第七章 境界観測局の影
倉科悠斗は、救急搬送先の病院で一命を取り留めた。
それは、最初に届いた情報としては十分だった。
命に別状なし。
左脇腹に裂創。
出血あり。
意識混濁。
一時的な記名障害。
本人確認への応答、不安定。
黒江透子は、病院の廊下でその報告を聞いた。
白い壁。
消毒液の匂い。
夜間外来の蛍光灯。
ストレッチャーの車輪が床を滑る音。
看護師の低い声。
救急処置室の扉の向こうで鳴るモニター音。
どれも現実の音だった。
それでも、透子には別の白い部屋が重なっていた。
もっと冷たい白。
窓のない検査室。
ベッドに固定された細い腕。
左手首の識別バンド。
名前欄に、名前ではなく番号が入っている。
K-117。
幼い声が言う。
先生。
僕の名前を呼んでください。
透子は、目を閉じた。
一秒だけ。
次に目を開けた時、目の前には現在の病院の廊下が戻っていた。
「黒江さん」
綾瀬直央が、少し不安そうに声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
「顔色が悪いです」
「寝不足です」
「主任と同じ言い訳です」
「では、撤回します」
透子はそう言ったが、表情は戻らなかった。
処置室の扉が開いた。
担当医が出てくる。
四十代半ばの救急医で、透子とは何度か現場で顔を合わせたことがある。彼は通常の外傷として対応しようとしながらも、表情に困惑を隠せていなかった。
「黒江さん」
「容体は」
「出血は止まっています。裂創そのものは、縫合処置で対応可能です。臓器損傷も今のところ確認されていません。ただ……」
医師は言葉を選んだ。
「傷の縁が変です」
「変、とは」
「切創のようで、切創ではない。皮膚も筋層も裂けている。ただ、普通の刃物で切られた時に残るはずの組織の引きつれや、刃の微細な痕跡が非常に少ない。熱傷ではない。薬品でもない。何かに切られた、というより、そこだけ存在を抜かれたような」
綾瀬が小さく息を呑んだ。
透子は表情を変えなかった。
それでも、指先だけが少し冷えた。
「黒い刃の痕跡は」
「黒い?」
「いえ。続けてください」
医師は困惑したようにカルテを見た。
「問題は、本人の認知反応です。名前を聞くと、答えようとはします。しかし途中で止まる。自分の氏名を認識できないというより、そこへ到達する経路が一時的に遮断されているように見えます」
「失語ですか」
「違います。言語理解は保たれています。質問にも反応する。職業、年齢、勤務先、事故の状況も断片的には言える。でも、自分の名前だけが不安定になる」
「自分の名前だけ」
「はい。こちらが『倉科悠斗さんですね』と呼ぶと、反応します。文字を見せても、しばらくすると読める。ただ、自発的に言わせると詰まる」
綾瀬がペンを握る手に力を込めた。
「黒い傘の人物に斬られたあと、地下でもそうでした。名前だけが出なくなっていました」
「精神的ショックでも起こり得ますか」
医師は迷った。
「完全に否定はできません。ただ、傷と同時に出ているなら、外傷性というより……」
「記憶接続の傷」
透子が言った。
医師は黙った。
その言葉を、彼は正式な医学用語としては扱えない。
だが、アガルタの病院に長くいる者は、そういう言葉を完全には笑えない。
「黒江さん」
綾瀬が低く聞いた。
「黒刃は、やっぱりただの凶器ではないんですね」
「ええ」
透子は処置室の扉を見た。
「肉体だけではありません。名前へ接続する記憶経路を傷つけています」
「名前へ接続する記憶経路」
「人は、自分の名前をただの文字列として覚えているわけではありません。呼ばれた経験、書いた経験、誰かの声、署名、名札、家族、仕事、生活。それらが網のようにつながって、自分の名前を支えています」
透子は、救急処置室の中にいる悠斗を思った。
作業日報。
胸ポケットのメモ。
田端の声。
真昼の叫び。
レイが見せた血のついた紙。
倉科悠斗。
その名前は、一本の糸ではなく、たくさんの糸で支えられている。
黒刃は、その糸を切る。
「黒いナイフは、同魂者に対してだけ特異に作用する可能性があります。肉体損傷は表層。本質は記憶接続の切断です」
「それって」
綾瀬は言葉を詰まらせた。
