第2話 奈落
病室の窓から見える空は高く、季節だけが少しずつ進んでいく。
朝の光は白く、カーテン越しにベッド柵の影を細く落としていた。
点滴台の鈍い光沢。
白いシーツ。
消毒液の匂い。
病院の朝は、毎日同じような顔をしている。
よし恵は、ベッドの端に腰をかけていた。
あの日、倒れてから自分の身体は別の何かになってしまった。
左手は膝の上で固く握り込まれている。
指は内側へ巻き込み、爪が掌に食い込みそうなくらいだった。
右手で開こうとしても、指先は少しも素直ではない。
肘は曲がったまま身体の近くに寄り、肩もどこか引き上がっている。
左足は床についているが、外に向いてしまう。
意識していないと位置が決まらない。
入院してから二か月、治療を受けている。
休まずにリハビリもしてきた。
急性期病棟を出て、いまは回復期病棟で毎日訓練をしている。
それでも、左手は握ったままだった。
足は杖があればどうにか歩ける。
どうにか、という程度だった。
よくなるのだろうか。
その問いだけが、日に日に重くなっていた。
病室のドアを開け、若い看護師が顔を出す。
「菊川さん、おはようございます」
担当の沼田だった。
髪を明るく染めたままきっちりまとめていて、まだ新人らしい空気が少し残っている。
「今日は午前中にリハビリですね」
「頑張りましょうね」
よし恵は小さく頷いた。
「ええ」
それだけだった。
頑張る。
その言葉が何を意味しているのか、沼田は分かっていない。
歩けるようになることか。
転ばないようになることか。
それとも、もう一度舞台に立てるようになることか。
よし恵には、どれも同じには思えなかった。
沼田はそれ以上踏み込まず、点滴の確認だけして病室を出ていった。
軽い足音が廊下の向こうへ遠ざかる。
しばらくして、理学療法士の藤原が迎えに来た。
二十代の終わりくらい。
短く切った髪に、焼けた首筋。
スポーツマンの名残がそのまま身体に残っているような男だった。
歩き方にも無駄がない。
「菊川さん、行きましょうか」
藤原は淡々としている。
やさしすぎず、冷たすぎない。
回復期の毎日に慣れた人間の声だった。
リハビリ室は、午前の光を広く受けていた。
平行棒、ステップ台、マット、鏡。
歩行器の車輪が床を鳴らし、どこかで誰かが息を吐く。
誰もが何かを取り戻そうとしている場所だった。
藤原は平行棒の前で立ち止まる。
「今日はここで歩行を確認して、そのあと杖でいきましょう」
よし恵は頷いた。
平行棒の中へ入る。
右手で支持し、左足を出そうとする。
遅れる。
重心が流れそうになる。
藤原の手が、すぐ届く位置にある。
一歩。
また一歩。
以前なら畳から板へ移ることも、庭を横切ることも、何も考えなかった。
いまは足を一歩出すたびに、身体のどこかがずれていく。
平行棒を終えて、今度は杖だ。
右手に杖を持つ。
藤原が左後方につく。
「焦らなくて大丈夫です」
「重心を先に」
よし恵は数歩進んでから、息を整えるように立ち止まった。
「……杖なしで歩けるようになりますか」
藤原はすぐには答えなかった。
その沈黙で、半分は分かった。
「いまは、安全に歩けることを優先しましょう」
よし恵は藤原を見た。
それは答えではなかった。
答えではないことが、よけいに答えだった。
「杖を使った方が、身体は安定しますから」
藤原はそれだけ言った。
嘘はついていない。
だが、希望も渡していなかった。
そのあと、作業療法室へ移る。
作業療法室は理学療法室より少し狭く、机と椅子、棚の上の道具類、白いタオル、セラピーボール、洗濯ばさみ、積み木のようなものが整然と並んでいた。
窓際の机には若い作業療法士が立っている。
担当の國井だった。
一年目らしい硬さの残る立ち方をしている。
髪をきっちりまとめ、名札の位置までまっすぐだった。
まじめで、言われたことはきちんとやる。
そういう空気がある。
その少し後ろの棚の近くに、無精ひげの男性がいた。
白いケーシーのポケットに手を入れたまま、國井の動きを見ている。
ときどき、國井にだけ聞こえる声で短く何かを言う。
「菊川さん、今日は左手を少し動かしていきましょう」
國井の声は明るく礼儀正しい。
机に置いたタオルの上に、よし恵の左の前腕を乗せ、右手で支えながら肩を前へ出す。
ゆっくりと前へ滑らせる。
左手は添えられているだけで、自分から動いている感じはしない。
「そうです」
「ゆっくり、前に」
國井は丁寧に促す。
次は可動域訓練だった。
肩。肘。手首。
どれも無理のない範囲で。
毎日行っている順番だった。
よし恵は、それを受けながら國井を見た。
「これで、左手は使えるようになるんですか」
國井は言葉を探し、沈黙を埋めようとする。
「少しでも使いやすくなるように、練習していきましょう」
