第六章 黒い傘の警告
地下へ降りる直前、白瀬真昼のスマホが鳴った。
通知音は短かった。
いつもなら、真昼はすぐ画面を見る。新しいコメント、読者からの情報提供、匿名のタレコミ、旧新聞部の誰かからの連絡。彼女にとって通知音は、街のどこかで小さな扉が開く音に近かった。
けれど、その時だけは違った。
旧地下鉄保守課の搬入口前。
赤い警報灯が濡れたコンクリートの壁を回り、黄色い作業灯が地下へ続くスロープを照らしている。倉科悠斗はヘルメットをかぶり、反射ベストを着け、胸ポケットに自分の名前を書いた小さなメモを入れていた。黒江透子は都市交通局の職員と短いやり取りを続けている。綾瀬直央は警察無線の応答に追われていた。
雨は、地上に降っている。
だが、レイには分かっていた。
地下にも、もう雨が降り始めている。
そんな時に鳴った通知音だった。
真昼はスマホを取り出した。
画面を見た瞬間、彼女の表情が止まった。
「真昼?」
レイが呼ぶ。
真昼は返事をしなかった。
スマホを握る指だけが、少し白くなっている。
「白瀬」
今度は透子が気づいた。
「何が届きましたか」
真昼は、ゆっくり画面をこちらへ向けた。
《アガルタ観測録》の管理画面。
匿名メッセージ。
送信者名なし。
送信元不明。
時刻は、たった今。
本文は三行だけだった。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
搬入口の空気が、ほんの少し冷えた。
雨音も、警報灯の回転音も、作業員たちの足音も、遠くなったように感じた。
真昼は画面を見つめていた。
いつものようにすぐ言い返さない。
冗談にもしない。
怖がっている。
レイにはそれが分かった。
真昼は怖い時、逆に前へ出る。声が大きくなり、言葉が速くなり、相手の隙を探すように笑う。
でも今は、声が出ていない。
それだけで、この三行が彼女のどこを刺したのか分かった。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
レイはスマホ画面から目を離せなかった。
それは、エミーを殺した黒い傘の人物の言葉に似ていた。
私はお前だ。
お前は私に戻るだけだ。
名前など、観測者がつけたタグにすぎない。
直接聞いたわけではない言葉まで、頭の奥で勝手に形を取る。誰かの思想が、まだ言語になる前の冷たい影として流れ込んでくる。
「送信元は」
透子が低く聞いた。
真昼は指を動かそうとしたが、画面が少し震えた。
「……分かりません。管理画面には匿名フォーム経由って出てます。でも、普通の匿名フォームと違う。IPも、端末情報も、全部空欄」
「スクリーンショットを」
「はい」
真昼は慌てて操作した。
しかし、保存ボタンを押した直後、画面が一瞬だけ黒くなった。
ノイズ。
黒い水を垂らしたように、文字が滲む。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
その三行だけが、画面の奥から浮かび上がって見えた。
次の瞬間、通常の管理画面へ戻る。
メッセージは消えていた。
「……消えた」
真昼の声が小さくなる。
透子が即座に言った。
「スマホを貸してください」
「はい」
真昼は素直に渡した。
その素直さが、逆に痛々しかった。
透子は画面を確認し、綾瀬へ渡す。
「御堂さんへデータ保全依頼。端末は一時的に預かります。白瀬さん、代替機は後で用意します」
「今、記事の下書きが」
「バックアップは」
「あります。たぶん」
「たぶんは困ります」
「……あります」
真昼はそう言い直した。
レイは彼女の横顔を見ていた。
「取材は中止だ」
口から出た声は、自分でも思ったより硬かった。
真昼がこちらを見る。
「今、それ言う?」
「今だから言う」
「倉科さんが地下に行くんだよ」
「君は行く必要がない」
「ある」
「ない」
「ある!」
真昼の声が、ようやく戻った。
怖さを押し返すような声だった。
「名前を残すなって来たんだよ。だったら、なおさら残さなきゃ駄目でしょ」
