第5話 舞扇子
宮本がよし恵の作業療法に入るようになって、一か月が過ぎていた。
午前の作業療法室には、冬へ向かう前の乾いた光が差していた。
窓際の机の上には白いタオルが一枚。
棚には訓練道具が整然と並び、部屋の空気だけが妙に静かだった。
よし恵は椅子に座っていた。
左手は相変わらず胸の前で固く握られ、思うようには開かない。
歩くには杖がいる。
左足も、油断すると外へ流れる。
目に見えるところだけを数えれば、大きく変わったとは言い難かった。
その横で、國井がタオルを用意している。
宮本は少し離れた位置から、よし恵の座り方を見ていた。
「國井くん」
唐突に宮本が言う。
「菊川さんの変化、わかりますか」
國井は顔を上げ、少し考えてから答えた。
よし恵もわずかに視線を向けた。
「左上肢の緊張は少し落ちています」
「歩行も前より安定してきています」
國井の答えはまじめで、まっすぐだった。
間違いではないのだろう。
宮本は小さく頷く。
「そうですね」
それから、よし恵の身体を見たまま続けた。
「でも、それだけじゃないです」
「前より、止まれるようになっています」
國井が眉を寄せる。
「止まれる、ですか」
「ええ」
宮本は言う。
「左右差はあります」
「でも、動いたときに前ほど崩れなくなっています」
「崩れたなりに、中心を探せるようになってきています」
よし恵は黙って聞いていた。
左手は動かない。
杖も手放せない。
それなのに、宮本は違うところを見ている。
國井はよし恵の座った姿を見た。
たしかに、左腕は固く動かせない。
左足はまだ思うように支えきれない。
それでも上半身は、不思議と投げ出されていなかった。
よし恵は小さく息を吐いた。
「だから何だ、という顔ですね」
宮本がそう言った。
よし恵は目を細めて宮本を見た。
「ええ」
隠す気もなく答える。
「左手が動かないことは変わりません」
「杖がなければ歩くのもままならないです」
「それで、何が良くなったというのですか」
宮本は否定しなかった。
「戻らないものはあります」
その答えはもう聞いていた。
聞いて、そのたびに胸の奥が冷える。
「でも、整ってきているものもあります」
よし恵はそれ以上返さなかった。
返しても無駄だと思った。
ただ、その言葉だけが、どこかに引っかかったまま残った。
その日の訓練も、左手を無理に開こうとするものではなかった。
座ったまま、左右へ体重を移す。
麻痺側へ少しだけ重心を乗せる。
両手をそろえて前へ出し、右へ返して左へ戻す。
身体を斜めに回し、その途中で止まる。
「そこです」
宮本が言う。
「いまの位置で、一度止まってください」
よし恵は止まった。
左側は重い。
左足に体重を乗せるのも楽ではない。
それでも、上半身は崩れない。
首の置き方も、視線も、奇妙なくらい静かだった。
訓練の途中で、宮本がふいに國井へ言った。
「國井くん、日本舞踊の手の使い方、わかりますか」
國井は目を瞬いた。
「いえ……」
「菊川さん」
宮本は、よし恵に顔を向けた。
「教えてもらえませんか」
よし恵は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
次いで、苛立ちが来る。
「何をですか」
「手の使い方です」
宮本の声は平らだった。
ふざけている感じはない。
よけい腹が立つ。
「私はリハビリに来ているのよ」
「ええ」
宮本はあっさり頷いた。
「でも、これも必要だと思っています」
國井が思わず宮本を見る。
その言葉に驚いたのは、たぶんよし恵より國井の方だった。
よし恵はしばらく黙っていた。
右手が、膝の上でわずかに動く。
「……手首の返し方です」
結局、そう言った。
國井はあわてて姿勢を正す。
宮本は何も言わない。
「ただ上げるものではないの」
「先に手首を返して、指をあとから見せるの」
よし恵は右手を上げた。
肘を少し浮かせ、手首を返す。
指先を伸ばす。
左手は添えられない。
それでも、その右手の動きだけで空気が変わった。
「そうじゃない」
國井の手に、すぐ声が飛ぶ。
「そこは力を入れすぎ」
「指が固い」
「見せる前に、もう少し待つの」
國井はぎこちなくやり直す。
二度、三度と直される。
「違う」
「先に肩が上がってる」
「そこで見せすぎない」
國井はいつの間にか真剣に手を動かしていた。
その横で宮本も真似をしていたが、明らかにぎこちなかった。
よし恵はすぐにそちらを見た。
「違うわ」
思わず声が出る。
「そこは指じゃない。先に手首」
「その方が、指があとからついてくるの」
