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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
5/10

第四章 ノクターン書房

 エミー・グレイス・ハーパーのダンスノートは、警察に押収された。


 透明な証拠袋に入れられ、黒江透子の管理下で運ばれていく時、真昼はそれを最後まで目で追っていた。ノートの表紙は擦り切れていて、角は丸くなっていて、何度も開かれた紙だけが持つ柔らかさがあった。


 Dance Notes / Emmy G. Harper


 その文字は、ビニール越しでも読めた。


 証拠品。


 私的記録。


 人生の断片。


 真昼は、それらの言葉の違いを考え続けていた。


 証拠品なら、警察が持っていく。

 私的記録なら、むやみに晒してはいけない。

 でも人生の断片なら、誰かが読まなければ、残らない。


 名前を残すことと、すべてを晒すことは違う。


 黒江透子の言葉は、真昼の胸にまだ残っていた。


 正しい、と思う。


 けれど、正しいからといって、痛くないわけではない。


 クラブ《ミラー・ルージュ》を出たあと、雨は一度やんでいた。


 夜見坂歓楽街の石畳には水たまりが残り、赤い看板の名残を鈍く映している。昼の店は古びて見えた。けれど、古びた建物の中には、エミーが笑い、踊り、逃げようとしていた痕跡が確かにあった。


 真昼は傘を閉じたまま、坂道を下りながら言った。


「御影くん」


「なに」


「私、警察向いてないかも」


「今まで向いてるつもりだったの?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 真昼はむっとしたが、いつものように言い返す勢いは弱かった。


「待つのが苦手」


「知ってる」


「触っちゃいけないものを前にして、触らないのも苦手」


「それも知ってる」


「人が隠してるものを、見ないふりするのも苦手」


「最悪だね」


「言い方」


 レイは歩きながら、真昼の横顔を見た。


 彼女はいつものように前へ前へと歩いている。栗色のポニーテールが揺れ、肩のカメラストラップが雨で少し濡れている。けれど、目はどこか遠かった。


 ダンスノートのことを考えているのだろう。


 エミーの文字。

 雨の少年。

 私に似ていたけれど、私ではなかった誰か。


 レイの中にも、その一文は残っていた。


 He looked like me, but he wasn’t me.


 彼は私に似ていた。


 でも、私ではなかった。


 エミーは、レイをそう見ていた。


 同じ魂を持つ別人。


 その言葉を、レイはまだ自分のものとして扱えなかった。


「旧新聞部室に戻るの?」


 レイが聞いた。


「戻る」


「今日はもう十分だろ」


「十分じゃない」


「店で何を見たと思ってる」


「エミーさんのこと」


「なら」


「でも、Rain boyについては、まだ何も分かってない」


 真昼は足を止めた。


 雨上がりの歓楽街の空は、低く灰色だった。


「あのノートに書いてあった雨の少年。エミーさんは、ただ夢に見ただけじゃない気がする。たぶん、前にも似た記録がある。御影くんみたいに、別の誰かの記憶を見た人が。黒い傘の事件も、旧地下鉄も、名前が欠ける記事も、どこかでつながってる」


