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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
6/10

第五章 地下で名前を書く男

 暗い線路の上に、黄色い光が落ちている。


 光は、まっすぐには伸びない。


 古いコンクリートの壁に染み込み、天井から落ちる水滴に砕かれ、レールの錆に吸われて、途中で濁る。懐中ライトの明かりは頼りなく、前方の闇を押し退けるより、闇の深さを確かめるためにあるようだった。


 水の音がする。


 ぽたり。


 ぽたり。


 それから、もっと奥で、細い流れが床を這っている音。


 ここは使われていない。


 人が通るための場所ではない。


 それでも、誰かが歩いている。


 安全靴の底が、濡れた床を踏む。作業服の裾が重い。ヘルメットの内側に汗がこもる。右肩に工具袋。左手に懐中ライト。胸ポケットには折りたたんだ作業指示書。腰には古い鍵束。


 男は、立ち止まった。


 目の前に、封鎖扉がある。


 灰色の鉄扉。


 赤いペンキで、立入禁止の文字。


 その下に、剥がれかけた古い駅名標が半分だけ見えている。


 雨宮坂下連絡線。


 その先に、何かがある。


 水の音ではない。


 誰かの声だ。


 呼んでいる。


 名前を。


 誰の名前を。


 男は作業日報を取り出した。


 濡れないように、透明のクリップボードに挟んである。日付、作業区画、点検項目、漏水箇所、異音の有無。形式に沿って、黒いボールペンで記入していく。


 最後に、署名欄。


 作業担当者。


 ペン先が止まった。


 名前。


 自分の名前。


 分かっている。


 分かっているはずだ。


 倉科。


 倉科、何だ。


 手袋越しの指が震える。


 水滴が、ヘルメットの縁から落ちて、日報の端を濡らした。


 男は息を吸い、ゆっくりと書いた。


 倉科悠斗。


 文字が紙に沈む。


 その瞬間、闇の奥で何かが笑った気がした。


 違う。


 笑い声ではない。


 雨だ。


 地下なのに、雨が降っている。


 線路の向こうに、黒い傘が立っていた。


 ありえない。


 ここは地下だ。


 傘など必要ない。


 それなのに、黒い傘の縁から水滴が落ちている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 男は懐中ライトを向けた。


 光が黒い傘へ届く。


 届いたはずなのに、顔は見えない。


 傘の下に、誰かがいる。


 人の形をしている。


 なのに、そこだけ闇が濃い。


 男の口が、自分の意志より先に動いた。


「俺は――」


 声が、地下に吸われる。


 その声に、別の声が重なった。


 もっと古い声。


 同じ地下。


 同じ雨。


 割れた懐中ライト。


 外部委託の作業服。


 反射ベスト。


 転がったヘルメット。


 血のついた手袋。


 古いメモ帳に、何度も何度も書かれた名前。


 古河 千■。


 最後の一文字だけが、どうしても見えない。


 黒い傘の人物が一歩近づく。


 古い声が叫んだ。


「俺は、お前じゃない」


 その声が、レイの胸を貫いた。


     *


 御影レイは、机に突っ伏した姿勢で目を覚ました。


 窓の外は暗かった。


 自室ではない。


 アガルタ学院旧校舎の旧新聞部室でもない。


 御影家のリビングだった。


 食卓の上には、開いたままのノート、黒江透子の名刺、真昼が雨の中で走り書きしたメモのコピー、ノクターン書房から持ち帰った資料の写しが散らばっている。


 いつの間に眠っていたのか、分からない。


 壁の時計は、午前二時を少し過ぎていた。


 家の中は静かだった。


 母は眠っている。


 冷蔵庫の低い音と、窓に当たる雨の音だけがある。


 レイは右手を見た。


 黒いナイフの感覚はない。


 その代わり、ペンを握っていた感覚がある。


 作業日報に名前を書く感覚。


 倉科悠斗。


 その名前が、まだ指先に残っている。


 レイは椅子から立ち上がった。


 足元が揺れる。


 地下の床ではない。


 自宅のリビングの床だ。


 分かっている。


 それでも耳の奥では、水滴が落ち続けていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 旧地下鉄。


 閉鎖区画。


 倉科悠斗。


 生きている。


 まだ、死んでいない。


 レイはその事実を、胸の中で何度も確認した。


 エミーの時は違った。


 気づいた時には、もう死んでいた。


 舞台も、逃亡準備も、最後の抵抗も、すべて過去になってから流れ込んできた。


 けれど、今の記憶は違う。


 地下で作業日報に名前を書いた男は、まだ生きている。


 名前が消えかけていた。


 だが、書いた。


 倉科悠斗。


 今度こそ、間に合うかもしれない。


 レイはスマホを取った。


 最初に表示されたのは、真昼からのメッセージだった。


 ――寝てないよね?

 ――旧地下鉄の倉科悠斗さん、検索した。

 ――都市交通局旧地下鉄保守課。多分この人。

 ――明日行く?

 ――いや、行くよね?

 ――既読つけたら返事。


 時刻は、午前一時四十七分。


 レイは、短く返信した。


 ――寝ろ。


 すぐに既読がついた。


 ほとんど同時に返事が来る。


 ――御影くんこそ。

 ――何か見た?


