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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
8/10

第七章 境界観測局の影

 倉科悠斗は、救急搬送先の病院で一命を取り留めた。


 それは、最初に届いた情報としては十分だった。


 命に別状なし。


 左脇腹に裂創。

 出血あり。

 意識混濁。

 一時的な記名障害。

 本人確認への応答、不安定。


 黒江透子は、病院の廊下でその報告を聞いた。


 白い壁。

 消毒液の匂い。

 夜間外来の蛍光灯。

 ストレッチャーの車輪が床を滑る音。

 看護師の低い声。

 救急処置室の扉の向こうで鳴るモニター音。


 どれも現実の音だった。


 それでも、透子には別の白い部屋が重なっていた。


 もっと冷たい白。


 窓のない検査室。


 ベッドに固定された細い腕。


 左手首の識別バンド。


 名前欄に、名前ではなく番号が入っている。


 K-117。


 幼い声が言う。


 先生。


 僕の名前を呼んでください。


 透子は、目を閉じた。


 一秒だけ。


 次に目を開けた時、目の前には現在の病院の廊下が戻っていた。


「黒江さん」


 綾瀬直央が、少し不安そうに声をかけた。


「大丈夫ですか」


「ええ」


「顔色が悪いです」


「寝不足です」


「主任と同じ言い訳です」


「では、撤回します」


 透子はそう言ったが、表情は戻らなかった。


 処置室の扉が開いた。


 担当医が出てくる。


 四十代半ばの救急医で、透子とは何度か現場で顔を合わせたことがある。彼は通常の外傷として対応しようとしながらも、表情に困惑を隠せていなかった。


「黒江さん」


「容体は」


「出血は止まっています。裂創そのものは、縫合処置で対応可能です。臓器損傷も今のところ確認されていません。ただ……」


 医師は言葉を選んだ。


「傷の縁が変です」


「変、とは」


「切創のようで、切創ではない。皮膚も筋層も裂けている。ただ、普通の刃物で切られた時に残るはずの組織の引きつれや、刃の微細な痕跡が非常に少ない。熱傷ではない。薬品でもない。何かに切られた、というより、そこだけ存在を抜かれたような」


 綾瀬が小さく息を呑んだ。


 透子は表情を変えなかった。


 それでも、指先だけが少し冷えた。


「黒い刃の痕跡は」


「黒い?」


「いえ。続けてください」


 医師は困惑したようにカルテを見た。


「問題は、本人の認知反応です。名前を聞くと、答えようとはします。しかし途中で止まる。自分の氏名を認識できないというより、そこへ到達する経路が一時的に遮断されているように見えます」


「失語ですか」


「違います。言語理解は保たれています。質問にも反応する。職業、年齢、勤務先、事故の状況も断片的には言える。でも、自分の名前だけが不安定になる」


「自分の名前だけ」


「はい。こちらが『倉科悠斗さんですね』と呼ぶと、反応します。文字を見せても、しばらくすると読める。ただ、自発的に言わせると詰まる」


 綾瀬がペンを握る手に力を込めた。


「黒い傘の人物に斬られたあと、地下でもそうでした。名前だけが出なくなっていました」


「精神的ショックでも起こり得ますか」


 医師は迷った。


「完全に否定はできません。ただ、傷と同時に出ているなら、外傷性というより……」


「記憶接続の傷」


 透子が言った。


 医師は黙った。


 その言葉を、彼は正式な医学用語としては扱えない。


 だが、アガルタの病院に長くいる者は、そういう言葉を完全には笑えない。


「黒江さん」


 綾瀬が低く聞いた。


「黒刃は、やっぱりただの凶器ではないんですね」


「ええ」


 透子は処置室の扉を見た。


「肉体だけではありません。名前へ接続する記憶経路を傷つけています」


「名前へ接続する記憶経路」


「人は、自分の名前をただの文字列として覚えているわけではありません。呼ばれた経験、書いた経験、誰かの声、署名、名札、家族、仕事、生活。それらが網のようにつながって、自分の名前を支えています」


