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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
9/10

第八章 自分ではない自分

 白瀬真昼が消えた。


 その報せが最初に届いた時、御影レイは自宅の食卓にいた。


 味噌汁は、まだ温かかった。


 御影佳乃が、レイの前に焼き魚の皿を置いている。雨の日の夕食。窓ガラスには細い水滴が流れ、台所の換気扇が低く回っていた。外の世界で何が起きていても、家の中には味噌と焼いた魚と炊きたての米の匂いがある。


 その普通さが、かえって不安だった。


 レイは箸を持っていた。


 スマホが震えた。


 画面には、黒江透子の名前。


 佳乃が、何も聞かずにレイを見た。


 レイは通話を取った。


「御影です」


『白瀬真昼さんと連絡が取れません』


 透子の声は、いつもより硬かった。


 レイの指先から、箸の感覚が消えた。


「いつから」


『およそ二十分前です。代替機の位置情報が旧校舎付近で途切れました。その直前、《アガルタ観測録》の下書きに新規記事が生成されています』


「記事?」


『タイトルだけです』


 透子は一拍置いた。


『エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた』


 レイの喉が詰まった。


 そのタイトルを、真昼が書いたのか。


 黒い傘の人物が書いたのか。


 それとも、真昼が書きかけたものを、誰かが利用したのか。


 まだ分からない。


 けれど、その文字列だけで、真昼の声が聞こえる気がした。


 エミーさんは、ここにいた。


 ニュースの被害者じゃなくて。


 誰かの一部じゃなくて。


 ちゃんと、自分の名前で。


「メッセージは」


 レイは聞いた。


『代替機に匿名通知が一件』


「内容は」


 電話の向こうで、透子が息を吸う音がした。


『次は、お前の名前を消す。』


 食卓の湯気が、急に遠くなった。


 胸の奥で、水音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 地下の音。


 レイは立ち上がった。


 椅子が床を擦って音を立てる。


 佳乃が静かに言った。


「レイ」


「行く」


 自分でも、声が驚くほど冷たかった。


 佳乃は止めなかった。


 ただ、玄関のほうへ歩き、畳んであった傘を取った。学院指定の透明傘ではない。少し丈夫な黒に近い紺色の傘。


 レイはそれを見て、一瞬だけ呼吸を止めた。


 黒い傘ではない。


 黒に近いだけだ。


 佳乃は、レイの反応に気づいて、傘を持つ手を少し緩めた。


「別のにする?」


「いい」


 レイは首を振った。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない時の言葉ね」


「みんなそれ言う」


「みんなが正しい時もあるわ」


 佳乃は傘を渡した。


「真昼さんを、名前で呼んであげなさい」


 レイは傘を受け取った。


「分かってる」


「本当に?」


 母の声は優しかった。


 だが、逃がしてくれない声だった。


 レイは答えるのに少し時間がかかった。


「分かりかけてる」


 佳乃は、小さく頷いた。


「それなら行きなさい。帰ってくる時は、ひとりで帰ってこないこと」


 レイは玄関へ向かった。


 靴を履き、扉を開ける。


 雨が降っていた。


 アガルタの雨。


 何かを消すためではなく、何かを連れてくる雨。


 レイは走り出した。


     *


 真昼の記憶は、見えなかった。


 駅へ向かう坂道を走りながら、レイは何度も彼女を探した。


 エミーの時とは違う。


 倉科悠斗の時とも違う。


 彼らの記憶は、強い痛みや恐怖をきっかけに、レイの中へ無理やり開いた。赤いステージ。地下の線路。喉の熱さ。作業日報。黒いナイフ。名前を失いかける感覚。


 だが、真昼は見えない。


 白瀬真昼の視界は開かない。


 彼女の息遣いも、足音も、恐怖も、直接は流れ込んでこない。


 レイは歯を食いしばった。


 やはり、違う。


 真昼は、レイ系の同魂者ではない。


 そう思った瞬間、胸に冷たいものが落ちた。


 安堵ではない。


 むしろ、もっと怖かった。


 真昼が自分の同魂者ではないなら、レイには彼女を見つけるための感覚がない。


 死の直前に受け取ることもできない。


 痛みを共有することもできない。


 彼女が消えていく時、レイは何も感じられないかもしれない。


 それなのに、断片だけが流れる。


 銀色のヘアピン。


 白い折りたたみ傘。


 古書喫茶の窓際。


 雨の坂道。


 地下通路。


 黒い刃。


 誰かの声。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 その声は真昼の声ではない。


 レイの知らない少女の声。


 けれど、真昼の胸の奥に残っている。


 真昼自身のものではないはずなのに、彼女の中で痛みとして反応している。


 意味が分からない。


 分からないまま、レイは走った。


 スマホが震える。


 透子からの位置情報共有。


 集合地点は、旧地下鉄保守課の管理棟。


 すでに霧生、綾瀬、御堂、そして負傷中の倉科悠斗も向かっているという。


 レイは画面を見ながら、短く息を吐いた。


 悠斗まで。


 病院にいるはずの彼まで。


 次の瞬間、真昼の声が記憶の中で重なった。


 怖いから、知らないままにしたくないの。


 レイは、もう一度走る速度を上げた。


     *


 旧地下鉄保守課の管理棟には、赤い警告灯が回っていた。


 非常事態のためではない。


 警察が現場を押さえ、交通局が一部区画を封鎖し、病院から連絡を受けた倉科悠斗が無理を押して戻ってきたため、現場全体が異様な緊張に包まれていた。


 レイが到着した時、悠斗は管理棟の入口で田端に怒鳴られていた。


「お前、病院に戻れって言われただろ!」


「うるさい。道案内が必要なんだろ」


「腹切られてまだ一日も経ってねえんだぞ!」


「切られたんじゃない。削られた」


「どっちでもいいわ!」


 悠斗は作業服ではなく、病院で渡された簡易の上着の上に反射ベストを着ていた。左脇腹には厚く包帯が巻かれ、歩くだけで顔が歪む。それでも、ヘルメットを持つ手は離さない。


