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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第5章 語らない仕事

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第3話 埋めない

 日が傾いた時間の病棟は、静かだった。


 点滴台の車輪の音が、廊下の奥で一度だけ響く。

 ナースステーションの話し声も遠い。


 里奈は、宮本の半歩後ろを歩いていた。


 戻ろうとした人。

 一度、生活へ戻った人。

 そのうえで、またここにいる。


 黒川のことが、午前から頭に残っていた。


 病室の前で、宮本が足を止める。

 短くノックをして、引き戸を開けた。


 窓際のベッドに黒川がいた。

 背を少し上げている。

 ギプスの巻かれた腕は胸の前。

 もう片方の手も、楽そうには見えなかった。


 脇には妻の由美。

 足元には、小さな女の子がいる。


 由美の手には紙袋。

 着替えか、洗面道具か、そういう生活の重さが入っていそうだった。


 女の子はベッド柵に手をかけて、黒川に話しかけている。

 黒川は小さく頷くだけだった。


「あ、先生」


 由美が立ち上がる。


「こんにちは」


 宮本が返す。


「今、大丈夫ですか」


「はい。ちょうど、そろそろ帰ろうかと思っていて」


 由美は女の子に声をかけた。


「綾音、お靴はこうか」


 綾音はうなずく。

 けれど、まだ黒川のそばを離れない。


「パパ、また来るね」


 黒川は少し遅れてうなずいた。


「……うん」


 小さな返事だった。

 由美は、それを受け取るようにうなずく。


「上の子は、今日はいいって……今度、連れてくるね」


 黒川は何も返さない。

 由美は紙袋をベッド脇へ寄せる。


「着替え、ここに置いておくね」


「……うん」


 由美は綾音の手を取った。


「先生、お願いします」


「はい」


 宮本は家のことに触れなかった。


 由美は里奈にも会釈をして、綾音を連れて出ていく。

 小さな靴音が遠ざかる。


 引き戸が閉まり、静けさだけが残った。

 宮本がベッドの脇へ進む。


「黒川さん、こんにちは」


「……こんにちは」


「痛みはどうですか」


「じっとしてれば、なんとか」


 宮本はうなずく。


「今日は、固定しているところ以外を少し見ます」

「肩や肘、体が固まらないようにしておきたいので」

「そのうえで、今の状態だと生活でどこが困るか確認します」


 宮本はギプス側の腕の下へタオルを入れた。

 重みがかからない位置へ整える。

 枕を少しずらし、肩の高さをそろえる。


「ここ、苦しくないですか」


「……大丈夫です」


「では、肩だけ少し動かします。痛かったら言ってください」


 黒川がうなずく。


 宮本は固定部に触れず、肩の位置を確かめながら小さく動かす。

 反対側も同じように見る。


 派手なことは何もない。

 それでも、里奈には宮本の手が迷っていないように見えた。

 ただ、黒川の浅かった呼吸が深く整っていくのが分かった。


「少し手を開きます」


 反対側の手に触れる。


 黒川の指は、知らないうちに強く曲がっていた。

 宮本は一本ずつ、無理のない範囲で開いていく。


「力、入っていますね」


「……すみません」


「いえ」


 宮本はそれ以上言わない。


 前腕の位置を変える。

 肘と肩を楽な角度へ戻す。

 体幹を少し起こす。


 起き上がりの練習ではない。

 呼吸と姿勢が落ちない位置を探るような調整だった。


「ここまで起こすと、どうですか」


「さっきよりは……楽です」


「分かりました」


 宮本は足元まで視線を落とし、静かに尋ねた。


「今回、骨折されたときのことですが、どのようにして転ばれたか、覚えていらっしゃいますか」


 黒川はすぐに答えなかった。

 シーツへ視線を落としたまま、少しだけ間が空く。


「……職場の、トイレです」


 小さい声だった。

 宮本は待つ。


「前みたいに、ぱっと動けるわけじゃなかったので」

「人がいない時間を見たり」

「失敗しないように急いだりして」


 黒川は目を閉じ、息を吐いた。


「急がなくていいのに、急いでたんです」


 ベッドの上の手に、少し力が入る。

 シーツを強く握りしめようとして、指はうまく揃わなかった。


「転んだときも……そうでした」

「ただ、早く済ませようとして」


「そうでしたか」


 宮本はそれだけ返した。

 黒川は少し黙る。


「席は、あるんです」


 ぽつりと落ちる。


「でも、前みたいな仕事は任せてもらえなくて」

「会議も外されるし、無理しなくていい、って言われて」