 レイはしばらく画面を見つめた。


 見た。


 暗い線路。


 作業日報。


 黒い傘。


 古い事故。


 俺は、お前じゃない、という声。


 それを書けば、真昼は眠らない。


 書かなくても、眠らない。


 どちらにしても最悪だった。


 レイは透子の名刺を見た。


 名刺の端には、彼女が手書きで番号を追記していた。緊急時はこちら、と短く添えられている。


 御影レイさん。夢を見た、記憶が流れ込んだ、右手にナイフの感覚が戻った。その場合は、すぐ連絡してください。


 透子の声が蘇る。


 レイは電話をかけた。


 五回目のコールで、透子が出た。


『黒江です』


 眠っていた声ではなかった。


 最初から起きていたような声。


「御影です」


『何か見ましたね』


「まだ何も説明していません」


『この時間に高校生が警察へ電話をかける理由は多くありません。家出、事故、脅迫、異常記憶。そのうち、あなたは最後です』


「便利ですね」


『ええ。状況判断は便利です』


 レイは窓の外を見た。


 雨が降っている。


「倉科悠斗。旧地下鉄保守課の整備士です」


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


『名前は白瀬さんのメモにもありました。あなたがノクターン書房の帰りに口にしたと聞いています』


「さっき、夢を見ました」


『内容を』


「暗い線路。漏水。作業灯。工具箱。作業日報。署名欄に名前を書こうとして、手が止まる。自分の名前が一瞬分からなくなる」


『倉科悠斗さん本人の視点ですか』


「たぶん」


『続けて』


「同時に、別の記憶が混じりました。古い事故です。外部委託作業員。割れた懐中ライト。黒い傘。男の声」


『何と言っていましたか』


 レイは目を閉じた。


 地下の声が蘇る。


 雨に濡れた男の声。


 恐怖ではなく、拒絶の声。


「俺は、お前じゃない」


 電話の向こうで、沈黙が落ちた。


 透子が息を止めたのが分かった。


「黒江さん?」


『続けてください』


「それだけです」


『黒いナイフは?』


「見えませんでした。でも、黒い傘はありました。地下なのに」


『古い事故の被害者名は?』


「古河、千……最後が見えない」


『分かりました』


 透子の声が少し低くなった。


『倉科悠斗さんの勤務先を確認します。あなたは今、自宅ですね』


「はい」


『そこにいてください』


「行きます」


『今、午前二時です』


「だから?」


『未成年を深夜の旧地下鉄へ行かせるほど、私は無能ではありません』


「彼は生きています」


『だから警察が動きます』


「僕がいなければ分からないことがある」


『あなたがいれば危険が増えることもある』


 透子の声は冷たくはない。


 だが、甘くもなかった。


『御影レイ。今すぐ動けば、あなたは証言者ではなく現場の不確定要素になります』


「倉科さんが死んだら?」


『死なせないために、こちらが動きます』


「エミーは死んだ」


『彼女を救えなかった責任を、あなたひとりが背負う必要はありません』


「背負うとか、そういう話じゃない」


『では、どういう話ですか』


 レイは答えられなかった。


 エミーの死は、自分の中にある。


 でも、エミーは自分ではなかった。


 それを理解し始めたからこそ、今、生きている倉科悠斗を放っておけなかった。


 彼が死ねば、また記憶になる。


 痛みになる。


 名前の欠けた紙になる。


 それだけは、嫌だった。


「死体になってから名前を呼ぶのは、遅い」


 レイは言った。


 電話の向こうで、透子が黙った。


 数秒後、彼女は短く息を吐いた。


『その言葉は、白瀬さんの影響ですか』


「たぶん」


『悪い影響ばかりではないようですね』


「本人には言わないでください」


『言いません。調子に乗るでしょうから』


 こんな時間に、そんな会話をしている場合ではない。


 それでも、ほんのわずかに呼吸が楽になった。


『朝まで待ってください。私は市警経由で旧地下鉄保守課へ連絡します。倉科悠斗さんの勤務状況を確認し、必要なら面談します。あなたと白瀬さんには、日中、こちらの管理下で同行を認めるか検討します』


「検討?」


『確約はしません』


「真昼は勝手に行きます」


『でしょうね』


「分かっているなら」


『分かっているから、あなたに言います。白瀬さんを止めてください』


「僕にできると思いますか」


『できないなら、せめて一緒にいてください』


 レイは、窓の外の雨を見た。


「監視ですね」


『同行です』


「その言葉、本人が喜びます」


『では、監視ということにしましょう』


 透子はそう言ってから、声を引き締めた。


『御影さん』


「はい」


『倉科悠斗さんの名前を、忘れないでください』


 レイはスマホを握る手に力を込めた。


「忘れません」


『それが今、あなたにできることです』


 通話が切れたあとも、レイはしばらく窓の前に立っていた。


 雨はやまない。


 地下へ降るはずのない雨の音が、まだ耳の奥に残っている。


 スマホが震えた。


 真昼からだった。


 ――何か見たんでしょ。

 ――返信が短い時、だいたい何かある。

 ――朝、旧新聞部室集合。

 ――寝ろって言われても寝ないから、諦めて。


 レイは、短く返信した。


 ――朝。

 ――一人で動くな。


 すぐに返ってくる。


 ――監視?

 ――同行?


 レイは画面を見つめ、ため息をついた。


 ――監視。


 真昼からの返信は、なぜか猫のスタンプだった。


     *


 倉科悠斗は、朝が嫌いだった。


 正確には、夜勤明けの朝が嫌いだった。


 地下にいる時間が長いと、地上の光は少し暴力的になる。駅の階段を上がった瞬間、曇り空でも眩しい。排気ガスの匂い、コンビニの揚げ物の匂い、通勤客の香水、濡れた傘の湿気。そういう地上の匂いが、一度に押し寄せてくる。


