第五章 地下で名前を書く男
暗い線路の上に、黄色い光が落ちている。
光は、まっすぐには伸びない。
古いコンクリートの壁に染み込み、天井から落ちる水滴に砕かれ、レールの錆に吸われて、途中で濁る。懐中ライトの明かりは頼りなく、前方の闇を押し退けるより、闇の深さを確かめるためにあるようだった。
水の音がする。
ぽたり。
ぽたり。
それから、もっと奥で、細い流れが床を這っている音。
ここは使われていない。
人が通るための場所ではない。
それでも、誰かが歩いている。
安全靴の底が、濡れた床を踏む。作業服の裾が重い。ヘルメットの内側に汗がこもる。右肩に工具袋。左手に懐中ライト。胸ポケットには折りたたんだ作業指示書。腰には古い鍵束。
男は、立ち止まった。
目の前に、封鎖扉がある。
灰色の鉄扉。
赤いペンキで、立入禁止の文字。
その下に、剥がれかけた古い駅名標が半分だけ見えている。
雨宮坂下連絡線。
その先に、何かがある。
水の音ではない。
誰かの声だ。
呼んでいる。
名前を。
誰の名前を。
男は作業日報を取り出した。
濡れないように、透明のクリップボードに挟んである。日付、作業区画、点検項目、漏水箇所、異音の有無。形式に沿って、黒いボールペンで記入していく。
最後に、署名欄。
作業担当者。
ペン先が止まった。
名前。
自分の名前。
分かっている。
分かっているはずだ。
倉科。
倉科、何だ。
手袋越しの指が震える。
水滴が、ヘルメットの縁から落ちて、日報の端を濡らした。
男は息を吸い、ゆっくりと書いた。
倉科悠斗。
文字が紙に沈む。
その瞬間、闇の奥で何かが笑った気がした。
違う。
笑い声ではない。
雨だ。
地下なのに、雨が降っている。
線路の向こうに、黒い傘が立っていた。
ありえない。
ここは地下だ。
傘など必要ない。
それなのに、黒い傘の縁から水滴が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
男は懐中ライトを向けた。
光が黒い傘へ届く。
届いたはずなのに、顔は見えない。
傘の下に、誰かがいる。
人の形をしている。
なのに、そこだけ闇が濃い。
男の口が、自分の意志より先に動いた。
「俺は――」
声が、地下に吸われる。
その声に、別の声が重なった。
もっと古い声。
同じ地下。
同じ雨。
割れた懐中ライト。
外部委託の作業服。
反射ベスト。
転がったヘルメット。
血のついた手袋。
古いメモ帳に、何度も何度も書かれた名前。
古河 千■。
最後の一文字だけが、どうしても見えない。
黒い傘の人物が一歩近づく。
古い声が叫んだ。
「俺は、お前じゃない」
その声が、レイの胸を貫いた。
*
御影レイは、机に突っ伏した姿勢で目を覚ました。
窓の外は暗かった。
自室ではない。
アガルタ学院旧校舎の旧新聞部室でもない。
御影家のリビングだった。
食卓の上には、開いたままのノート、黒江透子の名刺、真昼が雨の中で走り書きしたメモのコピー、ノクターン書房から持ち帰った資料の写しが散らばっている。
いつの間に眠っていたのか、分からない。
壁の時計は、午前二時を少し過ぎていた。
家の中は静かだった。
母は眠っている。
冷蔵庫の低い音と、窓に当たる雨の音だけがある。
レイは右手を見た。
黒いナイフの感覚はない。
その代わり、ペンを握っていた感覚がある。
作業日報に名前を書く感覚。
倉科悠斗。
その名前が、まだ指先に残っている。
レイは椅子から立ち上がった。
足元が揺れる。
地下の床ではない。
自宅のリビングの床だ。
分かっている。
それでも耳の奥では、水滴が落ち続けていた。
ぽたり。
ぽたり。
旧地下鉄。
閉鎖区画。
倉科悠斗。
生きている。
まだ、死んでいない。
レイはその事実を、胸の中で何度も確認した。
エミーの時は違った。
気づいた時には、もう死んでいた。
舞台も、逃亡準備も、最後の抵抗も、すべて過去になってから流れ込んできた。
けれど、今の記憶は違う。
地下で作業日報に名前を書いた男は、まだ生きている。
名前が消えかけていた。
だが、書いた。
倉科悠斗。
今度こそ、間に合うかもしれない。
レイはスマホを取った。
最初に表示されたのは、真昼からのメッセージだった。
――寝てないよね?
――旧地下鉄の倉科悠斗さん、検索した。
――都市交通局旧地下鉄保守課。多分この人。
――明日行く?
――いや、行くよね?
――既読つけたら返事。
時刻は、午前一時四十七分。
レイは、短く返信した。
――寝ろ。
すぐに既読がついた。
ほとんど同時に返事が来る。
――御影くんこそ。
――何か見た?
