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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第4章 舞台は、まだそこにある

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第7話 初風

 五月の風は、まだ夏の匂いを持っていなかった。


 喫茶チェリーの入口のベルが、いつもの乾いた音を立てる。

 西日にはまだ早い時間で、店の中にはやわらかな昼の明るさが残っていた。

 古びた木のテーブル。

 どこか曇ったガラス。

 壁際の観葉植物。

 天井では古いシーリングファンがゆっくり回っている。

 コーヒーの匂いは相変わらず頼りなく、店の空気はいつも通り少しだけぬるかった。


 宮本はドアを閉めると、いつもの窓際の席へ向かった。

 白衣ではなく、くたびれたシャツ姿だった。

 肩にかけていた鞄を椅子の横へ置き、椅子を引いて腰を下ろす。


「今日は早いね」


 カウンターの向こうから、小金井が声をかける。

 車いすの膝の上には丸盆。

 その動きは相変わらず無駄がなく、小さな店の中をするすると渡っていく。


「たまたまです」


 宮本は短く答えた。


「いつもの?」


「はい」


 小金井は少し笑った。


「相変わらず、味の分からない人だ」


「この店で味を言う方がおかしいですよ」


 カウンターの奥で、マスターが小さく鼻を鳴らした。

 聞こえているのかいないのか、いつも曖昧だった。


 小金井が水を置いて戻る。

 水を一口含んでから、宮本は横に置いた鞄に手を入れた。

 中から白い封筒を取り出す。


 病院の退勤時に受け取ったものだった。

 宛名は、自分の名前。

 差出人には、菊川英恵とある。


 宮本は封筒をしばらく見ていた。

 それから、窓の外へ一度目を向ける。

 商店街の先では、若葉の色が風に揺れていた。


「手紙?」


 向かいの席へ来た小金井が、何気なく聞いた。


「ええ」


 宮本はそれ以上言わず、ゆっくりと封を切った。


 中には、三つ折りの便箋が二枚。

 もう一枚、小さな添え書き。

 そして、写真が一枚入っていた。


 宮本はまず添え書きを開く。


 英恵の字だった。

 きちんと整った、まっすぐな字。


 ――宮本先生

 母が舞台に立ちましたことを、お伝えしたくてお手紙を書きました。

 そのときの写真も同封いたします。

 母も、先生にぜひ見ていただきたいと申しております。


 それだけの短い文面だった。

 だが、その「舞台に立ちました」という一文だけで、宮本の指はしばらく次へ進まなかった。


 写真を取り出す。


 どこかの公民館らしい、小さな舞台だった。

 緞帳の色も浅く、背景も簡素で、照明だけが不自然なくらいまっすぐだった。

 その光の中央に、車いすのよし恵がいた。


 病院では見たことのない藤色の着物。

 手には、あの愛用の淡い紫色の舞扇子。

 顔にはきちんと舞台化粧が施され、照明の中で輪郭だけが少し白く浮かんでいる。

 左手は添えられない。

 それでも、扇子を構える右手と、少し流した視線だけで、写真の中の空気は静かに張っていた。


 小さな舞台だった。

 前のようには舞えない。

 立ってもいない。

 それでも、よし恵の舞台は、まだそこにあった。


 コーヒーをテーブルの隅に置いた小金井が、横から身を乗り出しかけて、やめた。


「見てもいい?」


 宮本は写真を無言で差し出した。


 小金井はそれを受け取り、しばらく何も言わなかった。

 ただ、写真の中のよし恵をじっと見ている。


「……きれいだね」


 声は小さかった。


「私と同じ車いすなのに、舞台で踊っているんだ」

「すごいね」


 宮本は小さく頷いた。


「ええ。信念のある人です」


 小金井は写真をもう一度見るが、それ以上は何も聞かなかった。


 次に宮本は便箋を開いた。


 毛筆で書かれた達筆な文字が目に入る。

 病院名と、リハビリテーション科、宮本様と書かれている。

 それだけで、よし恵がこの手紙を書く前に何度か筆を置いたことが分かるようだった。


 ――宮本様


 踊れなくなったと思っていました。

 でも、全部やらなくても、伝えることはできるのですね。


 私は以前のようには舞えません。

 でも、扇の先に残るものは、まだあったようです。


 今は、続きを想像していただける踊りを、いつかあなたに見てもらうことを目標にしております。


 宮本はそこで、いったん目を止めた。

 窓の外から、風が少しだけ入り込む。

 便箋の端が、ほんのわずかに揺れた。


 その先の文は短かった。


 ――語らなくても伝わることがある。

 そのことを、あなたに教えていただきました。

 ありがとうございました。


 署名は、菊川よし恵。

 その名の最後の一画だけが、少しだけ強く引かれていた。


 宮本は便箋を閉じる。

 すぐには封筒へ戻さず、写真の横へ置いた。


 小金井は、その手元を見ていた。


「担当していた人?」


 宮本は少しだけ間を置いた。


「はい」


 それだけだった。

 だが、その一言は、いつもの病棟での返事より少しだけ深かった。


 小金井が、写真を見たまま言う。


「車いすでも、ちゃんと舞台に立てるんだね」


 宮本は返事をしなかった。

 写真の中のよし恵を見ている。

 藤色の着物。

 扇の先。

 照明の中で止まっている一瞬。

 その静けさの中に、まだ続いているものが確かにあった。


 マスターがカウンターの奥から言う。


「冷めるぞ」


 それがコーヒーのことなのか、手紙の余韻のことなのかは分からない。

 小金井が少しだけ笑う。


「パパのコーヒー、冷めなくてもまずいけどね」


「うるさい」


 マスターは顔も上げずに返す。


 宮本は写真と便箋を静かに封筒へ戻した。

 鞄へしまい、それからようやくカップを手に取る。


 ひと口飲む。

 やはり、まずかった。


 けれど、そのまずさは、今日は少しだけ悪くなかった。


 窓の隙間から、五月の風がまたひとつ入ってきた。


 ――第7話 終


   第4章 完

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