 幻都アガルタ都市交通局・旧地下鉄保守課は、現役路線の駅舎とは別にある古い管理棟に入っていた。


 表向きは、旧路線の設備管理部門。


 実際の仕事は、もっと雑多だ。


 廃線の漏水確認。

 古いホームの封鎖状態点検。

 地盤沈下の前兆調査。

 異音の報告。

 道順が変わったという市民通報の確認。

 存在しない駅名を見たという苦情の処理。


 最後のようなものは、公式文書には「案内表示誤認」と書く。


 悠斗は、そういう書き換えをもう十年近く見てきた。


 地下は嘘をつかない。


 だが、報告書は嘘をつく。


 嘘というより、地上の人間が読める形に翻訳される。


 地下が鳴いた、と書くわけにはいかない。


 旧第三連絡線、壁内異音あり。


 駅名標が変わっていた、と書くわけにはいかない。


 案内表示の劣化による誤認の可能性。


 誰かに呼ばれた、と書くわけにはいかない。


 作業員の疲労蓄積による聴覚錯誤の可能性。


 悠斗は作業机に座り、日報を開いた。


 昨夜の点検記録を清書する。


 漏水箇所、三か所。

 封鎖扉、異常なし。

 旧信号ケーブル、絶縁低下。

 作業灯、一本交換。

 異音、継続。


 署名欄。


 ペン先が止まった。


 まただ。


 悠斗は自分の右手を見た。


 油汚れが爪の間に残っている。手の甲には小さな切り傷。整備士の手。自分の手だ。


 名前くらい、分かる。


 倉科。


 そこまでは出る。


 その先が、一瞬だけ空白になる。


 悠斗は歯を食いしばった。


「……悠斗」


 声に出す。


 周囲には誰もいなかった。


 保守課の事務所は朝の引き継ぎ前で、人が少ない。奥のロッカー室から誰かの咳が聞こえる程度だ。


 悠斗は日報に書いた。


 倉科悠斗。


 黒いインクが紙に乗る。


 その文字を見て、ようやく自分が地上にいる気がした。


 背後から声がした。


「また名前書いてんのか」


 振り返ると、同僚の田端が缶コーヒーを持って立っていた。四十代のベテランで、腹は出ているが足腰はまだ強い。旧地下鉄の癖を誰よりも知っている男だった。


「日報だ」


「日報の署名、そんなに見つめるか普通」


「インクの出が悪い」


「ペン替えろ」


 田端は机の上に缶コーヒーを置いた。


「顔色悪いぞ」


「夜勤明けだからな」


「お前、夜勤明けでももっと仏頂面なだけで済むだろ。今日は死人みたいだ」


「縁起でもないこと言うな」


「うちの職場で縁起いい話なんかあるか」


 田端は笑った。


 悠斗は笑わなかった。


 ここ数日、夢が続いている。


 赤いステージ。


 金髪の女。


 右膝の痛み。


 客席へ笑う顔。


 雨の路地。


 黒い傘。


 黒いナイフ。


 そして、知らない高校の教室。


 窓際の席。


 黒い制服の少年。


 少年は雨を見ている。


 悠斗はその少年を知らない。


 知らないのに、どこかで知っている。


 その少年の胸の奥に、同じ雨が降っている。


「倉科」


 田端の声で、悠斗は現実へ戻った。


「都市警から連絡が来てる」


「市警?」


「特異殺人対策室だとよ。お前、何やった」


「何もしてない」


「そう言う奴はだいたい何かしてる」


「本当に何もしてない」


 田端は缶コーヒーを開けた。


「黒江って女の人からだ。今日、話を聞きたいって。旧地下鉄の事故記録について」


 悠斗の指が止まる。


「事故記録?」


「二年前のやつじゃないか。外部委託の若い作業員が死んだ件」


 悠斗は顔を上げた。


 田端は、しまったという顔をした。


「……悪い。朝からする話じゃなかったな」


「名前、何だった」


「は?」


「その作業員の名前」


 田端は眉を寄せた。


「覚えてねえよ。外部の人間だったし、こっちは現場の後処理を少し手伝っただけだ」


「本当に?」


「なんだよ」


「いや」


 悠斗は日報の署名欄を見た。


 倉科悠斗。


 書いてある。


 まだ読める。


「同じような雨の日だった」


 田端が言った。


「地下なのにな」


「地下なのに?」


「現場が濡れてたんだよ。漏水にしちゃ変な濡れ方でな。作業灯が割れてて、懐中ライトも落ちてた。本人のメモ帳は見つからなかった。警察だか、よく分からん連中だかが持っていったのかもしれん」


「黒い傘は?」


 悠斗の口から、勝手に言葉が出た。


 田端の顔が変わった。


「なんで知ってる」


「……聞いた気がした」


「誰に」


「分からない」


 田端は周囲を見回し、声を落とした。


「現場近くに黒い傘があったって話は、俺は聞いた。でも、報告書には載ってないはずだ」


「載ってた」


「どこに」


「いや」


 夢の中で。


 そう言えるはずがなかった。


 田端は、缶コーヒーを机に置いた。


「倉科、お前、少し休め」


「休める状況じゃない」


「休める時に休まない奴から地下で倒れる」


「倒れない」


「そう言って倒れた奴を何人も見た」


 悠斗は椅子から立ち上がった。


 ちょうどその時、事務所の入口から若い職員が顔を出した。


「倉科さん、お客さんです」


「客?」


「市警の人と……高校生が二人」


 田端が悠斗を見る。


「お前、本当に何やった?」


 悠斗は答えなかった。


 ただ、机の上の日報を閉じた。


 署名欄に書いた自分の名前が、閉じた紙の中に隠れた。


 そのことが、なぜか少し不安だった。


     *


 旧地下鉄保守課の管理棟は、現役の駅から少し外れた場所にあった。


 古い煉瓦造りの建物で、入口には幻都アガルタ都市交通局の小さなプレートが掲げられている。隣には資材置き場と、地下へ降りる搬入口。雨に濡れたコンクリートの匂いがした。


