第八章 自分ではない自分
白瀬真昼が消えた。
その報せが最初に届いた時、御影レイは自宅の食卓にいた。
味噌汁は、まだ温かかった。
御影佳乃が、レイの前に焼き魚の皿を置いている。雨の日の夕食。窓ガラスには細い水滴が流れ、台所の換気扇が低く回っていた。外の世界で何が起きていても、家の中には味噌と焼いた魚と炊きたての米の匂いがある。
その普通さが、かえって不安だった。
レイは箸を持っていた。
スマホが震えた。
画面には、黒江透子の名前。
佳乃が、何も聞かずにレイを見た。
レイは通話を取った。
「御影です」
『白瀬真昼さんと連絡が取れません』
透子の声は、いつもより硬かった。
レイの指先から、箸の感覚が消えた。
「いつから」
『およそ二十分前です。代替機の位置情報が旧校舎付近で途切れました。その直前、《アガルタ観測録》の下書きに新規記事が生成されています』
「記事?」
『タイトルだけです』
透子は一拍置いた。
『エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた』
レイの喉が詰まった。
そのタイトルを、真昼が書いたのか。
黒い傘の人物が書いたのか。
それとも、真昼が書きかけたものを、誰かが利用したのか。
まだ分からない。
けれど、その文字列だけで、真昼の声が聞こえる気がした。
エミーさんは、ここにいた。
ニュースの被害者じゃなくて。
誰かの一部じゃなくて。
ちゃんと、自分の名前で。
「メッセージは」
レイは聞いた。
『代替機に匿名通知が一件』
「内容は」
電話の向こうで、透子が息を吸う音がした。
『次は、お前の名前を消す。』
食卓の湯気が、急に遠くなった。
胸の奥で、水音がした。
ぽたり。
ぽたり。
地下の音。
レイは立ち上がった。
椅子が床を擦って音を立てる。
佳乃が静かに言った。
「レイ」
「行く」
自分でも、声が驚くほど冷たかった。
佳乃は止めなかった。
ただ、玄関のほうへ歩き、畳んであった傘を取った。学院指定の透明傘ではない。少し丈夫な黒に近い紺色の傘。
レイはそれを見て、一瞬だけ呼吸を止めた。
黒い傘ではない。
黒に近いだけだ。
佳乃は、レイの反応に気づいて、傘を持つ手を少し緩めた。
「別のにする?」
「いい」
レイは首を振った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない時の言葉ね」
「みんなそれ言う」
「みんなが正しい時もあるわ」
佳乃は傘を渡した。
「真昼さんを、名前で呼んであげなさい」
レイは傘を受け取った。
「分かってる」
「本当に?」
母の声は優しかった。
だが、逃がしてくれない声だった。
レイは答えるのに少し時間がかかった。
「分かりかけてる」
佳乃は、小さく頷いた。
「それなら行きなさい。帰ってくる時は、ひとりで帰ってこないこと」
レイは玄関へ向かった。
靴を履き、扉を開ける。
雨が降っていた。
アガルタの雨。
何かを消すためではなく、何かを連れてくる雨。
レイは走り出した。
*
真昼の記憶は、見えなかった。
駅へ向かう坂道を走りながら、レイは何度も彼女を探した。
エミーの時とは違う。
倉科悠斗の時とも違う。
彼らの記憶は、強い痛みや恐怖をきっかけに、レイの中へ無理やり開いた。赤いステージ。地下の線路。喉の熱さ。作業日報。黒いナイフ。名前を失いかける感覚。
だが、真昼は見えない。
白瀬真昼の視界は開かない。
彼女の息遣いも、足音も、恐怖も、直接は流れ込んでこない。
レイは歯を食いしばった。
やはり、違う。
真昼は、レイ系の同魂者ではない。
そう思った瞬間、胸に冷たいものが落ちた。
安堵ではない。
むしろ、もっと怖かった。
真昼が自分の同魂者ではないなら、レイには彼女を見つけるための感覚がない。
死の直前に受け取ることもできない。
