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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
7/10

第六章 黒い傘の警告

 地下へ降りる直前、白瀬真昼のスマホが鳴った。


 通知音は短かった。


 いつもなら、真昼はすぐ画面を見る。新しいコメント、読者からの情報提供、匿名のタレコミ、旧新聞部の誰かからの連絡。彼女にとって通知音は、街のどこかで小さな扉が開く音に近かった。


 けれど、その時だけは違った。


 旧地下鉄保守課の搬入口前。


 赤い警報灯が濡れたコンクリートの壁を回り、黄色い作業灯が地下へ続くスロープを照らしている。倉科悠斗はヘルメットをかぶり、反射ベストを着け、胸ポケットに自分の名前を書いた小さなメモを入れていた。黒江透子は都市交通局の職員と短いやり取りを続けている。綾瀬直央は警察無線の応答に追われていた。


 雨は、地上に降っている。


 だが、レイには分かっていた。


 地下にも、もう雨が降り始めている。


 そんな時に鳴った通知音だった。


 真昼はスマホを取り出した。


 画面を見た瞬間、彼女の表情が止まった。


「真昼?」


 レイが呼ぶ。


 真昼は返事をしなかった。


 スマホを握る指だけが、少し白くなっている。


「白瀬」


 今度は透子が気づいた。


「何が届きましたか」


 真昼は、ゆっくり画面をこちらへ向けた。


 《アガルタ観測録》の管理画面。


 匿名メッセージ。


 送信者名なし。

 送信元不明。

 時刻は、たった今。


 本文は三行だけだった。


 記録するな。


 名前を残すな。


 それは私のものだ。


 搬入口の空気が、ほんの少し冷えた。


 雨音も、警報灯の回転音も、作業員たちの足音も、遠くなったように感じた。


 真昼は画面を見つめていた。


 いつものようにすぐ言い返さない。


 冗談にもしない。


 怖がっている。


 レイにはそれが分かった。


 真昼は怖い時、逆に前へ出る。声が大きくなり、言葉が速くなり、相手の隙を探すように笑う。


 でも今は、声が出ていない。


 それだけで、この三行が彼女のどこを刺したのか分かった。


 記録するな。


 名前を残すな。


 それは私のものだ。


 レイはスマホ画面から目を離せなかった。


 それは、エミーを殺した黒い傘の人物の言葉に似ていた。


 私はお前だ。


 お前は私に戻るだけだ。


 名前など、観測者がつけたタグにすぎない。


 直接聞いたわけではない言葉まで、頭の奥で勝手に形を取る。誰かの思想が、まだ言語になる前の冷たい影として流れ込んでくる。


「送信元は」


 透子が低く聞いた。


 真昼は指を動かそうとしたが、画面が少し震えた。


「……分かりません。管理画面には匿名フォーム経由って出てます。でも、普通の匿名フォームと違う。IPも、端末情報も、全部空欄」


「スクリーンショットを」


「はい」


 真昼は慌てて操作した。


 しかし、保存ボタンを押した直後、画面が一瞬だけ黒くなった。


 ノイズ。


 黒い水を垂らしたように、文字が滲む。


 記録するな。


 名前を残すな。


 それは私のものだ。


 その三行だけが、画面の奥から浮かび上がって見えた。


 次の瞬間、通常の管理画面へ戻る。


 メッセージは消えていた。


「……消えた」


 真昼の声が小さくなる。


 透子が即座に言った。


「スマホを貸してください」


「はい」


 真昼は素直に渡した。


 その素直さが、逆に痛々しかった。


 透子は画面を確認し、綾瀬へ渡す。


「御堂さんへデータ保全依頼。端末は一時的に預かります。白瀬さん、代替機は後で用意します」


「今、記事の下書きが」


「バックアップは」


「あります。たぶん」


「たぶんは困ります」


「……あります」


 真昼はそう言い直した。


 レイは彼女の横顔を見ていた。


「取材は中止だ」


 口から出た声は、自分でも思ったより硬かった。