 レイと真昼が到着した時、黒江透子はすでに来ていた。


 彼女は透明な傘を畳み、管理棟の庇の下で待っていた。黒いスーツにロングコート。隣には綾瀬直央がいる。霧生はいなかった。別件でエミー事件の関係者を洗っているらしい。


「時間通りですね」


 透子が言った。


「御影くんが珍しく急かしました」


 真昼が答えた。


「白瀬さんが一人で先走る前に、という判断でしょう」


「信用ないですね」


「信用はしています」


「本当ですか」


「あなたが先走ることに関しては」


「それは信用じゃなくて警戒です」


「近いものです」


 真昼は不満そうにしたが、いつもより声が硬かった。


 ノクターン書房で見た断片が、まだ彼女の中に残っているのだろう。紙袋は持っていない。代わりに、メモ帳だけを胸元のポケットに入れている。


 レイは管理棟の入口を見た。


 地下の匂いがする。


 まだ地上なのに、すでに地下の気配がある。


 湿気、油、古い鉄、コンクリート、作業服に染み込んだ汗。


 それらが混ざった匂いを嗅いだ瞬間、夢の中の線路が浮かんだ。


「大丈夫ですか」


 透子が聞いた。


「大丈夫です」


「その返事が一番信用できません」


「白瀬に似てきましたね」


「それは困ります」


「私も困ります」


 真昼が横から言った。


「どういう意味ですか」


「そのままの意味です」


 透子は短く返し、管理棟の扉へ向かった。


「今回は、正式な捜査ではなく任意の聞き取りです。倉科悠斗さんは事件の容疑者ではありません。あなたたちは同席を許可された協力者扱いです」


「協力者」


 真昼が少し嬉しそうにした。


「調子に乗らないでください」


「まだ何も言ってません」


「顔が言っていました」


「黒江さん、顔を証拠にするタイプですか」


「顔は証拠になりません。ただし観察対象にはなります」


「御影くんと同じこと言う」


「不本意です」


「僕もです」


 綾瀬が小さく笑いそうになり、すぐに咳払いでごまかした。


 透子は何事もなかったように続けた。


「倉科さんの体調に異常がある場合、質問を中断します。御影さん、記憶混線が起きた場合はすぐに言ってください。白瀬さん、勝手に録音しないこと」


「許可を取れば?」


「相手が許可した場合のみ」


「はい」


「本当に?」


「本当に」


 管理棟の中は、古い市役所の出張所のようだった。


 壁には安全確認ポスター、地下作業時の注意事項、路線図、漏水対策表が貼られている。廊下の奥では職員たちが忙しく出入りしていた。作業服、反射ベスト、ヘルメット、安全靴。学生服のレイと真昼は、明らかに場違いだった。


 応接室へ通される。


 長机と折りたたみ椅子だけの簡素な部屋。


 少し遅れて、倉科悠斗が入ってきた。


 第一印象は、地味な男だった。


 年齢は三十一歳。黒髪は短く、少し癖がある。作業服の袖をまくり、手には油汚れと小さな傷が残っている。眠そうな目をしているが、視線は鈍くない。部屋に入った瞬間、出口の位置、窓、机、透子、綾瀬、レイ、真昼の順に見た。