痛みを共有することもできない。
彼女が消えていく時、レイは何も感じられないかもしれない。
それなのに、断片だけが流れる。
銀色のヘアピン。
白い折りたたみ傘。
古書喫茶の窓際。
雨の坂道。
地下通路。
黒い刃。
誰かの声。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
その声は真昼の声ではない。
レイの知らない少女の声。
けれど、真昼の胸の奥に残っている。
真昼自身のものではないはずなのに、彼女の中で痛みとして反応している。
意味が分からない。
分からないまま、レイは走った。
スマホが震える。
透子からの位置情報共有。
集合地点は、旧地下鉄保守課の管理棟。
すでに霧生、綾瀬、御堂、そして負傷中の倉科悠斗も向かっているという。
レイは画面を見ながら、短く息を吐いた。
悠斗まで。
病院にいるはずの彼まで。
次の瞬間、真昼の声が記憶の中で重なった。
怖いから、知らないままにしたくないの。
レイは、もう一度走る速度を上げた。
*
旧地下鉄保守課の管理棟には、赤い警告灯が回っていた。
非常事態のためではない。
警察が現場を押さえ、交通局が一部区画を封鎖し、病院から連絡を受けた倉科悠斗が無理を押して戻ってきたため、現場全体が異様な緊張に包まれていた。
レイが到着した時、悠斗は管理棟の入口で田端に怒鳴られていた。
「お前、病院に戻れって言われただろ!」
「うるさい。道案内が必要なんだろ」
「腹切られてまだ一日も経ってねえんだぞ!」
「切られたんじゃない。削られた」
「どっちでもいいわ!」
悠斗は作業服ではなく、病院で渡された簡易の上着の上に反射ベストを着ていた。左脇腹には厚く包帯が巻かれ、歩くだけで顔が歪む。それでも、ヘルメットを持つ手は離さない。
透子が厳しい声で言った。
「倉科さん。あなたを地下へ入れる許可は出していません」
「案内なしで行くほうが危険です」
「あなたが倒れても危険です」
「倒れたら置いていけばいい」
「冗談でも言わないでください」
「冗談じゃない」
悠斗の顔は青かった。
痛みのせいだけではない。
彼も分かっている。
真昼が誘導された場所は、旧第三連絡線のさらに奥だ。
そこは保守課でも常時入る場所ではない。封鎖ホーム。消えかけた駅名。二年前の事故現場に近い、水と記録の溜まり場。
透子は強く反論しようとした。
その前に、霧生が口を挟んだ。
「黒江。道案内としては使う。ただし、先頭には立たせない。負傷者扱いで、俺の横。倒れたら俺が担ぐ」
「主任」
「時間がない」
霧生の声は低かった。
「御堂が防犯カメラ拾った。旧校舎付近で白瀬が一瞬映ってる。その後、映像が飛んでる。次に旧地下鉄搬入口近くのカメラに、白い傘が映った」
「白い傘」
レイが反応する。
真昼は白い傘を持っていない。
彼女の傘は、学院指定の透明傘だった。
白い折りたたみ傘は、真昼の断片に出てくるもの。
銀色のヘアピンの少女の記憶。
真昼ではない誰かのもの。
「映っていたのは真昼ですか」
レイが聞く。
霧生は、少しだけ顔をしかめた。
「顔は映ってねえ。いや、正確には映ってるのに、判別できない。黒い傘の時ほどじゃないが、画面が滲んでる。ただ、背格好と制服は白瀬だ」
「真昼は、誰かに連れていかれた?」
「分からん」
御堂圭吾が、管理棟の中からタブレットを持って出てきた。
徹夜続きの顔で、眼鏡の奥の目が赤い。
「自発的に歩いているようにも見えます。ただ、動きが不自然です。何かを追っているか、呼ばれているように見える」
「呼ばれている」
レイは小さく繰り返した。
名前を呼ばれたのか。
それとも、名前を消すと脅されて、自分から向かったのか。
真昼なら、後者もありえる。
だが、レイは知っている。
真昼は無謀だが、愚かではない。