 透子は、救急処置室の中にいる悠斗を思った。


 作業日報。

 胸ポケットのメモ。

 田端の声。

 真昼の叫び。

 レイが見せた血のついた紙。


 倉科悠斗。


 その名前は、一本の糸ではなく、たくさんの糸で支えられている。


 黒刃は、その糸を切る。


「黒いナイフは、同魂者に対してだけ特異に作用する可能性があります。肉体損傷は表層。本質は記憶接続の切断です」


「それって」


 綾瀬は言葉を詰まらせた。


「殺すための刃物じゃなくて、消すための刃物ってことですか」


 透子は頷かなかった。


 だが、否定もしなかった。


「現時点では、そう記録します」


「記録」


 綾瀬の声が沈む。


「何でも記録にしないと扱えないんですね」


「ええ」


 透子は静かに答えた。


「記録しなければ、なかったことにされます」


 そう言いながら、自分の言葉がどこへ向かっているのか分かっていた。


 記録したのに、なかったことにされたものもある。


 番号になった名前。

 欠けた症例。

 観測不能状態。

 救えなかった子供。


 真木彼方。


 その名前を、透子はまだ声に出さなかった。


     *


 レイと真昼が病院へ着いたのは、それから三十分後だった。


 霧生仁に「帰れ」と言われたはずだったが、帰れるわけがなかった。


 少なくとも、真昼はそう言った。


 レイは何も言わなかった。


 帰ろうと思えば、帰れたかもしれない。


 だが、悠斗が自分の名前を言えなくなった瞬間が、まだ身体の中に残っている。


 倉科。


 その先が消える。


 胸ポケットのメモ。


 血で濡れた文字。


 倉科悠斗。


 生きている人間の名前が、目の前でほどけかけた。


 あれを見たあとで、家に帰って眠れるほど、レイはまだ冷たくなかった。


 病院の廊下で、真昼は看護師に止められた。


「ご家族以外は面会できません」


「でも、名前を――」


 真昼が言いかける。


 レイが袖を掴んだ。


「今はやめろ」


「でも」


「今は、病院のルールに従え」


「御影くんが常識的なこと言うと、ちょっと怖い」


「僕も言ってて気持ち悪い」


「そこは否定してよ」


 真昼は小さく笑おうとした。


 しかし、すぐに笑いが消える。


 廊下の向こうに透子が見えたからだ。


 透子は二人を見ても驚かなかった。


「来ると思っていました」


「帰れとは言わないんですか」


 真昼が聞く。


「言います」


「ですよね」


「ただ、言っても聞かないでしょう」


「聞かないですね」


「なので、ここで待機してください。処置室へは入れません。倉科さんの容体は安定しています」


 真昼は、胸を撫で下ろした。


「よかった」


 その言葉は素直だった。


 レイも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


「名前は」


 彼は聞いた。


「まだ不安定です」


 透子は答えた。


「ですが、完全に失われたわけではありません。呼べば反応する。文字も追える。自発的に言う時に詰まるだけです」


「だけ、ですか」


 真昼の声が尖った。


 透子は彼女を見た。


「言葉が軽く聞こえたなら訂正します。深刻です。ただ、戻る可能性があります」


「戻らなかった人もいるんですか」


 真昼が聞いた。


 廊下の空気が変わった。


 綾瀬が、少し離れた場所で顔を上げた。


 透子は、すぐには答えなかった。


 レイはその沈黙を見た。


 ただ知らないから黙ったのではない。


 答えたくないからでもない。


 言葉を選んでいる。


 どこまで言うか。


 何を隠すか。


 誰の名前を守るか。


「以前」


 透子は静かに言った。


「あなたに似た症例がありました」


 レイの背筋がわずかに伸びた。


「僕に」


「同魂者記憶の混線。複数人生の夢。自己名の不安定化。他者の死の受信。記録欠損への反応」


「その人は」


「その子は、自分の名前を保てなくなった」


 子。


 真昼が息を呑んだ。


「子供だったんですか」


「十代でした」


「学院の生徒?」


 透子は答えない。


 それが答えに近かった。


 アガルタ学院には、過去に記憶混線症例として境界観測局に保護された生徒がいた。


