなずく。
そして、そのぬいぐるみを黒川の方へ差し出した。
「パパ、持って」
黒川の左手が、わずかに動いた。
指先が開きかける。
肘が少しだけ浮く。
それは、ほんの小さな動きだった。
その前に、由美が言った。
「綾音、だめ」
声は強くなかった。
むしろ、いつものように優しかった。
「パパはもう、持てなくなったんだから」
その瞬間、黒川の表情が固まった。
開きかけていた指が止まる。
少し浮いていた肘が、ゆっくり戻る。
綾音は、きょとんとした顔で由美を見る。
「そうなの?」
由美は困ったように笑った。
「腕、痛いでしょう。だから、ここに置いてあげようね」
綾音は少し不満そうにしながらも、ぬいぐるみを黒川の横に置いた。
「じゃあ、ここ」
「……ありがとう」
黒川はそう言った。
笑おうとしていた。
けれど、笑いきれてはいなかった。
里奈は、そのやり取りを見ていた。
由美に悪気がないことは分かる。
黒川を気遣っている。
痛ませないようにしている。
できないことを責めているわけではない。
それでも。
パパはもう、持てなくなったんだから。
その一言だけが、病室の空気の中で少し硬く聞こえた。
宮本は何も言わなかった。
いつものように、必要な確認だけを始める。
「黒川さん、痛みはどうですか」
「動かさなければ、大丈夫です」
「では、左手を見ます」
黒川は小さくうなずいた。
宮本は、黒川の左手に触れた。
握り込まれた指を、一本ずつゆっくり開いていく。
力を抜かせるというより、どこに力が残っているのかを確かめているようだった。
宮本の声は淡々としていた。
励ましもしない。
慰めもしない。
由美の言葉にも触れない。
里奈は、前のリハビリで宮本が言った言葉を思い出した。
埋めない。
黒川の沈黙を、こちらの言葉で埋めない。
失ったものに、急いで意味をつけない。
そう思い出してみても、今の宮本が何を見ているのかまでは分からなかった。
黒川の手なのか。
由美の言葉なのか。
綾音の無邪気さなのか。
それとも、この病室にいない誰かなのか。
宮本は、右腕の固定位置を確認し、肩のこわばりを少しだけ見た。
動かせるところと、動かさない方がいいところを短く伝える。
「今日はここまでにしましょう」
「……はい」
黒川はうなずいた。
由美がほっとしたように息を吐く。
「ありがとうございます」
綾音は、ぬいぐるみの耳をつまんでいた。
それから、ふと思い出したように顔を上げる。
「お兄ちゃんは?」
由美の表情が少し止まった。
「お兄ちゃんは、下で待ってるって」
「なんで?」
「今日は、病室には行かないって」
黒川は何も言わなかった。
だが、膝の上の左手に、ほんの少し力が入った。
さっき宮本が開いた指が、またゆっくり曲がる。
宮本は、その手を見ていた。
由美は、取り繕うように続けた。
「孝弘は一緒には来たんだけど、ロビーで待っているって」
黒川は窓の方を見た。
「……そうか」
それだけだった。
綾音は不思議そうに首を傾げる。
「お兄ちゃん、パパに会わないの?」
由美は答えに詰まった。
黒川は、何も言わない。
その沈黙の中に、里奈は宮本が言っていたことを思い出していた。
黒川は、まだ何かを話していない。
宮本はそう見ていた。
――パパはもう、持てなくなったんだから。
家に戻っても、前と同じ形では残っていなかったのかもしれない。
宮本は、黒川の手から視線を外した。
少し間を置いて、由美に向き直る。
「奥さん」
「はい」
「孝弘くんと、少し話してきてもいいですか」
由美は驚いたように瞬きをした。
「あの子と、ですか」
「はい」
「何も話さないかもしれませんよ」
「それでも構いません」
由美は少し迷った。
それから、小さく頭を下げた。
「お願いします」
黒川は何も言わなかった。
ただ、宮本を見ていた。
里奈は、その横顔を見た。
宮本が家族にここまで自分から声をかけるのを、あまり見たことがなかった。