「殺すための刃物じゃなくて、消すための刃物ってことですか」
透子は頷かなかった。
だが、否定もしなかった。
「現時点では、そう記録します」
「記録」
綾瀬の声が沈む。
「何でも記録にしないと扱えないんですね」
「ええ」
透子は静かに答えた。
「記録しなければ、なかったことにされます」
そう言いながら、自分の言葉がどこへ向かっているのか分かっていた。
記録したのに、なかったことにされたものもある。
番号になった名前。
欠けた症例。
観測不能状態。
救えなかった子供。
真木彼方。
その名前を、透子はまだ声に出さなかった。
*
レイと真昼が病院へ着いたのは、それから三十分後だった。
霧生仁に「帰れ」と言われたはずだったが、帰れるわけがなかった。
少なくとも、真昼はそう言った。
レイは何も言わなかった。
帰ろうと思えば、帰れたかもしれない。
だが、悠斗が自分の名前を言えなくなった瞬間が、まだ身体の中に残っている。
倉科。
その先が消える。
胸ポケットのメモ。
血で濡れた文字。
倉科悠斗。
生きている人間の名前が、目の前でほどけかけた。
あれを見たあとで、家に帰って眠れるほど、レイはまだ冷たくなかった。
病院の廊下で、真昼は看護師に止められた。
「ご家族以外は面会できません」
「でも、名前を――」
真昼が言いかける。
レイが袖を掴んだ。
「今はやめろ」
「でも」
「今は、病院のルールに従え」
「御影くんが常識的なこと言うと、ちょっと怖い」
「僕も言ってて気持ち悪い」
「そこは否定してよ」
真昼は小さく笑おうとした。
しかし、すぐに笑いが消える。
廊下の向こうに透子が見えたからだ。
透子は二人を見ても驚かなかった。
「来ると思っていました」
「帰れとは言わないんですか」
真昼が聞く。
「言います」
「ですよね」
「ただ、言っても聞かないでしょう」
「聞かないですね」
「なので、ここで待機してください。処置室へは入れません。倉科さんの容体は安定しています」
真昼は、胸を撫で下ろした。
「よかった」
その言葉は素直だった。
レイも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「名前は」
彼は聞いた。
「まだ不安定です」
透子は答えた。
「ですが、完全に失われたわけではありません。呼べば反応する。文字も追える。自発的に言う時に詰まるだけです」
「だけ、ですか」
真昼の声が尖った。
透子は彼女を見た。
「言葉が軽く聞こえたなら訂正します。深刻です。ただ、戻る可能性があります」
「戻らなかった人もいるんですか」
真昼が聞いた。
廊下の空気が変わった。
綾瀬が、少し離れた場所で顔を上げた。
透子は、すぐには答えなかった。
レイはその沈黙を見た。
ただ知らないから黙ったのではない。
答えたくないからでもない。
言葉を選んでいる。
どこまで言うか。
何を隠すか。
誰の名前を守るか。
「以前」
透子は静かに言った。
「あなたに似た症例がありました」
レイの背筋がわずかに伸びた。
「僕に」
「同魂者記憶の混線。複数人生の夢。自己名の不安定化。他者の死の受信。記録欠損への反応」
「その人は」
「その子は、自分の名前を保てなくなった」
子。
真昼が息を呑んだ。
「子供だったんですか」
「十代でした」
「学院の生徒?」
透子は答えない。
それが答えに近かった。
アガルタ学院には、過去に記憶混線症例として境界観測局に保護された生徒がいた。
真昼は旧新聞部室で似たような記録を見たことがある。
名前の欠けた卒業アルバム。
保健室の古い搬送記録。
雨の日だけ開く資料室。
それらが、今ひとつの影にまとまり始める。
「その子の名前は」
レイが聞いた。
透子の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
そして、すぐ戻る。
「今は言えません」
「言えない?」
「言うべき段階ではありません」
「死んだんですか」
レイの声は、思ったより低く出た。
透子は答えなかった。
廊下の蛍光灯が、かすかに鳴っている。
真昼も、綾瀬も、誰も口を挟まなかった。
やがて透子は言った。
「公式には、観測不能状態へ移行」
その言葉は、白い廊下にひどく冷たく響いた。