 透子が厳しい声で言った。


「倉科さん。あなたを地下へ入れる許可は出していません」


「案内なしで行くほうが危険です」


「あなたが倒れても危険です」


「倒れたら置いていけばいい」


「冗談でも言わないでください」


「冗談じゃない」


 悠斗の顔は青かった。


 痛みのせいだけではない。


 彼も分かっている。


 真昼が誘導された場所は、旧第三連絡線のさらに奥だ。


 そこは保守課でも常時入る場所ではない。封鎖ホーム。消えかけた駅名。二年前の事故現場に近い、水と記録の溜まり場。


 透子は強く反論しようとした。


 その前に、霧生が口を挟んだ。


「黒江。道案内としては使う。ただし、先頭には立たせない。負傷者扱いで、俺の横。倒れたら俺が担ぐ」


「主任」


「時間がない」


 霧生の声は低かった。


「御堂が防犯カメラ拾った。旧校舎付近で白瀬が一瞬映ってる。その後、映像が飛んでる。次に旧地下鉄搬入口近くのカメラに、白い傘が映った」


「白い傘」


 レイが反応する。


 真昼は白い傘を持っていない。


 彼女の傘は、学院指定の透明傘だった。


 白い折りたたみ傘は、真昼の断片に出てくるもの。


 銀色のヘアピンの少女の記憶。


 真昼ではない誰かのもの。


「映っていたのは真昼ですか」


 レイが聞く。


 霧生は、少しだけ顔をしかめた。


「顔は映ってねえ。いや、正確には映ってるのに、判別できない。黒い傘の時ほどじゃないが、画面が滲んでる。ただ、背格好と制服は白瀬だ」


「真昼は、誰かに連れていかれた?」


「分からん」


 御堂圭吾が、管理棟の中からタブレットを持って出てきた。


 徹夜続きの顔で、眼鏡の奥の目が赤い。


「自発的に歩いているようにも見えます。ただ、動きが不自然です。何かを追っているか、呼ばれているように見える」


「呼ばれている」


 レイは小さく繰り返した。


 名前を呼ばれたのか。


 それとも、名前を消すと脅されて、自分から向かったのか。


 真昼なら、後者もありえる。


 だが、レイは知っている。


 真昼は無謀だが、愚かではない。


 彼女がひとりで旧地下鉄へ行くなら、必ず何か理由がある。


「下書きの記事は」


 レイが聞いた。


 御堂がタブレットを操作する。


「タイトルだけです。本文は空白。ただし、復元ログに、何度か入力しかけた形跡があります」


「何を」


「『赤いヒール』『最後のステージ』『右膝の痛み』『明日から、私の名前で踊る』」


 レイの喉が詰まった。


 真昼は書こうとしていた。


 超常現象ではなく、エミーのことを。


 エミーがここにいたことを。


 だから狙われた。


 名前を残そうとしたから。


「行きます」


 レイは言った。


「当然だ」


 霧生が頷く。


「ただし、勝手に走るな。今回は本当に死ぬ」


「分かっています」


「本当か?」


「たぶん」


「だからその返事をやめろ!」


 霧生が怒鳴った。


 普段なら真昼が横で笑う場面だった。


 だが、彼女はいない。


 その空白だけで、レイの胸が痛んだ。


 透子が、全員を見た。


「確認します。目的は白瀬真昼さんの救出。黒い傘の人物の追跡は二次目標です。封鎖扉の向こうへは入りません」


「相手が入ったら?」


 霧生が聞く。


「追いません」


「お前が言うと信用ならんな」


「今回は追いません」


 透子の声には、強い決意があった。


 だが、その奥に恐怖もあった。


 封鎖扉の向こう。


 まだ下がある場所。


 境界観測局の記録にも、市警の管轄にも、交通局の保守範囲にも収まりきらない場所。


