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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第4章 舞台は、まだそこにある

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第6話 残り舞

 庭に差し込む陽は、すでに傾いていた。

 池の前に立ったまま、よし恵はしばらく動かなかった。


 右手には、淡い紫色の舞扇子。

 左手は胸の前で固く曲がり、添えることはできない。

 風が水面を撫で、庭木の葉をわずかに揺らす。

 離れの中からは、もう稽古の張りつめた気配は消えていた。

 足袋の音も止み、障子の向こうには静けさだけが残っていた。


 そのとき、離れの戸が開いた。


 片付けを終えた英恵が、母屋へ戻ろうとして足を止める。

 池のほとりに立つよし恵の姿と、その右手の扇子が目に入った。


「……お母さん」


 英恵の声は小さかった。

 驚きと、ためらいと、何かを壊してしまいそうな慎重さが混じっている。


 よし恵はすぐには答えなかった。

 扇子を持ったまま、離れを見ていた。

 やがて、視線だけを娘へ向けた。


「今日は、何をやっていたの」


 英恵は一瞬、息を止めたようだった。

 その問いを、母のほうから向けられるとは思っていなかったのだろう。


「……藤娘の稽古をしていました」


 よし恵は扇子を見た。

 それから、障子の向こうの板張りへ目を戻す。


「そう」


 その一言だけだった。

 だが、英恵にはそれで十分に重かった。


「中へ……」


 英恵は言いかけて、そこで止まる。

 無理に誘えば、また遠ざかるかもしれない。

 娘として声をかけるべきか、師として迎えるべきか、その境目がまだ分からなかった。


 英恵はそこで言葉を飲み込み、ただ小さく会釈した。


 よし恵は娘が言葉を飲み込んだことに気づいたようだったが、何も言わなかった。

 ただ、右手の扇子をゆっくり閉じる。

 骨の合わさる小さな音が、静かな庭に残った。


 その音を聞きながら、よし恵はふと、退院前の病院の雪を思い出していた。



 退院の話が、現実のものとして口にのぼるようになった頃だった。

 その年は、まだ本格的な冬に入る前に雪が降った。


 窓の外では、雪の反射した光が白くにじんでいた。

 午後の作業療法室は静かで、白い机の上に置かれたタオルの端だけが明るく浮いて見える。

 訓練道具の並ぶ棚と、壁際の長椅子。

 窓の外には、うっすら雪の積もった駐車場。

 どこを見ても、ここが病院であることだけは隠しようがなかった。


 よし恵はいつもの椅子に座っていた。

 左手は変わらず動かない。

 杖なしで歩くのも、まだ危うい。

 退院が近づいているというのに、離れへ戻る姿は、自分にはどうしても思い浮かばない。


「結局、左手は動かないままね」


 その言葉は、ため息のようにこぼれた。

 國井は返す言葉を失って、宮本を見る。


「そうですね」


 宮本の返事は相変わらず慰めもない。

 よし恵も、期待していたわけではなく、窓の外を見た。

 雪を見ていると、白い舞台を思い出すことがあった。


「雪が降るには少し早いわね」


 そうつぶやくと、よし恵は机の脇に置いていた扇子を右手で取り、静かに開いた。

 そのまま、滑らかな動きで手首を返す。

 宮本が扇子を渡してから、密かに練習していたのだろう。

 よし恵の手と扇子は、一体のもののように見えた。

 だが、不意にその動きは止まる。


「本当はここで左手を添えないといけないの」

「ここが限界ね」


 それは元に戻ることができない、訣別の言葉のようだった。

 宮本は顎の無精ひげをなぞりながら黙っている。

 國井は自分の無力さを痛感していた。


 宮本はしばらく雪を見ていたが、やがて右手を上げた。


「見てください」


 宮本は右手を上げ、そのまま手を動かし始めた。

 扇子は持っていない。

 だが、先ほどのよし恵の動きをなぞるように、手を返してみせた。

 以前は見られたものではなかった宮本の動きは、多少はましになっていた。


 よし恵も國井も宮本の上達に驚き、思わず目を合わせた。


「前よりは、ましになりました」


 宮本はそう言うと動きを止めた。


「何を表現したつもりなの」


 よし恵は思わず弟子に問うように聞いた。

 宮本は少し考えるしぐさをして答える。


「雪です」

「何かが離れていく感じがしました」


 その答えによし恵は満足そうに頷いた。


「合格よ。でも、まだまだ稽古が必要ね」


 國井が思わず目を見開く。

 宮本はほんの少しだけ口元を緩めた。


「ええ」


「手首がまだ固いわ」


「わかっています」


「わかってないから、そんな動きになるのよ」


 そのやり取りに、國井は思わず吹き出しそうになった。

 よし恵も、ほんのわずかに笑った。

 入院してから初めて見る、柔らかい顔だった。



 その日の夕方、國井は片付けをしながら言った。


「このまま退院して、菊川さんは大丈夫なんでしょうか」


 宮本はテーブルを拭いていた。


「家に帰っても、今までみたいにはいかないですよね」

「せっかく動けるようになっても、また悪くなるかもしれません」


 宮本はテーブルを拭く手を止める。


「どうするかは、菊川さん次第です」


 國井は黙る。

 それでは冷たすぎるようにも思えた。


 宮本は続けた。


「私たちは、舞台を整えるだけです」

「主役は菊川さんですから」


 國井は少し考えてから聞く。


「……それで、菊川さんは動くと思いますか」


 宮本はほんの少しだけ間を置いた。


「國井くんが心配するようなことにはならないと思います」


 言い切るほど強くはない。

 けれど、その声には奇妙な確かさがあった。



 数日後。

 退院前の最後の面会に来た英恵を、宮本は病棟の廊下で呼び止めた。


 英恵は少し身構えたが、すぐに足を止めた。


「お母さんのことで、お話ししたいことがあります」


 狭い面談室で、宮本ははっきりと言った。


「麻痺した左手と足の回復は、今後も難しいです」


 英恵は静かに聞いていた。

 その現実を避けてはいなかった。


「でも、できることも、菊川さんは少しずつ見つけ始めています」


 英恵が目を上げる。


「でも、焦って前の形を求めると、できないことばかりが目につきます」

「そうすると、失う感覚が重なって動けなくなってしまいます」


 宮本の声はいつも通り低かった。


「気持ちの整理がついて、自分で動けるところまで来たら、菊川さんはたぶん自分で動きます」

「それまでは、待っていてあげてください」


 英恵はしばらく何も言えなかった。

 やがて小さく頷く。


「……はい」


 その返事は、娘のものでもあり、弟子のものでもあった。



 池の前で、よし恵は閉じた扇子を右手で握りしめていた。


 離れの戸は閉まっている。

 その向こうには、板張りの床があり、足袋の音が重なってきた時間がある。

 杖を木の幹に立てかける。

 右手に扇子を持つ。

 左手は、やはり動かない。


 それでも今日は、足が止まらなかった。


 一歩。

 また一歩。

 飛び石を越えるたび、身体はわずかに揺れる。

 けれど、戻ろうとは思わなかった。


 離れの前に立つ。

 目の前の戸に、右手を伸ばす。

 扇子を握ったままでは開けにくくて、一度持ち替えた。

 その不格好ささえ、いまは構わなかった。


 よし恵は戸に手をかけた。


 そして、ゆっくりと開けた。


 ――第6話 終


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