レイはしばらく画面を見つめた。
見た。
暗い線路。
作業日報。
黒い傘。
古い事故。
俺は、お前じゃない、という声。
それを書けば、真昼は眠らない。
書かなくても、眠らない。
どちらにしても最悪だった。
レイは透子の名刺を見た。
名刺の端には、彼女が手書きで番号を追記していた。緊急時はこちら、と短く添えられている。
御影レイさん。夢を見た、記憶が流れ込んだ、右手にナイフの感覚が戻った。その場合は、すぐ連絡してください。
透子の声が蘇る。
レイは電話をかけた。
五回目のコールで、透子が出た。
『黒江です』
眠っていた声ではなかった。
最初から起きていたような声。
「御影です」
『何か見ましたね』
「まだ何も説明していません」
『この時間に高校生が警察へ電話をかける理由は多くありません。家出、事故、脅迫、異常記憶。そのうち、あなたは最後です』
「便利ですね」
『ええ。状況判断は便利です』
レイは窓の外を見た。
雨が降っている。
「倉科悠斗。旧地下鉄保守課の整備士です」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『名前は白瀬さんのメモにもありました。あなたがノクターン書房の帰りに口にしたと聞いています』
「さっき、夢を見ました」
『内容を』
「暗い線路。漏水。作業灯。工具箱。作業日報。署名欄に名前を書こうとして、手が止まる。自分の名前が一瞬分からなくなる」
『倉科悠斗さん本人の視点ですか』
「たぶん」
『続けて』
「同時に、別の記憶が混じりました。古い事故です。外部委託作業員。割れた懐中ライト。黒い傘。男の声」
『何と言っていましたか』
レイは目を閉じた。
地下の声が蘇る。
雨に濡れた男の声。
恐怖ではなく、拒絶の声。
「俺は、お前じゃない」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
透子が息を止めたのが分かった。
「黒江さん?」
『続けてください』
「それだけです」
『黒いナイフは?』
「見えませんでした。でも、黒い傘はありました。地下なのに」
『古い事故の被害者名は?』
「古河、千……最後が見えない」
『分かりました』
透子の声が少し低くなった。
『倉科悠斗さんの勤務先を確認します。あなたは今、自宅ですね』
「はい」
『そこにいてください』
「行きます」
『今、午前二時です』
「だから?」
『未成年を深夜の旧地下鉄へ行かせるほど、私は無能ではありません』
「彼は生きています」
『だから警察が動きます』
「僕がいなければ分からないことがある」
『あなたがいれば危険が増えることもある』
透子の声は冷たくはない。
だが、甘くもなかった。
『御影レイ。今すぐ動けば、あなたは証言者ではなく現場の不確定要素になります』
「倉科さんが死んだら?」
『死なせないために、こちらが動きます』
「エミーは死んだ」
『彼女を救えなかった責任を、あなたひとりが背負う必要はありません』
「背負うとか、そういう話じゃない」
『では、どういう話ですか』
レイは答えられなかった。
エミーの死は、自分の中にある。
でも、エミーは自分ではなかった。
それを理解し始めたからこそ、今、生きている倉科悠斗を放っておけなかった。
彼が死ねば、また記憶になる。
痛みになる。
名前の欠けた紙になる。
それだけは、嫌だった。
「死体になってから名前を呼ぶのは、遅い」
レイは言った。
電話の向こうで、透子が黙った。
数秒後、彼女は短く息を吐いた。
『その言葉は、白瀬さんの影響ですか』
「たぶん」
『悪い影響ばかりではないようですね』
「本人には言わないでください」
『言いません。調子に乗るでしょうから』
こんな時間に、そんな会話をしている場合ではない。
それでも、ほんのわずかに呼吸が楽になった。
『朝まで待ってください。私は市警経由で旧地下鉄保守課へ連絡します。倉科悠斗さんの勤務状況を確認し、必要なら面談します。あなたと白瀬さんには、日中、こちらの管理下で同行を認めるか検討します』
「検討?」
『確約はしません』
「真昼は勝手に行きます」
『でしょうね』
「分かっているなら」
『分かっているから、あなたに言います。白瀬さんを止めてください』
「僕にできると思いますか」
『できないなら、せめて一緒にいてください』
レイは、窓の外の雨を見た。
「監視ですね」
『同行です』
「その言葉、本人が喜びます」
『では、監視ということにしましょう』
透子はそう言ってから、声を引き締めた。
『御影さん』
「はい」
『倉科悠斗さんの名前を、忘れないでください』
レイはスマホを握る手に力を込めた。
「忘れません」
『それが今、あなたにできることです』
通話が切れたあとも、レイはしばらく窓の前に立っていた。
雨はやまない。
地下へ降るはずのない雨の音が、まだ耳の奥に残っている。
スマホが震えた。
真昼からだった。
――何か見たんでしょ。
――返信が短い時、だいたい何かある。
――朝、旧新聞部室集合。
――寝ろって言われても寝ないから、諦めて。
レイは、短く返信した。
――朝。
――一人で動くな。
すぐに返ってくる。
――監視?
――同行?