彼女がひとりで旧地下鉄へ行くなら、必ず何か理由がある。
「下書きの記事は」
レイが聞いた。
御堂がタブレットを操作する。
「タイトルだけです。本文は空白。ただし、復元ログに、何度か入力しかけた形跡があります」
「何を」
「『赤いヒール』『最後のステージ』『右膝の痛み』『明日から、私の名前で踊る』」
レイの喉が詰まった。
真昼は書こうとしていた。
超常現象ではなく、エミーのことを。
エミーがここにいたことを。
だから狙われた。
名前を残そうとしたから。
「行きます」
レイは言った。
「当然だ」
霧生が頷く。
「ただし、勝手に走るな。今回は本当に死ぬ」
「分かっています」
「本当か?」
「たぶん」
「だからその返事をやめろ!」
霧生が怒鳴った。
普段なら真昼が横で笑う場面だった。
だが、彼女はいない。
その空白だけで、レイの胸が痛んだ。
透子が、全員を見た。
「確認します。目的は白瀬真昼さんの救出。黒い傘の人物の追跡は二次目標です。封鎖扉の向こうへは入りません」
「相手が入ったら?」
霧生が聞く。
「追いません」
「お前が言うと信用ならんな」
「今回は追いません」
透子の声には、強い決意があった。
だが、その奥に恐怖もあった。
封鎖扉の向こう。
まだ下がある場所。
境界観測局の記録にも、市警の管轄にも、交通局の保守範囲にも収まりきらない場所。
この事件は、そこへ降りる物語ではない。
まだ。
「行きましょう」
透子が言った。
旧地下鉄の搬入口が開く。
冷たい風が、地下から吹き上がった。
雨の匂いがした。
*
旧地下鉄は、前よりも暗く感じた。
作業灯は点いている。
警察が追加の照明も設置している。
それでも、闇の濃さが違う。
地下の空気そのものが、照らされることを嫌がっているようだった。
悠斗は霧生に肩を借りながら歩いていた。
「この先、右に古い連絡通路があります」
「封鎖されてるんじゃないのか」
霧生が聞く。
「封鎖扉はあります。でも、古い保守用の抜け道が残ってる。図面には載ってない」
「図面に載ってない道をどうして知ってる」
「現場の人間は、図面より壁を見るんです」
「格好いいこと言うな、怪我人」
「痛いんで喋らせないでください」
「お前が喋り始めたんだろ」
悠斗の額には汗が浮いていた。
脇腹の傷が痛むのだろう。
それでも、彼の視線は鋭い。
レイはその背中を見ていた。
彼は生きている。
名前を失いかけても、戻ってきた。
倉科悠斗。
その名前を、レイは心の中で何度も確認する。
真昼も、必ず名前で呼ぶ。
白瀬真昼。
彼女は僕じゃない。
その言葉を、まだ声には出していない。
だが、胸の奥で何度も繰り返していた。
通路を曲がると、水音が大きくなった。
床に薄い水が張っている。
靴底が水を押し、波紋が作業灯の光を揺らす。壁には古い広告の跡が残っていた。文字は剥がれ、絵は色褪せ、何の広告だったのか分からない。
さらに進むと、消えかけた駅名標が現れた。
雨宮坂下。
その下に、別の文字が薄く浮いている。
何度見ても、読めない。
読む前に消える。
「ここから先は、旧ホームです」
悠斗が言った。
「保守課でも普段は入らない。二年前の事故現場に近い」
「古河 千■」
真昼ならそう言っただろう。
レイは言わなかった。
まだ、名前が欠けている。
欠けたまま呼ぶことが、少し怖かった。
真昼なら、どうする。
呼べるところまで呼ぶ。
足りない部分を、調べる。
消えた名前を、そのままにしない。
レイは、唇の内側で小さく言った。
「古河」
そこまで。
それでも、水音が少しだけ変わった気がした。
旧ホームへ出た。
使われていないホーム。
水たまり。
作業灯。
錆びた線路。
崩れたベンチ。
天井から落ちる水滴。
壁には、昔の改札口へ続く階段の跡がある。封鎖された扉の向こうから、さらに深い水音が聞こえていた。
