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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第5章 語らない仕事

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第2話 戻れなかった場所

 午後の病室は、昼の気配をまだ少しだけ残して静かだった。

 閉じたカーテンの向こうで、誰かのテレビの音が小さく続いている。

 廊下を通る点滴台の車輪の音が、遠くでかすかに響いた。


 窓際のベッドに、黒川が寝ていた。

 顔色は青白く、頬が少しこけて見える。

 目の下には薄い影が落ちていて、疲れが抜けないまま横になっているようだった。


 里奈が思っていたよりも、ずっと細く、小さい身体だった。

 右腕は固定され、寝返りひとつにも手間がかかりそうに見える。

 右膝のあたりも寝具の下で厚みがあり、もともと不自由な身体に、さらに動かしにくい場所が増えていることが分かった。


 入院したばかりの病室にも、まだ馴染んでいない。

 戻ってきてしまったのだという感じだけが、見た目から伝わってくる。


 宮本がベッドのそばへ寄った。


「黒川さん」


 黒川が顔を上げる。

 宮本を見て、かすかに表情が動いた。


「……また、お世話になります」


 そう言って、黒川は起き上がろうとした。

 だが、右腕をかばった瞬間に動きが止まる。

 身体を支える手が足りず、上体は少し浮きかけただけで、うまく形にならなかった。


「そのままでいいです」


 宮本が静かに言う。

 黒川は小さく息を吐いて、枕に身体を戻した。


「すみません」


「大丈夫です」


 それだけのやり取りだった。

 里奈はその様子を見ていた。

 起き上がるという、ごく小さな動作の中に、もともとの不自由さがそのまま見えていた。

 けれど、全身が細く痩せて見えるぶん、何の病気なのかは分からない。

 里奈にはまだ、その身体をどう見ればいいのか分からなかった。


 宮本は黒川のそばへ寄ったまま、落ち着いた声で聞いた。


「右腕、かなり痛みますか」


「……動かすと」


「安静にしていれば、少しましですか」


「ええ」


 宮本は固定された前腕の位置を見た。

 腫れの具合と、肘から先の置かれ方を静かに確かめる。


「肩や手のしびれは、前と変わりませんか」


「変わらないです」


「ほかに気になるところはありますか」


 黒川は少し考えるように視線を落とした。


「……特に、ないです」


「分かりました」


 宮本はそれ以上急がせなかった。

 少し間を置いてから、声の調子を変えずに言う。


「家に戻られてから、どうでしたか」


 黒川が一瞬だけ黙る。


「……どう、とは」


「生活のことです」


 宮本は黒川の顔を見たまま続けた。


「前は、車のことを調べていましたよね」


 その言い方は、聞き出すというより、前の話の続きを確かめるようだった。


 黒川は小さく息を吐いた。


「車は……乗っていました」


「そうですか」


「家から職場まで、運転していました」


 それだけ言って、黒川は視線を窓の方へ逃がした。

 宮本はすぐには何も言わない。


「仕事にも戻られていたんですね」


「ええ」


 短い返事だった。


 家に帰っていた。

 車も運転していた。

 仕事にも戻っていた。

 言葉だけ見れば、前へ進んでいた人の話に聞こえる。


 けれど、黒川の声には、その先を閉じるような薄さがあった。

 宮本はそこを追わなかった。


「分かりました」


 それだけ言って、ベッドから少し距離を取る。

 里奈は病室の空気の中に立ったまま、そのやり取りを見ていた。

 何かを問いただしている感じはない。

 けれど、宮本は黒川の言葉だけを聞いているわけでもないようだった。


 ただの新しい入院ではない。

 この部屋には、前からの続きがある。

 里奈は、うまく言葉にできないまま、そう感じていた。


 宮本が会釈をすると、黒川も小さくうなずいた。

 それで病室を出た。



 引き戸が閉まる。


 廊下へ出ても、里奈はすぐには気持ちを切り替えられなかった。

 宮本はいつも通りの歩幅で進みかける。

 里奈は一歩遅れてついていきながら、思い切って口を開いた。


「あの」


 宮本は足を止めないまま、少しだけ歩く速度を落とした。


「前にも担当されていたんですか」


「以前、回復期で関わりました」


「そうなんですね」


 それだけで会話は終わるかと思った。

 だが、宮本は少しだけ間を置いて続けた。


「ただ」


 里奈は顔を上げる。


「さっきの話だけではないと思います」


「え」


「全部は話していないように見えました」


 宮本の声は平坦だった。

 責める響きでも、決めつける響きでもない。

 余計な感情を乗せていないぶん、かえって強く残った。


「……そう見えるんですか」


「見える、というより」


 宮本は前を向いたまま言う。


「話し方が、そうでした」


 それ以上は続かなかった。