 この事件は、そこへ降りる物語ではない。


 まだ。


「行きましょう」


 透子が言った。


 旧地下鉄の搬入口が開く。


 冷たい風が、地下から吹き上がった。


 雨の匂いがした。


     *


 旧地下鉄は、前よりも暗く感じた。


 作業灯は点いている。


 警察が追加の照明も設置している。


 それでも、闇の濃さが違う。


 地下の空気そのものが、照らされることを嫌がっているようだった。


 悠斗は霧生に肩を借りながら歩いていた。


「この先、右に古い連絡通路があります」


「封鎖されてるんじゃないのか」


 霧生が聞く。


「封鎖扉はあります。でも、古い保守用の抜け道が残ってる。図面には載ってない」


「図面に載ってない道をどうして知ってる」


「現場の人間は、図面より壁を見るんです」


「格好いいこと言うな、怪我人」


「痛いんで喋らせないでください」


「お前が喋り始めたんだろ」


 悠斗の額には汗が浮いていた。


 脇腹の傷が痛むのだろう。


 それでも、彼の視線は鋭い。


 レイはその背中を見ていた。


 彼は生きている。


 名前を失いかけても、戻ってきた。


 倉科悠斗。


 その名前を、レイは心の中で何度も確認する。


 真昼も、必ず名前で呼ぶ。


 白瀬真昼。


 彼女は僕じゃない。


 その言葉を、まだ声には出していない。


 だが、胸の奥で何度も繰り返していた。


 通路を曲がると、水音が大きくなった。


 床に薄い水が張っている。


 靴底が水を押し、波紋が作業灯の光を揺らす。壁には古い広告の跡が残っていた。文字は剥がれ、絵は色褪せ、何の広告だったのか分からない。


 さらに進むと、消えかけた駅名標が現れた。


 雨宮坂下。


 その下に、別の文字が薄く浮いている。


 何度見ても、読めない。


 読む前に消える。


「ここから先は、旧ホームです」


 悠斗が言った。


「保守課でも普段は入らない。二年前の事故現場に近い」


「古河 千■」


 真昼ならそう言っただろう。


 レイは言わなかった。


 まだ、名前が欠けている。


 欠けたまま呼ぶことが、少し怖かった。


 真昼なら、どうする。


 呼べるところまで呼ぶ。


 足りない部分を、調べる。


 消えた名前を、そのままにしない。


 レイは、唇の内側で小さく言った。


「古河」


 そこまで。


 それでも、水音が少しだけ変わった気がした。


 旧ホームへ出た。


 使われていないホーム。


 水たまり。


 作業灯。


 錆びた線路。


 崩れたベンチ。


 天井から落ちる水滴。


 壁には、昔の改札口へ続く階段の跡がある。封鎖された扉の向こうから、さらに深い水音が聞こえていた。


 そして、ホームの中央に、真昼がいた。


 制服姿。


 濡れた髪。


 肩のカメラストラップはない。


 代替機もない。


 手には、なぜか白い折りたたみ傘を持っていた。


 傘は開かれていない。


 畳まれたまま、彼女の手に握られている。


 真昼の向かいには、黒い傘の人物が立っていた。


 傘は開いている。


 地下なのに、雨を受けるように。


 黒いコート。


 黒い手袋。


 顔だけがない。


 レイたちが到着しても、黒い傘の人物は振り返らなかった。


 真昼だけを見ている。


「また」


 その声が、旧ホームに落ちた。


「お前なのか」


 真昼は、顔を上げた。


 怖がっている。


 それでも目を逸らしていない。


「誰と間違えてるの」


 黒い傘の人物は答えなかった。


 真昼は、白い傘を握りしめる。