レイの眉が動く。
真昼は、はっきりと顔をしかめた。
「それ」
彼女は言った。
「人の死に使う言葉じゃないですよ」
透子は、真昼を見た。
怒らなかった。
反論もしなかった。
「ええ」
短く、それだけ答えた。
真昼は黙った。
その返事に、怒りをぶつける先を失ったようだった。
「私は、救えませんでした」
透子は続けた。
声は淡々としていた。
しかし、淡々としているからこそ、長い時間をかけて押し固められた痛みがあることが分かった。
「その子は、何度も名前を書いていました。声に出していました。けれど、最終的に自分の名前を保てなくなった」
「黒い刃で?」
レイが聞く。
「断定できません。少なくとも、当時はその表現では記録されていませんでした」
「じゃあ、何と記録されたんですか」
「多元記憶過負荷。自己名固定不全。観測位相逸脱。そういう言葉です」
真昼がますます嫌そうな顔をする。
「人間じゃなくて、機械の故障みたい」
「そうですね」
透子はまた、否定しなかった。
「当時の私は、その言葉を使っていました」
「今は?」
「今も使います。報告書には必要です。ただ」
彼女は、処置室の扉を見た。
「それだけでは、誰も救えないことは知っています」
レイは、透子を見た。
この人は、警察官であり、医師であり、観測局の影を背負っている。
人間として扱うために疑う、と言った人。
だが、かつては人間を番号で扱う側にいたのかもしれない。
あるいは、番号で扱う組織の中で、人間を人間として見ようとして失敗したのかもしれない。
「その子の名前」
レイは言った。
「言えないんですか」
透子は、少しだけ目を伏せた。
「今は」
「いつかは?」
「あなたが知るべき時が来れば」
「便利な言い方ですね」
「ええ」
「黒江さんは、便利な言い方が多い」
「自覚しています」
真昼が横から言った。
「でも、いつか言ってください」
透子が彼女を見る。
「その子の名前。観測不能状態とかじゃなくて、ちゃんと名前で」
透子の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「努力します」
「そこは約束って言ってください」
「約束できないことは言いません」
「真面目すぎます」
「あなたは約束しすぎです」
「それは、ちょっとそうかも」
真昼は小さく息を吐いた。
場の空気が、わずかにほどける。
だが、その緩みはすぐに破られた。
透子のスマホが鳴った。
画面を見た瞬間、彼女の目が冷えた。
「黒江です」
短い沈黙。
次に、彼女の声が低くなる。
「庁舎に?」
レイと真昼が顔を見合わせた。
「身分証は確認しましたか。……分かりました。応接室に通さず、特殺室前で待機させてください。霧生主任には?」
さらに沈黙。
「私が戻るまで、御影レイに関する資料へアクセスさせないでください。捜査協力要請の形式であってもです」
通話を切る。
綾瀬がすぐに聞いた。
「境界観測局ですか」
真昼の目が鋭くなる。
境界観測局。
ついに、その名前が廊下に出た。
透子は、否定しなかった。
「関係者です」
「何をしに」
レイが聞く。
「あなたの保護を申し出ています」
「保護?」
「そういう名目です」
真昼が嫌そうに言う。
「本当は?」
「監視。検査。必要に応じて隔離。言葉を選ばなければ、収容です」
綾瀬が息を呑む。
「未成年ですよ」
「だからこそ、彼らは保護という言葉を使います」
レイは、病院の白い廊下を見た。
窓のない検査室。
識別バンド。
K-117。
僕の名前を呼んでください。
透子が話した「以前の症例」の影が、今になって自分の足元まで伸びてくる。
「僕を連れて行くんですか」
レイが聞いた。
「いいえ」
透子は即答した。
「あなたを渡しません」
あまりにも早い返事だった。
レイは、少しだけ驚いた。
真昼も同じように透子を見た。
「でも、元はその組織にいたんですよね」
真昼が聞く。
「はい」
「なら、逆らって大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかではなく、必要かどうかです」
「必要なんですか」
「ええ」
透子は、レイを見た。