 真昼がこちらを見る。


「今、それ言う?」


「今だから言う」


「倉科さんが地下に行くんだよ」


「君は行く必要がない」


「ある」


「ない」


「ある!」


 真昼の声が、ようやく戻った。


 怖さを押し返すような声だった。


「名前を残すなって来たんだよ。だったら、なおさら残さなきゃ駄目でしょ」


「相手は君を見ている」


「だから?」


「君が記事を書いていることを知っている。真昼の管理画面に入れる。名前を残すなと警告してくる。次は脅しだけで済まないかもしれない」


「分かってる」


「分かってない」


「分かってるよ!」


 雨音の中で、真昼の声が跳ねた。


 作業員たちが一瞬こちらを見る。


 悠斗も足を止めた。


 透子は口を挟まなかった。


 これは警察が止める以前に、レイと真昼の問題だと判断したのかもしれない。


「君まで巻き込まれる必要はない」


 レイは言った。


 言った瞬間、自分でも分かった。


 その言葉は、きれいすぎる。


 真昼にも、すぐ分かった。


「それ、本当に私のため?」


 彼女の声は、低くなった。


「どういう意味」


「私が同魂者かもしれないから?」


 レイの胸が、冷えた。


 真昼は続ける。


「それとも、私も“あなたの一部”になるのが嫌だから?」


 レイは答えられなかった。


 雨が強くなる。


 警報灯が赤く回る。


 地下搬入口の奥から、冷たい空気が上がってくる。


 真昼の瞳が揺れていた。


 怒りだけではない。


 傷ついている。


 それが分かった。


「御影くんは、私を心配してるんだと思う」


 真昼は言った。


「それは分かってる。危ないのも分かってる。怖いよ。さっきのメッセージ、普通に怖かった。今も手、震えてる」


 彼女は自分の右手を見せた。


 本当に震えていた。


「でも、怖いからやめるなら、エミーさんの名前は残せない。倉科さんの名前も、古河 千■さんの名前も、天沢■■さんの名前も、全部、怖い誰かのものになっちゃう」


「君が死んだら意味がない」


「死なないために、一緒にいるんでしょ」


「僕といれば安全だと思うのか」


「思ってない」


「なら」


「でも、一人よりはいい」


 真昼はレイを見た。


「それに、私は御影くんじゃない」


 その言葉は、まだ完成していない刃のようにレイへ刺さった。


 終わりの言葉ではない。


 むしろ、これから何度も向き合うことになる言葉の最初の形だった。


「私が同魂者なのか、違うのか、今は分からない。でも、どっちでも私は白瀬真昼だよ。御影くんの一部じゃない。だから、私が行くかどうかは、私が決める」


 レイは、何も言えなかった。


 言いたいことはある。


 止めたい。


 守りたい。


 近づかせたくない。


 でも、そのどれもが、彼女を「真昼」として見ているのか、自分の記憶に入ってくるかもしれない誰かとして見ているのか、分からなくなった。


「……勝手にしろ」


 ようやく出た言葉は、最低だった。


 真昼の顔が少しだけ曇る。


 レイはそれを見ないようにした。


 透子が静かに言った。


「二人とも、話は後です」


 その声で、現場の時間が戻る。


「白瀬さんは、地下入口まで。閉鎖区画内へは入れません」


「でも」


「これは譲れません。これ以上は保護対象として強制的に外します」


 真昼は唇を噛んだ。


「……分かりました」


 透子はレイを見る。


「御影さんも、本来は入口までです」


「でも?」


「でも、あなたがいなければ分からないことがある。だから、私の視界内から出ないこと。勝手に走らないこと。記憶混線が起きたらすぐ言うこと」


「分かりました」


「本当に?」


「たぶん」


「今、その返事は一番嫌いです」


 透子は短く息を吐き、無線へ指示を出した。


「霧生主任、こちら黒江。警告メッセージ確認。白瀬真昼への直接脅迫です。旧地下鉄搬入口で警戒を強化してください。御堂さんにデータ保全。牧野さんへ、後ほど端末解析用の保全手順確認を」