「私は白瀬真昼。アガルタ学院二年。新聞部。個人取材サイト《アガルタ観測録》の管理人」


 声は震えていた。


 けれど、はっきりしていた。


「あなたが誰を見ているのか知らない。でも、私はその人じゃない」


 レイは足を踏み出そうとした。


 透子が腕を掴んで止める。


「まだ」


「真昼が」


「距離があります。黒刃の間合いに入っています。こちらが動けば、相手も動く」


「でも」


「白瀬さんが時間を作っています」


 その通りだった。


 真昼は怖がりながら、それでも問い続けていた。


 取材する者として。


 記録する者として。


 名前を残す者として。


「あなたの名前は?」


 真昼が聞いた。


 旧ホームの空気が、一瞬で変わった。


 黒い傘の人物の周囲で、水たまりが震える。


 傘の縁から落ちる水滴が、黒く見えた。


「呼ぶな」


 声が、初めて荒れた。


 低く、深く、痛みに触れられた獣のような声。


 真昼は息を呑んだ。


 それでも、退かなかった。


「名前を消したいなら、なおさら聞く」


「呼ぶな」


「あなたは、誰?」


「呼ぶな!」


 黒い傘の下の顔が、さらに黒く滲んだ。


 レイの胸が軋む。


 名前を聞かれること。


 それが、この人物にとっては傷なのだ。


 見られること。

 記録されること。

 名前を呼ばれること。


 それらが、耐え難い恐怖になっている。


 黒い傘の人物の右手に、黒刃ヌルが現れた。


 光を反射しない刃。


 旧ホームの薄い照明の中でも、そこだけ穴が開いているように黒い。


 透子が低く言った。


「全員、待機」


 霧生が拳銃ではなく強力ライトを構える。


 綾瀬が無線に手をかける。


 悠斗は歯を食いしばり、ホームの構造を見ている。


「右側、階段跡の裏に回り込めます」


 彼が小さく言った。


「ただし床が抜けかけてる。行くなら一人」


「俺が行く」


 霧生が即答した。


「無茶です」


 悠斗が言う。


「無茶は俺の担当だ」


「主任、それは正式な役職ですか」


 綾瀬が小声で言う。


「黙って記録しろ」


「記録したくないです」


 そのやり取りさえ、ひどく遠く聞こえた。


 レイの意識は、黒い傘の人物へ吸い寄せられていた。


 観測しようとしている。


 顔を見ようとしている。


 犯人の正体を暴こうとしている。


 だが、そこへ近づくたび、黒いノイズが広がる。


 顔がない。


 名前がない。


 記憶が静かに切り取られる。


 それでも、声は届いた。


「アルファ」


 黒い傘の人物が、ゆっくり振り返った。


 顔はない。


 でも、確かにレイを見ている。


「お前は覚えているだけで、何も背負っていない」


 レイの身体が動かなくなった。


 言い返せなかった。


 その言葉には、一部の正しさがあった。


 エミーが死んだ時、レイは「僕がひとり死んだ」と言った。


 それは、彼女の死を自分のものとして処理する言葉だった。


 真昼が危ないと分かった時、彼女を止めようとした理由の中には、確かに「自分の同魂者かもしれないから」という恐怖があった。


 彼女を彼女として見るより先に、自分に流れ込むかもしれない誰かとして見た。


 レイはそれを否定できなかった。


 黒い傘の人物は、静かに言う。


「お前は彼女を救いたいのか」


 黒い刃が、真昼のほうへわずかに向く。


「それとも、自分の記憶を守りたいだけか」


 レイは、何も言えなかった。


 答えがすぐに出ない。


 救いたい。


 そう言いたい。


 でも、その言葉は本当に真昼のためなのか。


 自分がまた誰かの死を受け取りたくないだけではないのか。