「御影レイは、事件の重要証言者であり、保護対象であり、同時に観測対象でもあります。ですが、最初に扱われるべきなのは人間としてです」
「観測局は違う?」
「人間として扱う者もいます」
透子の声に、かすかな苦さが混じった。
「ただ、組織は個人よりも番号を優先します」
真昼は、それを聞いて黙った。
番号。
K-117。
C-04。
R-■■。
まだ意味の分からない記号たちが、空気の奥でちらついている。
*
アガルタ市警察局の三階、特異殺人対策室の入口には、スーツ姿の男女が二人立っていた。
一人は五十代ほどの男。
灰色のスーツ、細い銀縁眼鏡、整えられた髪。官僚のような印象だが、目は笑わない。もう一人は三十代前半の女性。黒いタイトスーツに、首から下げた身分証。表情は穏やかだが、目の動きは廊下の監視カメラ、入口のロック、職員の配置を一瞬で確認している。
霧生仁は、二人の前で腕を組んでいた。
「だから、黒江が戻るまで待てと言ってる」
男は丁寧に微笑んだ。
「我々は正式な協力要請に基づいて来ています。刑事部長にも話は通してあります」
「俺には通ってない」
「あなたは決裁権者ではありません」
「ここでは俺が現場責任者だ」
「特異殺人対策室は市警内の部署です。境界関連事案については、観測局の優先調査権が――」
「知らん」
霧生は即答した。
女性のほうが、柔らかく口を挟む。
「霧生主任。対立するために来たわけではありません。御影レイさんの安全確保が目的です」
「安全確保ね」
霧生は笑った。
「それ、何日くらい外に出られない安全なんだ?」
「必要な検査期間によります」
「学校は?」
「調整します」
「家族は?」
「説明します」
「本人の意思は?」
男が、少しだけ表情を硬くした。
「本人は、自身の状態を正確に判断できる段階にない可能性があります」
「出たよ」
霧生は飴の袋を取り出した。
「可能性。便利な言葉だな。俺も使おう。俺の可能性では、お前らは未成年を連れてって番号札つける気だ」
女性の目が細くなる。
「その表現は不適切です」
「そっちのやることも不適切になりそうだから、ちょうどいい」
エレベーターの音が鳴った。
扉が開き、透子が降りてきた。
レイと真昼はいない。
病院から直接、市警へ向かう前に、透子は二人を一度帰宅させた。正確には、真昼には帰宅を命じ、レイには母親へ連絡させた。二人とも不満そうだったが、悠斗の病院と市警の両方へ同時にいることはできない。
「お待たせしました」
透子が言った。
男が、丁寧に頭を下げる。
「黒江透子さん。お久しぶりです」
「久住調査官」
「今は管理官です」
「そうでしたか」
「記録では、あなたは境界観測局を退職後、アガルタ市警へ移籍。現在は特異殺人対策室で犯罪心理分析官として勤務」
「よくご存じですね」
「記録にあります」
透子は、その言葉に反応しなかった。
女性のほうが一歩前へ出る。
「境界観測局・臨時調査班の相良です。御影レイさんの保護について、協議に参りました」
「協議なら、書面でどうぞ」
「緊急性があります」
「こちらも緊急捜査中です」
「黒江さん」
久住管理官の声が、少し低くなる。
「あなたなら分かるはずです。御影レイは、通常の市警案件ではありません。多元人格観測者。アルファ反応。記憶混線だけでなく、加害者側の感覚まで受信している。すでに第三者の生命に関わる接触も起きている」
「だからこそ、市警が保護しています」
「市警に保護設備はありません」
「観測局にあるのは保護設備ですか」
廊下の空気が硬くなった。
霧生が飴を噛み砕く。
相良調査官は表情を変えない。
久住管理官だけが、わずかに目を伏せた。
「過去の事案を持ち出すのは建設的ではありません」
「では、現在の事案として言います。御影レイを観測局へ引き渡すことはできません」
「あなたに決定権はありません」
「現場判断権はあります」
「彼は危険です」
「誰にとって」
「本人にも、周囲にも、そして観測秩序にも」
透子は、最後の言葉を聞いて、ほんの少しだけ表情を変えた。
「観測秩序」
「重要です」
「人命よりも?」
「人命を守るための秩序です」
「以前も、そう言っていましたね」
久住管理官は黙った。
霧生は、その沈黙を見て、二人の間にある過去の重さを察したようだった。
「黒江さん」