レイは画面を見つめ、ため息をついた。
――監視。
真昼からの返信は、なぜか猫のスタンプだった。
*
倉科悠斗は、朝が嫌いだった。
正確には、夜勤明けの朝が嫌いだった。
地下にいる時間が長いと、地上の光は少し暴力的になる。駅の階段を上がった瞬間、曇り空でも眩しい。排気ガスの匂い、コンビニの揚げ物の匂い、通勤客の香水、濡れた傘の湿気。そういう地上の匂いが、一度に押し寄せてくる。
幻都アガルタ都市交通局・旧地下鉄保守課は、現役路線の駅舎とは別にある古い管理棟に入っていた。
表向きは、旧路線の設備管理部門。
実際の仕事は、もっと雑多だ。
廃線の漏水確認。
古いホームの封鎖状態点検。
地盤沈下の前兆調査。
異音の報告。
道順が変わったという市民通報の確認。
存在しない駅名を見たという苦情の処理。
最後のようなものは、公式文書には「案内表示誤認」と書く。
悠斗は、そういう書き換えをもう十年近く見てきた。
地下は嘘をつかない。
だが、報告書は嘘をつく。
嘘というより、地上の人間が読める形に翻訳される。
地下が鳴いた、と書くわけにはいかない。
旧第三連絡線、壁内異音あり。
駅名標が変わっていた、と書くわけにはいかない。
案内表示の劣化による誤認の可能性。
誰かに呼ばれた、と書くわけにはいかない。
作業員の疲労蓄積による聴覚錯誤の可能性。
悠斗は作業机に座り、日報を開いた。
昨夜の点検記録を清書する。
漏水箇所、三か所。
封鎖扉、異常なし。
旧信号ケーブル、絶縁低下。
作業灯、一本交換。
異音、継続。
署名欄。
ペン先が止まった。
まただ。
悠斗は自分の右手を見た。
油汚れが爪の間に残っている。手の甲には小さな切り傷。整備士の手。自分の手だ。
名前くらい、分かる。
倉科。
そこまでは出る。
その先が、一瞬だけ空白になる。
悠斗は歯を食いしばった。
「……悠斗」
声に出す。
周囲には誰もいなかった。
保守課の事務所は朝の引き継ぎ前で、人が少ない。奥のロッカー室から誰かの咳が聞こえる程度だ。
悠斗は日報に書いた。
倉科悠斗。
黒いインクが紙に乗る。
その文字を見て、ようやく自分が地上にいる気がした。
背後から声がした。
「また名前書いてんのか」
振り返ると、同僚の田端が缶コーヒーを持って立っていた。四十代のベテランで、腹は出ているが足腰はまだ強い。旧地下鉄の癖を誰よりも知っている男だった。
「日報だ」
「日報の署名、そんなに見つめるか普通」
「インクの出が悪い」
「ペン替えろ」
田端は机の上に缶コーヒーを置いた。
「顔色悪いぞ」
「夜勤明けだからな」
「お前、夜勤明けでももっと仏頂面なだけで済むだろ。今日は死人みたいだ」
「縁起でもないこと言うな」
「うちの職場で縁起いい話なんかあるか」
田端は笑った。
悠斗は笑わなかった。
ここ数日、夢が続いている。
赤いステージ。
金髪の女。
右膝の痛み。
客席へ笑う顔。
雨の路地。
黒い傘。
黒いナイフ。
そして、知らない高校の教室。
窓際の席。
黒い制服の少年。
少年は雨を見ている。
悠斗はその少年を知らない。
知らないのに、どこかで知っている。
その少年の胸の奥に、同じ雨が降っている。
「倉科」
田端の声で、悠斗は現実へ戻った。
「都市警から連絡が来てる」
「市警?」
「特異殺人対策室だとよ。お前、何やった」
「何もしてない」
「そう言う奴はだいたい何かしてる」
「本当に何もしてない」
田端は缶コーヒーを開けた。
「黒江って女の人からだ。今日、話を聞きたいって。旧地下鉄の事故記録について」
悠斗の指が止まる。
「事故記録?」
「二年前のやつじゃないか。外部委託の若い作業員が死んだ件」
悠斗は顔を上げた。
田端は、しまったという顔をした。
「……悪い。朝からする話じゃなかったな」
「名前、何だった」
「は?」
「その作業員の名前」
田端は眉を寄せた。
「覚えてねえよ。外部の人間だったし、こっちは現場の後処理を少し手伝っただけだ」
「本当に?」
「なんだよ」
「いや」
悠斗は日報の署名欄を見た。
倉科悠斗。
書いてある。
まだ読める。
「同じような雨の日だった」
田端が言った。
「地下なのにな」
「地下なのに?」
「現場が濡れてたんだよ。漏水にしちゃ変な濡れ方でな。作業灯が割れてて、懐中ライトも落ちてた。本人のメモ帳は見つからなかった。警察だか、よく分からん連中だかが持っていったのかもしれん」
「黒い傘は?」
悠斗の口から、勝手に言葉が出た。
田端の顔が変わった。
「なんで知ってる」
「……聞いた気がした」
「誰に」
「分からない」
田端は周囲を見回し、声を落とした。
「現場近くに黒い傘があったって話は、俺は聞いた。でも、報告書には載ってないはずだ」
「載ってた」
「どこに」
「いや」
夢の中で。
そう言えるはずがなかった。
田端は、缶コーヒーを机に置いた。
「倉科、お前、少し休め」
「休める状況じゃない」
「休める時に休まない奴から地下で倒れる」
「倒れない」
「そう言って倒れた奴を何人も見た」
悠斗は椅子から立ち上がった。
ちょうどその時、事務所の入口から若い職員が顔を出した。
「倉科さん、お客さんです」
「客?」
「市警の人と……高校生が二人」
田端が悠斗を見る。
「お前、本当に何やった?」
悠斗は答えなかった。
ただ、机の上の日報を閉じた。
署名欄に書いた自分の名前が、閉じた紙の中に隠れた。
そのことが、なぜか少し不安だった。
*
旧地下鉄保守課の管理棟は、現役の駅から少し外れた場所にあった。
古い煉瓦造りの建物で、入口には幻都アガルタ都市交通局の小さなプレートが掲げられている。隣には資材置き場と、地下へ降りる搬入口。雨に濡れたコンクリートの匂いがした。