そして、ホームの中央に、真昼がいた。
制服姿。
濡れた髪。
肩のカメラストラップはない。
代替機もない。
手には、なぜか白い折りたたみ傘を持っていた。
傘は開かれていない。
畳まれたまま、彼女の手に握られている。
真昼の向かいには、黒い傘の人物が立っていた。
傘は開いている。
地下なのに、雨を受けるように。
黒いコート。
黒い手袋。
顔だけがない。
レイたちが到着しても、黒い傘の人物は振り返らなかった。
真昼だけを見ている。
「また」
その声が、旧ホームに落ちた。
「お前なのか」
真昼は、顔を上げた。
怖がっている。
それでも目を逸らしていない。
「誰と間違えてるの」
黒い傘の人物は答えなかった。
真昼は、白い傘を握りしめる。
「私は白瀬真昼。アガルタ学院二年。新聞部。個人取材サイト《アガルタ観測録》の管理人」
声は震えていた。
けれど、はっきりしていた。
「あなたが誰を見ているのか知らない。でも、私はその人じゃない」
レイは足を踏み出そうとした。
透子が腕を掴んで止める。
「まだ」
「真昼が」
「距離があります。黒刃の間合いに入っています。こちらが動けば、相手も動く」
「でも」
「白瀬さんが時間を作っています」
その通りだった。
真昼は怖がりながら、それでも問い続けていた。
取材する者として。
記録する者として。
名前を残す者として。
「あなたの名前は?」
真昼が聞いた。
旧ホームの空気が、一瞬で変わった。
黒い傘の人物の周囲で、水たまりが震える。
傘の縁から落ちる水滴が、黒く見えた。
「呼ぶな」
声が、初めて荒れた。
低く、深く、痛みに触れられた獣のような声。
真昼は息を呑んだ。
それでも、退かなかった。
「名前を消したいなら、なおさら聞く」
「呼ぶな」
「あなたは、誰?」
「呼ぶな!」
黒い傘の下の顔が、さらに黒く滲んだ。
レイの胸が軋む。
名前を聞かれること。
それが、この人物にとっては傷なのだ。
見られること。
記録されること。
名前を呼ばれること。
それらが、耐え難い恐怖になっている。
黒い傘の人物の右手に、黒刃が現れた。
光を反射しない刃。
旧ホームの薄い照明の中でも、そこだけ穴が開いているように黒い。
透子が低く言った。
「全員、待機」
霧生が拳銃ではなく強力ライトを構える。
綾瀬が無線に手をかける。
悠斗は歯を食いしばり、ホームの構造を見ている。
「右側、階段跡の裏に回り込めます」
彼が小さく言った。
「ただし床が抜けかけてる。行くなら一人」
「俺が行く」
霧生が即答した。
「無茶です」
悠斗が言う。
「無茶は俺の担当だ」
「主任、それは正式な役職ですか」
綾瀬が小声で言う。
「黙って記録しろ」
「記録したくないです」
そのやり取りさえ、ひどく遠く聞こえた。
レイの意識は、黒い傘の人物へ吸い寄せられていた。
観測しようとしている。
顔を見ようとしている。
犯人の正体を暴こうとしている。
だが、そこへ近づくたび、黒いノイズが広がる。
顔がない。
名前がない。
記憶が静かに切り取られる。
それでも、声は届いた。
「アルファ」
黒い傘の人物が、ゆっくり振り返った。
顔はない。
でも、確かにレイを見ている。
「お前は覚えているだけで、何も背負っていない」
レイの身体が動かなくなった。
言い返せなかった。
その言葉には、一部の正しさがあった。
エミーが死んだ時、レイは「僕がひとり死んだ」と言った。
それは、彼女の死を自分のものとして処理する言葉だった。
真昼が危ないと分かった時、彼女を止めようとした理由の中には、確かに「自分の同魂者かもしれないから」という恐怖があった。
彼女を彼女として見るより先に、自分に流れ込むかもしれない誰かとして見た。
レイはそれを否定できなかった。
黒い傘の人物は、静かに言う。
「お前は彼女を救いたいのか」