「相手は君を見ている」
「だから?」
「君が記事を書いていることを知っている。真昼の管理画面に入れる。名前を残すなと警告してくる。次は脅しだけで済まないかもしれない」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってるよ!」
雨音の中で、真昼の声が跳ねた。
作業員たちが一瞬こちらを見る。
悠斗も足を止めた。
透子は口を挟まなかった。
これは警察が止める以前に、レイと真昼の問題だと判断したのかもしれない。
「君まで巻き込まれる必要はない」
レイは言った。
言った瞬間、自分でも分かった。
その言葉は、きれいすぎる。
真昼にも、すぐ分かった。
「それ、本当に私のため?」
彼女の声は、低くなった。
「どういう意味」
「私が同魂者かもしれないから?」
レイの胸が、冷えた。
真昼は続ける。
「それとも、私も“あなたの一部”になるのが嫌だから?」
レイは答えられなかった。
雨が強くなる。
警報灯が赤く回る。
地下搬入口の奥から、冷たい空気が上がってくる。
真昼の瞳が揺れていた。
怒りだけではない。
傷ついている。
それが分かった。
「御影くんは、私を心配してるんだと思う」
真昼は言った。
「それは分かってる。危ないのも分かってる。怖いよ。さっきのメッセージ、普通に怖かった。今も手、震えてる」
彼女は自分の右手を見せた。
本当に震えていた。
「でも、怖いからやめるなら、エミーさんの名前は残せない。倉科さんの名前も、古河 千■さんの名前も、天沢■■さんの名前も、全部、怖い誰かのものになっちゃう」
「君が死んだら意味がない」
「死なないために、一緒にいるんでしょ」
「僕といれば安全だと思うのか」
「思ってない」
「なら」
「でも、一人よりはいい」
真昼はレイを見た。
「それに、私は御影くんじゃない」
その言葉は、まだ完成していない刃のようにレイへ刺さった。
終わりの言葉ではない。
むしろ、これから何度も向き合うことになる言葉の最初の形だった。
「私が同魂者なのか、違うのか、今は分からない。でも、どっちでも私は白瀬真昼だよ。御影くんの一部じゃない。だから、私が行くかどうかは、私が決める」
レイは、何も言えなかった。
言いたいことはある。
止めたい。
守りたい。
近づかせたくない。
でも、そのどれもが、彼女を「真昼」として見ているのか、自分の記憶に入ってくるかもしれない誰かとして見ているのか、分からなくなった。
「……勝手にしろ」
ようやく出た言葉は、最低だった。
真昼の顔が少しだけ曇る。
レイはそれを見ないようにした。
透子が静かに言った。
「二人とも、話は後です」
その声で、現場の時間が戻る。
「白瀬さんは、地下入口まで。閉鎖区画内へは入れません」
「でも」
「これは譲れません。これ以上は保護対象として強制的に外します」
真昼は唇を噛んだ。
「……分かりました」
透子はレイを見る。
「御影さんも、本来は入口までです」
「でも?」
「でも、あなたがいなければ分からないことがある。だから、私の視界内から出ないこと。勝手に走らないこと。記憶混線が起きたらすぐ言うこと」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「今、その返事は一番嫌いです」
透子は短く息を吐き、無線へ指示を出した。
「霧生主任、こちら黒江。警告メッセージ確認。白瀬真昼への直接脅迫です。旧地下鉄搬入口で警戒を強化してください。御堂さんにデータ保全。牧野さんへ、後ほど端末解析用の保全手順確認を」
無線の向こうで、霧生の低い声が返る。
『了解。こっちも向かう。勝手に地下へ降りるなよ』
「もう降ります」
『おい』
「状況が進んでいます」
『そういう時ほど待てって言ってんだよ』
「主任が到着するまでに状況を固定します」
『それを世間では突入って言うんだよ、黒江』
透子は応答を切った。
綾瀬が不安そうに見る。
「主任、怒りますよ」