レイと真昼が到着した時、黒江透子はすでに来ていた。
彼女は透明な傘を畳み、管理棟の庇の下で待っていた。黒いスーツにロングコート。隣には綾瀬直央がいる。霧生はいなかった。別件でエミー事件の関係者を洗っているらしい。
「時間通りですね」
透子が言った。
「御影くんが珍しく急かしました」
真昼が答えた。
「白瀬さんが一人で先走る前に、という判断でしょう」
「信用ないですね」
「信用はしています」
「本当ですか」
「あなたが先走ることに関しては」
「それは信用じゃなくて警戒です」
「近いものです」
真昼は不満そうにしたが、いつもより声が硬かった。
ノクターン書房で見た断片が、まだ彼女の中に残っているのだろう。紙袋は持っていない。代わりに、メモ帳だけを胸元のポケットに入れている。
レイは管理棟の入口を見た。
地下の匂いがする。
まだ地上なのに、すでに地下の気配がある。
湿気、油、古い鉄、コンクリート、作業服に染み込んだ汗。
それらが混ざった匂いを嗅いだ瞬間、夢の中の線路が浮かんだ。
「大丈夫ですか」
透子が聞いた。
「大丈夫です」
「その返事が一番信用できません」
「白瀬に似てきましたね」
「それは困ります」
「私も困ります」
真昼が横から言った。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
透子は短く返し、管理棟の扉へ向かった。
「今回は、正式な捜査ではなく任意の聞き取りです。倉科悠斗さんは事件の容疑者ではありません。あなたたちは同席を許可された協力者扱いです」
「協力者」
真昼が少し嬉しそうにした。
「調子に乗らないでください」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っていました」
「黒江さん、顔を証拠にするタイプですか」
「顔は証拠になりません。ただし観察対象にはなります」
「御影くんと同じこと言う」
「不本意です」
「僕もです」
綾瀬が小さく笑いそうになり、すぐに咳払いでごまかした。
透子は何事もなかったように続けた。
「倉科さんの体調に異常がある場合、質問を中断します。御影さん、記憶混線が起きた場合はすぐに言ってください。白瀬さん、勝手に録音しないこと」
「許可を取れば?」
「相手が許可した場合のみ」
「はい」
「本当に?」
「本当に」
管理棟の中は、古い市役所の出張所のようだった。
壁には安全確認ポスター、地下作業時の注意事項、路線図、漏水対策表が貼られている。廊下の奥では職員たちが忙しく出入りしていた。作業服、反射ベスト、ヘルメット、安全靴。学生服のレイと真昼は、明らかに場違いだった。
応接室へ通される。
長机と折りたたみ椅子だけの簡素な部屋。
少し遅れて、倉科悠斗が入ってきた。
第一印象は、地味な男だった。
年齢は三十一歳。黒髪は短く、少し癖がある。作業服の袖をまくり、手には油汚れと小さな傷が残っている。眠そうな目をしているが、視線は鈍くない。部屋に入った瞬間、出口の位置、窓、机、透子、綾瀬、レイ、真昼の順に見た。
地下で働く人間の目だ、とレイは思った。
暗い場所で、異音や足元や人の動きを見る癖がついている。
「倉科悠斗です」
男は短く名乗った。
その声を聞いた瞬間、レイの中で作業日報の文字が重なった。
倉科悠斗。
紙に名前を書く手。
今、言わないと消えそうだった。
「黒江透子です。アガルタ市警・特異殺人対策室所属です」
透子が名刺を差し出す。
悠斗は受け取り、少しだけ眉を寄せた。
「特異殺人って、俺、殺人事件に関係あるんですか」
「現時点では、あなたが事件に直接関与しているとは考えていません。ただ、確認したいことがあります」
「確認したいことに、高校生が必要なんですか」
悠斗の視線がレイと真昼へ向いた。
当然の反応だった。
真昼が先に頭を下げる。
「白瀬真昼です。アガルタ学院の新聞部で、事件や古い記録を調べています」
「新聞部」
悠斗はさらに眉を寄せた。
「市警の聞き取りに新聞部?」
「通常ではありません」
透子が言った。
「ただ、今回の件では、彼女が古い記録の一部を見つけています」
「で、そっちは?」
悠斗はレイを見た。
「御影レイです」
「肩書きは?」
「ありません」
「じゃあ、なんでいる」
「あなたを探していました」
悠斗の目が鋭くなった。
「俺を?」
「はい」
「何のために」
「死ぬ前に」
真昼が小さく息を呑んだ。
透子がわずかに目を細める。
綾瀬のペンが止まる。
悠斗の表情から、眠そうな印象が消えた。
「喧嘩売ってるのか」
「違います」
「初対面で死ぬ前に探してたって言われて、どう受け取れと」
「そのままです」
「御影さん」
透子が静かに制した。
「順を追いましょう」
レイは口を閉じた。
悠斗は椅子に座らず、立ったまま腕を組んだ。
「俺は仕事明けなんです。用件を短く」
「昨夜、旧地下鉄の閉鎖区画で作業をしましたか」
透子が聞いた。
「しました」
「雨宮坂下連絡線」
悠斗の顔が少し変わる。
「それ、内部情報ですよ」
「正式照会で確認済みです」
「なら分かってるでしょ。漏水確認です。異常は報告済み」
「作業日報に署名する時、手が止まりませんでしたか」
悠斗が黙った。
透子は続ける。
「自分の名前が、一瞬分からなくなることは?」
「……疲れです」
「最近、何度か起きていますね」
「疲れです」
「赤いステージの夢は?」
レイが言った。
悠斗の目が、ゆっくりとレイへ向いた。
部屋の空気が変わる。
「何だと」
「赤いステージ。金髪の女。右膝の痛み。客席。古い鏡。雨の路地。黒い傘。黒いナイフ」