黒い刃が、真昼のほうへわずかに向く。
「それとも、自分の記憶を守りたいだけか」
レイは、何も言えなかった。
答えがすぐに出ない。
救いたい。
そう言いたい。
でも、その言葉は本当に真昼のためなのか。
自分がまた誰かの死を受け取りたくないだけではないのか。
自分の中に流れ込む痛みを恐れているだけではないのか。
真昼が、ゆっくりと振り返った。
彼女の顔は青ざめていた。
それでも、声ははっきりしていた。
「私は、御影くんじゃない」
その一言が、旧ホームに落ちた。
レイは、真昼を見た。
白瀬真昼。
旧新聞部室でメモ帳を広げる少女。
勝手に危ない場所へ行く少女。
怖いと認めながら、それでも名前を拾う少女。
エミーのことを、ただの被害者にしないために走った少女。
倉科悠斗の名前を、地下で叫んだ少女。
銀色のヘアピンの記憶に震えながら、それでも「誰と間違えてるの」と問い返した少女。
彼女は、レイではない。
たとえ同じ魂だったとしても。
たとえそう見えていたとしても。
たとえいつか、違う答えが出たとしても。
今ここにいる彼女は、白瀬真昼だ。
レイは一歩前へ出た。
透子の手が離れる。
今度は止めなかった。
「彼女は僕じゃない」
声は震えなかった。
黒い傘の人物が、わずかに動きを止める。
レイは続けた。
「たとえ同じ魂だったとしても、彼女は白瀬真昼だ」
真昼の瞳が揺れた。
怒りでも、恐怖でもなく、何かがほどけたような揺れだった。
「だから、殺させない」
黒い傘の人物の輪郭が、ほんの少し乱れた。
水に落とした墨のように、顔のない部分が揺れる。
「言葉だけだ」
オメガの声は低かった。
「お前は、いつも言葉だけだ。覚えている。記録する。名前を呼ぶ。だが、死ぬのは私たちだ」
「そうだ」
レイは言った。
意外なほど素直に、言葉が出た。
「僕は助けられなかった」
赤い路地。
星形のピアス。
エミーの喉。
「エミーも」
旧地下鉄。
割れたライト。
古河 千■。
「たぶん、古河さんも」
白い病室。
識別バンド。
僕の名前を呼んでください。
「他にも、知らない誰かも」
黒い傘の人物が、動かない。
レイは、もう顔を見ようとはしなかった。
オメガを観測しようとするのではなく。
犯人を暴こうとするのでもなく。
まず、呼ぶべき名前がある。
エミー・グレイス・ハーパー。
喉が詰まった。
まだ、痛い。
彼女の死が自分の中にあるからではない。
彼女の人生を、自分の言葉で縮めてしまったことが痛い。
レイは口を開く。
でも、最初の音が出ない。
その時、真昼が叫んだ。
「エミー・グレイス・ハーパー!」
旧ホームに、彼女の声が響いた。
強く、まっすぐに。
「クラブ《ミラー・ルージュ》のショーダンサー! 赤いヒールで踊ってた人! ミオさんにステップを教えた人! リナさんにお金を預けた人! 明日から自分の名前で踊るって言った人!」
黒い傘の人物の刃が揺れた。
水たまりの中の黒い影が乱れる。
透子が続いた。
「被害者、エミー・グレイス・ハーパー」
その声は、報告書の読み上げのように正確だった。
けれど、冷たくはなかった。
「二十六歳。クラブ《ミラー・ルージュ》所属。事件当夜、店を出る意思があった。彼女は事件番号ではありません」
霧生が低く言う。
「エミー・グレイス・ハーパー」
綾瀬も、少し震えながら続けた。
「エミー・グレイス・ハーパー」
悠斗が、痛みに耐えながら口を開く。
「俺は……会ったことねえけど」
彼は脇腹を押さえ、息を吸った。
「エミー・グレイス・ハーパー。名前くらい、言える」
名前が重なる。
ひとりではない。
真昼だけでもない。
透子だけでもない。
レイだけでもない。
その場にいる人間たちが、消されかけた名前を呼ぶ。
レイは、最後に言った。
「エミー」
たったそれだけだった。
姓も、ミドルネームも、まだ続けられなかった。