「いつものことです」
「いつもなんですか」
「ええ」
透子はヘルメットをかぶった。
「行きます」
悠斗が、地下へ向かって歩き出す。
レイはその背中を追った。
真昼は搬入口の前で止められた。
彼女は何か言いたそうにしていたが、言わなかった。
ただ、レイの背中へ向かって叫んだ。
「御影くん!」
レイは振り返らなかった。
振り返れば、行くなと言ってしまう。
そして、それが彼女を傷つけると分かっていた。
だから、歩いた。
地下へ。
黄色い作業灯の下へ。
地上の雨音が、背後で少しずつ遠ざかっていく。
*
旧地下鉄の閉鎖区画は、地上の地図では存在感が薄い。
現役路線から切り離され、案内図から消え、駅名標も撤去され、一般利用者が入ることはない。都市交通局の資料では、保守管理対象区画とだけ書かれている。
だが、地下へ降りると分かる。
そこは、まだ生きている。
水が流れ、壁が鳴り、レールが湿気を吸い、古い電線が時々かすかに震える。人が通らなくなったあとも、地下は勝手に死んではくれない。
悠斗は先頭を歩いた。
手には作業灯。腰には工具。背中には小型無線機。田端と若い作業員が続き、その後ろに透子、綾瀬、レイがいた。警察官二名がさらに後方を固める。
真昼は地上の搬入口で待機している。
そう決めたはずだった。
レイは一度だけ振り返りそうになり、やめた。
今は前だ。
旧第三連絡線。
夢で見た場所。
地下の空気は重かった。
壁には古い配管が走り、ところどころから水が滲んでいる。足元の通路は狭く、片側には使われていない線路が伸びている。天井は低く、何度も補修された跡があった。
赤い警報灯が遠くで点滅している。
悠斗が立ち止まり、壁面のバルブを確認した。
「この先です」
「漏水箇所は」
透子が聞く。
「封鎖扉の手前。旧第三連絡線の排水溝が詰まりかけてる。放置すると手前のポンプ室へ逆流する」
「そこは二年前の事故現場に近い?」
悠斗の横顔が硬くなる。
「近い」
彼はそれ以上言わなかった。
通路を進む。
水音が大きくなる。
ぽたり。
ぽたり。
夢と同じ音。
レイの胸の奥がざわめいた。
悠斗の視界が、一瞬だけ重なる。
作業灯の黄色。
濡れた線路。
足元の滑り。
胸ポケットに入れたメモの存在。
倉科悠斗。
倉科悠斗。
倉科悠斗。
名前を何度も確認する感覚。
「御影さん」
透子がすぐに気づいた。
「混線ですか」
「少し」
「何が見えますか」
「悠斗さんの視界。まだ現実と重なっているだけです」
「距離を取りますか」
「いえ」
悠斗が振り返った。
「おい、俺の視界とか言うな。気持ち悪い」
「すみません」
「謝るなら見るな」
「見たくて見ているわけじゃありません」
「知ってるよ」
悠斗は苛立ったように言った。
「だから余計に気持ち悪い」
レイは黙った。
その言葉は正しい。
見たくて見ているわけではない。
でも、見られる側にとっては関係ない。
オメガがレイを憎む理由の一部が、少しだけ分かってしまう。
自分だけのはずの人生を、どこかの誰かが覚えている。
それは共有ではなく、侵害かもしれない。
だが、だから殺していい理由にはならない。
悠斗の無線が鳴った。
『倉科さん、ポンプ室側、水位上がってます』
「分かった。排水溝見たら戻る」
『気をつけてください。カメラ、またノイズ出てます』
悠斗の足が止まった。
透子も反応した。
「カメラ?」
悠斗は壁の上部を指した。
「保守用監視カメラ。古いやつだけど、まだ生きてる」
綾瀬が無線を確認する。
「地上モニター側で映像乱れ。……顔認識エラー?」
「顔認識なんかついてないだろ」
悠斗が言う。
「なのにエラーが出てるそうです」
地下の空気が、さらに冷えた。
レイは、先の闇を見た。
作業灯の届く範囲の外。
線路の奥。
そこに何かがある。
「止まってください」
透子が言った。
全員が足を止める。
水音だけが続く。
ぽたり。
ぽたり。
その音に、別の音が混ざった。
傘に雨が当たる音。
地下なのに。
悠斗が、小さく舌打ちした。
「冗談だろ」