よし恵の視線は動かない。
「……使えるようになるんですか」
國井の喉が動く。
「リハビリを頑張れば、使えるようになる可能性はあります」
その言葉が落ちたあと、部屋の空気が少しだけ変わる。
棚のそばに立っていた無精ひげの男性が、ほんのわずかに眉をひそめた。
藤原が少し離れた場所から歩み寄り、國井の言葉に重ねるように言った。
「いや、菊川さんの麻痺は、正直簡単じゃないですよ」
「だから、まずはできることを増やしていきましょう」
國井がハッとして顔を上げる。
反論しようとするが、言葉が出ない。
よし恵は藤原を見た。
そして、國井を見た。
どちらが本当のことを言っているかは、もう分かっていた。
希望を持たせる言葉と、切って捨てる言葉。
どちらも、いまの自分にはきつかった。
「……そう」
それだけ言う。
声は静かだったが、その静けさの方が國井にはこたえたらしい。
若い作業療法士は唇を結び、それ以上何も言えなかった。
無精ひげの男性は、そのやり取りを黙って見ていた。
その日の午後、娘の英恵が面会に来た。
英恵は四十歳になる。
髪は肩に届かない長さで切り揃えられ、後ろへ流している。
生成りのブラウスに、濃い色のパンツ。
化粧は薄い。
年齢より若く見えるが、姿勢には隙がない。
だが、頬の線は細いが、眠れていない影が目の下にわずかに残っていた。
「お母さん」
英恵はベッドの脇へ来た。
椅子にはすぐに座らない。
何かを言いに来た人間の立ち方だった。
「今日、リハビリどうだった」
「いつも通りよ」
よし恵は答えた。
英恵は少しだけ目を伏せる。
それから、椅子に腰を下ろした。
「藤林流のことで……話があるの」
よし恵は何も言わない。
「稽古、止めてきたけど……そろそろ限界かも」
英恵の声は落ち着いていた。
無理にやわらげない。
その真っ直ぐさが、よし恵には痛かった。
「弟子たちも心配しているし、これ以上休ませると、戻らない子も出そうなの」
「このままじゃ……」
病室の白さが、少しだけ冷えた気がした。
「……お母さん」
「私が……預かっても……いいですか」
その言葉を、英恵は絞り出すように言った。
「お母さんが戻るまで……師範代わりに、私が立ちます」
よし恵は娘の顔を見た。
英恵は視線をそらさない。
怖いのだろう。
でも、言わずに済ませるつもりはない顔だった。
「先日、病院の先生に、退院まではまだ時間がかかると言われました」
その一言で、病室の空気がさらに沈んだ。
時間がかかる。
戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
はっきり断言しない言葉ほど、残酷なことがある。
「お母さんが戻る場所を、なくしたくないの」
英恵が続ける。
「だから止めるんじゃなくて、つないでおきたい」
よし恵は笑わなかった。
怒りもしなかった。
それがよけいにつらい。
「……私、戻るつもりよ」
英恵の指が、膝の上で少し強く組まれる。
「うん」
「戻るわ」
「分かってる」
その返事が、よし恵には苦しかった。
信じているのか。
信じているふりをしているのか。
そのどちらでも、痛みは同じだった。
「でも、もう待てないの」
英恵ははっきりと言った。
「二か月、止めてきた」
「これ以上は、藤林流ごと止まってしまう」
よし恵は目を閉じた。
藤林流。
それは自分が背負ってきた名前であり、離れの空気であり、弟子たちの視線であり、長い年月そのものだった。
「……そう」
「お母さん」
「英恵がやりなさい」
その言葉は、許しではなかった。
敗北に近いものを、形だけ整えて差し出した言い方だった。
英恵はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頭を下げる。
「戻るまで、預からせていただきます」
それで話は終わった。
終わったが、何も収まってはいなかった。
英恵が帰ったあと、病室にはまた白い静けさだけが残った。
よし恵は右手で、左手の指を一本ずつ開こうとした。
親指。
人差し指。
中指。
どれも思うように伸びない。
舞扇に左手を添える形を、頭の中で何度も思い出す。
肘の高さ。
手首の角度。
指先の抜き方。
身体は覚えている。
だが、目の前の左手は、まるで他人のものみたいに固まったままだ。
よし恵はその手を見つめた。
もう舞えない。
そう思った。
舞えないだけではない。
もう教えられない。
もう、稽古場の真ん中に立つ人ではない。
目を閉じると、板の間に扇が落ちたあの乾いた音だけが、何度でもはっきり蘇る。
舞台の床が抜けて、自分だけがその底へ落ちていく。
上ではまだ、誰かが扇を持って立っている。
奈落の底から見上げるみたいに、よし恵は白い天井を見たまま、しばらく動けなかった。
――第2話 終