 自分の中に流れ込む痛みを恐れているだけではないのか。


 真昼が、ゆっくりと振り返った。


 彼女の顔は青ざめていた。


 それでも、声ははっきりしていた。


「私は、御影くんじゃない」


 その一言が、旧ホームに落ちた。


 レイは、真昼を見た。


 白瀬真昼。


 旧新聞部室でメモ帳を広げる少女。


 勝手に危ない場所へ行く少女。


 怖いと認めながら、それでも名前を拾う少女。


 エミーのことを、ただの被害者にしないために走った少女。


 倉科悠斗の名前を、地下で叫んだ少女。


 銀色のヘアピンの記憶に震えながら、それでも「誰と間違えてるの」と問い返した少女。


 彼女は、レイではない。


 たとえ同じ魂だったとしても。


 たとえそう見えていたとしても。


 たとえいつか、違う答えが出たとしても。


 今ここにいる彼女は、白瀬真昼だ。


 レイは一歩前へ出た。


 透子の手が離れる。


 今度は止めなかった。


「彼女は僕じゃない」


 声は震えなかった。


 黒い傘の人物が、わずかに動きを止める。


 レイは続けた。


「たとえ同じ魂だったとしても、彼女は白瀬真昼だ」


 真昼の瞳が揺れた。


 怒りでも、恐怖でもなく、何かがほどけたような揺れだった。


「だから、殺させない」


 黒い傘の人物の輪郭が、ほんの少し乱れた。


 水に落とした墨のように、顔のない部分が揺れる。


「言葉だけだ」


 オメガの声は低かった。


「お前は、いつも言葉だけだ。覚えている。記録する。名前を呼ぶ。だが、死ぬのは私たちだ」


「そうだ」


 レイは言った。


 意外なほど素直に、言葉が出た。


「僕は助けられなかった」


 赤い路地。


 星形のピアス。


 エミーの喉。


「エミーも」


 旧地下鉄。


 割れたライト。


 古河 千■。


「たぶん、古河さんも」


 白い病室。


 識別バンド。


 僕の名前を呼んでください。


「他にも、知らない誰かも」


 黒い傘の人物が、動かない。


 レイは、もう顔を見ようとはしなかった。


 オメガを観測しようとするのではなく。


 犯人を暴こうとするのでもなく。


 まず、呼ぶべき名前がある。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 喉が詰まった。


 まだ、痛い。


 彼女の死が自分の中にあるからではない。


 彼女の人生を、自分の言葉で縮めてしまったことが痛い。


 レイは口を開く。


 でも、最初の音が出ない。


 その時、真昼が叫んだ。


「エミー・グレイス・ハーパー!」


 旧ホームに、彼女の声が響いた。


 強く、まっすぐに。


「クラブ《ミラー・ルージュ》のショーダンサー! 赤いヒールで踊ってた人! ミオさんにステップを教えた人! リナさんにお金を預けた人! 明日から自分の名前で踊るって言った人!」


 黒い傘の人物の刃が揺れた。


 水たまりの中の黒い影が乱れる。


 透子が続いた。


「被害者、エミー・グレイス・ハーパー」


 その声は、報告書の読み上げのように正確だった。


 けれど、冷たくはなかった。


「二十六歳。クラブ《ミラー・ルージュ》所属。事件当夜、店を出る意思があった。彼女は事件番号ではありません」


 霧生が低く言う。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 綾瀬も、少し震えながら続けた。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 悠斗が、痛みに耐えながら口を開く。


