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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第4章 舞台は、まだそこにある

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第4話 師範

 離れの板張りは、朝の光を受けて淡く白んでいた。


 障子は大きく開け放たれ、庭の緑がそのまま額縁のように切り取られている。

 足袋の擦れる音。

 扇の開く乾いた音。

 弟子たちの「はい」という返事が、板の間の天井へまっすぐ上がっていく。


 その正面に、英恵が立っていた。


「そこは急がないで」

「見せるのは手先じゃなくて、間です」


 声はよく通った。

 よし恵ほど低くはない。

 けれど、ひとたび芯が入ると、弟子たちは迷わず動きを止める。

 右手に持った扇の先を少しだけ返し、首をわずかに送る。

 母より少し華が前へ出る。

 だが、その分、若さの明るさがあった。


「もう一度。藤娘のオキから」


 弟子たちが、いっせいに藤の枝を手に取る。

 英恵はその前に立ち、誰の帯が緩んでいるか、誰の足が半歩ずれているか、ちゃんと見ていた。

 指摘の仕方は簡潔で、無駄がない。


「そこ、先に足」

「違う。そこで見せすぎない」


 弟子たちはもう、その声に従っていた。

 迷いながらではない。

 稽古場の中心にいる人の声として、受け取っていた。


 離れの障子の外では、風が一度だけ庭木を揺らした。



 庭の池のほとりで、よし恵は立ち止まっていた。


 右手には杖。

 左手は胸の前で固く曲がり、薄い羽織の下でほとんど動かない。

 倒れてから半年、退院してから一か月が過ぎていた。

 庭へ出ることには慣れた。

 飛び石の手前まで来ることにも。

 だが、離れへ入ることだけは、まだできない。


 今日も立ち尽くしたまま、離れの中の緊張が少しずつほどけていく。

 稽古が終わったらしい。

 弟子たちが一人、また一人と離れから出てくる。


「やっぱり、稽古があると違うね」

「うん。止まったままだと、こっちまで息が詰まるもの」


 まだ若い弟子の声だった。

 そのあとに、年配の女性の声が続く。


「英恵先生、最初はどうなることかと思ったけど」

「ちゃんと立ってくれてよかったわ」


「よし恵先生の藤娘、もう見られないのかな」


 その一言で、よし恵の指先が杖を強く握った。


 別の弟子が、少し間を置いて言う。


「でも、英恵先生の藤娘は、また違う華があるのよね」

「よし恵先生は品があって、英恵先生はもう少し前へ出る感じ」


「似てるけど、同じじゃないのよね」


 そこまで言って、弟子たちのひとりが池の前のよし恵に気づいた。

 空気が変わる。

 さっきまでの柔らかい声が、急に行き場をなくす。


「……先生」


 誰かが小さく言う。

 だが、それ以上は続かなかった。

 弟子たちは目を伏せるようにして会釈をし、そそくさと門の方へ去っていく。


 よし恵は何も言わなかった。

 言えなかった。


 風が水面を撫で、池の光が揺れる。

 離れの中はもう静かだった。

 英恵がまだ片付けをしているのか、足袋の音だけが少し遅れて聞こえた。


 よし恵はその場から動けないまま、目を閉じた。



 入院して三か月が過ぎた頃だった。


 午後の病室には、夏の終わりの光が斜めに差していた。

 白い壁。

 白いシーツ。

 ベッド脇の簡素な棚。

 窓の外には病院の駐車場が見えるだけで、離れの庭も松もどこにもなかった。


 英恵が病室に入ってきたとき、よし恵は窓の外を見ていた。


「お母さん」


 英恵の声は少し弾んでいるようにも聞こえた。

 だが、それは明るさではなく、忙しさの残りのようなものだった。

 髪はきちんと整えられ、薄い化粧の下に疲れが隠しきれていない。

 それでも姿勢だけは崩れていない。

 離れで前に立っている人の立ち方だった。


「今日は少ししかいられないの」

「このあとも稽古があるから」


 よし恵はゆっくり顔を向けた。


「そう」


 英恵は椅子に座る。

 鞄を膝に置き、指先だけが少し落ち着かない。


「みんな、順調です」

「弟子たちも戻ってきたし、新しく来たいっていう人もいて」


 その言葉が、よし恵の胸の奥で小さく刺さった。


 本当は聞きたいことがあった。

 稽古はどうなっているのか。

 誰が何を踊っているのか。

 床の間の花は。

 弟子たちは、どんな顔で扇を持っているのか。


 だが英恵は、それを聞かせまいとするように続けた。


「今は、稽古場のことは気にしなくていいの」

「お母さんはリハビリに専念してね」


 よし恵は、ゆっくり息を吸った。


「気にしなくていいって、簡単に言うのね」


 英恵が言葉を止める。


「私のいた場所でしょう」


「……お母さん」


「私は、まだ生きているのよ」


 声は大きくなかった。

 それでも、病室の空気が変わるには十分だった。


 英恵は一度だけ目を伏せ、それからまたよし恵を見た。


「わかってる」

「でも、止めるわけにいかないの」


「だったら、もう好きにしたらいいじゃない」


 よし恵は言った。


「私はもう、いらないのでしょう」

「そう思っているから、みんな勝手に進めるのでしょう」


 英恵の顔が強張る。


「そんなこと思っていません」


「じゃあ、どうして療養に専念しろなんて言うの」


 英恵は何か言い返そうとして、言葉を失った。

 守りたい。

 待ちたい。

 でも止められない。