「思い込みかもしれない」


「かもしれない。だから調べる」


「危ないって言ったら?」


「もう聞いた」


「聞いてないだろ」


「音としては聞いた」


「意味として聞け」


 真昼は少しだけ笑った。


「御影くん、今日はよく喋るね」


「君が喋らせてる」


「じゃあ、もう少し付き合って」


「旧新聞部室まで?」


「そのあと、もう一か所」


 レイは嫌な予感がした。


「どこ」


「ノクターン書房」


 その名前を聞いた瞬間、レイは足を止めた。


 真昼が振り返る。


「知ってる?」


「行ったことはある」


「じゃあ話が早い。学院新聞のバックナンバーと、旧地下鉄の古い資料があるはずなの。旧新聞部室に残ってる切り抜きだけだと、欠けてる年代が多いから」


「古書喫茶に、そんなものまで置いてあるのか」


「置いてあるらしいよ。郷土資料、絶版雑誌、旧地下鉄の地図、学院新聞の古い号。うちの父が前に言ってた。あそこは本屋っていうより、アガルタの忘れ物置き場だって」


「嫌な表現だね」


「褒め言葉だよ」


 レイは空を見上げた。


 また雨が降りそうだった。


「行くなら、明日にしろ」


「明日は明日で調べることが増える」


「休むという発想は?」


「取材対象が殺されてる時には、あんまりない」


「君は殺されたいの?」


「殺されたくないから、今のうちに調べるの」


 真昼の声は軽かった。


 けれど、その奥に硬いものがある。


 レイは、その硬さが少しだけ怖かった。


 人は恐怖で止まる。


 普通はそうだ。


 だが真昼は、恐怖があるほど前へ出る。


 それが勇気なのか、無謀なのか、レイにはまだ判断できなかった。


「……旧新聞部室までだ」


「え」


「まずそこで何を探すか整理する。そのあと行くか決める」


「それ、だいたい同行する人の言い方だよ」


「監視」


「はいはい」


 真昼は歩き出した。


 レイはその横を歩いた。


 夜見坂の水たまりに、二人の影が並んで映る。


 その後ろに、黒い傘が立っているような気がして、レイは振り返った。


 誰もいない。


 ただ、雨上がりの路地があるだけだった。


     *


 旧新聞部室の紙は、湿気を覚えている。


 真昼はよくそう言う。


 古い新聞紙は、乾いていても雨の日の匂いがする。インクと紙と埃と、木造校舎の古い床板の匂い。それらが混ざると、今が何年なのか少し分からなくなる。


 アガルタ学院旧校舎の奥にある元新聞部室は、放課後になると廊下の足音が遠くなる場所だった。


 新校舎ではまだ部活動の声がする。体育館のボールの音、吹奏楽部の音階練習、先生の注意する声。けれど旧校舎へ入ると、それらは分厚い水の向こうから聞こえるように鈍る。


 真昼は机の上に資料を広げた。


「探すのは三つ」


 彼女はメモ帳を開く。


「一つ、Rain boyに似た表現がある記事。雨の少年、雨の学生、雨の日の目撃者、そういうもの。二つ、エミーさんの事件と似た黒い傘、顔が分からない犯人、黒い刃物。三つ、旧地下鉄関連の事故」