 地下で働く人間の目だ、とレイは思った。


 暗い場所で、異音や足元や人の動きを見る癖がついている。


「倉科悠斗です」


 男は短く名乗った。


 その声を聞いた瞬間、レイの中で作業日報の文字が重なった。


 倉科悠斗。


 紙に名前を書く手。


 今、言わないと消えそうだった。


「黒江透子です。アガルタ市警・特異殺人対策室所属です」


 透子が名刺を差し出す。


 悠斗は受け取り、少しだけ眉を寄せた。


「特異殺人って、俺、殺人事件に関係あるんですか」


「現時点では、あなたが事件に直接関与しているとは考えていません。ただ、確認したいことがあります」


「確認したいことに、高校生が必要なんですか」


 悠斗の視線がレイと真昼へ向いた。


 当然の反応だった。


 真昼が先に頭を下げる。


「白瀬真昼です。アガルタ学院の新聞部で、事件や古い記録を調べています」


「新聞部」


 悠斗はさらに眉を寄せた。


「市警の聞き取りに新聞部?」


「通常ではありません」


 透子が言った。


「ただ、今回の件では、彼女が古い記録の一部を見つけています」


「で、そっちは?」


 悠斗はレイを見た。


「御影レイです」


「肩書きは?」


「ありません」


「じゃあ、なんでいる」


「あなたを探していました」


 悠斗の目が鋭くなった。


「俺を?」


「はい」


「何のために」


「死ぬ前に」


 真昼が小さく息を呑んだ。


 透子がわずかに目を細める。


 綾瀬のペンが止まる。


 悠斗の表情から、眠そうな印象が消えた。


「喧嘩売ってるのか」


「違います」


「初対面で死ぬ前に探してたって言われて、どう受け取れと」


「そのままです」


「御影さん」


 透子が静かに制した。


「順を追いましょう」


 レイは口を閉じた。


 悠斗は椅子に座らず、立ったまま腕を組んだ。


「俺は仕事明けなんです。用件を短く」


「昨夜、旧地下鉄の閉鎖区画で作業をしましたか」


 透子が聞いた。


「しました」


「雨宮坂下連絡線」


 悠斗の顔が少し変わる。


「それ、内部情報ですよ」


「正式照会で確認済みです」


「なら分かってるでしょ。漏水確認です。異常は報告済み」


「作業日報に署名する時、手が止まりませんでしたか」


 悠斗が黙った。


 透子は続ける。


「自分の名前が、一瞬分からなくなることは?」


「……疲れです」


「最近、何度か起きていますね」


「疲れです」


「赤いステージの夢は?」


 レイが言った。


 悠斗の目が、ゆっくりとレイへ向いた。


 部屋の空気が変わる。


「何だと」


「赤いステージ。金髪の女。右膝の痛み。客席。古い鏡。雨の路地。黒い傘。黒いナイフ」


 悠斗の顔から血の気が引いた。


 真昼は息を詰めて見ている。


 綾瀬も、ペンを持ったまま固まっていた。


「誰に聞いた」


 悠斗の声が低くなる。


「聞いていません」


「じゃあ何だ。警察が俺の夢まで調べるのか」


「僕も見ました」


「ふざけるな」


 悠斗は机に手をついた。


 手の甲に浮いた血管が強張っている。


「俺はそういうのは信じない」


「僕も信じたくない」


「なら言うな」


「言わないと、あなたが死ぬかもしれない」


 悠斗は、レイを睨んだ。


 その目に、怒りだけでなく恐怖が混ざっている。


 レイは、その恐怖を知っていた。


 自分の中にある記憶が、自分のものではないと気づく瞬間。


 知らない誰かの痛みを、自分の身体が覚えている瞬間。


 名前を書く手が止まる瞬間。


 人は、まず怒る。


 そうしなければ、壊れるからだ。


「倉科さん」


 真昼が、恐る恐る声をかけた。


「エミー・グレイス・ハーパーさんの事件は知っていますか」


「ニュースで見た」


「その前から、彼女の夢を見ていたんですか」


「知らない」


「知らない、じゃなくて」


「見たよ!」


 悠斗の声が部屋に響いた。


 すぐに彼自身が驚いたように口を閉じる。


 外の廊下を歩く職員の足音が止まり、また遠ざかる。


 悠斗は椅子に座った。


 額に手を当てる。


「……見た」


 声が小さくなる。


「赤いステージ。知らない女の足が痛む。ヒールを履いてる感覚がある。俺は男だぞ。踊ったことなんかない。なのに、身体が勝手に覚えてるみたいに、ターンの重心が分かる。馬鹿げてる」


 真昼はメモを取っていた。


 しかし、いつもの勢いはない。


 相手の傷をえぐらないよう、言葉を選んでいる。


「エミーさんが亡くなった夜は」


「最悪だった」


 悠斗は吐き捨てるように言った。


「地下で点検してたら、急に雨の匂いがした。地下だぞ。雨なんか降るわけない。それなのに、路地の匂いがした。酒と香水とネオンの熱と、血の匂い」


 レイの喉が熱くなる。


 エミーの喉。


 悠斗の地下。


 レイの自室。


 三つの場所が重なる。


「黒い傘を見たんですね」


 透子が聞く。


「見た気がする。いや、夢かもしれない。現実だったか分からない。ただ、線路の奥に立ってた。地下なのに傘を差してる。おかしいだろ」


「顔は?」


「見えない」


 悠斗は即答した。


「傘の下が、黒く潰れてる。思い出そうとすると頭が痛い。だから思い出さないことにした」


「黒いナイフは?」


 悠斗は自分の右手を見た。


「見た。かもしれない。光らない刃。刃物っていうより、そこだけ穴が空いてるみたいな黒」


 透子は綾瀬へ目配せした。


 綾瀬が静かにメモを取る。


 レイは悠斗の手を見た。


 エミーを刺した手の感覚。


 自分の中にある加害者の記憶。


 それと、悠斗の震える手は違う。


 悠斗はまだ刺されていない。


 まだ、奪われていない。


「名前が分からなくなるのは、いつからですか」


 透子が聞いた。


「エミーの事件の少し前から」


「彼女の名前を知る前から?」


「そうだよ」


 悠斗は苛立ったように答えた。


「最初は疲れだと思った。夜勤続きだし、地下は湿気がひどい。変な音もする。幻覚くらい見てもおかしくないって」


「幻覚くらい、で済ませた」


「そうしないと仕事にならない」


 悠斗の声には、現場の人間の硬さがあった。


「線路は点検しなきゃならない。漏水は止めなきゃならない。閉鎖扉は確認しなきゃならない。地下で誰かが変な夢を見たからって、電車は止まってくれない」


「旧地下鉄は現役路線ではないでしょう」


「つながってるんだよ」


 悠斗は透子を見た。


「地上の人間は、廃線は死んだ線路だと思ってる。でも違う。古い線路が水を呼ぶ。水が壁を腐らせる。壁が崩れれば、現役の駅にも影響する。地下は全部つながってる。見えないところで、街を支えてる」