悠斗の顔から血の気が引いた。
真昼は息を詰めて見ている。
綾瀬も、ペンを持ったまま固まっていた。
「誰に聞いた」
悠斗の声が低くなる。
「聞いていません」
「じゃあ何だ。警察が俺の夢まで調べるのか」
「僕も見ました」
「ふざけるな」
悠斗は机に手をついた。
手の甲に浮いた血管が強張っている。
「俺はそういうのは信じない」
「僕も信じたくない」
「なら言うな」
「言わないと、あなたが死ぬかもしれない」
悠斗は、レイを睨んだ。
その目に、怒りだけでなく恐怖が混ざっている。
レイは、その恐怖を知っていた。
自分の中にある記憶が、自分のものではないと気づく瞬間。
知らない誰かの痛みを、自分の身体が覚えている瞬間。
名前を書く手が止まる瞬間。
人は、まず怒る。
そうしなければ、壊れるからだ。
「倉科さん」
真昼が、恐る恐る声をかけた。
「エミー・グレイス・ハーパーさんの事件は知っていますか」
「ニュースで見た」
「その前から、彼女の夢を見ていたんですか」
「知らない」
「知らない、じゃなくて」
「見たよ!」
悠斗の声が部屋に響いた。
すぐに彼自身が驚いたように口を閉じる。
外の廊下を歩く職員の足音が止まり、また遠ざかる。
悠斗は椅子に座った。
額に手を当てる。
「……見た」
声が小さくなる。
「赤いステージ。知らない女の足が痛む。ヒールを履いてる感覚がある。俺は男だぞ。踊ったことなんかない。なのに、身体が勝手に覚えてるみたいに、ターンの重心が分かる。馬鹿げてる」
真昼はメモを取っていた。
しかし、いつもの勢いはない。
相手の傷をえぐらないよう、言葉を選んでいる。
「エミーさんが亡くなった夜は」
「最悪だった」
悠斗は吐き捨てるように言った。
「地下で点検してたら、急に雨の匂いがした。地下だぞ。雨なんか降るわけない。それなのに、路地の匂いがした。酒と香水とネオンの熱と、血の匂い」
レイの喉が熱くなる。
エミーの喉。
悠斗の地下。
レイの自室。
三つの場所が重なる。
「黒い傘を見たんですね」
透子が聞く。
「見た気がする。いや、夢かもしれない。現実だったか分からない。ただ、線路の奥に立ってた。地下なのに傘を差してる。おかしいだろ」
「顔は?」
「見えない」
悠斗は即答した。
「傘の下が、黒く潰れてる。思い出そうとすると頭が痛い。だから思い出さないことにした」
「黒いナイフは?」
悠斗は自分の右手を見た。
「見た。かもしれない。光らない刃。刃物っていうより、そこだけ穴が空いてるみたいな黒」
透子は綾瀬へ目配せした。
綾瀬が静かにメモを取る。
レイは悠斗の手を見た。
エミーを刺した手の感覚。
自分の中にある加害者の記憶。
それと、悠斗の震える手は違う。
悠斗はまだ刺されていない。
まだ、奪われていない。
「名前が分からなくなるのは、いつからですか」
透子が聞いた。
「エミーの事件の少し前から」
「彼女の名前を知る前から?」
「そうだよ」
悠斗は苛立ったように答えた。
「最初は疲れだと思った。夜勤続きだし、地下は湿気がひどい。変な音もする。幻覚くらい見てもおかしくないって」
「幻覚くらい、で済ませた」
「そうしないと仕事にならない」
悠斗の声には、現場の人間の硬さがあった。
「線路は点検しなきゃならない。漏水は止めなきゃならない。閉鎖扉は確認しなきゃならない。地下で誰かが変な夢を見たからって、電車は止まってくれない」
「旧地下鉄は現役路線ではないでしょう」
「つながってるんだよ」
悠斗は透子を見た。
「地上の人間は、廃線は死んだ線路だと思ってる。でも違う。古い線路が水を呼ぶ。水が壁を腐らせる。壁が崩れれば、現役の駅にも影響する。地下は全部つながってる。見えないところで、街を支えてる」
その言葉に、真昼のペンが止まった。
彼は、自分の仕事に誇りを持っている。
派手ではない。
誰に拍手されるわけでもない。
けれど、地上の人間が約束の場所へ行けるよう、地下で街を支えている。
エミーとは違う。
舞台に立つ人ではない。
でも、同じように、自分の場所で生きている。
「倉科さん」
真昼は静かに聞いた。
「名前が分からなくなった時、どうしてるんですか」
悠斗は少し黙った。
答えたくない顔だった。
しかし、逃げなかった。
「書く」
「自分の名前を?」
「ああ」
「何度も?」
「必要なら」
「どうして」
「書いてないと、消えそうになる」
悠斗は自嘲気味に笑った。
「笑えるだろ。三十一にもなって、自分の名前を漢字練習みたいに書いてる」
「笑いません」
真昼は即答した。
悠斗が彼女を見る。
「名前を書くのは、大事です」
「新聞部の理屈か」
「私の理屈です」
「若いのに面倒くさい理屈持ってるな」
「よく言われます」
「だろうな」
少しだけ、悠斗の表情が緩んだ。
ほんの少し。
だが、その隙間に疲労が見えた。
眠れていない。
誰にも話せなかった。
自分でも信じたくなかった。
そういう顔だった。
レイは、ようやく口を開いた。
「倉科さん」
「なんだ」
「今、名前を言ってください」
悠斗の眉が寄る。
「は?」
「あなたの名前を」
「何のために」
「確認です」
「警察の真似か」
「僕のためです」
悠斗は不快そうにした。
「俺はお前のために名乗る義理はない」
「あります」
「ない」
「あなたが死んだら、僕はまた記憶として受け取る」
部屋が静かになった。
レイは続けた。
「死んだあとなら、たぶん分かります。痛みも、恐怖も、最後に見たものも。でも、それじゃ遅い」
悠斗はレイを見た。
レイも逸らさなかった。
「今、生きているあなたの名前を聞きたい」
真昼が、息を止めた。
透子は何も言わない。
綾瀬もペンを止めている。