「多い」


「だから手分けする」


「僕は手伝うと言ってない」


「監視なら、近くで見てないと駄目でしょ」


「屁理屈を覚えたね」


「御影くんから学んだ」


 真昼は、棚から古いファイルを取り出した。


 背表紙には、手書きで「旧地下鉄」「失踪」「学院関係」「未整理」と書かれている。未整理の箱が一番大きい。


「この部室、管理どうなってるの」


「私がしてる」


「つまり、されてない」


「失礼な。だいたいの場所は把握してる」


「だいたい」


「本当に必要なものって、ちゃんと迷子になるんだよ」


「管理者の言い訳として最低だ」


 真昼は聞かなかったことにして、レイへ薄い束を渡した。


「これ、二年前から五年前の旧地下鉄関連記事。事故、閉鎖区画、点検作業、都市交通局の発表。名前が欠けてるものがあったら教えて」


「名前が欠けてる?」


「たまにあるの。古い新聞だと、インクの問題とか、紙の劣化で名前の一部が読めない。でも、それにしては変な欠け方の記事がある」


「変な欠け方」


「名前だけ消える。顔写真だけ黒く潰れる。本文のほかの部分は読めるのに、その人の名前だけ滲む。そういうやつ」


 レイは渡された束を見た。


 旧地下鉄。


 閉鎖区画。


 作業員事故。


 その言葉だけで、胸の奥に冷たい水音がした。


 まだ、知らない記憶だ。


 エミーの赤い照明とは違う。


 地下の匂い。


 作業灯の黄色。


 濡れたコンクリート。


 誰かが名前を書こうとして、手を止める。


 レイは目を伏せた。


「御影くん?」


「なんでもない」


「今の間、なんでもなくなかったけど」


「紙が古い」


「それに動揺するタイプだっけ」


「するかもしれない」


 真昼は疑わしそうに見たが、追及しなかった。


 代わりに自分の前へ別の束を置く。


「私は学院関係を見ます。エミーさんが見た雨の少年が、アガルタ学院に関係している可能性もあるし」


「それは僕だろ」


「たぶんね。でも、御影くん以外にも雨の少年っぽい記録があるかもしれない。雨の日の窓際、母の声、旧校舎、そういうの」


「広すぎる」


「調べ物は、広いところから狭くするの」


「最初から狭くしたほうが効率的だ」


「御影くんの人生、そういうところが寂しそう」


「資料整理から人生批評に飛ぶな」


 真昼は笑った。


 それから、急に真顔になる。


「ねえ」


「なに」


「エミーさんって、御影くんを見てたんだよね」


 レイは古い記事をめくる手を止めた。


「ノートにはそう書いてあった」


「怖くない?」


「何が」


「自分が誰かに見られてたこと」


 レイは答えなかった。


 自分は、見てきた側だ。


 無数の同魂者の記憶を受け取ってきた。死、痛み、恐怖、愛情、恥、失敗、喜び。それらは勝手に流れ込んできたもので、レイが望んだわけではない。


 それでも、見ていた。


 自分だけが、一方的に。


 そう思っていた。


 だが、エミーも見ていた。


 雨の少年として。


 彼は私に似ていた。


 でも、私ではなかった。


「分からない」


 レイは言った。


「怖いというより、変な感じがする」


「変な感じ?」


「鏡を見るつもりで覗いたら、向こうからも覗かれていたみたいな」


「それ、普通に怖いよ」


「そうかもしれない」


 真昼は少しだけ黙った。


「私は、ちょっと安心した」


「どうして」


「エミーさんが、御影くんを自分と同じだけど違うって書いてたから」


 レイは顔を上げた。


「それのどこが安心?」


「御影くんが、自分で言えないことを、エミーさんが先に書いてくれてたから」


 旧新聞部室の窓を、風が叩いた。


 雨が降り始めたのだ。


 レイは返事をしなかった。


 真昼も、それ以上は言わなかった。


 しばらく、紙をめくる音だけが続いた。


 古い新聞の中では、アガルタの過去が淡々と並んでいる。


 市長選。

 駅前再開発。

 旧地下鉄一部区画の封鎖。

 学院文化祭。

 失踪者情報。

 小規模な地盤沈下。

 水道管破裂。

 夜見坂歓楽街の営業許可更新。

 都市交通局の安全点検。


 そのほとんどは、今読むと小さな記事だった。


 だが、小さな記事ほど、誰かの人生がそこに押し込められている。


 レイは、二年前の日付の紙で手を止めた。


 見出しは短い。


 旧地下鉄閉鎖区画で作業員転落事故


 記事は市内欄の下のほうに載っていた。写真はない。文字数も少ない。外部委託作業員が閉鎖区画の点検中に転落し、搬送先で死亡が確認された。都市交通局は安全管理体制を見直す、とだけある。


 名前の部分が滲んでいた。


 古河 千■


 最後の一文字だけが、黒い水で擦ったように読めない。


 紙の劣化ではない。


 周囲の文字は読める。


 そこだけ、名前だけが欠けている。


 レイの指先が冷えた。


 黒い傘。


 地下。


 作業灯。


 割れたライト。


 男の声。


 俺は、お前じゃない。


 それは、記憶ではなかった。


 まだ、そう言い切れない。


 けれど、耳の奥で確かに誰かが言った。


 俺は、お前じゃない。


「真昼」


 レイは名前を呼んだ。


 真昼が顔を上げる。


「見つけた?」


「これ」


 彼女は記事を覗き込んだ。


 表情が変わる。


「旧地下鉄。二年前。外部委託作業員……名前、欠けてる」


「古河、千」


「最後が読めない」


「紙の劣化?」


「違うと思う」


 真昼はスマホで写真を撮ろうとして、すぐに手を止めた。


「……いや、ちゃんとスキャンする。光の角度を変えたら読めるかもしれない」


「ノクターン書房に行く理由ができたね」


 レイは皮肉のつもりで言った。


 だが真昼は真剣に頷いた。


「うん。新聞縮刷版か、別紙の控えがあるかもしれない」


「今から?」


「今から」


「さっき旧新聞部室で整理してからって言った」


「整理した結果、行く必要が出た」


「言うと思った」


 レイは記事から目を離せなかった。


 古河 千■。


 その欠けた一文字が、妙に重かった。


 エミーの名前は、まだ読めた。


 ダンスノートにも、証拠袋にも、ニュースにも、彼女の名前は残っている。


 だが、この男の名前は、もう紙の上で欠けている。


 レイの中にも、まだ残っていない。


 それがなぜか、怖かった。


「もう一つ」


 真昼が言った。


 彼女の声も少し変だった。


 レイが見ると、真昼の手元には古い学院新聞の小さな切り抜きがあった。


 写真付きの記事ではない。


 卒業生の近況を紹介する、紙面の端の小さな欄。


 図書委員出身の卒業生、市立中央図書館分室で資料整理補助へ


 本文には、旧新聞部の資料整理を手伝っていた卒業生が、市立中央図書館分室で郷土資料の整理に携わることになった、とある。古い学院新聞の保存活動に協力していたこと。失踪者記事や欠番になった名簿を整理していたこと。雨の日も欠かさず旧校舎へ来ていたこと。