 その言葉に、真昼のペンが止まった。


 彼は、自分の仕事に誇りを持っている。


 派手ではない。


 誰に拍手されるわけでもない。


 けれど、地上の人間が約束の場所へ行けるよう、地下で街を支えている。


 エミーとは違う。


 舞台に立つ人ではない。


 でも、同じように、自分の場所で生きている。


「倉科さん」


 真昼は静かに聞いた。


「名前が分からなくなった時、どうしてるんですか」


 悠斗は少し黙った。


 答えたくない顔だった。


 しかし、逃げなかった。


「書く」


「自分の名前を?」


「ああ」


「何度も?」


「必要なら」


「どうして」


「書いてないと、消えそうになる」


 悠斗は自嘲気味に笑った。


「笑えるだろ。三十一にもなって、自分の名前を漢字練習みたいに書いてる」


「笑いません」


 真昼は即答した。


 悠斗が彼女を見る。


「名前を書くのは、大事です」


「新聞部の理屈か」


「私の理屈です」


「若いのに面倒くさい理屈持ってるな」


「よく言われます」


「だろうな」


 少しだけ、悠斗の表情が緩んだ。


 ほんの少し。


 だが、その隙間に疲労が見えた。


 眠れていない。


 誰にも話せなかった。


 自分でも信じたくなかった。


 そういう顔だった。


 レイは、ようやく口を開いた。


「倉科さん」


「なんだ」


「今、名前を言ってください」


 悠斗の眉が寄る。


「は?」


「あなたの名前を」


「何のために」


「確認です」


「警察の真似か」


「僕のためです」


 悠斗は不快そうにした。


「俺はお前のために名乗る義理はない」


「あります」


「ない」


「あなたが死んだら、僕はまた記憶として受け取る」


 部屋が静かになった。


 レイは続けた。


「死んだあとなら、たぶん分かります。痛みも、恐怖も、最後に見たものも。でも、それじゃ遅い」


 悠斗はレイを見た。


 レイも逸らさなかった。


「今、生きているあなたの名前を聞きたい」


 真昼が、息を止めた。


 透子は何も言わない。


 綾瀬もペンを止めている。


 悠斗はしばらく黙っていた。


 怒っているようにも、困っているようにも見えた。


 やがて、彼は小さく舌打ちした。


「倉科悠斗」


 短い名乗りだった。


 だが、レイにはその言葉が地下の壁に打ち込まれる杭のように聞こえた。


「もう一度」


「しつこい」


「お願いします」


 悠斗は顔をしかめた。


 それでも、言った。


「倉科悠斗。俺の名前だ」


 そこで一度、声が詰まる。


 彼は自分の手を見た。


 指先が震えている。


 それから、かすかに笑った。


「……今、言わないと消えそうだった」


 その言葉は、レイの胸に深く刺さった。


 エミーの名前を、彼はなかなか言えなかった。


 彼女を自分として処理していたからだ。


 自分の中の記憶として、痛みとして、死として扱っていたからだ。


 だが、目の前の男は違う。


 倉科悠斗は、ここにいる。


 作業服を着て、疲れた顔をして、無愛想で、警戒心が強くて、地下を支える仕事に誇りを持っている。


 彼は記憶ではない。


 今、生きている人間だ。


 レイは、初めてその事実を身体で理解した気がした。


「倉科悠斗」


 レイは言った。


 悠斗が顔を上げる。


「何でお前が言う」


「忘れないように」


「俺の名前だ」


「はい」


「お前のじゃない」


「はい」


 その返事に、真昼がこちらを見た。


 少し驚いた顔だった。


 レイ自身も、自分がそう答えたことに遅れて気づいた。


 お前のじゃない。


 以前なら、引っかかったかもしれない。


 同じ魂なら、自分の一部。


 そう反射したかもしれない。


 でも今は、違った。


 倉科悠斗。


 それは彼の名前だ。


 レイのものではない。


     *


 聞き取りは、その後も続いた。


 悠斗は最初ほど強く拒まなくなったが、話すたびに疲労が濃くなっていった。


 赤いステージの夢。

 エミーの死後に悪化した記憶混線。

 作業中に足元が赤いヒールの感覚になること。

 工具を持っているのに、指先が黒いナイフを覚えていること。

 線路の奥から、自分を呼ぶ声が聞こえること。

 日報に名前を書く時、手が止まること。


 透子は妄想とは言わなかった。


 綾瀬は信じ切れない顔をしていた。


 それでも、書き留めた。


 真昼は時々質問し、時々黙って聞いた。


 レイは、悠斗の言葉の一つ一つを自分の中の記憶と照合していた。


 エミーの記憶と、悠斗の記憶はつながっている。


 だが、同じではない。


 エミーは舞台の人だった。


 悠斗は地下の人だ。


 同じアニマを持っているとしても、人生はまったく違う。


 それが少しずつ、重みを持っていく。


「二年前の事故について聞かせてください」


 透子がそう言うと、悠斗の顔がさらに曇った。


「あれは、俺が担当した現場じゃない」


「でも、後処理に関わった」


「少しだけです」


「外部委託の作業員が亡くなった」


「そう聞いてます」


「名前は?」


 悠斗は口を開きかけた。


 止まる。


 眉間に皺が寄る。


「……覚えてない」


「資料では、古河 千■と読めます」


「古河」


 悠斗はその姓を繰り返した。


「そうだったかもしれない」


「最後の一文字は?」


「分からない」


「その人と面識は?」


「直接はない。現場ですれ違ったことはあるかもしれない。外部委託は入れ替わりが多いから」


「事故当時、何がありましたか」


 悠斗は視線を落とした。


 机の上の木目を見ながら、少しずつ話し始めた。


「同じような雨の日でした」


 部屋の外で、本当に雨が降っている。


 その音が、言葉の背景になった。


「地上は土砂降り。地下でも漏水がひどかった。旧第三連絡線の奥で、点検中の作業員が倒れているのが見つかった。最初は転落事故だって聞いた。でも、変だった」


「何が」


「足場から落ちたにしては、周りが荒れてなかった。工具箱は閉じたまま。懐中ライトだけが割れてた。まるで、何かを照らそうとして落としたみたいに」


「黒い傘は?」


 透子が聞く。


 悠斗は苦い顔をした。


「噂です」


「聞かせてください」


「現場の奥に、黒い傘があったって言った奴がいた。地下なのに。誰のものか分からない。けど、公式には記録されなかった。たぶん、上が嫌がったんでしょう」


「上?」


「都市交通局か、警察か、よく分からない人たちか」


 悠斗は透子を見た。


「黒江さんたちみたいな部署、昔からあるんですか」


「似たものは」


「じゃあ、その人たちかもしれない」


 透子は否定しなかった。


「その事故のあと、旧第三連絡線はさらに奥が封鎖された」


「なぜ」


「危険だから、って話です。漏水、地盤、古い設備。理由はいくらでもある。でも現場の連中は、あそこを嫌がるようになった」


「あなたは?」


「嫌ですよ」


 悠斗は即答した。


「でも、誰かが点検しないといけない」


「だから行く」


「仕事ですから」


 その言葉は、ひどく地味だった。


 しかし、レイには重かった。


 エミーは、自分の名前で踊るために店を出ようとしていた。


 悠斗は、誰かが地上で普通に暮らせるように地下へ降りる。


 どちらも、死ぬために生きていたわけではない。


 当たり前のことを、レイは今さら知る。


「その外部委託の人」


 真昼が静かに聞いた。


「何か残していませんでしたか。メモとか、私物とか、名前が書いてあるものとか」


「知らない」


 悠斗は首を振った。


「でも、現場に小さいメモ帳があったって話は聞いた。自分の名前を何度も書いてたって」


 レイの背筋が冷えた。


 真昼もペンを止める。


「名前を?」


「あくまで噂です」


「どんな名前か、覚えていますか」


「だから、覚えてない」


 悠斗は苛立ちを隠せない様子で言った。


「覚えてないんだよ。顔も、名前も。事故の話は覚えてる。割れたライトも、黒い傘の噂も覚えてる。でも、その人の名前だけが出てこない」


 彼は自分のこめかみを押さえた。


「気持ち悪いだろ。人が死んだのに、名前だけ思い出せない」


 透子は、静かに言った。


「気持ち悪いと感じられるなら、まだ残っています」


「何が」


「名前を忘れてはいけないという感覚です」


 悠斗は返事をしなかった。


 真昼がメモ帳に、古河 千■、と書いた。


 最後の一文字を空けて。


 その空白は、紙の上で小さな穴のように見えた。


「倉科さん」


 真昼は言った。


「この人の名前、調べます」


「調べてどうする」


「呼べるようにします」


「死んだ人間を?」


「はい」


「死人は返事しない」


「それでも、呼ぶ人がいなかったら、もっと遠くへ行きます」


 悠斗は、真昼をじっと見た。


「面倒くさい理屈だな」


「よく言われます」


「でも」


 悠斗は少しだけ目を伏せた。


「嫌いじゃない」


 真昼は、少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「分かってます」


 レイは、そのやり取りを黙って見ていた。


 真昼は、名前を拾う。


 レイは、記憶を受け取る。


 透子は、記録する。


 それぞれが違うことをしている。


 それが、今は少しだけ分かった。


     *


 聞き取りが終わる頃には、雨がさらに強くなっていた。


 管理棟の窓を雨粒が叩き、地下搬入口のほうから冷たい風が流れ込んでくる。職員たちは夜間作業の準備を始めていた。反射ベスト、ヘルメット、ライト、工具箱。日常的な仕事の音がする。