「俺は……会ったことねえけど」


 彼は脇腹を押さえ、息を吸った。


「エミー・グレイス・ハーパー。名前くらい、言える」


 名前が重なる。


 ひとりではない。


 真昼だけでもない。


 透子だけでもない。


 レイだけでもない。


 その場にいる人間たちが、消されかけた名前を呼ぶ。


 レイは、最後に言った。


「エミー」


 たったそれだけだった。


 姓も、ミドルネームも、まだ続けられなかった。


 それでも、彼女を「僕」と呼ぶよりは、ずっと遠い。


 遠いから、届く。


「エミー」


 もう一度。


 黒い傘の人物の身体が、大きく揺れた。


 その奥で、赤い照明が弾ける。


 古い鏡。


 濡れた客のコート。


 痛む膝。


 赤いヒール。


 壊れかけた星形ピアス。


 エミーの記憶。


 オメガが奪ったはずの記憶が、名前に反応して暴れ出す。


 違う。


 雨の路地で、女の声がする。


 違う。


 私は。


 黒い刃が震える。


 黒い傘の人物が、胸元を押さえた。


 声が二重になる。


 いや、三重にも、もっと多くにも聞こえる。


 その中で、エミーの声だけがはっきりした。


「違う。私はエミーよ」


 黒刃ヌルの黒が、乱れた。


 穴のようだった刃に、赤い照明の反射が一瞬だけ走る。


 ありえない光。


 黒い刃が光を返した。


 その瞬間、透子が叫んだ。


「今!」


 霧生が横へ走る。


 綾瀬が真昼へ向かう。


 レイも飛び出した。


 黒い傘の人物は刃を振るったが、軌道が乱れていた。黒い切断線が水たまりを裂き、ホームの端の標識を削り取る。しかし、真昼には届かない。


 真昼は白い傘を手放した。


 傘が水たまりへ落ちる。


 銀色のヘアピンの幻が、その水面に一瞬だけ浮かぶ。


 レイは真昼の腕を掴んだ。


「走れ!」


「言われなくても!」


 真昼は走ろうとして、足が滑った。


 レイが支える。


 その瞬間、黒い傘の人物がもう一度刃を構えた。


 近い。


 間に合わない。


 レイは真昼を背後へ押した。


 黒い刃が迫る。


 その刃を、霧生の投げた強力ライトが弾いた。


 正確には、弾いたのではない。


 光が黒刃に吸われ、吸いきれなかった分が弾けた。


 黒い傘の人物の腕がぶれる。


 霧生が怒鳴った。


「高校生に向けんな、陰気な傘野郎!」


「主任、罵倒が雑です!」


 綾瀬が叫びながら真昼を引き寄せる。


「雑でいいんだよ! 細かい罵倒は黒江に任せる!」


「私は罵倒担当ではありません」


 透子の声が、いつも通り冷静に返る。


 その平常さが、逆に現場を支えた。


 レイは真昼をホーム端まで連れて下がる。


 真昼は息を荒くしながらも、レイの腕を強く掴んでいた。


「御影くん」


「何」


「さっきの、聞いた」


「どれ」


「彼女は僕じゃないって」


 こんな状況でそれを言うのか。


 レイは一瞬そう思った。


 だが、真昼らしいとも思った。


「聞こえるように言った」


「じゃあ、あとでちゃんと話す」


「今じゃなくて?」


「今は逃げる」


「正しい」


 真昼は少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 それでも、その笑いは生きていた。


 黒い傘の人物は、ホーム中央で揺らいでいる。


 エミーの記憶がまだ暴れているのか、黒刃の形が安定しない。


 だが、倒れる気配はない。


 殺せない。


 捕まえられない。