作業灯を向ける。
闇の奥。
封鎖扉の手前。
線路の真ん中に、黒い傘が立っていた。
傘の縁から、水滴が落ちている。
地下なのに、雨に濡れている。
黒いコート。
黒い手袋。
細い輪郭。
性別も年齢も定まらない。
顔は見えない。
傘の下にあるはずの場所だけが、黒く滲んでいる。
それは映像のノイズではなかった。
現実に立っている。
現実なのに、顔だけが記録されていない。
綾瀬が息を呑んだ。
警察官が警告の声を上げようとした。
しかし、透子が手を上げて制した。
「動かないでください」
黒い傘の人物は、ゆっくりとこちらを見た。
見た、はずだった。
顔はない。
それでも視線がこちらへ向いたと分かる。
最初に、悠斗へ。
「倉科悠斗さん」
透子の声は静かだった。
「下がってください」
悠斗は動けなかった。
黒い傘の人物が、一歩進む。
水音。
傘の先から落ちる水滴。
その声が、地下に落ちた。
「怖がらなくていい」
穏やかな声だった。
男にも、女にも、少年にも、少女にも聞こえる。
近いようで、遠い。
耳ではなく、記憶の中から聞こえる声。
「これは終わりではない」
レイの右手に、黒いナイフの重さが戻った。
エミーを刺した感覚。
被害者の喉。
加害者の手。
雨の路地。
すべてが一気に開きかける。
「御影さん!」
透子の声で、レイは踏みとどまった。
悠斗が後ずさる。
「誰だ、お前」
声は震えていた。
それでも、彼は問うた。
黒い傘の人物は、ほんの少し首を傾けたように見えた。
「私はお前だ」
その言葉が地下の壁に反響した。
私はお前だ。
私はお前だ。
私はお前だ。
悠斗の顔が強張る。
「違う」
彼は言った。
声は小さい。
それでも言った。
「俺は、倉科――」
そこで止まった。
名前が出ない。
レイの胸が凍った。
悠斗の中で何かが切れかけている。
署名欄。
ペン先。
名前の空白。
倉科。
倉科。
その先が白くなる。
黒い傘の人物が、もう一歩近づく。
右手に何かが現れた。
黒いナイフ。
光を反射しない刃。
暗闇に紛れるのではない。
作業灯の黄色い光の中でも、そこだけ穴のように黒い。
「名前は重い」
黒い傘の人物は言った。
「持ち続ける必要はない」
透子が叫んだ。
「下がって!」
警察官が前に出る。
その瞬間、黒い傘の人物の輪郭がぶれた。
水たまりに落ちたインクのように、身体の位置が滲む。
次に見えた時には、悠斗の目の前にいた。
速いのではない。
距離の記録が抜けたようだった。
悠斗は反射的に作業灯を投げた。
黄色い光が宙を回り、黒い傘へ当たる。
光は弾かれず、吸われた。
悠斗は身をひねって逃げた。
黒い刃が、彼の左脇腹をかすめる。
作業服が裂けた。
血が出る。
だが、それだけではなかった。
レイの中で、悠斗の記憶が悲鳴を上げた。
名前。
日報。
姪の笑い声。
田端の缶コーヒー。
地下の路線図。
工具の重み。
初めてヘルメットをかぶった日。
父親に「公務員じゃないのか」と言われた夜。
旧地下鉄を、誰も見ていない場所で支えているという誇り。
それらが、一瞬だけ黒い刃に吸い寄せられる。
奪われる。
消される。
「やめろ!」
レイは叫んでいた。
自分の声か、悠斗の声か分からなかった。
黒い傘の人物が、レイを見た。
顔はない。
けれど、確かに見られた。
「アルファ」
声がした。
レイの知らない呼び名。
だが、身体の奥が反応した。
「お前は覚えているだけで、何も背負っていない」
意味は、まだ完全には分からない。
けれど、言葉だけが深く刺さる。
覚えているだけ。
エミーの死も。
悠斗の恐怖も。
古河 千■の断片も。
全部、覚えているだけ。
助けられなかった。
今も、助けられないかもしれない。
その迷いの隙間に、黒い傘の人物が再び悠斗へ向かう。
悠斗は転びながらも線路の真ん中へ逃げた。
「端を歩くな、真ん中を歩け」
自分で言った言葉を、彼は守っていた。
逃げ場がないから、逆に迷わない。
その判断が、一瞬だけ命をつなぐ。
黒い刃が二度目に振られる。