悠斗はしばらく黙っていた。
怒っているようにも、困っているようにも見えた。
やがて、彼は小さく舌打ちした。
「倉科悠斗」
短い名乗りだった。
だが、レイにはその言葉が地下の壁に打ち込まれる杭のように聞こえた。
「もう一度」
「しつこい」
「お願いします」
悠斗は顔をしかめた。
それでも、言った。
「倉科悠斗。俺の名前だ」
そこで一度、声が詰まる。
彼は自分の手を見た。
指先が震えている。
それから、かすかに笑った。
「……今、言わないと消えそうだった」
その言葉は、レイの胸に深く刺さった。
エミーの名前を、彼はなかなか言えなかった。
彼女を自分として処理していたからだ。
自分の中の記憶として、痛みとして、死として扱っていたからだ。
だが、目の前の男は違う。
倉科悠斗は、ここにいる。
作業服を着て、疲れた顔をして、無愛想で、警戒心が強くて、地下を支える仕事に誇りを持っている。
彼は記憶ではない。
今、生きている人間だ。
レイは、初めてその事実を身体で理解した気がした。
「倉科悠斗」
レイは言った。
悠斗が顔を上げる。
「何でお前が言う」
「忘れないように」
「俺の名前だ」
「はい」
「お前のじゃない」
「はい」
その返事に、真昼がこちらを見た。
少し驚いた顔だった。
レイ自身も、自分がそう答えたことに遅れて気づいた。
お前のじゃない。
以前なら、引っかかったかもしれない。
同じ魂なら、自分の一部。
そう反射したかもしれない。
でも今は、違った。
倉科悠斗。
それは彼の名前だ。
レイのものではない。
*
聞き取りは、その後も続いた。
悠斗は最初ほど強く拒まなくなったが、話すたびに疲労が濃くなっていった。
赤いステージの夢。
エミーの死後に悪化した記憶混線。
作業中に足元が赤いヒールの感覚になること。
工具を持っているのに、指先が黒いナイフを覚えていること。
線路の奥から、自分を呼ぶ声が聞こえること。
日報に名前を書く時、手が止まること。
透子は妄想とは言わなかった。
綾瀬は信じ切れない顔をしていた。
それでも、書き留めた。
真昼は時々質問し、時々黙って聞いた。
レイは、悠斗の言葉の一つ一つを自分の中の記憶と照合していた。
エミーの記憶と、悠斗の記憶はつながっている。
だが、同じではない。
エミーは舞台の人だった。
悠斗は地下の人だ。
同じアニマを持っているとしても、人生はまったく違う。
それが少しずつ、重みを持っていく。
「二年前の事故について聞かせてください」
透子がそう言うと、悠斗の顔がさらに曇った。
「あれは、俺が担当した現場じゃない」
「でも、後処理に関わった」
「少しだけです」
「外部委託の作業員が亡くなった」
「そう聞いてます」
「名前は?」
悠斗は口を開きかけた。
止まる。
眉間に皺が寄る。
「……覚えてない」
「資料では、古河 千■と読めます」
「古河」
悠斗はその姓を繰り返した。
「そうだったかもしれない」
「最後の一文字は?」
「分からない」
「その人と面識は?」
「直接はない。現場ですれ違ったことはあるかもしれない。外部委託は入れ替わりが多いから」
「事故当時、何がありましたか」
悠斗は視線を落とした。
机の上の木目を見ながら、少しずつ話し始めた。
「同じような雨の日でした」
部屋の外で、本当に雨が降っている。
その音が、言葉の背景になった。
「地上は土砂降り。地下でも漏水がひどかった。旧第三連絡線の奥で、点検中の作業員が倒れているのが見つかった。最初は転落事故だって聞いた。でも、変だった」
「何が」
「足場から落ちたにしては、周りが荒れてなかった。工具箱は閉じたまま。懐中ライトだけが割れてた。まるで、何かを照らそうとして落としたみたいに」
「黒い傘は?」
透子が聞く。
悠斗は苦い顔をした。
「噂です」
「聞かせてください」
「現場の奥に、黒い傘があったって言った奴がいた。地下なのに。誰のものか分からない。けど、公式には記録されなかった。たぶん、上が嫌がったんでしょう」
「上?」
「都市交通局か、警察か、よく分からない人たちか」
悠斗は透子を見た。
「黒江さんたちみたいな部署、昔からあるんですか」
「似たものは」
「じゃあ、その人たちかもしれない」
透子は否定しなかった。
「その事故のあと、旧第三連絡線はさらに奥が封鎖された」
「なぜ」
「危険だから、って話です。漏水、地盤、古い設備。理由はいくらでもある。でも現場の連中は、あそこを嫌がるようになった」
「あなたは?」
「嫌ですよ」
悠斗は即答した。
「でも、誰かが点検しないといけない」
「だから行く」
「仕事ですから」
その言葉は、ひどく地味だった。
しかし、レイには重かった。
エミーは、自分の名前で踊るために店を出ようとしていた。
悠斗は、誰かが地上で普通に暮らせるように地下へ降りる。
どちらも、死ぬために生きていたわけではない。
当たり前のことを、レイは今さら知る。
「その外部委託の人」
真昼が静かに聞いた。
「何か残していませんでしたか。メモとか、私物とか、名前が書いてあるものとか」
「知らない」
悠斗は首を振った。
「でも、現場に小さいメモ帳があったって話は聞いた。自分の名前を何度も書いてたって」
レイの背筋が冷えた。
真昼もペンを止める。
「名前を?」
「あくまで噂です」
「どんな名前か、覚えていますか」
「だから、覚えてない」
悠斗は苛立ちを隠せない様子で言った。
「覚えてないんだよ。顔も、名前も。事故の話は覚えてる。割れたライトも、黒い傘の噂も覚えてる。でも、その人の名前だけが出てこない」
彼は自分のこめかみを押さえた。
「気持ち悪いだろ。人が死んだのに、名前だけ思い出せない」