相良調査官が静かに言った。
「御影レイさんの収容ではなく、保護観察です。短期間の検査と接続安定処置を行い、必要に応じて市警へ情報共有します」
「本人の同意は」
「未成年です。保護者同意が優先されます」
「保護者へ接触したのですか」
相良は、一瞬だけ黙った。
透子の目が冷える。
「答えなさい」
「手続き上の連絡を試みています」
「誰が許可しました」
「観測局の規定に基づく緊急接触です」
透子はスマホを取り出した。
その場で電話をかける。
相手は、御影佳乃だった。
*
御影家の玄関先には、雨の匂いが残っていた。
夜ではない。
昼を過ぎた時間だった。
空は曇り、窓ガラスには細い水滴が流れている。住宅街は静かで、遠くの幹線道路の音だけが低く聞こえた。
御影佳乃は、玄関の内側に立っていた。
相手は、スーツ姿の男だった。
境界観測局の身分証を提示したが、佳乃はそれを受け取らなかった。
扉は半分だけ開いている。
家の中へ入れるつもりはない。
「御影佳乃さんですね」
「はい」
「境界観測局・臨時調査班の者です。御影レイさんの件で、お話を」
「息子は学校です」
「承知しています。今回は保護者の方へ、事前説明を」
「事前説明」
佳乃は、穏やかに繰り返した。
彼女の声は柔らかい。
だが、玄関の中へ一歩も入れない硬さがあった。
「レイに何をする説明ですか」
「現在、御影レイさんには特殊な記憶混線症状が確認されています。このまま通常生活を続けることは、本人の精神的負荷が大きく、また周囲への影響も――」
「息子は、今朝も朝食を食べました」
男は少し戸惑った。
「はい?」
「卵焼きを二切れ。味噌汁は半分。魚は残しました。学校へ行く前に、傘を忘れそうになりました」
「それは、日常生活を維持しているという意味では重要ですが、今回の症状は――」
「あなた方は、息子の日常をどれくらい知っていますか」
佳乃は言った。
声は変わらない。
「朝、目が覚めた時に、まず自分の喉に触れる癖。人混みで右手を開いたり閉じたりする癖。知らない名前を聞いた時に、一瞬だけ目を伏せる癖。夕食の味が分からない日は、卵焼きだけなら食べられること」
男は、答えなかった。
「記録にはありますか」
「我々は専門機関として――」
「息子の名前を、あなた方は何と記録していますか」
男の言葉が止まった。
佳乃は、静かに続ける。
「御影レイですか」
雨音が玄関の外で細く響く。
「それとも、別の番号ですか」
男は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えないことを選んだ沈黙だった。
佳乃は、小さく頷いた。
「お引き取りください」
「御影さん、これは息子さんの安全のためです」
「息子の名前を呼べない方に、息子は預けません」
「呼べないわけでは」
「では、呼んでください」
佳乃は真っ直ぐに男を見た。
「息子の名前を」
男は、口を開いた。
御影レイ。
ただそれだけを言えばよかった。
だが、その前に彼の目が一瞬、手元の端末へ落ちた。
記録を確認しようとした。
佳乃はそれを見た。
「もう結構です」
扉が静かに閉じられる。
乱暴ではない。
音も小さい。
だが、その扉は、どんな怒声よりもはっきりと拒絶を示していた。
男はしばらく玄関前に立っていた。
雨が、彼のスーツの肩を濡らす。
やがて彼は端末を取り出し、短く報告を打った。
保護者接触失敗。
母親、協力拒否。
対象名呼称に関する強い拒否反応あり。
その文章の中に、御影佳乃という名前も、御影レイという名前もなかった。
*
佳乃から電話を受けた透子は、市警の廊下で静かに目を閉じた。
それから、境界観測局の二人を見た。
「保護者への接触は拒否されました」
相良調査官は端末を確認した。
「現地担当からも報告が来ています。母親が感情的に反応したと」
「感情的?」
霧生が低く言った。
「話を聞く限り、あんたらよりよっぽど冷静だが」
久住管理官は、透子に向き直る。
「黒江さん。個人の感情で、必要な措置を遅らせるべきではありません」
「個人の名前を軽視する組織に、名前欠落事案を扱う資格はありません」
「それは極論です」
「私は現場判断として、御影レイの移送を認めません」