悠斗は工具箱を盾にした。
金属音はしなかった。
工具箱の角が、黒く削れた。
削れた部分が、存在しなかったように消える。
田端が後方から叫ぶ。
「倉科!」
若い作業員が腰を抜かす。
綾瀬が警察無線で応援を呼ぶ。
透子は拳銃を抜いていた。
「止まりなさい!」
発砲はしない。
地下での跳弾の危険。
距離。
悠斗との位置。
一瞬で判断しているのが分かった。
黒い傘の人物は、透子を見た。
「まだ記録するのか」
透子の表情が変わった。
ほんのわずかに。
過去の何かに触れられた顔だった。
「します」
彼女は答えた。
「あなたが嫌がるなら、なおさら」
黒い傘の人物は笑わなかった。
ただ、声だけが少し低くなった。
「名前は鎖だ」
「いいえ」
透子は言った。
「名前は、帰る場所です」
その言葉に、黒い傘の人物がわずかに止まった。
だが、それは一瞬だった。
次の瞬間、天井灯が一斉に点滅した。
監視カメラが火花を散らす。
警報灯が赤から黒へ沈む。
地下全体が、水の底に落ちたように暗くなった。
レイの視界が壊れる。
悠斗の視界が開く。
黒い傘の人物が迫る。
脇腹が熱い。
名前が消える。
倉科。
倉科。
倉科、何だ。
胸ポケット。
メモ。
手を伸ばす。
指が動かない。
黒い刃が近づく。
私はお前だ。
戻れ。
ひとつになれ。
名前など、いらない。
レイは、歯を食いしばった。
「倉科悠斗!」
叫んだ。
地下に、名前が響いた。
黒い傘の人物の動きが、ほんの少し乱れた。
悠斗の中で、名前がかすかに戻る。
倉科。
悠斗。
しかし、声が出ない。
血が作業服を濡らす。
黒い刃が、三度目に振られようとする。
その時、地上側から別の声が響いた。
「倉科さん!」
真昼だった。
レイは振り返る。
搬入口から下りてきている。
止められていたはずなのに。
警察官に支えられながら、黄色い作業灯の向こうで叫んでいる。
「倉科悠斗さん!」
真昼の声は、地下に強く通った。
「あなたの名前は、倉科悠斗さんです!」
「白瀬さん、下がって!」
綾瀬が叫ぶ。
だが真昼は止まらない。
立ち入り禁止のラインの手前で、それでも叫び続ける。
「倉科悠斗! 旧地下鉄保守課の整備士! 姪っ子さんに線路の歩き方を教えた人! 夜勤明けに缶コーヒー飲む人! 自分の名前を何度も書いて、消えないようにしてた人!」
悠斗の手が、胸ポケットに届いた。
メモを握る。
血で濡れた指が、紙を引き出す。
黒い傘の人物が真昼を見た。
その瞬間、地下の空気が変わった。
レイには分かった。
標的がずれた。
悠斗から、真昼へ。
黒い傘の人物が、ゆっくりと首を傾ける。
「また」
声がした。
「お前なのか」
真昼の顔が凍った。
銀色のヘアピン。
白い折りたたみ傘。
ノクターン書房の窓際。
名前を聞けなかった青年。
断片が彼女の中で開いたのが、レイにも分かった。
だが、見えない。
レイの同魂者の記憶ではない。
触れそうで、触れない。
黒い傘の人物が、真昼へ一歩進もうとする。
その瞬間、銃声ではない音が響いた。
強い白色ライト。
霧生仁だった。
「全員、目ぇ閉じろ!」
携行照明弾のような強い光が、地下通路を満たした。
黒い傘の人物の輪郭が、初めて少しだけ揺らぐ。
顔は見えない。
けれど、黒い傘の縁が白い光で切り取られる。
霧生が警察隊を連れて走り込んでくる。
「黒江! 高校生を前に出すなって言っただろ!」
「出していません!」
「出てるだろうが!」
「本人の問題です!」
「問題を増やすな!」
言い合いながらも、二人の動きは速かった。
霧生が悠斗と黒い傘の間へ割り込み、透子が真昼側へ下がるよう指示する。綾瀬が悠斗へ駆け寄る。作業員たちが後退路を確保する。
黒い傘の人物は、追わなかった。
光の向こうで、ただ立っている。
そして、レイを見た。
「アルファ」
声が、レイの中に直接落ちる。
「お前の記録は、誰も救わない」
レイは、震える右手を握った。
「黙れ」
「覚えているだけの者が、救った気になるな」
「黙れ」
「お前が私を自分と呼ぶたび、私は殺される」