 無線の向こうで、霧生の低い声が返る。


『了解。こっちも向かう。勝手に地下へ降りるなよ』


「もう降ります」


『おい』


「状況が進んでいます」


『そういう時ほど待てって言ってんだよ』


「主任が到着するまでに状況を固定します」


『それを世間では突入って言うんだよ、黒江』


 透子は応答を切った。


 綾瀬が不安そうに見る。


「主任、怒りますよ」


「いつものことです」


「いつもなんですか」


「ええ」


 透子はヘルメットをかぶった。


「行きます」


 悠斗が、地下へ向かって歩き出す。


 レイはその背中を追った。


 真昼は搬入口の前で止められた。


 彼女は何か言いたそうにしていたが、言わなかった。


 ただ、レイの背中へ向かって叫んだ。


「御影くん!」


 レイは振り返らなかった。


 振り返れば、行くなと言ってしまう。


 そして、それが彼女を傷つけると分かっていた。


 だから、歩いた。


 地下へ。


 黄色い作業灯の下へ。


 地上の雨音が、背後で少しずつ遠ざかっていく。


     *


 旧地下鉄の閉鎖区画は、地上の地図では存在感が薄い。


 現役路線から切り離され、案内図から消え、駅名標も撤去され、一般利用者が入ることはない。都市交通局の資料では、保守管理対象区画とだけ書かれている。


 だが、地下へ降りると分かる。


 そこは、まだ生きている。


 水が流れ、壁が鳴り、レールが湿気を吸い、古い電線が時々かすかに震える。人が通らなくなったあとも、地下は勝手に死んではくれない。


 悠斗は先頭を歩いた。


 手には作業灯。腰には工具。背中には小型無線機。田端と若い作業員が続き、その後ろに透子、綾瀬、レイがいた。警察官二名がさらに後方を固める。


 真昼は地上の搬入口で待機している。


 そう決めたはずだった。


 レイは一度だけ振り返りそうになり、やめた。


 今は前だ。


 旧第三連絡線。


 夢で見た場所。


 地下の空気は重かった。


 壁には古い配管が走り、ところどころから水が滲んでいる。足元の通路は狭く、片側には使われていない線路が伸びている。天井は低く、何度も補修された跡があった。


 赤い警報灯が遠くで点滅している。


 悠斗が立ち止まり、壁面のバルブを確認した。


「この先です」


「漏水箇所は」


 透子が聞く。


「封鎖扉の手前。旧第三連絡線の排水溝が詰まりかけてる。放置すると手前のポンプ室へ逆流する」


「そこは二年前の事故現場に近い?」


 悠斗の横顔が硬くなる。


「近い」


 彼はそれ以上言わなかった。


 通路を進む。


 水音が大きくなる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 夢と同じ音。


 レイの胸の奥がざわめいた。


 悠斗の視界が、一瞬だけ重なる。


 作業灯の黄色。


 濡れた線路。


 足元の滑り。


 胸ポケットに入れたメモの存在。


 倉科悠斗。


 倉科悠斗。


 倉科悠斗。


 名前を何度も確認する感覚。


「御影さん」


 透子がすぐに気づいた。


「混線ですか」


「少し」


「何が見えますか」


「悠斗さんの視界。まだ現実と重なっているだけです」


「距離を取りますか」


「いえ」


 悠斗が振り返った。


「おい、俺の視界とか言うな。気持ち悪い」


「すみません」


「謝るなら見るな」


「見たくて見ているわけじゃありません」


「知ってるよ」


 悠斗は苛立ったように言った。


「だから余計に気持ち悪い」


 レイは黙った。


 その言葉は正しい。


 見たくて見ているわけではない。


 でも、見られる側にとっては関係ない。


 オメガがレイを憎む理由の一部が、少しだけ分かってしまう。


 自分だけのはずの人生を、どこかの誰かが覚えている。


 それは共有ではなく、侵害かもしれない。


 だが、だから殺していい理由にはならない。


 悠斗の無線が鳴った。


『倉科さん、ポンプ室側、水位上がってます』


「分かった。排水溝見たら戻る」


『気をつけてください。カメラ、またノイズ出てます』


 悠斗の足が止まった。


 透子も反応した。


「カメラ?」


 悠斗は壁の上部を指した。


「保守用監視カメラ。古いやつだけど、まだ生きてる」


 綾瀬が無線を確認する。


「地上モニター側で映像乱れ。……顔認識エラー?」


「顔認識なんかついてないだろ」


 悠斗が言う。


「なのにエラーが出てるそうです」


 地下の空気が、さらに冷えた。


 レイは、先の闇を見た。


 作業灯の届く範囲の外。