透子は、静かに言った。
「気持ち悪いと感じられるなら、まだ残っています」
「何が」
「名前を忘れてはいけないという感覚です」
悠斗は返事をしなかった。
真昼がメモ帳に、古河 千■、と書いた。
最後の一文字を空けて。
その空白は、紙の上で小さな穴のように見えた。
「倉科さん」
真昼は言った。
「この人の名前、調べます」
「調べてどうする」
「呼べるようにします」
「死んだ人間を?」
「はい」
「死人は返事しない」
「それでも、呼ぶ人がいなかったら、もっと遠くへ行きます」
悠斗は、真昼をじっと見た。
「面倒くさい理屈だな」
「よく言われます」
「でも」
悠斗は少しだけ目を伏せた。
「嫌いじゃない」
真昼は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「分かってます」
レイは、そのやり取りを黙って見ていた。
真昼は、名前を拾う。
レイは、記憶を受け取る。
透子は、記録する。
それぞれが違うことをしている。
それが、今は少しだけ分かった。
*
聞き取りが終わる頃には、雨がさらに強くなっていた。
管理棟の窓を雨粒が叩き、地下搬入口のほうから冷たい風が流れ込んでくる。職員たちは夜間作業の準備を始めていた。反射ベスト、ヘルメット、ライト、工具箱。日常的な仕事の音がする。
悠斗は、面談後も帰る気配を見せなかった。
「今日は休んだほうがいい」
透子が言った。
「勤務は夜からです」
「その夜勤を外してもらうよう、こちらから要請します」
「人手が足りないんです」
「命より優先する勤務はありません」
「地上の人間はそう言う」
悠斗の声には苛立ちがあった。
「でも、実際に漏水が出てる。旧第三連絡線の奥で異音もある。放っておけば、現役線の排水にも響く。誰かが見なきゃならない」
「あなたである必要は?」
「俺が担当です」
短い答えだった。
透子は眉を寄せる。
「倉科さん。あなたは狙われている可能性があります」
「黒い傘に?」
「はい」
「地下で傘差してる奴がいるなら、逆に見つけやすいでしょう」
「冗談で済む話ではありません」
「冗談で済ませないと、地下に降りられないんですよ」
悠斗はヘルメットを手に取った。
「怖いなら、線路の端を歩くな。真ん中を歩け。逃げ場がないから、逆に迷わない」
真昼が顔を上げた。
「それ、誰かに教える時の言葉ですか」
「姪に言った」
「姪?」
「六歳。駅のイベントで線路歩行体験があった時に、怖がってたから」
悠斗は少しだけ罰が悪そうにした。
「まあ、実際の線路じゃないけどな」
真昼はその情報も書こうとして、少し迷った。
書いていいことと、書かないほうがいいこと。
黒江の言葉が、彼女の中に残っている。
結局、真昼はメモ帳の隅に小さく「姪」とだけ書いた。
レイはそれを見て、何も言わなかった。
倉科悠斗には、姪がいる。
彼を「ゆう兄」と呼ぶ子がいるかもしれない。
彼が死ねば、その子にとっての誰かが消える。
同魂者がひとり死ぬのではない。
倉科悠斗が死ぬ。
その違いが、レイの胸に重く沈む。
「夜勤には行かないでください」
レイは言った。
悠斗が振り返る。
「お前まで言うのか」
「はい」
「俺の仕事に口出すな」
「あなたが死んだら、僕の中に入ってくる」
「だから?」
「嫌です」
悠斗は目を細めた。
「俺の死を覚えるのが?」
「違う」
「じゃあ何が嫌なんだ」
「あなたが死ぬことです」
言ってから、レイは自分の言葉に驚いた。
悠斗も少し驚いた顔をした。
真昼は、何も言わなかった。
ただ、レイを見ていた。
透子も黙っている。
悠斗は、しばらくして視線を逸らした。
「……高校生にそんな顔で言われると、やりづらいだろ」
「なら休んでください」
「考える」
「休むとは言わないんですね」
「大人には大人の都合がある」
「死んだら都合も何もないです」
「正論は嫌いだ」
「僕もです」
悠斗は小さく笑った。
初めて、少しだけ本当に笑ったように見えた。
「黒江さん」
彼は透子を見た。
「夜勤の件、上に話してみます。ただ、代わりがいなければ行く」
「その場合、警察も同行します」
「現場に?」
「必要なら」
「邪魔です」
「命を狙われている人ほど、そう言います」
「俺は狙われてると決まったわけじゃない」
「では、念のためです」
悠斗はため息をついた。
「この街は、念のためで大ごとになりすぎる」
「念のためを怠った結果が、二年前の事故かもしれません」
透子の言葉に、悠斗は黙った。
旧地下鉄の奥で死んだ外部委託作業員。
名前の最後が欠けた男。
黒い傘。
割れたライト。
俺は、お前じゃない。
それは、まだ誰の口からも真相として語られていない。
けれど、全員がその影を見ていた。
*
管理棟を出ると、雨が少し弱まっていた。
それでも空は暗く、雲は低い。
旧地下鉄の搬入口には、作業員たちが出入りしている。黄色い作業灯が、地下へ続くスロープを照らしていた。その先にある闇は、地上から見るだけでも冷たい。
真昼は搬入口を見つめた。
「この下に、旧地下鉄があるんだよね」
「行くな」
レイが即答する。
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「黒江さんみたいなこと言う」
「誰に似ても嫌だ」
真昼は少しだけ笑った。
でも、すぐに真剣な顔になる。
「倉科さん、生きてたね」
「見れば分かる」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
レイは搬入口の奥を見た。
暗い線路。
漏水。
作業灯。
日報の署名。
生きている男が、そこで働いている。