 悠斗は、面談後も帰る気配を見せなかった。


「今日は休んだほうがいい」


 透子が言った。


「勤務は夜からです」


「その夜勤を外してもらうよう、こちらから要請します」


「人手が足りないんです」


「命より優先する勤務はありません」


「地上の人間はそう言う」


 悠斗の声には苛立ちがあった。


「でも、実際に漏水が出てる。旧第三連絡線の奥で異音もある。放っておけば、現役線の排水にも響く。誰かが見なきゃならない」


「あなたである必要は?」


「俺が担当です」


 短い答えだった。


 透子は眉を寄せる。


「倉科さん。あなたは狙われている可能性があります」


「黒い傘に?」


「はい」


「地下で傘差してる奴がいるなら、逆に見つけやすいでしょう」


「冗談で済む話ではありません」


「冗談で済ませないと、地下に降りられないんですよ」


 悠斗はヘルメットを手に取った。


「怖いなら、線路の端を歩くな。真ん中を歩け。逃げ場がないから、逆に迷わない」


 真昼が顔を上げた。


「それ、誰かに教える時の言葉ですか」


「姪に言った」


「姪?」


「六歳。駅のイベントで線路歩行体験があった時に、怖がってたから」


 悠斗は少しだけ罰が悪そうにした。


「まあ、実際の線路じゃないけどな」


 真昼はその情報も書こうとして、少し迷った。


 書いていいことと、書かないほうがいいこと。


 黒江の言葉が、彼女の中に残っている。


 結局、真昼はメモ帳の隅に小さく「姪」とだけ書いた。


 レイはそれを見て、何も言わなかった。


 倉科悠斗には、姪がいる。


 彼を「ゆう兄」と呼ぶ子がいるかもしれない。


 彼が死ねば、その子にとっての誰かが消える。


 同魂者がひとり死ぬのではない。


 倉科悠斗が死ぬ。


 その違いが、レイの胸に重く沈む。


「夜勤には行かないでください」


 レイは言った。


 悠斗が振り返る。


「お前まで言うのか」


「はい」


「俺の仕事に口出すな」


「あなたが死んだら、僕の中に入ってくる」


「だから?」


「嫌です」


 悠斗は目を細めた。


「俺の死を覚えるのが?」


「違う」


「じゃあ何が嫌なんだ」


「あなたが死ぬことです」


 言ってから、レイは自分の言葉に驚いた。


 悠斗も少し驚いた顔をした。


 真昼は、何も言わなかった。


 ただ、レイを見ていた。


 透子も黙っている。


 悠斗は、しばらくして視線を逸らした。


「……高校生にそんな顔で言われると、やりづらいだろ」


「なら休んでください」


「考える」


「休むとは言わないんですね」


「大人には大人の都合がある」


「死んだら都合も何もないです」


「正論は嫌いだ」


「僕もです」


 悠斗は小さく笑った。


 初めて、少しだけ本当に笑ったように見えた。


「黒江さん」


 彼は透子を見た。


「夜勤の件、上に話してみます。ただ、代わりがいなければ行く」


「その場合、警察も同行します」


「現場に?」


「必要なら」


「邪魔です」


「命を狙われている人ほど、そう言います」


「俺は狙われてると決まったわけじゃない」


「では、念のためです」


 悠斗はため息をついた。


「この街は、念のためで大ごとになりすぎる」


「念のためを怠った結果が、二年前の事故かもしれません」


 透子の言葉に、悠斗は黙った。


 旧地下鉄の奥で死んだ外部委託作業員。


 名前の最後が欠けた男。


 黒い傘。


 割れたライト。


 俺は、お前じゃない。


 それは、まだ誰の口からも真相として語られていない。


 けれど、全員がその影を見ていた。


     *


 管理棟を出ると、雨が少し弱まっていた。


 それでも空は暗く、雲は低い。


 旧地下鉄の搬入口には、作業員たちが出入りしている。黄色い作業灯が、地下へ続くスロープを照らしていた。その先にある闇は、地上から見るだけでも冷たい。


 真昼は搬入口を見つめた。


「この下に、旧地下鉄があるんだよね」


「行くな」


 レイが即答する。


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「黒江さんみたいなこと言う」


「誰に似ても嫌だ」


 真昼は少しだけ笑った。


 でも、すぐに真剣な顔になる。


「倉科さん、生きてたね」


「見れば分かる」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


 レイは搬入口の奥を見た。


 暗い線路。


 漏水。


 作業灯。


 日報の署名。


 生きている男が、そこで働いている。


 それを見つけた。


 まだ間に合う。


 その事実は、希望に似ていた。


 だが、同時に恐怖でもあった。


 間に合うかもしれないということは、間に合わない可能性も見えるということだ。


「御影くん」


 真昼が言った。


「さっき、倉科さんに『あなたが死ぬことが嫌だ』って言ったよね」


「忘れて」


「無理」


「忘れろ」


「記録者に無茶言わない」


「記録するな」


 真昼は少し黙った。


 その言葉が、別の何かに触れたからだ。


 記録するな。

 名前を残すな。

 それは私のものだ。


 まだ届いていないはずの言葉が、雨の気配の中で先に揺れたような気がした。


「……御影くん」


「何」


「今、一瞬、嫌な感じがした」


「黒い傘?」


「分からない。でも、誰かに見られてるみたいな」


 レイは周囲を見た。