 真昼は旧新聞部室で似たような記録を見たことがある。


 名前の欠けた卒業アルバム。

 保健室の古い搬送記録。

 雨の日だけ開く資料室。


 それらが、今ひとつの影にまとまり始める。


「その子の名前は」


 レイが聞いた。


 透子の表情が、ほんの少しだけ揺れた。


 そして、すぐ戻る。


「今は言えません」


「言えない?」


「言うべき段階ではありません」


「死んだんですか」


 レイの声は、思ったより低く出た。


 透子は答えなかった。


 廊下の蛍光灯が、かすかに鳴っている。


 真昼も、綾瀬も、誰も口を挟まなかった。


 やがて透子は言った。


「公式には、観測不能状態へ移行」


 その言葉は、白い廊下にひどく冷たく響いた。


 レイの眉が動く。


 真昼は、はっきりと顔をしかめた。


「それ」


 彼女は言った。


「人の死に使う言葉じゃないですよ」


 透子は、真昼を見た。


 怒らなかった。


 反論もしなかった。


「ええ」


 短く、それだけ答えた。


 真昼は黙った。


 その返事に、怒りをぶつける先を失ったようだった。


「私は、救えませんでした」


 透子は続けた。


 声は淡々としていた。


 しかし、淡々としているからこそ、長い時間をかけて押し固められた痛みがあることが分かった。


「その子は、何度も名前を書いていました。声に出していました。けれど、最終的に自分の名前を保てなくなった」


「黒い刃で?」


 レイが聞く。


「断定できません。少なくとも、当時はその表現では記録されていませんでした」


「じゃあ、何と記録されたんですか」


「多元記憶過負荷。自己名固定不全。観測位相逸脱。そういう言葉です」


 真昼がますます嫌そうな顔をする。


「人間じゃなくて、機械の故障みたい」


「そうですね」


 透子はまた、否定しなかった。


「当時の私は、その言葉を使っていました」


「今は?」


「今も使います。報告書には必要です。ただ」


 彼女は、処置室の扉を見た。


「それだけでは、誰も救えないことは知っています」


 レイは、透子を見た。


 この人は、警察官であり、医師であり、観測局の影を背負っている。


 人間として扱うために疑う、と言った人。


 だが、かつては人間を番号で扱う側にいたのかもしれない。


 あるいは、番号で扱う組織の中で、人間を人間として見ようとして失敗したのかもしれない。


「その子の名前」


 レイは言った。


「言えないんですか」


 透子は、少しだけ目を伏せた。


「今は」


「いつかは?」


「あなたが知るべき時が来れば」


「便利な言い方ですね」


「ええ」


「黒江さんは、便利な言い方が多い」


「自覚しています」


 真昼が横から言った。


「でも、いつか言ってください」


 透子が彼女を見る。


「その子の名前。観測不能状態とかじゃなくて、ちゃんと名前で」


 透子の表情が、ほんのわずかに緩んだ。


「努力します」


「そこは約束って言ってください」


「約束できないことは言いません」


「真面目すぎます」


「あなたは約束しすぎです」


「それは、ちょっとそうかも」


 真昼は小さく息を吐いた。


 場の空気が、わずかにほどける。


 だが、その緩みはすぐに破られた。


 透子のスマホが鳴った。


 画面を見た瞬間、彼女の目が冷えた。


「黒江です」


 短い沈黙。


 次に、彼女の声が低くなる。


「庁舎に?」


 レイと真昼が顔を見合わせた。


「身分証は確認しましたか。……分かりました。応接室に通さず、特殺室前で待機させてください。霧生主任には?」


 さらに沈黙。


「私が戻るまで、御影レイに関する資料へアクセスさせないでください。捜査協力要請の形式であってもです」


 通話を切る。


 綾瀬がすぐに聞いた。


「境界観測局ですか」


 真昼の目が鋭くなる。


 境界観測局。


 ついに、その名前が廊下に出た。


 透子は、否定しなかった。


「関係者です」


「何をしに」


 レイが聞く。


「あなたの保護を申し出ています」


「保護?」


「そういう名目です」


 真昼が嫌そうに言う。


「本当は?」


「監視。検査。必要に応じて隔離。言葉を選ばなければ、収容です」


 綾瀬が息を呑む。


「未成年ですよ」