その言葉に、レイは何も返せなかった。
黒い傘の人物は、次に真昼を見た。
「記録するな」
真昼は震えていた。
それでも、レイの後ろで言った。
「嫌」
声は小さい。
でも、逃げていなかった。
「名前を残すな」
「残す」
「それは私のものだ」
「違う」
真昼は、息を吸った。
「倉科さんの名前は、倉科さんのもの。エミーさんの名前は、エミーさんのもの。あなたのものじゃない」
黒い傘の人物の周囲で、水音が大きくなった。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
やがて、それは雨音になった。
地下に雨が降る。
ありえない。
それでも、コンクリートの天井から水滴が細かく落ちてくる。
黒い傘の人物は、一歩下がった。
封鎖扉のほうへ。
その背後に、古い鉄扉がある。
扉の下から、水が流れている。
さらに奥へ続く何かの気配がある。
階段。
線路。
それとも、もっと深い場所。
透子がその扉を見た瞬間、顔色を変えた。
ほんの一瞬。
だが、レイは見逃さなかった。
黒い傘の人物は、黒い刃を下ろした。
「今日は、まだいい」
声は静かだった。
「名前を抱えて、苦しめばいい」
黒い傘が揺れる。
水たまりに映った姿が、先に崩れた。
次に、本体が滲む。
警察官が前へ出る。
霧生が怒鳴る。
「追うな! 足元確認!」
黒い傘の人物は、封鎖扉の影へ溶けるように消えた。
残されたのは、水音だけだった。
黒い傘は、なかった。
黒いナイフも、なかった。
ただ、旧地下鉄の床に、切り取られたような黒い傷が残っていた。
*
倉科悠斗は、生きていた。
だが、呼吸は荒く、作業服は血で濡れていた。
綾瀬と救急隊員が応急処置をする。霧生が作業員たちを下がらせ、透子が現場保存の指示を出す。地下通路は警察と交通局の職員で一気に騒がしくなった。
真昼は、ラインの手前で立ち尽くしていた。
顔は青い。
足も震えている。
それでも、視線だけは悠斗から離さない。
「倉科さん」
彼女は呼んだ。
悠斗は反応しない。
目は開いている。
だが、焦点が合っていない。
レイは膝をつき、悠斗のそばに寄った。
透子が止めようとしたが、霧生が小さく首を振った。
「倉科さん」
レイは呼んだ。
悠斗の唇が動いた。
声にならない。
「自分の名前を言ってください」
レイの声が震えた。
「あなたの名前です」
悠斗の目が、レイを見る。
そこに、恐怖があった。
死の恐怖ではない。
もっと静かで、もっと深い恐怖。
自分が自分でなくなる恐怖。
名前が舌の上にあるのに、形にならない恐怖。
「く……」
悠斗の喉が鳴る。
「倉……」
そこで止まる。
レイの胸が締めつけられる。
エミーは死んだ。
彼女の最後の名前は、雨の中に残った。
だが悠斗は生きている。
生きているのに、名前を失いかけている。
これが、黒い刃の傷。
肉体ではなく、記憶の接続を切る傷。
名前へ伸びる道を切る傷。
「倉科さん!」
真昼が叫んだ。
警察官が止めようとしたが、彼女は振り切らなかった。ただ、その場で声を張った。
「倉科悠斗さん!」
地下に、名前が響く。
「倉科悠斗! あなたの名前です! さっき、自分で言ったでしょ! 倉科悠斗。旧地下鉄保守課の整備士。地下を支えてる人。勝手に消されていい名前じゃない!」
悠斗の手が動いた。
胸ポケット。
血で濡れたメモ。
レイがそれを取り出す。
紙は赤く染まっていた。
でも、文字は読めた。
倉科悠斗。
倉科悠斗。
レイは、それを悠斗の視界へ入れた。
「ここにあります」
悠斗の瞳が、その文字を追う。
「あなたが書いた名前です」
悠斗の唇が震える。
何度も空気を噛む。
そして、かすれた声が出た。
「倉科……」
真昼が続ける。
「悠斗!」
悠斗の目に、少しだけ光が戻った。
「倉科……悠斗」
彼は息を吸った。
痛みに顔を歪めながら、それでも言った。
「俺の、名前だ」
真昼が泣きそうな顔で笑った。
「はい」
「勝手に……呼ぶな」
「呼びます」
「面倒くさい……女だな」