それでも、彼女を「僕」と呼ぶよりは、ずっと遠い。
遠いから、届く。
「エミー」
もう一度。
黒い傘の人物の身体が、大きく揺れた。
その奥で、赤い照明が弾ける。
古い鏡。
濡れた客のコート。
痛む膝。
赤いヒール。
壊れかけた星形ピアス。
エミーの記憶。
オメガが奪ったはずの記憶が、名前に反応して暴れ出す。
違う。
雨の路地で、女の声がする。
違う。
私は。
黒い刃が震える。
黒い傘の人物が、胸元を押さえた。
声が二重になる。
いや、三重にも、もっと多くにも聞こえる。
その中で、エミーの声だけがはっきりした。
「違う。私はエミーよ」
黒刃の黒が、乱れた。
穴のようだった刃に、赤い照明の反射が一瞬だけ走る。
ありえない光。
黒い刃が光を返した。
その瞬間、透子が叫んだ。
「今!」
霧生が横へ走る。
綾瀬が真昼へ向かう。
レイも飛び出した。
黒い傘の人物は刃を振るったが、軌道が乱れていた。黒い切断線が水たまりを裂き、ホームの端の標識を削り取る。しかし、真昼には届かない。
真昼は白い傘を手放した。
傘が水たまりへ落ちる。
銀色のヘアピンの幻が、その水面に一瞬だけ浮かぶ。
レイは真昼の腕を掴んだ。
「走れ!」
「言われなくても!」
真昼は走ろうとして、足が滑った。
レイが支える。
その瞬間、黒い傘の人物がもう一度刃を構えた。
近い。
間に合わない。
レイは真昼を背後へ押した。
黒い刃が迫る。
その刃を、霧生の投げた強力ライトが弾いた。
正確には、弾いたのではない。
光が黒刃に吸われ、吸いきれなかった分が弾けた。
黒い傘の人物の腕がぶれる。
霧生が怒鳴った。
「高校生に向けんな、陰気な傘野郎!」
「主任、罵倒が雑です!」
綾瀬が叫びながら真昼を引き寄せる。
「雑でいいんだよ! 細かい罵倒は黒江に任せる!」
「私は罵倒担当ではありません」
透子の声が、いつも通り冷静に返る。
その平常さが、逆に現場を支えた。
レイは真昼をホーム端まで連れて下がる。
真昼は息を荒くしながらも、レイの腕を強く掴んでいた。
「御影くん」
「何」
「さっきの、聞いた」
「どれ」
「彼女は僕じゃないって」
こんな状況でそれを言うのか。
レイは一瞬そう思った。
だが、真昼らしいとも思った。
「聞こえるように言った」
「じゃあ、あとでちゃんと話す」
「今じゃなくて?」
「今は逃げる」
「正しい」
真昼は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
それでも、その笑いは生きていた。
黒い傘の人物は、ホーム中央で揺らいでいる。
エミーの記憶がまだ暴れているのか、黒刃の形が安定しない。
だが、倒れる気配はない。
殺せない。
捕まえられない。
それが全員に分かった。
オメガはまだ、ここで終わる相手ではない。
黒い傘の人物が、レイを見た。
「アルファ」
声は少し乱れていた。
「名前を呼べば救えると思うな」
「思ってない」
レイは答えた。
「でも、呼ばなければ消える」
「消えたほうが楽なものもある」
「それを決めるのは、あなたじゃない」
「お前でもない」
「うん」
レイは頷いた。
「だから、本人の名前で呼ぶ」
黒い傘の人物が、初めて沈黙した。
その沈黙の中で、レイは一瞬だけ何かを見た。
白い病室。
細い腕。
識別バンド。
黒い刃。
窓のない部屋。
誰かの声。
僕の名前を呼んでください。
それは、真木彼方なのか。
オメガ自身なのか。
あるいは、どちらでもない、もっと古い誰かなのか。
分からない。
レイが近づこうとした瞬間、透子が叫んだ。
「見すぎないで!」
レイははっとした。
視界が戻る。
黒い傘の人物は、封鎖扉の前に立っていた。
扉の向こうから、水音が聞こえる。
旧ホームの奥。
さらに深い階段。
使われていない線路の先。
そこには、まだ下がある。