 線路の奥。


 そこに何かがある。


「止まってください」


 透子が言った。


 全員が足を止める。


 水音だけが続く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その音に、別の音が混ざった。


 傘に雨が当たる音。


 地下なのに。


 悠斗が、小さく舌打ちした。


「冗談だろ」


 作業灯を向ける。


 闇の奥。


 封鎖扉の手前。


 線路の真ん中に、黒い傘が立っていた。


 傘の縁から、水滴が落ちている。


 地下なのに、雨に濡れている。


 黒いコート。


 黒い手袋。


 細い輪郭。


 性別も年齢も定まらない。


 顔は見えない。


 傘の下にあるはずの場所だけが、黒く滲んでいる。


 それは映像のノイズではなかった。


 現実に立っている。


 現実なのに、顔だけが記録されていない。


 綾瀬が息を呑んだ。


 警察官が警告の声を上げようとした。


 しかし、透子が手を上げて制した。


「動かないでください」


 黒い傘の人物は、ゆっくりとこちらを見た。


 見た、はずだった。


 顔はない。


 それでも視線がこちらへ向いたと分かる。


 最初に、悠斗へ。


「倉科悠斗さん」


 透子の声は静かだった。


「下がってください」


 悠斗は動けなかった。


 黒い傘の人物が、一歩進む。


 水音。


 傘の先から落ちる水滴。


 その声が、地下に落ちた。


「怖がらなくていい」


 穏やかな声だった。


 男にも、女にも、少年にも、少女にも聞こえる。


 近いようで、遠い。


 耳ではなく、記憶の中から聞こえる声。


「これは終わりではない」


 レイの右手に、黒いナイフの重さが戻った。


 エミーを刺した感覚。


 被害者の喉。


 加害者の手。


 雨の路地。


 すべてが一気に開きかける。


「御影さん!」


 透子の声で、レイは踏みとどまった。


 悠斗が後ずさる。


「誰だ、お前」


 声は震えていた。


 それでも、彼は問うた。


 黒い傘の人物は、ほんの少し首を傾けたように見えた。


「私はお前だ」


 その言葉が地下の壁に反響した。


 私はお前だ。


 私はお前だ。


 私はお前だ。


 悠斗の顔が強張る。


「違う」


 彼は言った。


 声は小さい。


 それでも言った。


「俺は、倉科――」


 そこで止まった。


 名前が出ない。


 レイの胸が凍った。


 悠斗の中で何かが切れかけている。


 署名欄。


 ペン先。


 名前の空白。


 倉科。


 倉科。


 その先が白くなる。


 黒い傘の人物が、もう一歩近づく。


 右手に何かが現れた。


 黒いナイフ。


 光を反射しない刃。


 暗闇に紛れるのではない。


 作業灯の黄色い光の中でも、そこだけ穴のように黒い。


「名前は重い」


 黒い傘の人物は言った。


「持ち続ける必要はない」


 透子が叫んだ。


「下がって!」


 警察官が前に出る。


 その瞬間、黒い傘の人物の輪郭がぶれた。


 水たまりに落ちたインクのように、身体の位置が滲む。


 次に見えた時には、悠斗の目の前にいた。


 速いのではない。


 距離の記録が抜けたようだった。


 悠斗は反射的に作業灯を投げた。


 黄色い光が宙を回り、黒い傘へ当たる。


 光は弾かれず、吸われた。


 悠斗は身をひねって逃げた。


 黒い刃が、彼の左脇腹をかすめる。


 作業服が裂けた。


 血が出る。


 だが、それだけではなかった。


 レイの中で、悠斗の記憶が悲鳴を上げた。


 名前。


 日報。


 姪の笑い声。


 田端の缶コーヒー。


 地下の路線図。


 工具の重み。


 初めてヘルメットをかぶった日。


 父親に「公務員じゃないのか」と言われた夜。


 旧地下鉄を、誰も見ていない場所で支えているという誇り。


 それらが、一瞬だけ黒い刃に吸い寄せられる。


 奪われる。


 消される。


「やめろ!」


 レイは叫んでいた。


 自分の声か、悠斗の声か分からなかった。


 黒い傘の人物が、レイを見た。


 顔はない。


 けれど、確かに見られた。


「アルファ」


 声がした。


 レイの知らない呼び名。


 だが、身体の奥が反応した。


「お前は覚えているだけで、何も背負っていない」


 意味は、まだ完全には分からない。


 けれど、言葉だけが深く刺さる。


 覚えているだけ。


 エミーの死も。


 悠斗の恐怖も。


 古河 千■の断片も。