 名前の部分だけが、欠けていた。


 天沢■■


 真昼は、その記事を見つめていた。


「真昼?」


 返事がない。


 彼女の指が、記事の端に触れていた。


 その瞬間、真昼の顔から血の気が引いた。


「っ……」


 小さな息が漏れる。


 レイは立ち上がった。


「真昼」


 彼女は胸元を押さえた。


 メモ帳が床に落ちる。


 椅子が小さく軋んだ。


「大丈夫か」


「……大丈夫」


「そういう顔じゃない」


「ちょっと、変なだけ」


「何が」


 真昼は答えようとした。


 だが言葉より先に、彼女の瞳が揺れた。


 旧新聞部室の雨音が遠くなる。


 真昼の中で、何かが開いた。


 知らない地下鉄の匂い。


 湿ったコンクリート。


 消えかけた駅名。


 白い折りたたみ傘。


 古書店の棚。


 銀色のヘアピン。


 黒い傘の人。


 名前を聞いてはいけない、と誰かが思っている。


 いや、違う。


 名前を聞けなかった。


 聞きたかったのに。


 怖がらせたくなくて。


 言いたくないなら、言わなくていいよ。


 でも、忘れたいことと、なかったことにするのは違うと思う。


 知らない声が、胸の奥で響いた。


 真昼は椅子に座り込んだ。


 レイが机の上の記事から彼女の手を離させる。


「触るな」


「……なに、今の」


「僕が聞きたい」


「御影くん、今の、見えた?」


「見えたというより」


 レイは言葉を探した。


 真昼に触れた瞬間、彼にも断片が流れ込んだ。


 しかし、それはいつもの同魂者の記憶混線とは違っていた。


 レイが同魂者に近づいた時に起きる感覚は、もっと直接的だ。


 相手の痛みが自分の痛みになる。

 相手の視界が自分の視界に重なる。

 誰かの死や恐怖や強い感情が、自分の内部へ入り込んでくる。


 だが、今の断片は違う。


 真昼の中で開いたものを、外側から見たような感覚だった。


 彼女自身の記憶ではない。


 けれど、彼女と無関係でもない。


「真昼」


「なに」


「君、最近、変な夢を見た?」


「変な夢?」


「黒い傘。古書店。地下鉄。白い傘。銀色のヘアピン」


 真昼の顔が強張った。


「……なんで分かるの」


 レイの胸が冷えた。


「見たんだね」


「少しだけ。夢っていうか、起きてる時にもたまに。黒い傘を見ると、胸が痛くなる。ミラー・ルージュでも、裏口の雨音が変に聞こえた。ノクターン書房のことを考えた時も、初めて行くはずなのに、棚の場所が分かるような気がした」