「あなたが拒むなら、上位命令を取ります」
「どうぞ」
透子は一歩も引かなかった。
「その間に、こちらは令状請求と保護措置の記録を整えます。未成年本人の意思、保護者の拒否、現行捜査への影響、境界観測局による無断接触。すべて正式に残します」
久住管理官の表情が硬くなる。
「市警が観測局と対立するつもりですか」
「個人として対立するつもりはありません」
「では」
「現場として、対象を守ります」
「対象」
久住がその言葉を拾った。
「あなたも対象と呼ぶのですね」
透子は、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、言い直した。
「御影レイを守ります」
霧生が小さく笑った。
「言い直せるだけ、まだこっちのほうがましだな」
相良調査官が、初めて少しだけ不快そうな顔をした。
「本日は引きます」
久住管理官は言った。
「ですが、御影レイさんの状態が悪化した場合、観測局は再度保護を要請します」
「要請は受け取ります」
透子は答えた。
「引き渡しは別です」
境界観測局の二人は、廊下を去っていった。
足音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。
霧生が飴の袋を振る。
「食うか」
「いりません」
「だろうな」
彼は自分の口に飴を入れた。
「昔の上司か」
「似たようなものです」
「嫌いか」
「嫌いで済めば楽ですね」
「じゃあ、怖いか」
透子は答えなかった。
霧生はそれ以上聞かなかった。
綾瀬が、少し迷ってから言った。
「黒江さん。観測局は、本当に御影くんを守るつもりなんですか」
「守るつもりはあります」
「なら」
「ただし、彼らが守るのは、御影レイという少年の日常とは限りません」
綾瀬は黙った。
「観測対象としての安定。接続の制御。記録の保全。危険因子の隔離。彼らにとっての保護は、その四つです」
「家に帰ることや、学校に行くことは」
「優先順位が下がります」
「そんなの」
綾瀬は言葉を探した。
「保護じゃないです」
「ええ」
透子は短く答えた。
「だから、ここで止めます」
*
その日の夕方、レイは家に帰った。
玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。
あまりに普通の匂いで、しばらく動けなかった。
地下の水音。
病院の消毒液。
市警の廊下。
境界観測局。
それらが、玄関の温かい空気の前で少しだけ遠ざかる。
「おかえり、レイ」
佳乃の声がした。
レイは靴を脱ぐのが少し遅れた。
母の声は、いつも通りだった。
ただ、いつもより少しだけ丁寧に、自分の名前を呼んだ気がした。
「ただいま」
レイは答えた。
佳乃はキッチンから顔を出した。
「手、洗って。今日は寒いから、先にお風呂でもいいわ」
「母さん」
「なに?」
「今日、誰か来た?」
佳乃は数秒だけ黙った。
それから、いつも通りの顔で言った。
「来たわ」
「観測局?」
「そう名乗っていた」
「何を言われた」
「あなたの安全のために、話を聞きたいと」
「母さんは」
「断った」
あまりに短い答えだった。
レイは、逆に不安になる。
「本当に?」
「本当に」
「危なくない?」
「私はただの図書館職員よ」
「ただの図書館職員は、観測局を断らないと思う」
「そう?」
佳乃は湯気の立つ鍋の火を弱めた。
「でも、あなたは私の息子だから」
その言葉は、強くも激しくもなかった。
ただ、食卓に箸を置くように自然だった。
「息子を番号で呼びそうな人たちに、預ける気はありません」
レイは、何も言えなかった。
「何か言われた?」
佳乃が聞く。
「前に、僕に似た症例があったって」
「黒江さんに?」
「うん。その子は、自分の名前を保てなくなったって。公式には、観測不能状態へ移行」
佳乃の手が止まった。
本当に一瞬だけ。
だが、レイは見た。
「母さん、知ってるの?」
「詳しくは知らない」
「詳しくは?」
佳乃は、鍋の蓋を閉めた。
「図書館には、古い新聞や資料が集まるでしょう。名前が欠けた記事も、行方不明の記録も、説明のつかない保管依頼もある。そういう中に、境界観測局の名前が出ることがある」
「真木彼方」
レイは、その名前を口にしていた。