 全部、覚えているだけ。


 助けられなかった。


 今も、助けられないかもしれない。


 その迷いの隙間に、黒い傘の人物が再び悠斗へ向かう。


 悠斗は転びながらも線路の真ん中へ逃げた。


「端を歩くな、真ん中を歩け」


 自分で言った言葉を、彼は守っていた。


 逃げ場がないから、逆に迷わない。


 その判断が、一瞬だけ命をつなぐ。


 黒い刃が二度目に振られる。


 悠斗は工具箱を盾にした。


 金属音はしなかった。


 工具箱の角が、黒く削れた。


 削れた部分が、存在しなかったように消える。


 田端が後方から叫ぶ。


「倉科!」


 若い作業員が腰を抜かす。


 綾瀬が警察無線で応援を呼ぶ。


 透子は拳銃を抜いていた。


「止まりなさい!」


 発砲はしない。


 地下での跳弾の危険。


 距離。


 悠斗との位置。


 一瞬で判断しているのが分かった。


 黒い傘の人物は、透子を見た。


「まだ記録するのか」


 透子の表情が変わった。


 ほんのわずかに。


 過去の何かに触れられた顔だった。


「します」


 彼女は答えた。


「あなたが嫌がるなら、なおさら」


 黒い傘の人物は笑わなかった。


 ただ、声だけが少し低くなった。


「名前は鎖だ」


「いいえ」


 透子は言った。


「名前は、帰る場所です」


 その言葉に、黒い傘の人物がわずかに止まった。


 だが、それは一瞬だった。


 次の瞬間、天井灯が一斉に点滅した。


 監視カメラが火花を散らす。


 警報灯が赤から黒へ沈む。


 地下全体が、水の底に落ちたように暗くなった。


 レイの視界が壊れる。


 悠斗の視界が開く。


 黒い傘の人物が迫る。


 脇腹が熱い。


 名前が消える。


 倉科。


 倉科。


 倉科、何だ。


 胸ポケット。


 メモ。


 手を伸ばす。


 指が動かない。


 黒い刃が近づく。


 私はお前だ。


 戻れ。


 ひとつになれ。


 名前など、いらない。


 レイは、歯を食いしばった。


「倉科悠斗!」


 叫んだ。


 地下に、名前が響いた。


 黒い傘の人物の動きが、ほんの少し乱れた。


 悠斗の中で、名前がかすかに戻る。


 倉科。


 悠斗。


 しかし、声が出ない。


 血が作業服を濡らす。


 黒い刃が、三度目に振られようとする。


 その時、地上側から別の声が響いた。


「倉科さん!」


 真昼だった。


 レイは振り返る。


 搬入口から下りてきている。


 止められていたはずなのに。


 警察官に支えられながら、黄色い作業灯の向こうで叫んでいる。


「倉科悠斗さん!」


 真昼の声は、地下に強く通った。


「あなたの名前は、倉科悠斗さんです!」


「白瀬さん、下がって!」


 綾瀬が叫ぶ。


 だが真昼は止まらない。


 立ち入り禁止のラインの手前で、それでも叫び続ける。


「倉科悠斗! 旧地下鉄保守課の整備士! 姪っ子さんに線路の歩き方を教えた人! 夜勤明けに缶コーヒー飲む人! 自分の名前を何度も書いて、消えないようにしてた人!」


 悠斗の手が、胸ポケットに届いた。


 メモを握る。


 血で濡れた指が、紙を引き出す。


 黒い傘の人物が真昼を見た。


 その瞬間、地下の空気が変わった。


 レイには分かった。


 標的がずれた。


 悠斗から、真昼へ。


 黒い傘の人物が、ゆっくりと首を傾ける。


「また」


 声がした。


「お前なのか」


 真昼の顔が凍った。


 銀色のヘアピン。


 白い折りたたみ傘。


 ノクターン書房の窓際。


 名前を聞けなかった青年。


 断片が彼女の中で開いたのが、レイにも分かった。


 だが、見えない。


 レイの同魂者の記憶ではない。


 触れそうで、触れない。


 黒い傘の人物が、真昼へ一歩進もうとする。


 その瞬間、銃声ではない音が響いた。


 強い白色ライト。


 霧生仁だった。


「全員、目ぇ閉じろ!」


 携行照明弾のような強い光が、地下通路を満たした。


 黒い傘の人物の輪郭が、初めて少しだけ揺らぐ。


 顔は見えない。


 けれど、黒い傘の縁が白い光で切り取られる。


 霧生が警察隊を連れて走り込んでくる。


「黒江! 高校生を前に出すなって言っただろ!」


「出していません!」


「出てるだろうが!」


「本人の問題です!」


「問題を増やすな!」


 言い合いながらも、二人の動きは速かった。


 霧生が悠斗と黒い傘の間へ割り込み、透子が真昼側へ下がるよう指示する。綾瀬が悠斗へ駆け寄る。作業員たちが後退路を確保する。