いつもなら待つ。
患者が言葉を出すまで、必要以上に近づかない。
けれど、今は違った。
孝弘という名前が出た瞬間から、宮本の視線は病室の外へ向いていたように見えた。
宮本は短く会釈する。
「三好さん」
「はい」
「一緒に来てください」
病室を出る。
引き戸が閉まる音が、静かに廊下へ落ちた。
一階へ降りるエレベーターの中で、里奈は何も言えなかった。
由美の一言。
黒川の止まった手。
病室にいない孝弘。
それらが、うまくつながらないまま胸の中に残っていた。
扉が開くと、外来ロビーのざわめきが広がった。
自動精算機の音。
案内放送。
売店の袋を下げた人。
車いすを押す家族。
病棟より明るく、病棟より落ち着かない場所だった。
ロビーの隅に、長椅子が並んでいる。
そのいちばん端に、少年が座っていた。
少し大きめのパーカー。
伏せた顔。
揃っていない靴先。
そこに座っているというより、病室からいちばん遠い場所に沈んでいるようだった。
宮本はすぐには近づかなかった。
少し離れたところで一度足を止める。
それから、少年のそばへ歩いた。
「隣、いいですか」
少年は答えなかった。
宮本は、ひとつ席を空けて座った。
里奈は少し離れた柱のそばに立つ。
しばらく、誰も話さなかった。
ロビーの時計の針が進む。
自動ドアが開くたび、外の冷たい空気が足元を流れた。
宮本が、孝弘のほうを向いて小さく言った。
「孝弘くんですね。お父さんの担当の宮本です」
「え、パパの?」
「そうです」
孝弘は、床を見たまま続けた。
「パパは、歩けるようになる?」
宮本はすぐには答えなかった。
「お父さんの足を、事故の前のようには戻せません」
孝弘の顔が、わずかに上がった。
里奈は息を止めた。
そんなにはっきり言うのかと思った。
けれど、宮本の声は冷たくなかった。
ただ、嘘を置かなかった。
孝弘は唇を結ぶ。
「じゃあ、何するの」
「残っているものを、見つけます」
「意味わかんない」
「そうですね」
孝弘は眉を寄せた。
「変な人だ」
宮本は何も返さない。
孝弘は、靴先で床をこすった。
「パパ、足も動かないし」
「はい」
「手も変だし」
「はい」
宮本は否定しなかった。
孝弘の声が、少しだけ荒くなる。
「じゃあ、もう何もできないじゃん」
それは黒川を責める言葉ではなかった。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
宮本は静かに尋ねる。
「そう見えますか」
「見えるよ」
孝弘は顔を上げた。
目が赤い。
「だって、パパじゃないみたいだもん」
ロビーの音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
「前は、一緒に遊んでくれたし、宿題も手伝ってくれた」
「ぼくのこと、怒ったりもした」
そこで、孝弘は言葉を止めた。
次を言うと、何かがこぼれてしまうようだった。
宮本は待った。
「でも今は、何でもママがやって、パパは何もしない」
「病室に行っても、何話せばいいか分かんない」
孝弘は、膝の上で拳を握った。
「ぼくが、ちゃんとしないといけないのに」
声が小さくなる。
「お兄ちゃんだから」
ロビーの向こうで、会計番号が呼ばれた。
誰かが椅子から立ち上がる。
孝弘は、床を見たまま言った。
「でも、行けない」
「はい」
「パパの顔、見れない」
「はい」
「だって」
そこで、声が崩れた。
「ぼくのせいだもん」
里奈は動けなかった。
孝弘は顔を上げない。
「ぼくが、本屋に行きたいって言った」
「雨だったのに」
「今日じゃなきゃダメって言ったから」
拳が固くなる。
「早くって、言った」
「パパ、雨が止んだら行こうって言ったのに」
「でも、ぼくが、いやだって」
そこで言葉が途切れた。
「だから」
孝弘の口元が震える。
「手、はなれた」