「だからこそ、彼らは保護という言葉を使います」


 レイは、病院の白い廊下を見た。


 窓のない検査室。

 識別バンド。

 K-117。

 僕の名前を呼んでください。


 透子が話した「以前の症例」の影が、今になって自分の足元まで伸びてくる。


「僕を連れて行くんですか」


 レイが聞いた。


「いいえ」


 透子は即答した。


「あなたを渡しません」


 あまりにも早い返事だった。


 レイは、少しだけ驚いた。


 真昼も同じように透子を見た。


「でも、元はその組織にいたんですよね」


 真昼が聞く。


「はい」


「なら、逆らって大丈夫なんですか」


「大丈夫かどうかではなく、必要かどうかです」


「必要なんですか」


「ええ」


 透子は、レイを見た。


「御影レイは、事件の重要証言者であり、保護対象であり、同時に観測対象でもあります。ですが、最初に扱われるべきなのは人間としてです」


「観測局は違う?」


「人間として扱う者もいます」


 透子の声に、かすかな苦さが混じった。


「ただ、組織は個人よりも番号を優先します」


 真昼は、それを聞いて黙った。


 番号。


 K-117。

 C-04。

 R-■■。


 まだ意味の分からない記号たちが、空気の奥でちらついている。


     *


 アガルタ市警察局の三階、特異殺人対策室の入口には、スーツ姿の男女が二人立っていた。


 一人は五十代ほどの男。


 灰色のスーツ、細い銀縁眼鏡、整えられた髪。官僚のような印象だが、目は笑わない。もう一人は三十代前半の女性。黒いタイトスーツに、首から下げた身分証。表情は穏やかだが、目の動きは廊下の監視カメラ、入口のロック、職員の配置を一瞬で確認している。


 霧生仁は、二人の前で腕を組んでいた。


「だから、黒江が戻るまで待てと言ってる」


 男は丁寧に微笑んだ。


「我々は正式な協力要請に基づいて来ています。刑事部長にも話は通してあります」


「俺には通ってない」


「あなたは決裁権者ではありません」


「ここでは俺が現場責任者だ」


「特異殺人対策室は市警内の部署です。境界関連事案については、観測局の優先調査権が――」


「知らん」


 霧生は即答した。


 女性のほうが、柔らかく口を挟む。


「霧生主任。対立するために来たわけではありません。御影レイさんの安全確保が目的です」


「安全確保ね」


 霧生は笑った。


「それ、何日くらい外に出られない安全なんだ?」


「必要な検査期間によります」


「学校は?」


「調整します」


「家族は?」


「説明します」


「本人の意思は?」


 男が、少しだけ表情を硬くした。


「本人は、自身の状態を正確に判断できる段階にない可能性があります」


「出たよ」


 霧生は飴の袋を取り出した。


「可能性。便利な言葉だな。俺も使おう。俺の可能性では、お前らは未成年を連れてって番号札つける気だ」


 女性の目が細くなる。


「その表現は不適切です」


「そっちのやることも不適切になりそうだから、ちょうどいい」


 エレベーターの音が鳴った。


 扉が開き、透子が降りてきた。


 レイと真昼はいない。


 病院から直接、市警へ向かう前に、透子は二人を一度帰宅させた。正確には、真昼には帰宅を命じ、レイには母親へ連絡させた。二人とも不満そうだったが、悠斗の病院と市警の両方へ同時にいることはできない。


「お待たせしました」


 透子が言った。


 男が、丁寧に頭を下げる。


「黒江透子さん。お久しぶりです」


「久住調査官」


「今は管理官です」


「そうでしたか」


「記録では、あなたは境界観測局を退職後、アガルタ市警へ移籍。現在は特異殺人対策室で犯罪心理分析官として勤務」


「よくご存じですね」


「記録にあります」


 透子は、その言葉に反応しなかった。


 女性のほうが一歩前へ出る。


「境界観測局・臨時調査班の相良です。御影レイさんの保護について、協議に参りました」


「協議なら、書面でどうぞ」


「緊急性があります」


「こちらも緊急捜査中です」


「黒江さん」


 久住管理官の声が、少し低くなる。


「あなたなら分かるはずです。御影レイは、通常の市警案件ではありません。多元人格観測者。アルファ反応。記憶混線だけでなく、加害者側の感覚まで受信している。すでに第三者の生命に関わる接触も起きている」