 また間が空く。

 その沈黙が、かえって息苦しかった。


「気を使ってくれてるのは、分かるんです」

「でも……」


 喉で止まる。

 宮本は、無理に言葉を継がせようとはしなかった。

 ただ、黒川が次の言葉を見つけるのを静かに待っている。


 やがて、黒川がぽつりとこぼした。


「前と同じじゃないのは、自分が一番分かってるんです」


 里奈は黒川を見る。

 怒っているのではないし、責めているのでもない。

 すり減って、ひどく疲れた声だった。


「でも、ああいうふうに扱われると」

「……ああ、自分は障害者なんだって」


 黒川は自分の手を見る。


「戻れたと思ってたんです」

「車も変えて、免許も更新して、なんとかやれると思って」


 声が少し掠れる。


「でも、戻った先にあったのは、前の仕事じゃなかったです」


 宮本は黙って聞いている。

 病室の外を足音が通り過ぎる。


「トイレも、前みたいにぱっとできないから」

「人がいない時間を見たり、失敗しないように気にしたり」

「そんなことばっかり増えて」


 黒川は目を閉じた。


「仕事をしてるのか、失敗しないようにしてるのか」

「だんだん分からなくなって」


 宮本は静かに耳を傾けていた。

 その様子に里奈の胸がざわつく。


 何か言うべきじゃないか。

 まだできます、とか。

 頑張ってきたんだから、とか。


 けれど、そのどれもが違う気がした。


 沈黙の中で、黒川がゆっくりと息を吐く。


「……復職なんて、しない方がよかったのかもしれません」


 沈黙が落ちる。

 病室に、夕方の光が差し込んでいた。


 里奈は息を詰める。

 宮本は静かに一言だけ言う。


「そう思われたんですね」


 黒川はゆっくりうなずく。


「……ええ」


 それだけだった。

 それだけなのに、黒川の肩が少し落ちた。


 宮本は言う。


「今日は、ここまでにしましょう」

「身体の位置だけ整えておきます」


 ギプスの腕の下へ、もう一枚タオルを入れる。

 体幹を少し戻す。

 反対側の上肢の位置も整える。

 布団を引き上げる。


 黒川は、その間ずっと黙っていた。


 最後に、小さく言った。


「……すみません」


「いいえ」


 宮本はそう返しただけだった。


 病室を出る。

 引き戸が静かに閉まる。


 廊下へ出たところで、里奈はすぐには歩けなかった。

 数歩遅れてから、ようやく声をかける。


「先生」


 宮本が足を止める。


「何も、言わなくていいんですか」


 里奈の声は硬かった。


「まだできますとか、戻れないって決まったわけではないとか」

「そういうこと……」


 宮本はすぐには答えなかった。

 閉まった病室の引き戸を一度だけ見る。


「言わない、じゃありません」


 静かな声だった。


「いまは、埋めないだけです」


「埋めない……ですか」


「こちらが先に意味をつけると、本人の言葉が出にくくなることがあります」


 宮本はそれだけ言う。

 ナースコールが鳴り、足音が横を通る。


 それでも、里奈にはその場だけ少し静かに感じられた。


 埋めない。

 その言葉を頭の中で繰り返す。


 本人の言葉。

 職場でのこと、トイレでの転倒。

 あれだけ話しても、まだ黒川の中には、言葉になっていないものが残っている気がした。


 里奈が考え込んでいると、宮本が閉まった引き戸から視線を外し、ぽつりと言った。


「……奥さんが帰られるとき」


 里奈は顔を上げる。


「黒川さんは、お子さんのことに何も返しませんでした」


 里奈は、由美が「上の子は、今日はいいって」と言ったときのことを思い返す。

 あのとき自分は、職場の話の重さばかり見ていた。


 けれど宮本は、病室に入ったときから、別の重さも見ていたのかもしれない。


 職場のことだけではない。

 家族のことだけでもない。

 黒川の中には、まだ整理のつかないものが残っている。


 だから、あえて急がなかったのだろうか。


 そこまでは、里奈にはまだ分からない。


 ただ、黒川の沈黙を、宮本は何もないものとして扱っていない。

 それだけは、はっきり分かった。


 里奈は閉まったままの引き戸を見る。

 引き戸の向こう、夕暮れが迫る病室に黒川がいる。


 中では、黒川がまた天井を見ているのかもしれない。

 あるいは、自分の不自由な手を見ているのかもしれない。


「行きます」


 宮本が歩き出す。

 里奈は一瞬遅れて、その背中を追った。


 分かったわけではない。

 この人が何を考えているのかは、相変わらず分からない。


 けれど、この人が何を見ているのか、それを今はどうしても知りたくなっていた。


 ――第3話 終


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