そう言うと堰を切ったように泣き出した。
泣き声は、抑えられなかった。
小さな身体が、しゃくり上げるたびに揺れる。
固く握った拳は行き場がないように、自分の膝を叩いた。
一度では止まらない。
もう一度、叩く。
宮本の手が、膝の上でわずかに動いた。
けれど、すぐには触れなかった。
里奈は、その一拍を見た。
患者の動作を見るときの宮本なら、迷いなく必要な場所へ手を出す。
だが今は、違った。
触れていいのか。
触れない方がいいのか。
身体ごと測っているように見えた。
孝弘がもう一度しゃくり上げたとき、宮本はようやく背中に手を置いた。
さするというより、そこにいることを伝えるだけの手だった。
「ぼくが」
「ぼくが言ったから」
「パパ、ああなった」
孝弘は泣きじゃくりながら、同じ言葉を繰り返す。
「ぼくのせい」
「ぼくのせいだもん」
君のせいじゃない。
里奈は、そう言ってほしかった。
けれど、宮本は言わなかった。
その代わり、低い声で言った。
「ずっと、そう思っていたんですね」
孝弘は、えずきながら小さくうなずいた。
「……うん」
声は、ほとんど息だった。
宮本の顔が、里奈の目に入った。
苦しそう、というほど崩れてはいない。
いつもの、何も映さないような顔でもない。
ほんの一瞬、言葉にできないものが表に出てしまったように見えた。
里奈には、その理由が分からなかった。
ただ、子どもの涙の前で、宮本の沈黙はいつもより少しだけ苦しそうだった。
少しして、宮本は里奈の方を見た。
「三好さん」
「はい」
「作業療法室の本棚に、花の絵の本があります。星野富弘さんの本です。持ってきてもらえますか」
突然の指示に、里奈は一瞬だけ戸惑った。
「はい」
里奈はうなずき、エレベーターへ向かった。
作業療法室へ戻る間も、さっきの宮本の顔が頭に残っていた。
宮本が、子どものために本を持ってこさせた。
それだけのことなのに、里奈には意外だった。
宮本は、患者に答えを渡さない。
必要なこと以外は、あまり言わない。
その宮本が、孝弘には何かを見せようとしている。
言葉だけでは届かないものを、わざわざ探している。
なぜだろう。
里奈には、まだ分からなかった。
作業療法室の本棚から、すぐにその本が見つかった。
表紙には、花の絵が描かれている。
細い線で描かれた草花と、短い詩。
里奈はそれを抱えて、ロビーへ戻った。
宮本と孝弘は、まだ同じ距離で座っていた。
ひとつ席を空けたまま。
近づきすぎず、離れすぎず。
孝弘は泣き疲れた顔で、袖口を握っていた。
里奈が本を差し出すと、宮本は短く礼を言った。
「ありがとうございます」
宮本は受けとるとページを開いた。
花の絵があった。
派手ではない。
けれど、紙の上で静かに咲いているように見えた。
「孝弘くん、この絵をどう思いますか」
孝弘は袖で目元をこすりながら、本を見た。
「……花」
「そうですね」
「ただの花じゃん」
宮本は、絵を見たまま言った。
「この絵を描いた人は、手で描いていません」
孝弘の目が、少し動いた。
「じゃあ、どうやって描いたの」
「口で筆を持って描きました」
孝弘は黙った。
「手も足も、動かなくなったからです」
孝弘の眉が寄る。
「……なんで」
「けがをしたからです」
「パパみたいに?」
宮本はすぐには答えなかった。
「少し、似ているところはあります」
孝弘は本を見た。
それから、小さく首を振った。
「でも、パパは絵なんか描かない」
「そうですね」
「パパ、市役所の人だし」
「はい」
「じゃあ、関係ないじゃん」
孝弘は唇を噛んだ。
「パパ、もう何もできないじゃん」
言い終えたあと、また涙が出た。
さっき止まったはずの涙が、ぽろぽろ落ちる。
「歩けないし」
「手も変だし」
「抱っこもできないし」
最後の言葉で、声が崩れた。
「前のパパじゃない」
宮本は、本を閉じなかった。
開いたまま、孝弘の膝の近くに置いていた。