黒い傘の人物は、ゆっくり後ずさった。
傘の縁から、水滴が落ちる。
「まだ、呼ぶのか」
声がした。
レイは答えた。
「呼ぶ」
真昼が隣で言った。
「記録する」
透子が言った。
「証明します」
悠斗が、壁にもたれながら低く言った。
「俺は、俺の名前を忘れない」
霧生がライトを構え直す。
「俺は、とりあえず逮捕状取りたい」
「主任、今それですか」
綾瀬が言う。
「大事だろうが、現実の手続き」
そのやり取りに、黒い傘の人物が反応したのかどうかは分からない。
ただ、ほんの一瞬だけ、顔のない影が揺れた。
笑ったようにも見えた。
泣いたようにも見えた。
次の瞬間、黒い傘の人物は封鎖扉の影へ溶けるように消えた。
追おうとした警察官を、透子が止めた。
「追わない!」
「でも!」
「ここから先は、まだ駄目です!」
その声には、恐怖があった。
透子は封鎖扉を見ている。
扉の奥で、水音が続く。
階段がある。
下へ、さらに下へ続く階段。
そこへ降りれば、何かが分かる。
オメガの正体。
黒刃の由来。
名前が消える場所。
境界観測局が隠したもの。
だが、今は行かない。
行ってはいけない。
真昼は、封鎖扉を見つめていた。
「……あそこ」
「見るな」
レイが言った。
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「僕の真似をするな」
「うつった」
「最悪だ」
真昼は、今度は少しだけ本当に笑った。
その笑い声が、旧ホームに小さく響く。
生きている声だった。
*
黒い傘だけが残っていた。
旧ホームの中央、水たまりの上に。
開かれたまま、柄を上にして、そこに立っている。
誰の手にも持たれていないのに、倒れない。
傘の布は濡れている。
地下なのに。
牧野佐和が到着し、証拠保全の準備をした。彼女は傘へ直接触れず、周囲の水、床面、空気中の微細な黒い残滓まで慎重に採取する。御堂は監視映像の復旧を試みているが、黒い傘の人物が映っていたはずの時間だけ、データが奇妙に空白になっていた。
事件は、終わっていない。
それでも、真昼は救出された。
レイはホームの端に座り込んだ彼女の隣にいた。
真昼の肩には救急隊員の毛布がかけられている。顔色はまだ悪い。手も震えている。けれど、彼女はちゃんと自分の名前に反応する。
「白瀬さん」
救急隊員が呼ぶ。
「はい」
真昼はすぐに答えた。
その返事を聞くたび、レイは胸の奥が少しだけ緩む。
真昼はそのことに気づいたらしい。
「何回も確認しなくても、私は白瀬真昼です」
「別に確認してない」
「してる顔」
「顔は証拠にならない」
「でも観察対象にはなる」
「黒江さんの影響が強すぎる」
「御影くんの屁理屈も混ざってる」
言い返せなかった。
真昼は毛布の端を握りながら、旧ホームの中央を見た。
「私、どうしてここに来たんだろう」
「覚えてないのか」
「断片だけ」
「何が見える」
「旧校舎。下書きの記事。エミーさんのタイトル。次はお前の名前を消す、って通知。それから、白い傘が廊下に落ちてた」
「廊下?」
「旧新聞部室の前。あるはずないのに、あった。拾ったら、胸が痛くなって」
真昼は、両手で毛布を握った。
「気づいたら、地下へ向かってた。誰かに呼ばれた気がした。でも、私の名前じゃなかった」
「誰の名前」
「分からない」
「銀色のヘアピンの人?」
「たぶん」
真昼は目を伏せた。
「でも、私じゃない」
「うん」
レイは頷いた。
「君じゃない」
真昼は、少し驚いたように彼を見た。
「今日は素直だね」
「今だけ」
「じゃあ、今のうちに聞く」
「何」
「私は御影くんの一部じゃない?」
レイは、すぐに答えた。
「違う」
真昼の目が揺れる。
「たとえ同じ魂だったとしても?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは本当にって言って」