 管理棟。

 資材置き場。

 搬入口。

 職員用駐車場。

 雨に濡れたフェンス。

 遠くの坂道。


 黒い傘はない。


 少なくとも、見える範囲には。


 けれど、レイの中の記憶は静かにざわめいた。


 ノクターン書房の店番の青年の周囲で感じた、あの不自然な静けさとは違う。


 これは、地下から上がってくる気配だ。


 まだ遠い。


 でも、近づいている。


 透子が二人の後ろから声をかけた。


「今日はここまでです。白瀬さんは帰宅。御影さんも帰宅。倉科さんについては、こちらで保護措置を調整します」


「保護措置って、どこまでできますか」


 真昼が聞く。


「本人が同意すれば、夜勤を外す。自宅か市警で待機。旧地下鉄へ入る場合は、警察が同行。現実的には、その程度です」


「同意しなかったら?」


「説得します」


「倉科さん、頑固そうです」


「あなたほどではありません」


「私、そこまでですか」


「かなり」


 真昼は少し落ち込んだような顔をした。


 レイは言った。


「自覚なかったの?」


「御影くんにだけは言われたくない」


「僕は頑固じゃない」


「え?」


「その反応は何」


「いや、今の発言、録音したいなって」


「するな」


 透子が小さく息を吐いた。


「二人とも、緊張感を保ってください」


「すみません」


 真昼が素直に謝る。


 レイは搬入口を見ていた。


 地下の奥から、また水の音がする気がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その音に混じって、誰かが名前を書いている。


 倉科悠斗。


 その名前は、まだ消えていない。


 だが、紙の端が少しずつ濡れていくような不安がある。


 透子のスマホが鳴った。


 彼女は画面を見て、眉を寄せた。


「黒江です」


 短い通話。


 相手の声は聞こえない。


 だが、透子の表情が硬くなっていく。


「分かりました。本人には外すよう伝えてください。……いえ、代替要員がいない場合でもです。こちらから正式に要請します」


 通話を切る。


「何かあったんですか」


 真昼が聞いた。


「倉科さんの夜勤が外せない可能性があるそうです」


「え」


「旧第三連絡線の奥で、漏水警報が出ました。現場を知っている職員が限られている」


 レイの背中が冷える。


 旧第三連絡線。


 二年前の事故。


 黒い傘。


 倉科悠斗。


「行くんですか」


「行かせません」


 透子は即答した。


 しかし、その声には迷いがあった。


 現実には、すべてを止められるわけではない。


 都市の地下は動いている。


 水は待たない。


 設備は、人の恐怖に合わせて壊れてはくれない。


 その時、管理棟の扉が開いた。


 悠斗が出てきた。


 ヘルメットを片手に持ち、反射ベストを着ている。


 透子の顔が険しくなる。


「倉科さん」


「すみません」


 悠斗は先に謝った。


「行くことになりました」


「許可できません」


「あなたの許可で地下は止まりません」


「命を狙われていると話したばかりです」


「だから、さっさと終わらせて戻ります」


「一人で?」


「田端さんもいます。若いのも一人つく」


「警察も同行します」


「邪魔です」


「これは交渉ではありません」


 透子の声が鋭くなった。


 悠斗は彼女を見返した。


「だったら早く準備してください。漏水は待ってくれない」


 その横顔は、怖がっていないわけではなかった。


 むしろ、怖がっている。


 それでも行く。


 真昼が、レイの袖を掴んだ。


「御影くん」


「分かってる」


 レイは地下搬入口を見た。


 そこには、まだ黒い傘はいない。


 だが、雨は降っている。


 地下へ続くスロープの先で、黄色い作業灯が点滅した。


 まるで、闇の奥で誰かが瞬きをしたように。


 悠斗はヘルメットをかぶる前に、一度だけ自分の胸ポケットから小さなメモを取り出した。


 そこに、黒いボールペンで名前を書いた。


 倉科悠斗。


 もう一度。


 倉科悠斗。


 それから、彼はメモを胸ポケットへ戻した。


 レイは、その動作を見ていた。


 同魂者は記憶ではない。


 今、生きている人間だ。


 そして、その人間はいま、自分の名前を胸に入れて、地下へ降りようとしている。


「黒江さん」


 レイは言った。


「僕も行きます」


「駄目です」


「止めても行きます」


「あなたまで白瀬さんの悪い影響を受けないでください」


「御影くん、そこは私を巻き込まないで」


「巻き込まれてるのは君だ」


「それはそう」


「二人とも」


 透子の声が低くなった。


 だが、もう時間はなかった。


 地下の警報灯が赤く回り始める。


 雨の音に、サイレンの低い唸りが混ざる。


 悠斗は振り返った。


「来るなら、勝手に死ぬなよ」


 レイを見る。


 真昼を見る。


 最後に透子を見る。


「地下は、地上の理屈が通じない場所がある」


 その言葉は、脅しではなかった。


 地下で生きてきた人間の忠告だった。


「怖いなら、線路の端を歩くな。真ん中を歩け」


 悠斗はそう言って、スロープへ足を踏み出した。


 黄色い作業灯の下で、彼の背中が暗くなる。


 雨は地上に降っている。


 だが、レイには分かっていた。


 地下にも、もう雨が降り始めている。

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