 黒い傘の人物は、追わなかった。


 光の向こうで、ただ立っている。


 そして、レイを見た。


「アルファ」


 声が、レイの中に直接落ちる。


「お前の記録は、誰も救わない」


 レイは、震える右手を握った。


「黙れ」


「覚えているだけの者が、救った気になるな」


「黙れ」


「お前が私を自分と呼ぶたび、私は殺される」


 その言葉に、レイは何も返せなかった。


 黒い傘の人物は、次に真昼を見た。


「記録するな」


 真昼は震えていた。


 それでも、レイの後ろで言った。


「嫌」


 声は小さい。


 でも、逃げていなかった。


「名前を残すな」


「残す」


「それは私のものだ」


「違う」


 真昼は、息を吸った。


「倉科さんの名前は、倉科さんのもの。エミーさんの名前は、エミーさんのもの。あなたのものじゃない」


 黒い傘の人物の周囲で、水音が大きくなった。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽたり。


 やがて、それは雨音になった。


 地下に雨が降る。


 ありえない。


 それでも、コンクリートの天井から水滴が細かく落ちてくる。


 黒い傘の人物は、一歩下がった。


 封鎖扉のほうへ。


 その背後に、古い鉄扉がある。


 扉の下から、水が流れている。


 さらに奥へ続く何かの気配がある。


 階段。


 線路。


 それとも、もっと深い場所。


 透子がその扉を見た瞬間、顔色を変えた。


 ほんの一瞬。


 だが、レイは見逃さなかった。


 黒い傘の人物は、黒い刃を下ろした。


「今日は、まだいい」


 声は静かだった。


「名前を抱えて、苦しめばいい」


 黒い傘が揺れる。


 水たまりに映った姿が、先に崩れた。


 次に、本体が滲む。


 警察官が前へ出る。


 霧生が怒鳴る。


「追うな! 足元確認!」


 黒い傘の人物は、封鎖扉の影へ溶けるように消えた。


 残されたのは、水音だけだった。


 黒い傘は、なかった。


 黒いナイフも、なかった。


 ただ、旧地下鉄の床に、切り取られたような黒い傷が残っていた。


     *


 倉科悠斗は、生きていた。


 だが、呼吸は荒く、作業服は血で濡れていた。


 綾瀬と救急隊員が応急処置をする。霧生が作業員たちを下がらせ、透子が現場保存の指示を出す。地下通路は警察と交通局の職員で一気に騒がしくなった。


 真昼は、ラインの手前で立ち尽くしていた。


 顔は青い。


 足も震えている。


 それでも、視線だけは悠斗から離さない。


「倉科さん」


 彼女は呼んだ。


 悠斗は反応しない。


 目は開いている。


 だが、焦点が合っていない。


 レイは膝をつき、悠斗のそばに寄った。


 透子が止めようとしたが、霧生が小さく首を振った。


「倉科さん」


 レイは呼んだ。


 悠斗の唇が動いた。


 声にならない。


「自分の名前を言ってください」


 レイの声が震えた。


「あなたの名前です」


 悠斗の目が、レイを見る。


 そこに、恐怖があった。


 死の恐怖ではない。


 もっと静かで、もっと深い恐怖。


 自分が自分でなくなる恐怖。


 名前が舌の上にあるのに、形にならない恐怖。


「く……」


 悠斗の喉が鳴る。


「倉……」


 そこで止まる。


 レイの胸が締めつけられる。


 エミーは死んだ。


 彼女の最後の名前は、雨の中に残った。


 だが悠斗は生きている。


 生きているのに、名前を失いかけている。


 これが、黒い刃の傷。


 肉体ではなく、記憶の接続を切る傷。


 名前へ伸びる道を切る傷。


「倉科さん!」


 真昼が叫んだ。


 警察官が止めようとしたが、彼女は振り切らなかった。ただ、その場で声を張った。


「倉科悠斗さん!」


 地下に、名前が響く。


「倉科悠斗! あなたの名前です! さっき、自分で言ったでしょ! 倉科悠斗。旧地下鉄保守課の整備士。地下を支えてる人。勝手に消されていい名前じゃない!」


 悠斗の手が動いた。


 胸ポケット。


 血で濡れたメモ。


 レイがそれを取り出す。


 紙は赤く染まっていた。


 でも、文字は読めた。


 倉科悠斗。


 倉科悠斗。


 レイは、それを悠斗の視界へ入れた。


「ここにあります」


 悠斗の瞳が、その文字を追う。


「あなたが書いた名前です」


 悠斗の唇が震える。


 何度も空気を噛む。


 そして、かすれた声が出た。


「倉科……」


 真昼が続ける。


「悠斗!」


 悠斗の目に、少しだけ光が戻った。