 里奈の中に、黒川の短い返事がもう一度よみがえる。


 家に戻り、運転もして、仕事にも戻っていた。

 嘘ではないのだと思う。


 けれど、それだけでは済まない何かを、本人が切り落として話している。

 そんな感じだけが残った。

 その先を口にすることはできなかった。



 里奈は宮本と別れた後、ナースステーションに向かった。

 ナースステーション脇の記録台にタブレットを見ている相馬がいた。

 午後の記録がいくつも重なっているらしく、指先は止まらない。

 里奈はしばらく迷ったあと、小さく声をかけた。


「相馬さん」


「はい」


「黒川さんって……前にもここに入院されていたんですよね」


 相馬は画面から目を離さず、小さくうなずいた。


「ええ。半年くらい前だったと思います」


「どんな方だったんですか」


 相馬はそこで初めて指を止めた。

 忙しい手を止めすぎないまま、けれど無視もしない、そのくらいの間だった。


「交通事故による頚髄損傷でした」


 里奈は黙って聞く。


「訓練も、気持ちも、順調ってわけじゃなかったですね」


 相馬の言い方は淡々としている。

 感傷を足さないぶん、かえって重さが出た。


「でも、職場復帰を目標に退院されました」


「そうだったんですか」


 さっき病室で見た黒川の顔とは、うまく結びつかなかった。

 相馬もそれはわかっているのか続けた。


「家に帰って終わり、ではなかったみたいです」


 相馬はまた画面を見ながら続ける。


「麻痺があっても手動で運転できる車の準備もして、元の職場に戻ったと聞いてます」


「そこまで……」


「頑張っていたと思いますよ」


 相馬はそこで少しだけ里奈を見た。


「障害があっても、ちゃんと戻ろうとしていたんだと思います」


 その一言が、里奈の胸に残った。

 戻ろうとしていた。

 ただ退院するのではなく、生活へ。

 仕事へ。

 家族のいる場所へ。


「今回、職場で転倒して骨折したために再入院です」


 相馬は短く言った。


「それ以上のことは、本人から聞いたほうがいいと思います」


 里奈はうなずいた。


「……ありがとうございます」


「いえ」


 相馬はもう次の記録に戻っていた。

 会話はそれで終わりだった。

 けれど里奈の中では、黒川の見え方が少し変わっていた。


 最初は、再入院した患者だった。

 今は、一度ここを出て、生活へ戻ろうとしていた人に見えた。


 それなのに、また病院のベッドに戻ってきてしまった。



 夕方近く、里奈は物品を返しに行く途中で、黒川の病室の前を通った。


 引き戸は少しだけ開いている。

 中から、低い話し声が聞こえた。


 足を止めるつもりはなかった。

 けれど、視界に入ったものに、里奈は思わず歩みを緩めた。


 ベッドの横の丸椅子に、女性が座っていた。

 膝の上には大きめの封筒があり、口のところから学校のプリントらしい紙がのぞいている。

 椅子の足元には洗濯物の袋が置かれていた。

 ベッド脇のテーブルには、小さなノートと筆箱が寄せてある。

 病室の白い空気の中で、そこだけが生活の続きに見えた。


「今日は上の子は来られなくて」


 女性の声が、少しだけ廊下まで届いた。


「下の子は、あとで寄れるかもしれないって」


 里奈はそのまま足を止めずに通り過ぎる。

 中をのぞき込むわけにもいかない。

 けれど、視界の端に映った黒川は、ベッドに寄りかかったまま窓の方を見ていた。


 家の気配は、手の届くところまで来ている。

 なのに、その中へうまく入っていけないような姿に見えた。


 上の子は来られない。

 その一言だけが、なぜか耳に残った。



 廊下の角を曲がってから、里奈はようやく息を吐いた。

 さっきまで、黒川は再入院した患者にしか見えていなかった。

 けれど、もう少し違う。


 大きな障害を負っても、生活へ戻ろうとしていた。

 運転もして、仕事にも戻っていた。

 家には家族がいて、子どももいる。

 そういう人が、またここへ戻ってきている。


 励ませばいいわけではない。

「頑張ってください」と言える感じでもなかった。

 何を言えばいいのか、まだ分からない。

 ただ、軽く触れていいものではないという感覚だけがあった。



 その日の最後に、里奈はもう一度だけ黒川の病室の前を通った。

 さっきより静かだった。

 中をのぞくと、黒川はベッド上で起きたまま、窓の外を見ている。

 夕方の薄い光が、横顔を白くしていた。


 テーブルの上には、さっきの封筒と、子どものノート、筆箱がそのまま残っている。

 洗濯物の袋も足元に置かれたままだ。

 それでも、黒川の手はそこへ伸びていなかった。


 伸ばせないのか。

 伸ばさないのか。

 里奈には分からない。

 ただ、そこにある距離だけがはっきり見えた。


 戻ろうとしていた人が、またここに戻ってきてしまった。

 里奈は何も言えないまま、その場を離れた。


 病室の中では、黒川だけが窓の外を見ていた。


 ――第2話 終


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