それを見つけた。
まだ間に合う。
その事実は、希望に似ていた。
だが、同時に恐怖でもあった。
間に合うかもしれないということは、間に合わない可能性も見えるということだ。
「御影くん」
真昼が言った。
「さっき、倉科さんに『あなたが死ぬことが嫌だ』って言ったよね」
「忘れて」
「無理」
「忘れろ」
「記録者に無茶言わない」
「記録するな」
真昼は少し黙った。
その言葉が、別の何かに触れたからだ。
記録するな。
名前を残すな。
それは私のものだ。
まだ届いていないはずの言葉が、雨の気配の中で先に揺れたような気がした。
「……御影くん」
「何」
「今、一瞬、嫌な感じがした」
「黒い傘?」
「分からない。でも、誰かに見られてるみたいな」
レイは周囲を見た。
管理棟。
資材置き場。
搬入口。
職員用駐車場。
雨に濡れたフェンス。
遠くの坂道。
黒い傘はない。
少なくとも、見える範囲には。
けれど、レイの中の記憶は静かにざわめいた。
ノクターン書房の店番の青年の周囲で感じた、あの不自然な静けさとは違う。
これは、地下から上がってくる気配だ。
まだ遠い。
でも、近づいている。
透子が二人の後ろから声をかけた。
「今日はここまでです。白瀬さんは帰宅。御影さんも帰宅。倉科さんについては、こちらで保護措置を調整します」
「保護措置って、どこまでできますか」
真昼が聞く。
「本人が同意すれば、夜勤を外す。自宅か市警で待機。旧地下鉄へ入る場合は、警察が同行。現実的には、その程度です」
「同意しなかったら?」
「説得します」
「倉科さん、頑固そうです」
「あなたほどではありません」
「私、そこまでですか」
「かなり」
真昼は少し落ち込んだような顔をした。
レイは言った。
「自覚なかったの?」
「御影くんにだけは言われたくない」
「僕は頑固じゃない」
「え?」
「その反応は何」
「いや、今の発言、録音したいなって」
「するな」
透子が小さく息を吐いた。
「二人とも、緊張感を保ってください」
「すみません」
真昼が素直に謝る。
レイは搬入口を見ていた。
地下の奥から、また水の音がする気がした。
ぽたり。
ぽたり。
その音に混じって、誰かが名前を書いている。
倉科悠斗。
その名前は、まだ消えていない。
だが、紙の端が少しずつ濡れていくような不安がある。
透子のスマホが鳴った。
彼女は画面を見て、眉を寄せた。
「黒江です」
短い通話。
相手の声は聞こえない。
だが、透子の表情が硬くなっていく。
「分かりました。本人には外すよう伝えてください。……いえ、代替要員がいない場合でもです。こちらから正式に要請します」
通話を切る。
「何かあったんですか」
真昼が聞いた。
「倉科さんの夜勤が外せない可能性があるそうです」
「え」
「旧第三連絡線の奥で、漏水警報が出ました。現場を知っている職員が限られている」
レイの背中が冷える。
旧第三連絡線。
二年前の事故。
黒い傘。
倉科悠斗。
「行くんですか」
「行かせません」
透子は即答した。
しかし、その声には迷いがあった。
現実には、すべてを止められるわけではない。
都市の地下は動いている。
水は待たない。
設備は、人の恐怖に合わせて壊れてはくれない。
その時、管理棟の扉が開いた。
悠斗が出てきた。
ヘルメットを片手に持ち、反射ベストを着ている。
透子の顔が険しくなる。
「倉科さん」
「すみません」
悠斗は先に謝った。
「行くことになりました」
「許可できません」
「あなたの許可で地下は止まりません」
「命を狙われていると話したばかりです」
「だから、さっさと終わらせて戻ります」
「一人で?」
「田端さんもいます。若いのも一人つく」
「警察も同行します」
「邪魔です」
「これは交渉ではありません」
透子の声が鋭くなった。
悠斗は彼女を見返した。
「だったら早く準備してください。漏水は待ってくれない」
その横顔は、怖がっていないわけではなかった。
むしろ、怖がっている。
それでも行く。
真昼が、レイの袖を掴んだ。
「御影くん」
「分かってる」
レイは地下搬入口を見た。
そこには、まだ黒い傘はいない。
だが、雨は降っている。
地下へ続くスロープの先で、黄色い作業灯が点滅した。
まるで、闇の奥で誰かが瞬きをしたように。
悠斗はヘルメットをかぶる前に、一度だけ自分の胸ポケットから小さなメモを取り出した。
そこに、黒いボールペンで名前を書いた。
倉科悠斗。
もう一度。
倉科悠斗。
それから、彼はメモを胸ポケットへ戻した。
レイは、その動作を見ていた。
同魂者は記憶ではない。
今、生きている人間だ。
そして、その人間はいま、自分の名前を胸に入れて、地下へ降りようとしている。
「黒江さん」
レイは言った。
「僕も行きます」
「駄目です」
「止めても行きます」
「あなたまで白瀬さんの悪い影響を受けないでください」
「御影くん、そこは私を巻き込まないで」
「巻き込まれてるのは君だ」
「それはそう」
「二人とも」
透子の声が低くなった。
だが、もう時間はなかった。
地下の警報灯が赤く回り始める。
雨の音に、サイレンの低い唸りが混ざる。
悠斗は振り返った。
「来るなら、勝手に死ぬなよ」
レイを見る。
真昼を見る。
最後に透子を見る。
「地下は、地上の理屈が通じない場所がある」
その言葉は、脅しではなかった。
地下で生きてきた人間の忠告だった。
「怖いなら、線路の端を歩くな。真ん中を歩け」
悠斗はそう言って、スロープへ足を踏み出した。
黄色い作業灯の下で、彼の背中が暗くなる。
雨は地上に降っている。
だが、レイには分かっていた。
地下にも、もう雨が降り始めている。