「よく言われます」
「御影」
悠斗が、レイを見た。
「俺は……お前じゃない」
レイは、その言葉を正面から受け止めた。
古い事故の声と重なる。
俺は、お前じゃない。
古河 千■。
救えなかった誰か。
目の前の悠斗は、生きている。
レイは、ゆっくり頷いた。
「はい」
「俺は……倉科悠斗だ」
「はい」
「忘れるな」
「忘れません」
「俺も……忘れない」
悠斗はそう言って、意識を失った。
救急隊員がすぐに処置を続ける。
担架が運び込まれ、彼の身体が慎重に乗せられる。血のついた作業服、握られたメモ、外れかけたヘルメット。すべてが現実の重さを持っていた。
悠斗は死んでいない。
名前も、完全には奪われなかった。
その事実に、レイは膝の力が抜けそうになった。
透子が横に立つ。
「御影さん」
「はい」
「今、何を見ましたか」
レイは、担架で運ばれていく悠斗を見た。
「生きている同魂者が、名前を失いかけるところ」
透子は黙って聞いた。
「死んだ記憶じゃない。終わった人生じゃない。今、ここで、まだ続いている人が、消されかけた」
「ええ」
「エミーも、こうだったんですか」
透子はすぐには答えなかった。
「彼女は、最後に自分の名前を言いました」
レイの喉が詰まる。
エミー・グレイス・ハーパー。
まだ、口にするには痛い名前。
けれど、もう「僕」とだけ呼ぶことはできない。
真昼が近づいてきた。
警察官に支えられながら、それでも歩いてくる。
「御影くん」
「どうして降りてきた」
「怒るところ、そこ?」
「そこだろ」
「倉科さん、助かった」
「君も死にかけた」
「死んでない」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題でもある」
二人は睨み合った。
けれど、いつもの言い合いとは違った。
間に、黒い傘の言葉が残っている。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
レイは、真昼を見る。
彼女の中には何があるのか。
レイと同じ同魂者なのか。
それとも、別の誰かの残響なのか。
分からない。
分からないから怖い。
守りたいのか。
遠ざけたいのか。
自分の記憶にしたくないのか。
また答えが出なかった。
「真昼」
「なに」
「しばらく、僕に近づかないほうがいい」
言った瞬間、真昼の顔が変わった。
痛みが走ったような顔だった。
「どうして」
「君が危ない」
「それ、さっき聞いた」
「僕の近くにいるから危ない」
「黒い傘の人が狙ってるから?」
「それもある」
「それ以外は?」
レイは答えられなかった。
真昼は一歩近づいた。
「私が同魂者かもしれないから?」
「……分からない」
「私が御影くんの中に入ってくるかもしれないから?」
「分からない」
「私が、あなたの一部みたいになるのが怖い?」
レイは、目を逸らした。
それが答えになった。
真昼は何か言おうとした。
だが、言わなかった。
彼女は唇を噛み、視線を落とした。
「御影くんって」
声が少し震えていた。
「本当に、ひどい時あるよね」
「知ってる」
「知ってるなら、直して」
「たぶん無理だ」
「そこは努力するって言うところ」
「努力する」
「遅い」
真昼は、無理に笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「私は、御影くんの一部じゃないよ」
「……うん」
「でも、だからって離れたら安全になるわけじゃない」
「それでも」
「それでも、今日は聞かない」
真昼はそう言った。
声が少しだけ冷えていた。
「倉科さんが助かったから。今はそれを優先する」
レイは頷いた。
それ以上、何も言えなかった。
*
搬入口へ戻る頃には、地上の雨はやんでいた。
だが、空はまだ暗い。
救急車の赤い光が、濡れた路面に揺れている。悠斗は搬送され、透子と綾瀬が病院へ同行することになった。霧生は現場に残り、旧第三連絡線の封鎖指示と現場保存を進めている。