 それが全員に分かった。


 オメガはまだ、ここで終わる相手ではない。


 黒い傘の人物が、レイを見た。


「アルファ」


 声は少し乱れていた。


「名前を呼べば救えると思うな」


「思ってない」


 レイは答えた。


「でも、呼ばなければ消える」


「消えたほうが楽なものもある」


「それを決めるのは、あなたじゃない」


「お前でもない」


「うん」


 レイは頷いた。


「だから、本人の名前で呼ぶ」


 黒い傘の人物が、初めて沈黙した。


 その沈黙の中で、レイは一瞬だけ何かを見た。


 白い病室。


 細い腕。


 識別バンド。


 黒い刃。


 窓のない部屋。


 誰かの声。


 僕の名前を呼んでください。


 それは、真木彼方なのか。


 オメガ自身なのか。


 あるいは、どちらでもない、もっと古い誰かなのか。


 分からない。


 レイが近づこうとした瞬間、透子が叫んだ。


「見すぎないで!」


 レイははっとした。


 視界が戻る。


 黒い傘の人物は、封鎖扉の前に立っていた。


 扉の向こうから、水音が聞こえる。


 旧ホームの奥。


 さらに深い階段。


 使われていない線路の先。


 そこには、まだ下がある。


 黒い傘の人物は、ゆっくり後ずさった。


 傘の縁から、水滴が落ちる。


「まだ、呼ぶのか」


 声がした。


 レイは答えた。


「呼ぶ」


 真昼が隣で言った。


「記録する」


 透子が言った。


「証明します」


 悠斗が、壁にもたれながら低く言った。


「俺は、俺の名前を忘れない」


 霧生がライトを構え直す。


「俺は、とりあえず逮捕状取りたい」


「主任、今それですか」


 綾瀬が言う。


「大事だろうが、現実の手続き」


 そのやり取りに、黒い傘の人物が反応したのかどうかは分からない。


 ただ、ほんの一瞬だけ、顔のない影が揺れた。


 笑ったようにも見えた。


 泣いたようにも見えた。


 次の瞬間、黒い傘の人物は封鎖扉の影へ溶けるように消えた。


 追おうとした警察官を、透子が止めた。


「追わない!」


「でも!」


「ここから先は、まだ駄目です!」


 その声には、恐怖があった。


 透子は封鎖扉を見ている。


 扉の奥で、水音が続く。


 階段がある。


 下へ、さらに下へ続く階段。


 そこへ降りれば、何かが分かる。


 オメガの正体。

 黒刃の由来。

 名前が消える場所。

 境界観測局が隠したもの。


 だが、今は行かない。


 行ってはいけない。


 真昼は、封鎖扉を見つめていた。


「……あそこ」


「見るな」


 レイが言った。


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「僕の真似をするな」


「うつった」


「最悪だ」


 真昼は、今度は少しだけ本当に笑った。


 その笑い声が、旧ホームに小さく響く。


 生きている声だった。


     *


 黒い傘だけが残っていた。


 旧ホームの中央、水たまりの上に。


 開かれたまま、柄を上にして、そこに立っている。


 誰の手にも持たれていないのに、倒れない。


 傘の布は濡れている。


 地下なのに。


 牧野佐和が到着し、証拠保全の準備をした。彼女は傘へ直接触れず、周囲の水、床面、空気中の微細な黒い残滓まで慎重に採取する。御堂は監視映像の復旧を試みているが、黒い傘の人物が映っていたはずの時間だけ、データが奇妙に空白になっていた。