「倉科……悠斗」


 彼は息を吸った。


 痛みに顔を歪めながら、それでも言った。


「俺の、名前だ」


 真昼が泣きそうな顔で笑った。


「はい」


「勝手に……呼ぶな」


「呼びます」


「面倒くさい……女だな」


「よく言われます」


「御影」


 悠斗が、レイを見た。


「俺は……お前じゃない」


 レイは、その言葉を正面から受け止めた。


 古い事故の声と重なる。


 俺は、お前じゃない。


 古河 千■。


 救えなかった誰か。


 目の前の悠斗は、生きている。


 レイは、ゆっくり頷いた。


「はい」


「俺は……倉科悠斗だ」


「はい」


「忘れるな」


「忘れません」


「俺も……忘れない」


 悠斗はそう言って、意識を失った。


 救急隊員がすぐに処置を続ける。


 担架が運び込まれ、彼の身体が慎重に乗せられる。血のついた作業服、握られたメモ、外れかけたヘルメット。すべてが現実の重さを持っていた。


 悠斗は死んでいない。


 名前も、完全には奪われなかった。


 その事実に、レイは膝の力が抜けそうになった。


 透子が横に立つ。


「御影さん」


「はい」


「今、何を見ましたか」


 レイは、担架で運ばれていく悠斗を見た。


「生きている同魂者が、名前を失いかけるところ」


 透子は黙って聞いた。


「死んだ記憶じゃない。終わった人生じゃない。今、ここで、まだ続いている人が、消されかけた」


「ええ」


「エミーも、こうだったんですか」


 透子はすぐには答えなかった。


「彼女は、最後に自分の名前を言いました」


 レイの喉が詰まる。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 まだ、口にするには痛い名前。


 けれど、もう「僕」とだけ呼ぶことはできない。


 真昼が近づいてきた。


 警察官に支えられながら、それでも歩いてくる。


「御影くん」


「どうして降りてきた」


「怒るところ、そこ?」


「そこだろ」


「倉科さん、助かった」


「君も死にかけた」


「死んでない」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題でもある」


 二人は睨み合った。


 けれど、いつもの言い合いとは違った。


 間に、黒い傘の言葉が残っている。


 記録するな。


 名前を残すな。


 それは私のものだ。


 レイは、真昼を見る。


 彼女の中には何があるのか。


 レイと同じ同魂者なのか。


 それとも、別の誰かの残響なのか。


 分からない。


 分からないから怖い。


 守りたいのか。


 遠ざけたいのか。


 自分の記憶にしたくないのか。


 また答えが出なかった。


「真昼」


「なに」


「しばらく、僕に近づかないほうがいい」


 言った瞬間、真昼の顔が変わった。


 痛みが走ったような顔だった。


「どうして」


「君が危ない」


「それ、さっき聞いた」


「僕の近くにいるから危ない」


「黒い傘の人が狙ってるから?」


「それもある」


「それ以外は?」


 レイは答えられなかった。


 真昼は一歩近づいた。


「私が同魂者かもしれないから?」


「……分からない」


「私が御影くんの中に入ってくるかもしれないから?」


「分からない」


「私が、あなたの一部みたいになるのが怖い?」


 レイは、目を逸らした。


 それが答えになった。


 真昼は何か言おうとした。


 だが、言わなかった。


 彼女は唇を噛み、視線を落とした。


「御影くんって」


 声が少し震えていた。


「本当に、ひどい時あるよね」


「知ってる」


「知ってるなら、直して」


「たぶん無理だ」


「そこは努力するって言うところ」


「努力する」


「遅い」


 真昼は、無理に笑おうとした。


 でも、うまくいかなかった。


「私は、御影くんの一部じゃないよ」


「……うん」


「でも、だからって離れたら安全になるわけじゃない」


「それでも」


「それでも、今日は聞かない」


 真昼はそう言った。


 声が少しだけ冷えていた。


「倉科さんが助かったから。今はそれを優先する」


 レイは頷いた。


 それ以上、何も言えなかった。


     *


 搬入口へ戻る頃には、地上の雨はやんでいた。


 だが、空はまだ暗い。


 救急車の赤い光が、濡れた路面に揺れている。悠斗は搬送され、透子と綾瀬が病院へ同行することになった。霧生は現場に残り、旧第三連絡線の封鎖指示と現場保存を進めている。