佳乃の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「誰から聞いたの」
「聞いてない」
「じゃあ、見たのね」
「たぶん」
レイは自分の額に手を当てた。
白い病室。
識別バンド。
誰かの声。
僕の名前を呼んでください。
それが、真木彼方なのか。
黒い傘の人物なのか。
それとも、別の誰かなのか。
まだ分からない。
佳乃は、しばらく何も言わなかった。
「レイ」
「なに」
「知らなくていいこともあるわ」
「それ、言う側は便利だよね」
「そうね」
佳乃は否定しなかった。
「でも、知る準備ができていないこともある」
「僕はもう巻き込まれてる」
「だから、急がないで」
佳乃は食卓に座った。
レイも向かいに座る。
味噌汁の湯気が、二人の間に上がる。
「あなたが何を見ても、何を覚えていても」
佳乃は言った。
「ここでのあなたは、御影レイよ」
朝にも似た言葉だった。
けれど、今は少し違って聞こえた。
家は、名前を呼び直す場所なのかもしれない。
病院で悠斗が名前を失いかけた時、真昼が呼んだ。
地下でレイも呼んだ。
そして今、母がレイを呼ぶ。
「僕が、僕じゃなくなったら?」
レイは聞いた。
佳乃はすぐに答えた。
「名前を呼ぶわ」
「それで戻る?」
「戻るまで呼ぶ」
「戻らなかったら?」
「戻らなくても、呼ぶ」
レイは、味噌汁の椀を見た。
湯気が目にしみた。
たぶん、それだけではなかった。
「母さんは強いね」
「そう見えるだけ」
「そうかな」
「親は、強いふりをする仕事があるの」
佳乃は静かに笑った。
「だから、手を洗ってきなさい。味噌汁が冷める」
「うん」
レイは立ち上がった。
洗面所へ向かう途中で、スマホが震えた。
真昼からだった。
――倉科さん、命に別状なしって黒江さんから連絡あった。
――よかった。
――でも、まだ怒ってるから。
――近づくなって話、終わってない。
――あと、境界観測局って何。
――明日、旧新聞部室。
レイはしばらく画面を見つめた。
返信を打つ。
――明日。
――一人で動くな。
すぐに既読がついた。
――それはこっちの台詞。
――御影くんも、一人で消えないで。
レイは、その文面を見て、返信できなかった。
*
夜、黒江透子は特異殺人対策室に一人残っていた。
庁舎の三階は静かだった。
霧生は現場確認へ出ている。綾瀬はようやく仮眠を取った。御堂圭吾は真昼のスマホに届いた匿名メッセージの解析を続けている。牧野佐和は旧地下鉄で採取した黒い傷跡のサンプルについて、検査不能という結果を出しかけては、表現を変えるために悩んでいた。
透子の机の上には、いくつもの資料が並んでいる。
エミー・グレイス・ハーパー殺害事件。
倉科悠斗襲撃事件。
旧第三連絡線作業員事故。
アガルタ学院旧新聞部資料。
ノクターン書房から提出された複写。
境界観測局からの照会文書。
その中に、透子が持ち出してはいけないはずの古い資料があった。
境界観測局時代の私的メモ。
正式な持ち出し資料ではない。
記憶のために書いた、断片の束。
透子は、鍵付きの引き出しから古い封筒を出した。
封筒は黄ばんでいる。
表には、何も書いていない。
中には、三枚のコピーが入っていた。
一枚目。
K-117。
名前欄は黒く潰れている。
年齢欄も、日付の一部も欠けている。
備考欄には、かろうじて読める文字が残っていた。
多元記憶過負荷。
自己名固定不全。
観測位相不安定。
対象、継続観測困難。
その下に、赤字の追記。
観測不能状態へ移行。
透子は、その紙を見つめた。
紙の上に、白い病室が浮かぶ。
細い腕。
識別バンド。
名前を呼んでほしいと言った声。
真木彼方。
透子は、声には出さなかった。
二枚目。
C-04。
旧地下鉄勤務。
レイ系アニマ反応あり。
名前固定、比較的安定。
要経過観察。
赤字の追記。
観測中断。
対象死亡推定。
資料欠落。
名前欄は、古河 千■。
最後の文字だけが黒く滲んで読めない。
透子は、悠斗の傷を思い出した。
倉科悠斗は生きている。
C-04は救えなかった。
その差は何か。
真昼が名前を呼んだこと。
レイが名前を見せたこと。
黒い刃が殺し切れなかったこと。
それだけでは、まだ足りない。