「前と同じではありません」
孝弘は顔を上げた。
泣いた目で、宮本をにらむように見る。
「じゃあ、やっぱりダメじゃん」
宮本は静かに言った。
宮本は答えず、開いたままだった本のページを静かに指さした。
孝弘は、赤い目で絵を見る。
手足が動かないのに、口で描かれた花の絵。
「すごい人だと言いたいわけではありません」
宮本は静かに言った。
「できなくなったところだけを見ると、全部なくなったように見えます」
孝弘は、本を見たまま動かない。
「でも、残っているものがあります」
孝弘は、初めて宮本をまっすぐ見た。
「……パパにも?」
「あります」
「歩けないのに?」
「はい」
「手、変なのに?」
「はい」
孝弘は、もう一度本を見た。
花の絵を見ているのか、別のものを見ているのか分からなかった。
「……なにができるの」
宮本は、孝弘の顔を見たまま言った。
「前と同じことではありません」
「お父さんと一緒に見つけていくことです」
孝弘は黙った。
その沈黙は、さっきまでの泣き声の後に残った、小さな空白のようだった。
何かを分かった顔ではない。
納得した顔でもない。
ただ、今まで見ていた父親の姿に、別の線が一本だけ引かれたような顔だった。
そのとき、ロビーの向こうから由美と綾音が戻ってきた。
綾音は紙パックのジュースを抱えている。
「お兄ちゃん、これあげる」
孝弘は顔をそむけた。
「いらない」
声はまだ少し鼻にかかっていた。
「えー」
綾音が頬をふくらませる。
その声で、ロビーの空気が少しだけ戻った。
由美は孝弘の顔を見た。
赤くなった目元に気づいたのだろう。
だが、何も聞かなかった。
宮本は本を閉じ、里奈に渡した。
「戻しておいてください」
「はい」
由美が頭を下げる。
「ありがとうございます」
宮本は短く会釈しただけだった。
孝弘は、まだ長椅子に座っている。
病室へ行くとは言わない。
帰るとも言わない。
ただ、さっきまで固く握っていた手は、膝の上で開いていた。
里奈は、その手を見た。
子どもの手だった。
まだ何かを持てるほど強くはない。
けれど、さっきまで自分の膝を叩いていた手ではなくなっていた。
エレベーターへ向かう途中、里奈は宮本の半歩後ろを歩いた。
聞きたいことがいくつもあった。
どうしてあんな顔をしたのか。
どうして星野富弘の本を見せたのか。
どうして黒川ではなく、先に孝弘のところへ行ったのか。
けれど、すぐには言葉にならなかった。
宮本は、エレベーターの前で足を止める。
「三好さん」
「はい」
「今の話は、黒川さんにはこちらから伝えません」
里奈は顔を上げた。
「……はい」
「孝弘くんが持っているものです」
持っているもの。
里奈は、あの小さな拳と、しゃくり上げる背中を思い出した。
「でも……」
宮本は、閉じたエレベーターの扉を見たまま言った。
「持ち続けるには、重すぎるものもあります」
その声は、やはりいつもと少し違っていた。
エレベーターの扉が開く。
宮本は乗り込む。
里奈も、そのあとに続いた。
病棟へ戻る。
まだ、何も解決していない。
孝弘は病室に入っていない。
黒川は、息子の言葉を知らない。
由美もまた、黒川の沈黙の奥を知らない。
それでも、ロビーに残してきたものは、さっきまでとは少し違っていた。
エレベーターの表示が、病棟の階で止まり扉が開いた。
廊下の向こうに、黒川の病室がある。
里奈は一度だけ振り返った。
一階のロビーは、もう見えない。
けれど、長椅子の端に座る少年の姿が、まだ目の奥に残っていた。
父親に何を聞けばいいのか、まだ分からない。
病室に入れるかどうかも、分からない。
それでも、孝弘はもう、父親を見ないままではいられなくなっていた。
里奈は、その横で宮本の背中を見ていた。
いつもの、分からない背中だった。
けれど今日は、その広さが、今までとは少しだけ違って見えた。
――第4話 終