 その全部が、いまの英恵の顔に出ていた。


「……お母さんの場所を守りたいだけなの」


 よし恵は顔を伏せたまま、小さくつぶやいた。


「もういいわ。手も足も動かないもの」


 英恵は何も言えなかった。

 沈黙だけが病室に落ちる。


 やがて英恵は立ち上がり、鞄を抱えた。


「今日は帰ります」


「そう」


「また、来ます」


 よし恵は窓の外へ目を戻した。

 英恵はその背中をしばらく見ていたが、何も言わずに病室を出ていった。



 病室の外へ出たところで、足が止まった。

 廊下の壁際に寄る。

 ようやくそこで、息が震えた。

 急いでハンカチで目頭を押さえる。


「大丈夫ですか」


 低い声がして、英恵は顔を上げた。


 白いケーシーの男が立っていた。

 髪が整えられていない無精ひげの顔。

 胸元の名札。

 見覚えはない。


「……どなたですか」


「菊川さんのリハビリを担当している宮本です」


 以前、よし恵が言っていた風変わりの人物と重なる。

 英恵は少しだけ警戒を緩めた。

 それでも、泣いていたことを見られた恥ずかしさは消えない。


「母に、何かありましたか」


「いえ」


 宮本は首を振った。

 そして、少し英恵の様子を見てから口を開いた。


「菊川さんのことで、話を聞かせてもらえますか」


 英恵はすぐには頷かなかった。

 けれど、誰にも見せないようにしていたものが、ちょうど溢れそうになっていた。


 病棟の面談室は小さく、白い机と椅子があるだけだった。

 窓から見えるのは、病院の裏手のフェンスと駐車場だけだった。


 英恵は椅子に座るなり、膝の上の鞄をきつく抱えた。


「母は……戻れるのでしょうか」


 真っ先に出たのは、その言葉だった。


 宮本は少しだけ間を置いた。


「元の状態には戻りません」


 英恵は目を閉じた。

 その答えは分かっていた。

 分かっていたが、他人の口から言われると、やはり少しだけ苦しかった。


「そうですよね……」


 声は思ったより静かだった。


「わかっているつもりです」

「左手のことも、歩き方のことも、もう以前のように戻ならないと……」


 宮本は何も言わずに聞いていた。


「でも、母にとって日本舞踊は、生きることとほとんど同じなのです」

「父が早くに亡くなって、兄も家を出て」

「それでも、母はひとりであの家を守って、藤林流も守ってきました」


 英恵は鞄の持ち手を見たまま続ける。


「私は、そんな母を見て育ちました」

「母である前に、藤林流の師匠で、私の目標でした」

「厳しかったですが、私はその生き方を尊敬していました」


 そこで一度、言葉が途切れた。


「だから、止めたくなかったのです」

「でも、私が立つことで母を苦しめているのも分かる」


 宮本は静かに言った。


「菊川さんの積み重ねてきたものは、なくなっていません」


 英恵が顔を上げる。


「たとえ元の形には戻らなくても」

「生き方まで消えるとは限りません」


 英恵は、先ほどのよし恵とのやりとりを思い出して口にする。


「でも、手も足も良くならないと……」


「全部を元に戻す話ではないんです」

「場所や関わり方が変われば、残ったものを活かせることがあるかもしれません」


 宮本の声はいつも通り低く、感情を強く乗せていなかった。

 けれど、その言葉は英恵の中にまっすぐ入ってきた。


 英恵はしばらく黙って宮本を見ていた。

 そのあと、鞄を開ける。

 中から包みを取り出した。


 包みを少しほどくと、使い込まれた骨の艶が見えた。

 それは、淡い紫色の舞扇子だった。


「これ、母のものです」


 派手ではないが、開けばきっと美しいと分かる扇子だった。


「本当は今日、元気づけようと思って持ってきたのです」

「でも……渡せませんでした」


 英恵は扇子を見つめたまま言う。


「励ますつもりが、余計につらい思いをさせてしまいました」


 こぼれそうになる涙をこらえながら、宮本に扇子を差し出した。


「この舞扇子は、母の愛用のものです」

「もし使えるなら、母のリハビリに使ってください」


 宮本はその包みを受け取った。

 軽くも重くもない。

 けれど、人の時間がそのまま折り畳まれているような重さがあった。


「預かります」


 英恵は小さく頷いた。

 それしかできなかった。



 池の前で、よし恵は右手の杖を見た。

 それから、動かない左手を見る。

 また、離れを見る。


 障子の向こうでは、もう片付けも終わったらしい。

 音は少ない。

 風だけが、庭木を揺らしている。


 よし恵はそっと杖を木の幹に立てかけた。

 右手をズボンのポケットへ入れる。

 そこに触れたのは、薄い布の感触だった。


 取り出す。


 包みを開く。

 現れたのは、使い慣れた淡い紫色の舞扇子だった。


 長く使ってきた、自分の愛用の扇子。

 稽古場でも、舞台でも、手の中にあったもの。


 なぜこれが、いまここにあるのか。

 考えなくても分かった。

 あの作業療法士。

 無精ひげのくせに、余計なことをする。


 よし恵は右手で扇子を持った。

 左手は添えられない。

 それでも、扇子を持った瞬間、胸の前の空気が少しだけ変わった気がした。


 離れはまだ目の前にある。

 障子の向こうには、板張りの床がある。

 足袋の音が重なってきた場所がある。


 よし恵は扇子と、動かない左手を交互に見た。


 そのまま、しばらく動かなかった。


 ――第4話 終


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