三枚目。
R-■■。
名前欄は、ほとんど読めない。
年齢も、性別も、所属も、断片だけ。
しかし、備考欄には奇妙な文字が残っていた。
観測者反応あり。
複数同魂記憶への同時接続。
アルファ反応、未確定。
家庭内保護継続。
母親、協力的。ただし観測局介入に強い警戒。
透子は、その紙に触れた。
古い記録なのに、現在のレイに近すぎる。
いや。
これは過去の御影レイなのか。
幼少期の検査記録なのか。
それとも、別の誰かの記録が重なっているのか。
欠けている部分が多すぎる。
資料は、資料として信用できない。
だが、完全には捨てられない。
透子は三枚の紙を並べた。
K-117。
C-04。
R-■■。
番号だけが残っている。
名前は欠けている。
境界観測局は、名前を守るために番号をつけたと言うだろう。
だが、番号だけが残り、名前が消えた時、それは本当に保護だったのか。
透子は、自分の報告書を開いた。
新しい事件ファイル。
タイトル欄には、まだ仮の分類が入っている。
夜見坂歓楽街女性殺害事件および旧地下鉄閉鎖区画襲撃事件。
長い。
正確ではある。
だが、何かが足りない。
透子はキーボードに指を置いた。
迷った。
それから、別欄に名前を打った。
エミー・グレイス・ハーパー。
倉科悠斗。
御影レイ。
白瀬真昼。
指が止まる。
次の名前は、打てなかった。
真木彼方。
打てない。
彼の名前を書けば、過去の失敗を現在の事件へ呼び戻すことになる。
書かなければ、また番号だけが残る。
透子は、画面ではなく、手元の紙にペンを取った。
報告書の余白ではない。
正式記録でもない。
自分のメモの端に、小さく書く。
真木彼方。
文字は震えていなかった。
だが、書いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
透子はその名前を、すぐに黒い線で消した。
消してから、しばらくその黒い線を見つめた。
消した。
けれど、書いた。
書いた事実だけは、消えない。
その時、御堂からメッセージが届いた。
――白瀬真昼の匿名メッセージ解析。
――通常経路なし。
――管理画面上の送信記録は存在せず。
――ただし、下書きフォルダに新規ファイル生成。
透子は眉を寄せた。
添付された画像を開く。
《アガルタ観測録》の下書き画面。
真昼がまだ書いていないはずの記事。
タイトル欄には、こう入っていた。
エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた
本文は空白。
その下に、一行だけ、見知らぬ文字があった。
次は、お前の名前を消す。
透子は、椅子から立ち上がった。
すぐに真昼へ連絡しようとして、手が止まる。
先ほど、真昼のスマホは警察が預かっている。
代替機へかければいい。
だが、その前に、別の電話が鳴った。
病院からだった。
透子は応答する。
「黒江です」
相手の声を聞いた瞬間、表情が変わった。
「倉科さんが?」
短い沈黙。
「分かりました。すぐ向かいます」
通話を切る。
透子は、机の上の三枚の古い資料を見た。
K-117。
C-04。
R-■■。
それから、新しい報告書の名前欄を見る。
エミー・グレイス・ハーパー。
倉科悠斗。
御影レイ。
白瀬真昼。
番号ではなく、名前。
だが、黒い傘の人物は、それを許さない。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
透子はロングコートを手に取った。
部屋を出る直前、もう一度だけ机に戻る。
黒い線で消した名前を見た。
真木彼方。
透子は、その紙を引き出しへ戻さなかった。
代わりに、胸ポケットへ入れた。
救えなかった名前を、今夜だけは置いていかない。
廊下へ出ると、庁舎の窓に雨が当たり始めていた。
アガルタの雨は、いつも何かを連れてくる。
事件。
記憶。
欠けた名前。
黒い傘。
透子は歩きながら、無線を取った。
「霧生主任。黒江です。白瀬真昼への追加脅迫を確認。倉科悠斗さんにも異変。至急、病院へ」
無線の向こうで、霧生が低く罵った。
『休ませる気、ねえな。この街は』
「ええ」
透子は答えた。
「名前を残すには、まだ眠れません」




