第2話 戻れなかった場所
午後の病室は、昼の気配をまだ少しだけ残して静かだった。
閉じたカーテンの向こうで、誰かのテレビの音が小さく続いている。
廊下を通る点滴台の車輪の音が、遠くでかすかに響いた。
窓際のベッドに、黒川が寝ていた。
顔色は青白く、頬が少しこけて見える。
目の下には薄い影が落ちていて、疲れが抜けないまま横になっているようだった。
里奈が思っていたよりも、ずっと細く、小さい身体だった。
右腕は固定され、寝返りひとつにも手間がかかりそうに見える。
右膝のあたりも寝具の下で厚みがあり、もともと不自由な身体に、さらに動かしにくい場所が増えていることが分かった。
入院したばかりの病室にも、まだ馴染んでいない。
戻ってきてしまったのだという感じだけが、見た目から伝わってくる。
宮本がベッドのそばへ寄った。
「黒川さん」
黒川が顔を上げる。
宮本を見て、かすかに表情が動いた。
「……また、お世話になります」
そう言って、黒川は起き上がろうとした。
だが、右腕をかばった瞬間に動きが止まる。
身体を支える手が足りず、上体は少し浮きかけただけで、うまく形にならなかった。
「そのままでいいです」
宮本が静かに言う。
黒川は小さく息を吐いて、枕に身体を戻した。
「すみません」
「大丈夫です」
それだけのやり取りだった。
里奈はその様子を見ていた。
起き上がるという、ごく小さな動作の中に、もともとの不自由さがそのまま見えていた。
けれど、全身が細く痩せて見えるぶん、何の病気なのかは分からない。
里奈にはまだ、その身体をどう見ればいいのか分からなかった。
宮本は黒川のそばへ寄ったまま、落ち着いた声で聞いた。
「右腕、かなり痛みますか」
「……動かすと」
「安静にしていれば、少しましですか」
「ええ」
宮本は固定された前腕の位置を見た。
腫れの具合と、肘から先の置かれ方を静かに確かめる。
「肩や手のしびれは、前と変わりませんか」
「変わらないです」
「ほかに気になるところはありますか」
黒川は少し考えるように視線を落とした。
「……特に、ないです」
「分かりました」
宮本はそれ以上急がせなかった。
少し間を置いてから、声の調子を変えずに言う。
「家に戻られてから、どうでしたか」
黒川が一瞬だけ黙る。
「……どう、とは」
「生活のことです」
宮本は黒川の顔を見たまま続けた。
「前は、車のことを調べていましたよね」
その言い方は、聞き出すというより、前の話の続きを確かめるようだった。
黒川は小さく息を吐いた。
「車は……乗っていました」
「そうですか」
「家から職場まで、運転していました」
それだけ言って、黒川は視線を窓の方へ逃がした。
宮本はすぐには何も言わない。
「仕事にも戻られていたんですね」
「ええ」
短い返事だった。
家に帰っていた。
車も運転していた。
仕事にも戻っていた。
言葉だけ見れば、前へ進んでいた人の話に聞こえる。
けれど、黒川の声には、その先を閉じるような薄さがあった。
宮本はそこを追わなかった。
「分かりました」
それだけ言って、ベッドから少し距離を取る。
里奈は病室の空気の中に立ったまま、そのやり取りを見ていた。
何かを問いただしている感じはない。
けれど、宮本は黒川の言葉だけを聞いているわけでもないようだった。
ただの新しい入院ではない。
この部屋には、前からの続きがある。
里奈は、うまく言葉にできないまま、そう感じていた。
宮本が会釈をすると、黒川も小さくうなずいた。
それで病室を出た。
引き戸が閉まる。
廊下へ出ても、里奈はすぐには気持ちを切り替えられなかった。
宮本はいつも通りの歩幅で進みかける。
里奈は一歩遅れてついていきながら、思い切って口を開いた。
「あの」
宮本は足を止めないまま、少しだけ歩く速度を落とした。
「前にも担当されていたんですか」
「以前、回復期で関わりました」
「そうなんですね」
それだけで会話は終わるかと思った。
だが、宮本は少しだけ間を置いて続けた。
「ただ」
里奈は顔を上げる。
「さっきの話だけではないと思います」
「え」
「全部は話していないように見えました」
宮本の声は平坦だった。
責める響きでも、決めつける響きでもない。
余計な感情を乗せていないぶん、かえって強く残った。
「……そう見えるんですか」
「見える、というより」
宮本は前を向いたまま言う。
「話し方が、そうでした」
それ以上は続かなかった。
里奈の中に、黒川の短い返事がもう一度よみがえる。
家に戻り、運転もして、仕事にも戻っていた。
嘘ではないのだと思う。
けれど、それだけでは済まない何かを、本人が切り落として話している。