「だからこそ、市警が保護しています」


「市警に保護設備はありません」


「観測局にあるのは保護設備ですか」


 廊下の空気が硬くなった。


 霧生が飴を噛み砕く。


 相良調査官は表情を変えない。


 久住管理官だけが、わずかに目を伏せた。


「過去の事案を持ち出すのは建設的ではありません」


「では、現在の事案として言います。御影レイを観測局へ引き渡すことはできません」


「あなたに決定権はありません」


「現場判断権はあります」


「彼は危険です」


「誰にとって」


「本人にも、周囲にも、そして観測秩序にも」


 透子は、最後の言葉を聞いて、ほんの少しだけ表情を変えた。


「観測秩序」


「重要です」


「人命よりも?」


「人命を守るための秩序です」


「以前も、そう言っていましたね」


 久住管理官は黙った。


 霧生は、その沈黙を見て、二人の間にある過去の重さを察したようだった。


「黒江さん」


 相良調査官が静かに言った。


「御影レイさんの収容ではなく、保護観察です。短期間の検査と接続安定処置を行い、必要に応じて市警へ情報共有します」


「本人の同意は」


「未成年です。保護者同意が優先されます」


「保護者へ接触したのですか」


 相良は、一瞬だけ黙った。


 透子の目が冷える。


「答えなさい」


「手続き上の連絡を試みています」


「誰が許可しました」


「観測局の規定に基づく緊急接触です」


 透子はスマホを取り出した。


 その場で電話をかける。


 相手は、御影佳乃だった。


     *


 御影家の玄関先には、雨の匂いが残っていた。


 夜ではない。


 昼を過ぎた時間だった。


 空は曇り、窓ガラスには細い水滴が流れている。住宅街は静かで、遠くの幹線道路の音だけが低く聞こえた。


 御影佳乃は、玄関の内側に立っていた。


 相手は、スーツ姿の男だった。


 境界観測局の身分証を提示したが、佳乃はそれを受け取らなかった。


 扉は半分だけ開いている。


 家の中へ入れるつもりはない。


「御影佳乃さんですね」


「はい」


「境界観測局・臨時調査班の者です。御影レイさんの件で、お話を」


「息子は学校です」


「承知しています。今回は保護者の方へ、事前説明を」


「事前説明」


 佳乃は、穏やかに繰り返した。


 彼女の声は柔らかい。


 だが、玄関の中へ一歩も入れない硬さがあった。


「レイに何をする説明ですか」


「現在、御影レイさんには特殊な記憶混線症状が確認されています。このまま通常生活を続けることは、本人の精神的負荷が大きく、また周囲への影響も――」


「息子は、今朝も朝食を食べました」


 男は少し戸惑った。


「はい?」


「卵焼きを二切れ。味噌汁は半分。魚は残しました。学校へ行く前に、傘を忘れそうになりました」


「それは、日常生活を維持しているという意味では重要ですが、今回の症状は――」


「あなた方は、息子の日常をどれくらい知っていますか」


 佳乃は言った。


 声は変わらない。


「朝、目が覚めた時に、まず自分の喉に触れる癖。人混みで右手を開いたり閉じたりする癖。知らない名前を聞いた時に、一瞬だけ目を伏せる癖。夕食の味が分からない日は、卵焼きだけなら食べられること」