「こうですか」
宮本がやり直す。
それでもずれて不格好な動きになる。
今度は國井が真似をしてみせた。
その動きは、ぎこちないなりに先ほどより形に近かった。
よし恵の眉が、わずかに動く。
「……今の方がいいわ」
その言葉が出たあとで、よし恵自身が一番驚いた。
國井は少し照れたように笑った。
宮本は何も言わない。
ただ、よし恵の顔を見ていた。
巻き込まれるように始まったのに、いつの間にか教えていた。
その事実が、よし恵の中で遅れて形になった。
自分はまだ、誰かの手を見て、違いを見つけて、直すことができる。
そのことが、胸の奥をかすかに震わせた。
退院が近づくころには、朝夕の空気ははっきり冷たくなっていた。
その日の午後、宮本は作業療法室の机の上に、ひとつの包みを置いた。
見覚えのある布だった。
よし恵の目が、そこで止まる。
「何ですか」
宮本は包みを見たまま言った。
「今日は、振りを見せてもらえますか」
よし恵は笑わなかった。
その代わり、少し冷たい目で包みを見る。
「振りは、扇子がないとできません」
「ええ」
宮本は布をほどいた。
「娘さんから預かっていました」
現れたのは、淡い紫色の舞扇子だった。
長く使い込まれ、骨の艶まで手になじんでいる。
稽古場でも、舞台でも、何度も手の中にあったものだった。
よし恵の喉が、小さく動く。
「……余計なことをするのね」
「そうかもしれません」
宮本は否定しなかった。
國井は黙って見ている。
この場で軽口を挟める空気ではなかった。
よし恵は右手を伸ばした。
扇子に触れる。
指先が骨の感触を確かめるように止まる。
それから、そっと持ち上げた。
左手は添えられない。
それでも、右手の中へ扇子が収まった瞬間、背筋がわずかに変わった。
「開けられますか」
宮本が聞く。
「……そのくらいは」
よし恵は右手だけでゆっくり扇子を開いた。
紙の擦れる小さな音がした。
國井が思わず息を呑む。
「無理に大きく動かさなくていいです」
宮本は言った。
「できるところまでで」
よし恵は何も答えなかった。
ただ、扇子を持つ右手を胸の前へ置き、視線を少しだけ前へ送った。
首が返る。
肩が静かに整う。
左手は動かない。
左足も完全には支えられない。
それでも、その一瞬だけ、作業療法室の空気が変わった。
ごく短い振りだった。
舞うというほどではない。
扇子をわずかに送り、視線を流し、止まり、返す。
それだけなのに、見ていた國井には何かが立ち上がったように思えた。
ただ、それが何なのかは、うまく言えない。
よし恵は扇子を下ろしたあと、二人を見た。
「何が見えましたか」
試すような声だった。
師範が弟子を見るときの目に、少しだけ戻っている。
國井が先に口を開いた。
「……花、でしょうか」
少し違う、と自分で言いながら分かっている顔だった。
よし恵は何も言わず、宮本を見た。
宮本はほんの少しだけ間を置いた。
「風ですか」
よし恵の眉がわずかに動く。
「藤の花が揺れているようでした」
部屋が静かになる。
そのとき國井にも、ようやく見えた気がした。
花そのものではない。
風を受けて、重たく垂れた藤房が、少し遅れて揺れる。
その感じが、さっきの短い振りの中にあった。
よし恵はすぐには言葉を返さなかった。
扇子を見たまま、少しだけ目を伏せる。
「……そう」
それだけだった。
だが、その声はさっきまでより低くも硬くもなかった。
宮本はよし恵の扇子を持つ右手を見て言った。
「全部やらなかった分、見る人が、続きを想像できます」
よし恵は顔を上げた。
左手は動かない。
元の振りには戻れない。
それを知ったうえでなお、その言葉は胸のどこかへ入ってきた。
「続きを、想像……」
「ええ」
宮本は静かに答えた。
「残っているもので、伝わるものがあります」
國井はそのやり取りを見ていた。
左手が戻るかどうかだけを見ていた昨日までとは、もう同じ景色には見えなかった。
よし恵はしばらく扇子を見つめていた。
それから、ぱたりと閉じる。
その音は小さかった。
だが、静かな部屋には妙にはっきり残った。
「勝手なことを言う人ね」
よし恵はそう言った。
怒っているようで、怒りきれてはいなかった。
宮本は何も返さない。
國井も黙っていた。
よし恵は扇子を膝の上へ置く。
右手の指先が、骨の上にとどまる。
もう元には戻れない。
そのことは変わらない。
けれど、何も残っていないわけでもない。
その事実だけが、閉じた扇子の重みのように、膝の上に静かに残っていた。
――第5話 終