 事件は、終わっていない。


 それでも、真昼は救出された。


 レイはホームの端に座り込んだ彼女の隣にいた。


 真昼の肩には救急隊員の毛布がかけられている。顔色はまだ悪い。手も震えている。けれど、彼女はちゃんと自分の名前に反応する。


「白瀬さん」


 救急隊員が呼ぶ。


「はい」


 真昼はすぐに答えた。


 その返事を聞くたび、レイは胸の奥が少しだけ緩む。


 真昼はそのことに気づいたらしい。


「何回も確認しなくても、私は白瀬真昼です」


「別に確認してない」


「してる顔」


「顔は証拠にならない」


「でも観察対象にはなる」


「黒江さんの影響が強すぎる」


「御影くんの屁理屈も混ざってる」


 言い返せなかった。


 真昼は毛布の端を握りながら、旧ホームの中央を見た。


「私、どうしてここに来たんだろう」


「覚えてないのか」


「断片だけ」


「何が見える」


「旧校舎。下書きの記事。エミーさんのタイトル。次はお前の名前を消す、って通知。それから、白い傘が廊下に落ちてた」


「廊下?」


「旧新聞部室の前。あるはずないのに、あった。拾ったら、胸が痛くなって」


 真昼は、両手で毛布を握った。


「気づいたら、地下へ向かってた。誰かに呼ばれた気がした。でも、私の名前じゃなかった」


「誰の名前」


「分からない」


「銀色のヘアピンの人?」


「たぶん」


 真昼は目を伏せた。


「でも、私じゃない」


「うん」


 レイは頷いた。


「君じゃない」


 真昼は、少し驚いたように彼を見た。


「今日は素直だね」


「今だけ」


「じゃあ、今のうちに聞く」


「何」


「私は御影くんの一部じゃない?」


 レイは、すぐに答えた。


「違う」


 真昼の目が揺れる。


「たとえ同じ魂だったとしても?」


「うん」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは本当にって言って」


「本当に」


 レイは言い直した。


「君は白瀬真昼だ」


 真昼は、しばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「よかった」


「怒ってたんじゃないの」


「怒ってるよ」


「よかったって」


「怒ってるのと、よかったは両立する」


「面倒だね」


「人間は面倒なの」


 真昼はそう言って、少しだけ笑った。


 その時、透子が二人の前に来た。


「白瀬さん。体調確認後、病院へ搬送します」


「え、私は大丈夫です」


「その発言をした人間の大丈夫を、私は信用しません」


「御影くんと同じ扱い」


「同じです」


「不本意です」


「僕も」


「二人とも、黙ってください」


 透子の声は疲れていた。


 だが、目はどこか柔らかかった。


 真昼は、旧ホーム中央の黒い傘を見た。


「あれ、証拠になるんですか」


「分かりません」


「また記録するんですか」


「します」


「名前がないものでも?」


 透子は、少しだけ考えた。


「名前がないなら、仮称をつけます。ただし、それが本当の名前だとは思わないようにします」


「黒い傘の人物」


「ええ」


「オメガ」


 レイが言った。


 透子が彼を見る。


 真昼も見る。


「それは、誰の名前ですか」


 透子が聞いた。


「名前じゃない」


 レイは答えた。


「まだ。対になるものの呼び方です。僕がアルファなら、あれはオメガ」


「あなたが名付けるのですか」


 透子の声は慎重だった。


 レイは少し考えた。


 名前をつけることは、所有することに近いのかもしれない。


 それが怖い。


 だが、呼べなければ記録できない。


 記録できなければ、対峙できない。


「仮称です」


 レイは言った。


「本当の名前だとは思いません」


 透子は、短く頷いた。


「記録します。黒い傘の人物、仮称オメガ」


 真昼は、その言葉を聞いて小さく呟いた。


「オメガ」


 地下の水音が、一瞬だけ大きくなった気がした。


 封鎖扉の向こうで、何かが反応したように。


 全員が、そちらを見る。


 だが、扉は閉じたままだった。


 その下から、細い水が流れている。


 水はホームの床を這い、黒い傘の影を歪め、レイたちの足元まで届いた。


 封鎖扉の向こうには、さらに深い階段がある。


 レイには分かる。


 真昼にも、たぶん分かっている。


 悠斗も、透子も、霧生も、それぞれ別の理由で理解している。


 ここから先は、今の事件の終点ではない。


 もっと深いものの入口だ。


 だが、今は降りない。


 今、守るべきものは、深層の秘密ではない。


 ここにいる人間の名前だ。


「帰りましょう」


 透子が言った。


「白瀬さんを病院へ。倉科さんも病院へ戻します。御影さんも検査を受けてください」


「僕も?」


「当然です」


「逃げたら?」


「霧生主任に捕獲させます」


「捕獲って」


 霧生が遠くから言った。


「網がないから腕力でいくぞ」


「検査を受けます」


「賢い」


 真昼が小さく笑った。


 その笑いに、レイも少しだけ息を吐いた。


 旧ホームを出る前に、レイは一度だけ振り返った。


 水たまりの中に、赤い照明が揺れた気がした。


 エミーの舞台。


 そして、雨の路地。


 レイは口の中で、もう一度だけ名前を呼んだ。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 今度は、最後まで言えた。


 声には出なかった。


 それでも、地下のどこかで、星形のピアスが小さく光ったような気がした。


 真昼が隣で聞いた。


「何か言った?」


「何も」


「嘘」


「エミーの名前を呼んだ」


 真昼は、一瞬だけ黙った。


 それから、頷いた。


「うん」


 旧地下鉄の奥では、まだ水音が続いている。


 黒い傘の人物は消えた。


 だが、エミーの名前は残った。


 倉科悠斗の名前も。


 白瀬真昼の名前も。


 御影レイの名前も。


 まだ、消えていない。


 それだけで、今夜は十分だった。


 少なくとも、深い階段を降りるのは、そのあとでいい。

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