第3話 所作
作業療法室の窓は、もう夜の色を映していた。
昼のあいだは患者や職員の声で満ちていた部屋も、いまは白い蛍光灯の下で静まり返っている。
机の上には畳みきれていないタオルが一枚。
棚棚にはセラピーボールや洗濯ばさみ、訓練道具が整然と並び、昼の熱だけが薄く残っていた。
國井は、タオルを畳む手を二度ほどやり直してから、ようやく口を開いた。
「宮本さん……今日のこと、まずかったですよね」
返事はすぐにはなかった。
棚のそばで、白いケーシー姿の宮本が記録用紙を見ている。
無精ひげの影が蛍光灯の下で濃く見えた。
昼間と同じようにポケットへ片手を入れたまま、もう片方の手で紙をめくっている。
「左手の回復が簡単じゃないことは、わかっていたんです」
「でも……そんなふうに言ったら、菊川さんを傷つけてしまう気がして」
國井は続けた。
「何て答えれば、よかったのでしょうか」
「使えるようになるって言い切るのも違うし、難しいですって切るのも違う気がして」
宮本は記録から目を上げた。
「そうですね」
それだけだった。
國井は、少し困ったように笑う。
「たぶん、もう信頼されていないです」
「僕の言っていること、軽いって思われたのではないでしょうか」
作業療法室の壁時計が、小さく秒を刻んでいる。
窓の外では、病棟の駐車場の照明が白くにじんでいた。
宮本は、記録用紙を机に置いて國井に目を向けた。
「正直に話せばいい、というものでもないです」
國井は顔を上げた。
宮本は少しだけ間を置いて続けた。
「希望を持たせないのが正しいとも限りません」
國井は黙って聞いている。
「菊川さんが、どう生きてきた人なのか」
「何を失って、何に困っているのか」
「そこを見ないと、たぶん答えは決まりません」
國井はタオルを畳む手を止めた。
その言葉がすぐに全部分かるわけではなかった。
だが、自分が見ていたのは麻痺した身体で、菊川さん自身を見ていなかったような気がした。
「……すみません」
「謝ることじゃないです」
宮本の声は低く、平らだった。
責めている感じはない。
かといって、慰めてもいない。
「明日から、私も入ります」
國井が目を瞬く。
「菊川さんのですか」
「ええ」
宮本は短く頷いた。
「國井さんも一緒に入ってください」
それだけ言うと、また記録に目を落とした。
國井はその横顔を見て、師匠という言葉を一瞬思い浮かべた。
すぐに違うと思った。
そういう人ではない。
けれど、全部を言わずに先だけ示すところは、どこかそれに似ていた。
翌日の作業療法室は、午前の光で明るかった。
カーテン越しの白い光が机の縁に落ち、タオルの毛羽立ちまで浮かび上がらせている。
よし恵は椅子に浅く腰かけたまま、室内を見ていた。
國井がいる。
その後ろに、昨日の無精ひげの男もいた。
白いケーシーは着ているが、きちんとした印象は薄い。
髪も整いすぎず、顎には影が残っている。
ただ、部屋へ入ってきてから一度も無駄に動かない。
それだけが妙に目についた。
「今日から宮本さんも一緒に入ります」
國井が言う。
よし恵はその男を見た。
宮本は軽く名乗った。
「宮本です」
よし恵は返事をしない。
それでも宮本は気にした様子もなく、椅子の横へ立った。
「菊川さん、一度、立ってみてもらえますか」
よし恵は、その不躾さに苛立った。
「立つのですか」
宮本はほんの少し間を置いて頷いた。
左手を見るのではないのか、とよし恵は眉を寄せた。
「左手じゃないのですか」
「左手も見ます」
宮本はそう言ったあと、椅子の位置を少しだけ動かした。
「お願いします」
よし恵は不満そうな顔のまま、右手で肘掛けを押した。
立ち上がる。
左足が一拍遅れ、重心が少し右へ逃げる。
その瞬間、宮本の視線が身体の正面から足元へ、また肩口へと動いた。
國井はそれを見ていた。
左手の可動域訓練やタオルワイピングではなく、立つ前から立ったあとまで、全部を見ているようだった。
「そのまま、一度座ってください」
よし恵は座る。
右手の置き方が静かだった。
膝の向きも、崩れ切らない。
座り直すとき、上半身が妙にまっすぐ残る。
「次は、これを」
宮本はタオルを一枚、机の上へ置いた。
國井が昨日と同じように前腕を乗せようとしたが、宮本が小さく首を振る。
「両手で持ってみましょう」
左手は握ったままだ。
右手でタオルの端を取り、左前腕の下へ軽く入れる。
そのまま、両手をそろえて前へゆっくり運ぶ。
國井が補助しようとしたが、宮本は視線でだけ止めた。
手を出すのは最小限。
よし恵の身体が、どこまで自分で整えられるかを見ていた。