「本当に」
レイは言い直した。
「君は白瀬真昼だ」
真昼は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「よかった」
「怒ってたんじゃないの」
「怒ってるよ」
「よかったって」
「怒ってるのと、よかったは両立する」
「面倒だね」
「人間は面倒なの」
真昼はそう言って、少しだけ笑った。
その時、透子が二人の前に来た。
「白瀬さん。体調確認後、病院へ搬送します」
「え、私は大丈夫です」
「その発言をした人間の大丈夫を、私は信用しません」
「御影くんと同じ扱い」
「同じです」
「不本意です」
「僕も」
「二人とも、黙ってください」
透子の声は疲れていた。
だが、目はどこか柔らかかった。
真昼は、旧ホーム中央の黒い傘を見た。
「あれ、証拠になるんですか」
「分かりません」
「また記録するんですか」
「します」
「名前がないものでも?」
透子は、少しだけ考えた。
「名前がないなら、仮称をつけます。ただし、それが本当の名前だとは思わないようにします」
「黒い傘の人物」
「ええ」
「オメガ」
レイが言った。
透子が彼を見る。
真昼も見る。
「それは、誰の名前ですか」
透子が聞いた。
「名前じゃない」
レイは答えた。
「まだ。対になるものの呼び方です。僕がアルファなら、あれはオメガ」
「あなたが名付けるのですか」
透子の声は慎重だった。
レイは少し考えた。
名前をつけることは、所有することに近いのかもしれない。
それが怖い。
だが、呼べなければ記録できない。
記録できなければ、対峙できない。
「仮称です」
レイは言った。
「本当の名前だとは思いません」
透子は、短く頷いた。
「記録します。黒い傘の人物、仮称オメガ」
真昼は、その言葉を聞いて小さく呟いた。
「オメガ」
地下の水音が、一瞬だけ大きくなった気がした。
封鎖扉の向こうで、何かが反応したように。
全員が、そちらを見る。
だが、扉は閉じたままだった。
その下から、細い水が流れている。
水はホームの床を這い、黒い傘の影を歪め、レイたちの足元まで届いた。
封鎖扉の向こうには、さらに深い階段がある。
レイには分かる。
真昼にも、たぶん分かっている。
悠斗も、透子も、霧生も、それぞれ別の理由で理解している。
ここから先は、今の事件の終点ではない。
もっと深いものの入口だ。
だが、今は降りない。
今、守るべきものは、深層の秘密ではない。
ここにいる人間の名前だ。
「帰りましょう」
透子が言った。
「白瀬さんを病院へ。倉科さんも病院へ戻します。御影さんも検査を受けてください」
「僕も?」
「当然です」
「逃げたら?」
「霧生主任に捕獲させます」
「捕獲って」
霧生が遠くから言った。
「網がないから腕力でいくぞ」
「検査を受けます」
「賢い」
真昼が小さく笑った。
その笑いに、レイも少しだけ息を吐いた。
旧ホームを出る前に、レイは一度だけ振り返った。
水たまりの中に、赤い照明が揺れた気がした。
エミーの舞台。
そして、雨の路地。
レイは口の中で、もう一度だけ名前を呼んだ。
エミー・グレイス・ハーパー。
今度は、最後まで言えた。
声には出なかった。
それでも、地下のどこかで、星形のピアスが小さく光ったような気がした。
真昼が隣で聞いた。
「何か言った?」
「何も」
「嘘」
「エミーの名前を呼んだ」
真昼は、一瞬だけ黙った。
それから、頷いた。
「うん」
旧地下鉄の奥では、まだ水音が続いている。
黒い傘の人物は消えた。
だが、エミーの名前は残った。
倉科悠斗の名前も。
白瀬真昼の名前も。
御影レイの名前も。
まだ、消えていない。
それだけで、今夜は十分だった。
少なくとも、深い階段を降りるのは、そのあとでいい。