 男は、答えなかった。


「記録にはありますか」


「我々は専門機関として――」


「息子の名前を、あなた方は何と記録していますか」


 男の言葉が止まった。


 佳乃は、静かに続ける。


「御影レイですか」


 雨音が玄関の外で細く響く。


「それとも、別の番号ですか」


 男は、答えなかった。


 答えられなかったのではない。


 答えないことを選んだ沈黙だった。


 佳乃は、小さく頷いた。


「お引き取りください」


「御影さん、これは息子さんの安全のためです」


「息子の名前を呼べない方に、息子は預けません」


「呼べないわけでは」


「では、呼んでください」


 佳乃は真っ直ぐに男を見た。


「息子の名前を」


 男は、口を開いた。


 御影レイ。


 ただそれだけを言えばよかった。


 だが、その前に彼の目が一瞬、手元の端末へ落ちた。


 記録を確認しようとした。


 佳乃はそれを見た。


「もう結構です」


 扉が静かに閉じられる。


 乱暴ではない。


 音も小さい。


 だが、その扉は、どんな怒声よりもはっきりと拒絶を示していた。


 男はしばらく玄関前に立っていた。


 雨が、彼のスーツの肩を濡らす。


 やがて彼は端末を取り出し、短く報告を打った。


 保護者接触失敗。


 母親、協力拒否。


 対象名呼称に関する強い拒否反応あり。


 その文章の中に、御影佳乃という名前も、御影レイという名前もなかった。


     *


 佳乃から電話を受けた透子は、市警の廊下で静かに目を閉じた。


 それから、境界観測局の二人を見た。


「保護者への接触は拒否されました」


 相良調査官は端末を確認した。


「現地担当からも報告が来ています。母親が感情的に反応したと」


「感情的?」


 霧生が低く言った。


「話を聞く限り、あんたらよりよっぽど冷静だが」


 久住管理官は、透子に向き直る。


「黒江さん。個人の感情で、必要な措置を遅らせるべきではありません」


「個人の名前を軽視する組織に、名前欠落事案を扱う資格はありません」


「それは極論です」


「私は現場判断として、御影レイの移送を認めません」


「あなたが拒むなら、上位命令を取ります」


「どうぞ」


 透子は一歩も引かなかった。


「その間に、こちらは令状請求と保護措置の記録を整えます。未成年本人の意思、保護者の拒否、現行捜査への影響、境界観測局による無断接触。すべて正式に残します」


 久住管理官の表情が硬くなる。


「市警が観測局と対立するつもりですか」


「個人として対立するつもりはありません」


「では」


「現場として、対象を守ります」


「対象」


 久住がその言葉を拾った。


「あなたも対象と呼ぶのですね」


 透子は、ほんの一瞬だけ黙った。


 それから、言い直した。


「御影レイを守ります」


 霧生が小さく笑った。


「言い直せるだけ、まだこっちのほうがましだな」


 相良調査官が、初めて少しだけ不快そうな顔をした。


「本日は引きます」


 久住管理官は言った。


「ですが、御影レイさんの状態が悪化した場合、観測局は再度保護を要請します」


「要請は受け取ります」


 透子は答えた。


「引き渡しは別です」


 境界観測局の二人は、廊下を去っていった。


 足音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。


 霧生が飴の袋を振る。


「食うか」


「いりません」


「だろうな」


 彼は自分の口に飴を入れた。


「昔の上司か」


「似たようなものです」


「嫌いか」


「嫌いで済めば楽ですね」


「じゃあ、怖いか」


 透子は答えなかった。


 霧生はそれ以上聞かなかった。


 綾瀬が、少し迷ってから言った。


「黒江さん。観測局は、本当に御影くんを守るつもりなんですか」


「守るつもりはあります」


「なら」


「ただし、彼らが守るのは、御影レイという少年の日常とは限りません」


 綾瀬は黙った。


「観測対象としての安定。接続の制御。記録の保全。危険因子の隔離。彼らにとっての保護は、その四つです」


「家に帰ることや、学校に行くことは」


「優先順位が下がります」


「そんなの」


 綾瀬は言葉を探した。


「保護じゃないです」


「ええ」


 透子は短く答えた。


「だから、ここで止めます」


     *


 その日の夕方、レイは家に帰った。


 玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。


 あまりに普通の匂いで、しばらく動けなかった。


 地下の水音。

 病院の消毒液。

 市警の廊下。

 境界観測局。


 それらが、玄関の温かい空気の前で少しだけ遠ざかる。


「おかえり、レイ」


 佳乃の声がした。


 レイは靴を脱ぐのが少し遅れた。


 母の声は、いつも通りだった。


 ただ、いつもより少しだけ丁寧に、自分の名前を呼んだ気がした。


「ただいま」


 レイは答えた。


 佳乃はキッチンから顔を出した。


「手、洗って。今日は寒いから、先にお風呂でもいいわ」


「母さん」


「なに?」


「今日、誰か来た?」


 佳乃は数秒だけ黙った。


 それから、いつも通りの顔で言った。


「来たわ」


「観測局?」


「そう名乗っていた」


「何を言われた」


「あなたの安全のために、話を聞きたいと」


「母さんは」


「断った」


 あまりに短い答えだった。


 レイは、逆に不安になる。


「本当に?」


「本当に」


「危なくない?」


「私はただの図書館職員よ」


「ただの図書館職員は、観測局を断らないと思う」


「そう?」


 佳乃は湯気の立つ鍋の火を弱めた。


「でも、あなたは私の息子だから」


 その言葉は、強くも激しくもなかった。


 ただ、食卓に箸を置くように自然だった。


「息子を番号で呼びそうな人たちに、預ける気はありません」


 レイは、何も言えなかった。


「何か言われた?」


 佳乃が聞く。


「前に、僕に似た症例があったって」


「黒江さんに?」


「うん。その子は、自分の名前を保てなくなったって。公式には、観測不能状態へ移行」


 佳乃の手が止まった。


 本当に一瞬だけ。


 だが、レイは見た。


「母さん、知ってるの?」


「詳しくは知らない」


「詳しくは?」


 佳乃は、鍋の蓋を閉めた。


「図書館には、古い新聞や資料が集まるでしょう。名前が欠けた記事も、行方不明の記録も、説明のつかない保管依頼もある。そういう中に、境界観測局の名前が出ることがある」