「左右をそろえて、同じ速さで前に出してください」
「ゆっくりでいいです」
よし恵は無言のままタオルを前へ送る。
左手は自分で動いている感じがしない。
けれど、両方を一緒に前へ出そうとすると、背中が自然に起きる。
右肩だけで引っ張ると崩れる。
そのぎりぎりのところで、よし恵の身体は妙に落ち着いていた。
次は、座位のまま身体を左右へ移す。
左側へ少しだけ重心を乗せる。
戻す。
もう一度。
そのあと、右手でタオルを持ったまま、身体を斜めに回す。
「そこです」
宮本が言う。
「いまの形で、一度止まってください」
よし恵は止まる。
左腕は重い。
左足に体重を乗せるのがうまくできない。
でも、姿勢は崩さない。
背中のどこかに、軸のようなものがまだ残っている気がした。
訓練がひと区切りついたところで、よし恵は宮本を見た。
「左手は、動くようになるのですか」
その問いは、昨日と同じだった。
見ていた國井の肩が、わずかに強張る。
宮本はよし恵に顔を向けてはっきりと答えた。
「左手は、難しいです」
よし恵の目が、ほんの少しだけ冷たくなる。
國井が息を止める。
だが、宮本はそのまま続けた。
「ただ、残っているものがあります」
よし恵は笑わなかった。
むしろ、その言葉の方が不快だった。
「自分の身体のことくらい、自分でも分かります」
声は低い。
怒鳴ってはいない。
だが、その方が痛かった。
「問題は、残っている方じゃないでしょう」
宮本は頷きもしなかったし、首も振らなかった。
「戻らないものはあります」
その言い方は、慰めではなかった。
「でも、できることもあります」
「そんなもの、残っていても仕方がないでしょう」
よし恵ははっきり言った。
國井が思わず宮本を見る。
ここで何と返すのか、分からなかった。
宮本はよし恵の右手を見ていた。
さっきタオルを持ったときの角度。
止まったときの肩の位置。
目線を置く前の一瞬の間。
宮本は、なおもその右手を見たまま言った。
「菊川さん、日本舞踊をされていたんですね」
よし恵の表情が、そこで止まった。
「……何ですって」
「所作が残っています」
宮本の声は変わらない。
「立つ前の身体の置き方」
「止まるときの軸」
「物を持つときの右手の入り方」
「菊川さんが積み重ねてきた所作が残っています」
國井は、そこで初めて宮本が何を見ていたのか少しだけ分かった気がした。
左手ではなく、左手が戻らなくてもなお残っている、その人自身を見ていたのだ。
よし恵は視線をそらした。
「そんなもの、残っていても仕方がないでしょう」
同じ言葉だった。
だが、さっきよりわずかに弱かった。
宮本は慰めなかった。
「役に立ちます」とも、「まだ希望があります」とも言わない。
「まだ、わかりません」
それだけだった。
よし恵は宮本を見た。
無精ひげのくせに、曖昧な励ましを一つも寄越さない。
だから腹が立つ。
けれど、國井や藤原の言葉とは、どこか決定的に違っていた。
訓練が終わり、よし恵が病室へ戻ったあと、國井は作業療法室でしばらく黙っていた。
「所作が残っているというのは、どういう意味なのですか」
宮本は道具を片付けながら言う。
「菊川さんが生きて積み重ねてきたものは、簡単には消えません」
國井は納得できない様子で反論する。
「それが、先生の言う所作なのですか」
「でも、それが残っていても……何になるのですか」
宮本は畳んだタオルを机に置いた。
「決めるのは、菊川さんです」
國井は黙る。
宮本は続ける。
「左手の回復は、現実的には厳しいです」
「でも、菊川さんには長く積み上げてきた日本舞踊の所作があります」
「それを捨てるのか、活かすのかは、菊川さんが決めることです」
「でも、活かせる選択肢を用意することは、できるかもしれません」
國井はすぐには答えられなかった。
宮本の言うことが分かったわけではない。
けれど、昨日より少しだけ、自分が見ていなかったものが見え始めた気がした。
病室では、よし恵がコップを持ち上げていた。
右手で取っ手を持ち、口元へ運ぶ。
動きは小さいのに、ぶれがない。
その角度だけが、妙に静かだった。
肘が開きすぎず、視線が先に置かれ、動きが途中で乱れない。
水をひと口飲んでから、よし恵はふと止まった。
さっきの男の声が、まだ耳に残っている。
――所作が残っています。
腹立たしい言葉だった。
慰めにもならない。
それなのに、その言葉のせいで、自分の身体の動きを少しだけ意識してしまった。
よし恵はコップを机へ戻した。
右手の置き方が、昔の自分に少しだけ似ていた。
それが余計に、胸の奥をざらつかせた。
――第3話 終