真昼のスマホは警察に預けられたままだった。
彼女は代替機を受け取りながら、どこか上の空だった。
レイもまた、搬入口の奥を見ていた。
黒い傘の人物は消えた。
だが、地下の奥にはまだ何かがある。
封鎖扉の向こう。
さらに深い階段。
水音。
名前の欠けた記録。
そこへ行ってはいけない。
まだ。
それは分かる。
けれど、いずれ行かなければならないことも、同時に分かっていた。
霧生が地上へ上がってきた。
「黒江から伝言」
「何ですか」
レイが聞く。
「倉科は病院へ搬送。意識はまだ戻ってないが、命に別状はない見込みだ。名前も一時的に言えなくなってたが、完全な欠落ではない。お前ら二人は、今日は帰れ」
「でも」
真昼が言いかける。
霧生は即座に遮った。
「帰れ」
「まだ聞きたいことが」
「帰れ」
「記事が」
「帰れ」
「三回も言わなくても」
「三回言っても聞かなそうだからだ」
霧生は疲れた顔で頭を掻いた。
「いいか。今日、死人が出なかったのは奇跡みたいなもんだ。倉科は生きてる。お前らも生きてる。それで十分だ。残りは大人にやらせろ」
「大人だけで足りますか」
真昼が言った。
霧生は黙った。
少しだけ苦い顔をする。
「足りねえ時もある」
彼は正直に言った。
「でも、子供を地下で死なせていい理由にはならん」
真昼は返せなかった。
霧生はレイを見る。
「御影。お前もだ。覚えてるからって、現場で全部背負えると思うな」
レイは、その言葉に反応した。
「黒い傘の人物にも似たようなことを言われました」
「なら、俺のほうだけ聞いとけ。あっちは殺人犯だ」
「分かりやすいですね」
「分かりやすさは刑事の美徳だ」
霧生は真昼へ視線を移した。
「白瀬。脅迫メッセージの件はこっちで追う。記事を書くなとは言わん。だが、今夜は書くな」
「どうして」
「恐怖で手が震えてる時に書いた文章は、たいてい自分を刺す」
真昼は、自分の手を見た。
まだ、少し震えていた。
「……分かりました」
「本当か?」
「本当です」
「よし。黒江より聞き分けがいい」
その場にいた綾瀬が、病院へ向かう車の中から少し困った顔をした。
「主任、それ本人に言わないでくださいね」
「言うわけねえだろ。殺される」
霧生は雑に手を振った。
真昼は、救急車が走り去った方向を見た。
「倉科さん、名前、言えましたね」
「ああ」
レイは答えた。
「呼んだから」
「うん」
「君が」
「御影くんも呼んだ」
「先に君が呼んだ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
真昼は、少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと笑えていた。
けれど、その笑いはすぐに消える。
「御影くん」
「なに」
「さっきの話、終わってないから」
「どれ」
「私に近づくなってやつ」
レイは黙った。
「逃げても無駄だから」
「逃げてない」
「逃げてる」
「君に言われたくない」
「私は逃げないよ」
真昼は言った。
「怖くても、逃げない」
その言葉は、強かった。
強すぎて、少し危うかった。
レイは、何も返せなかった。
雨上がりの空の下で、旧地下鉄の搬入口だけが暗く口を開けている。
そこから、地下の水音がまだ聞こえている気がした。
ぽたり。
ぽたり。
その音に混じって、悠斗のかすれた声が残っている。
倉科……悠斗。
俺の、名前だ。
レイは、自分の右手を見た。
黒いナイフの感触は消えている。
だが、別の感触が残っていた。
血で濡れたメモ。
そこに書かれた名前。
まだ消えていない文字。
生きている人間の重さ。
レイは小さく息を吸った。
エミー・グレイス・ハーパー。
声には出さなかった。
でも、今度は心の中で、その名前を最後まで呼べた。
地下の闇は、まだ閉じていない。
黒い傘の人物も、まだ消えていない。
真昼への警告も、倉科悠斗の傷も、すべてが次の場所へ続いている。
けれど、少なくともこの夜。
ひとりの名前は、消えずに残った。