「真木彼方」


 レイは、その名前を口にしていた。


 佳乃の表情が、ほんの少しだけ変わった。


「誰から聞いたの」


「聞いてない」


「じゃあ、見たのね」


「たぶん」


 レイは自分の額に手を当てた。


 白い病室。


 識別バンド。


 誰かの声。


 僕の名前を呼んでください。


 それが、真木彼方なのか。


 黒い傘の人物なのか。


 それとも、別の誰かなのか。


 まだ分からない。


 佳乃は、しばらく何も言わなかった。


「レイ」


「なに」


「知らなくていいこともあるわ」


「それ、言う側は便利だよね」


「そうね」


 佳乃は否定しなかった。


「でも、知る準備ができていないこともある」


「僕はもう巻き込まれてる」


「だから、急がないで」


 佳乃は食卓に座った。


 レイも向かいに座る。


 味噌汁の湯気が、二人の間に上がる。


「あなたが何を見ても、何を覚えていても」


 佳乃は言った。


「ここでのあなたは、御影レイよ」


 朝にも似た言葉だった。


 けれど、今は少し違って聞こえた。


 家は、名前を呼び直す場所なのかもしれない。


 病院で悠斗が名前を失いかけた時、真昼が呼んだ。


 地下でレイも呼んだ。


 そして今、母がレイを呼ぶ。


「僕が、僕じゃなくなったら?」


 レイは聞いた。


 佳乃はすぐに答えた。


「名前を呼ぶわ」


「それで戻る?」


「戻るまで呼ぶ」


「戻らなかったら?」


「戻らなくても、呼ぶ」


 レイは、味噌汁の椀を見た。


 湯気が目にしみた。


 たぶん、それだけではなかった。


「母さんは強いね」


「そう見えるだけ」


「そうかな」


「親は、強いふりをする仕事があるの」


 佳乃は静かに笑った。


「だから、手を洗ってきなさい。味噌汁が冷める」


「うん」


 レイは立ち上がった。


 洗面所へ向かう途中で、スマホが震えた。


 真昼からだった。


 ――倉科さん、命に別状なしって黒江さんから連絡あった。

 ――よかった。

 ――でも、まだ怒ってるから。

 ――近づくなって話、終わってない。

 ――あと、境界観測局って何。

 ――明日、旧新聞部室。


 レイはしばらく画面を見つめた。


 返信を打つ。


 ――明日。

 ――一人で動くな。


 すぐに既読がついた。


 ――それはこっちの台詞。

 ――御影くんも、一人で消えないで。


 レイは、その文面を見て、返信できなかった。


     *


 夜、黒江透子は特異殺人対策室に一人残っていた。


 庁舎の三階は静かだった。


 霧生は現場確認へ出ている。綾瀬はようやく仮眠を取った。御堂圭吾は真昼のスマホに届いた匿名メッセージの解析を続けている。牧野佐和は旧地下鉄で採取した黒い傷跡のサンプルについて、検査不能という結果を出しかけては、表現を変えるために悩んでいた。