そんな感じだけが残った。
その先を口にすることはできなかった。
里奈は宮本と別れた後、ナースステーションに向かった。
ナースステーション脇の記録台にタブレットを見ている相馬がいた。
午後の記録がいくつも重なっているらしく、指先は止まらない。
里奈はしばらく迷ったあと、小さく声をかけた。
「相馬さん」
「はい」
「黒川さんって……前にもここに入院されていたんですよね」
相馬は画面から目を離さず、小さくうなずいた。
「ええ。半年くらい前だったと思います」
「どんな方だったんですか」
相馬はそこで初めて指を止めた。
忙しい手を止めすぎないまま、けれど無視もしない、そのくらいの間だった。
「交通事故による頚髄損傷でした」
里奈は黙って聞く。
「訓練も、気持ちも、順調ってわけじゃなかったですね」
相馬の言い方は淡々としている。
感傷を足さないぶん、かえって重さが出た。
「でも、職場復帰を目標に退院されました」
「そうだったんですか」
さっき病室で見た黒川の顔とは、うまく結びつかなかった。
相馬もそれはわかっているのか続けた。
「家に帰って終わり、ではなかったみたいです」
相馬はまた画面を見ながら続ける。
「麻痺があっても手動で運転できる車の準備もして、元の職場に戻ったと聞いてます」
「そこまで……」
「頑張っていたと思いますよ」
相馬はそこで少しだけ里奈を見た。
「障害があっても、ちゃんと戻ろうとしていたんだと思います」
その一言が、里奈の胸に残った。
戻ろうとしていた。
ただ退院するのではなく、生活へ。
仕事へ。
家族のいる場所へ。
「今回、職場で転倒して骨折したために再入院です」
相馬は短く言った。
「それ以上のことは、本人から聞いたほうがいいと思います」
里奈はうなずいた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
相馬はもう次の記録に戻っていた。
会話はそれで終わりだった。
けれど里奈の中では、黒川の見え方が少し変わっていた。
最初は、再入院した患者だった。
今は、一度ここを出て、生活へ戻ろうとしていた人に見えた。
それなのに、また病院のベッドに戻ってきてしまった。
夕方近く、里奈は物品を返しに行く途中で、黒川の病室の前を通った。
引き戸は少しだけ開いている。
中から、低い話し声が聞こえた。
足を止めるつもりはなかった。
けれど、視界に入ったものに、里奈は思わず歩みを緩めた。
ベッドの横の丸椅子に、女性が座っていた。
膝の上には大きめの封筒があり、口のところから学校のプリントらしい紙がのぞいている。
椅子の足元には洗濯物の袋が置かれていた。
ベッド脇のテーブルには、小さなノートと筆箱が寄せてある。
病室の白い空気の中で、そこだけが生活の続きに見えた。
「今日は上の子は来られなくて」
女性の声が、少しだけ廊下まで届いた。
「下の子は、あとで寄れるかもしれないって」
里奈はそのまま足を止めずに通り過ぎる。
中をのぞき込むわけにもいかない。
けれど、視界の端に映った黒川は、ベッドに寄りかかったまま窓の方を見ていた。
家の気配は、手の届くところまで来ている。
なのに、その中へうまく入っていけないような姿に見えた。
上の子は来られない。
その一言だけが、なぜか耳に残った。
廊下の角を曲がってから、里奈はようやく息を吐いた。
さっきまで、黒川は再入院した患者にしか見えていなかった。
けれど、もう少し違う。
大きな障害を負っても、生活へ戻ろうとしていた。
運転もして、仕事にも戻っていた。
家には家族がいて、子どももいる。
そういう人が、またここへ戻ってきている。
励ませばいいわけではない。
「頑張ってください」と言える感じでもなかった。
何を言えばいいのか、まだ分からない。
ただ、軽く触れていいものではないという感覚だけがあった。
その日の最後に、里奈はもう一度だけ黒川の病室の前を通った。
さっきより静かだった。
中をのぞくと、黒川はベッド上で起きたまま、窓の外を見ている。
夕方の薄い光が、横顔を白くしていた。
テーブルの上には、さっきの封筒と、子どものノート、筆箱がそのまま残っている。
洗濯物の袋も足元に置かれたままだ。
それでも、黒川の手はそこへ伸びていなかった。
伸ばせないのか。
伸ばさないのか。
里奈には分からない。
ただ、そこにある距離だけがはっきり見えた。
戻ろうとしていた人が、またここに戻ってきてしまった。
里奈は何も言えないまま、その場を離れた。
病室の中では、黒川だけが窓の外を見ていた。
――第2話 終