 真昼のスマホは警察に預けられたままだった。


 彼女は代替機を受け取りながら、どこか上の空だった。


 レイもまた、搬入口の奥を見ていた。


 黒い傘の人物は消えた。


 だが、地下の奥にはまだ何かがある。


 封鎖扉の向こう。


 さらに深い階段。


 水音。


 名前の欠けた記録。


 そこへ行ってはいけない。


 まだ。


 それは分かる。


 けれど、いずれ行かなければならないことも、同時に分かっていた。


 霧生が地上へ上がってきた。


「黒江から伝言」


「何ですか」


 レイが聞く。


「倉科は病院へ搬送。意識はまだ戻ってないが、命に別状はない見込みだ。名前も一時的に言えなくなってたが、完全な欠落ではない。お前ら二人は、今日は帰れ」


「でも」


 真昼が言いかける。


 霧生は即座に遮った。


「帰れ」


「まだ聞きたいことが」


「帰れ」


「記事が」


「帰れ」


「三回も言わなくても」


「三回言っても聞かなそうだからだ」


 霧生は疲れた顔で頭を掻いた。


「いいか。今日、死人が出なかったのは奇跡みたいなもんだ。倉科は生きてる。お前らも生きてる。それで十分だ。残りは大人にやらせろ」


「大人だけで足りますか」


 真昼が言った。


 霧生は黙った。


 少しだけ苦い顔をする。


「足りねえ時もある」


 彼は正直に言った。


「でも、子供を地下で死なせていい理由にはならん」


 真昼は返せなかった。


 霧生はレイを見る。


「御影。お前もだ。覚えてるからって、現場で全部背負えると思うな」


 レイは、その言葉に反応した。


「黒い傘の人物にも似たようなことを言われました」


「なら、俺のほうだけ聞いとけ。あっちは殺人犯だ」


「分かりやすいですね」


「分かりやすさは刑事の美徳だ」


 霧生は真昼へ視線を移した。


「白瀬。脅迫メッセージの件はこっちで追う。記事を書くなとは言わん。だが、今夜は書くな」


「どうして」


「恐怖で手が震えてる時に書いた文章は、たいてい自分を刺す」


 真昼は、自分の手を見た。


 まだ、少し震えていた。


「……分かりました」


「本当か?」


「本当です」


「よし。黒江より聞き分けがいい」


 その場にいた綾瀬が、病院へ向かう車の中から少し困った顔をした。


「主任、それ本人に言わないでくださいね」


「言うわけねえだろ。殺される」


 霧生は雑に手を振った。


 真昼は、救急車が走り去った方向を見た。


「倉科さん、名前、言えましたね」


「ああ」


 レイは答えた。


「呼んだから」


「うん」


「君が」


「御影くんも呼んだ」


「先に君が呼んだ」


「そうだっけ」


「そうだよ」


 真昼は、少しだけ笑った。


 今度は、ちゃんと笑えていた。


 けれど、その笑いはすぐに消える。


「御影くん」


「なに」


「さっきの話、終わってないから」


「どれ」


「私に近づくなってやつ」


 レイは黙った。


「逃げても無駄だから」


「逃げてない」


「逃げてる」


「君に言われたくない」


「私は逃げないよ」


 真昼は言った。


「怖くても、逃げない」


 その言葉は、強かった。


 強すぎて、少し危うかった。


 レイは、何も返せなかった。


 雨上がりの空の下で、旧地下鉄の搬入口だけが暗く口を開けている。


 そこから、地下の水音がまだ聞こえている気がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その音に混じって、悠斗のかすれた声が残っている。


 倉科……悠斗。


 俺の、名前だ。


 レイは、自分の右手を見た。


 黒いナイフの感触は消えている。


 だが、別の感触が残っていた。


 血で濡れたメモ。


 そこに書かれた名前。


 まだ消えていない文字。


 生きている人間の重さ。


 レイは小さく息を吸った。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 声には出さなかった。


 でも、今度は心の中で、その名前を最後まで呼べた。


 地下の闇は、まだ閉じていない。


 黒い傘の人物も、まだ消えていない。


 真昼への警告も、倉科悠斗の傷も、すべてが次の場所へ続いている。


 けれど、少なくともこの夜。


 ひとりの名前は、消えずに残った。

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