 透子の机の上には、いくつもの資料が並んでいる。


 エミー・グレイス・ハーパー殺害事件。

 倉科悠斗襲撃事件。

 旧第三連絡線作業員事故。

 アガルタ学院旧新聞部資料。

 ノクターン書房から提出された複写。

 境界観測局からの照会文書。


 その中に、透子が持ち出してはいけないはずの古い資料があった。


 境界観測局時代の私的メモ。


 正式な持ち出し資料ではない。


 記憶のために書いた、断片の束。


 透子は、鍵付きの引き出しから古い封筒を出した。


 封筒は黄ばんでいる。


 表には、何も書いていない。


 中には、三枚のコピーが入っていた。


 一枚目。


 K-117。


 名前欄は黒く潰れている。


 年齢欄も、日付の一部も欠けている。


 備考欄には、かろうじて読める文字が残っていた。


 多元記憶過負荷。

 自己名固定不全。

 観測位相不安定。

 対象、継続観測困難。


 その下に、赤字の追記。


 観測不能状態へ移行。


 透子は、その紙を見つめた。


 紙の上に、白い病室が浮かぶ。


 細い腕。

 識別バンド。

 名前を呼んでほしいと言った声。


 真木彼方。


 透子は、声には出さなかった。


 二枚目。


 C-04。


 旧地下鉄勤務。

 レイ系アニマ反応あり。

 名前固定、比較的安定。

 要経過観察。


 赤字の追記。


 観測中断。

 対象死亡推定。

 資料欠落。


 名前欄は、古河 千■。


 最後の文字だけが黒く滲んで読めない。


 透子は、悠斗の傷を思い出した。


 倉科悠斗は生きている。


 C-04は救えなかった。


 その差は何か。


 真昼が名前を呼んだこと。


 レイが名前を見せたこと。


 黒い刃が殺し切れなかったこと。


 それだけでは、まだ足りない。


 三枚目。


 R-■■。


 名前欄は、ほとんど読めない。


 年齢も、性別も、所属も、断片だけ。


 しかし、備考欄には奇妙な文字が残っていた。


 観測者反応あり。

 複数同魂記憶への同時接続。

 アルファ反応、未確定。

 家庭内保護継続。

 母親、協力的。ただし観測局介入に強い警戒。


 透子は、その紙に触れた。


 古い記録なのに、現在のレイに近すぎる。


 いや。


 これは過去の御影レイなのか。


 幼少期の検査記録なのか。


 それとも、別の誰かの記録が重なっているのか。


 欠けている部分が多すぎる。


 資料は、資料として信用できない。


 だが、完全には捨てられない。


 透子は三枚の紙を並べた。


 K-117。

 C-04。

 R-■■。


 番号だけが残っている。


 名前は欠けている。


 境界観測局は、名前を守るために番号をつけたと言うだろう。


 だが、番号だけが残り、名前が消えた時、それは本当に保護だったのか。


 透子は、自分の報告書を開いた。


 新しい事件ファイル。


 タイトル欄には、まだ仮の分類が入っている。


 夜見坂歓楽街女性殺害事件および旧地下鉄閉鎖区画襲撃事件。


 長い。


 正確ではある。


 だが、何かが足りない。


 透子はキーボードに指を置いた。


 迷った。


 それから、別欄に名前を打った。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 倉科悠斗。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 指が止まる。


 次の名前は、打てなかった。


 真木彼方。


 打てない。


 彼の名前を書けば、過去の失敗を現在の事件へ呼び戻すことになる。


 書かなければ、また番号だけが残る。


 透子は、画面ではなく、手元の紙にペンを取った。


 報告書の余白ではない。


 正式記録でもない。


 自分のメモの端に、小さく書く。


 真木彼方。


 文字は震えていなかった。


 だが、書いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 透子はその名前を、すぐに黒い線で消した。


 消してから、しばらくその黒い線を見つめた。


 消した。


 けれど、書いた。


 書いた事実だけは、消えない。


 その時、御堂からメッセージが届いた。


 ――白瀬真昼の匿名メッセージ解析。

 ――通常経路なし。

 ――管理画面上の送信記録は存在せず。

 ――ただし、下書きフォルダに新規ファイル生成。


 透子は眉を寄せた。


 添付された画像を開く。


 《アガルタ観測録》の下書き画面。


 真昼がまだ書いていないはずの記事。


 タイトル欄には、こう入っていた。


 エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた


 本文は空白。


 その下に、一行だけ、見知らぬ文字があった。


 次は、お前の名前を消す。


 透子は、椅子から立ち上がった。


 すぐに真昼へ連絡しようとして、手が止まる。


 先ほど、真昼のスマホは警察が預かっている。


 代替機へかければいい。


 だが、その前に、別の電話が鳴った。


 病院からだった。


 透子は応答する。


「黒江です」


 相手の声を聞いた瞬間、表情が変わった。


「倉科さんが?」


 短い沈黙。


「分かりました。すぐ向かいます」


 通話を切る。


 透子は、机の上の三枚の古い資料を見た。


 K-117。

 C-04。

 R-■■。


 それから、新しい報告書の名前欄を見る。


 エミー・グレイス・ハーパー。

 倉科悠斗。

 御影レイ。

 白瀬真昼。


 番号ではなく、名前。


 だが、黒い傘の人物は、それを許さない。


 記録するな。


 名前を残すな。


 それは私のものだ。


 透子はロングコートを手に取った。


 部屋を出る直前、もう一度だけ机に戻る。


 黒い線で消した名前を見た。


 真木彼方。


 透子は、その紙を引き出しへ戻さなかった。


 代わりに、胸ポケットへ入れた。


 救えなかった名前を、今夜だけは置いていかない。


 廊下へ出ると、庁舎の窓に雨が当たり始めていた。


 アガルタの雨は、いつも何かを連れてくる。


 事件。

 記憶。

 欠けた名前。

 黒い傘。


 透子は歩きながら、無線を取った。


「霧生主任。黒江です。白瀬真昼への追加脅迫を確認。倉科悠斗さんにも異変。至急、病院へ」


 無線の向こうで、霧生が低く罵った。


『休ませる気、ねえな。この街は』


「ええ」


 透子は答えた。


「名前を残すには、まだ眠れません」

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