「前に行ったことは?」


「たぶん、ない。小さい頃に親と行ったかもしれないけど、覚えてない」


「たぶんは信用できない」


「御影くんに言われたくない」


 真昼は無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。


 レイは記事を見た。


 天沢■■。


 銀色のヘアピン。


 旧新聞部の資料整理。


 失踪。


 真昼と何かがつながっている。


 そう思った瞬間、嫌な可能性が浮かんだ。


 真昼も、同魂者なのか。


 レイと同じ根を持つ誰かなのか。


 だから、エミーの事件に反応したのか。


 だから、黒い傘に引き寄せられるのか。


 もしそうなら。


 次に狙われるのは、彼女かもしれない。


「行くのをやめよう」


 レイは言った。


 真昼は顔を上げた。


「どこへ」


「ノクターン書房」


「なんで」


「危険だから」


「またそれ?」


「今回は本当に」


「いつも本当にって顔してるよ」


「君にも、同じ兆候があるかもしれない」


 真昼の目が止まった。


「同じって」


「僕やエミーと同じ」


 言ってから、レイは自分の言葉に違和感を覚えた。


 僕やエミー。


 少し前の自分なら、そうは言わなかった。


 僕と、僕のひとり。


 そう処理していたはずだ。


 真昼は、レイの変化に気づいたのかもしれない。


 けれど、そのことには触れなかった。


「私も、同魂者かもしれないってこと?」


「分からない」


「分からないなら、調べる」


「調べて殺されたら意味がない」


「調べなくても狙われるなら、もっと意味がない」


「君は怖くないのか」


「怖いよ」


 真昼は即答した。


 その声は、震えていた。


「怖いから、知らないままにしたくないの」


 旧新聞部室の窓を、雨が強く叩いた。


 真昼は床に落ちたメモ帳を拾い、記事の見出しを書き写した。


 旧地下鉄作業員事故。

 古河 千■。

 天沢■■。

 銀色のヘアピン。

 図書委員。

 旧新聞部資料整理。

 失踪。


「行くよ」


 真昼は言った。


「御影くんは?」


 レイは答えなかった。


 真昼は鞄を持った。


 その手は少し震えていた。


 彼女は怖がっている。


 それでも行く。


 レイは、短く息を吐いた。


「監視する」


「同行でしょ」


「監視」


「はいはい」


 いつもの返事だった。


 しかし、二人とも笑わなかった。


     *


 古書喫茶《ノクターン書房》は、アガルタ学院から少し離れた坂道の途中にある。


 新校舎から見える街の輪郭を下り、住宅街と古い商店街の境目へ入ると、細い石段の脇にその店はあった。周囲には大きな看板も派手な装飾もない。通り過ぎる人の多くは、そこが店だと気づかないまま通り過ぎる。


 雨の日には、特にそうだ。


 軒先から垂れる水滴が、店名の小さな木製看板を濡らしている。


 ノクターン書房。


 黒に近い深緑の扉。

 窓辺に積まれた古い本。

 薄く灯る暖色のランプ。

 店内から漂うコーヒーと古紙の匂い。


 真昼は店の前で足を止めた。


「……ここ」


「どうした」


「知ってる気がする」


「来たことがあるんじゃないの」


「そうじゃなくて」


 彼女は扉の横の小さな窓を見た。


 窓際の席が見える。


 木のテーブル。

 古いランプ。

 雨粒のついたガラス。

 その席に、誰かが座っていた記憶。


 白い折りたたみ傘を畳んで、膝の横に置く。


 小さな手帳を開く。


 銀色のヘアピンで、雨に濡れた前髪を留める。


 真昼は一瞬、胸元を押さえた。


「真昼」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない時に使う言葉だね」


「御影くんもよく使う」


「僕の悪いところを真似するな」


 真昼は小さく息を吸った。


「入ろう」


 扉を開けると、鈴が鳴った。


 高すぎず、低すぎず、古いガラスみたいな音だった。


 店内は静かだった。


 壁一面に本棚が並び、古い郷土史、絶版雑誌、学校史、地下鉄関連資料、写真集、詩集、演劇のパンフレット、誰かの日記のような冊子までが混ざっている。奥には喫茶席が数席あり、窓際の席だけに客が一人座っていた。


 いや、客ではない。


 そこにいた青年が顔を上げた。


 年齢は、レイより少し上に見える。十九か、二十歳前後。黒髪はやや長く、雨の日に濡れたような質感がある。白いシャツに黒いカーディガン、細身のパンツ。店のエプロンをしていたが、本棚の中に溶け込むように自然だった。


 顔立ちは整っている。


 けれど、見終わった瞬間に印象が少し曖昧になる。


 目立つわけではない。


 記憶に残りにくいわけでもない。


 ただ、焦点を合わせようとすると、輪郭が静かにずれるような青年だった。


「いらっしゃいませ」


 青年は穏やかに言った。


「雨が強くなってきましたね。よろしければ、少し乾かしていってください」


 声は低すぎず、高すぎず、耳に残りにくい。


 レイは、その声を聞いた瞬間、違和感を覚えた。


 記憶が動かない。


 人に会えば、何かしらの記憶が揺れる。


 強い感情を持つ者なら、なおさらだ。悲しみ、怒り、隠し事、恐怖。レイはそれを読むわけではない。ただ、自分の中の記憶群が、相手の存在に反応して水面のように震えることがある。


 だが、この青年の周囲だけ、静かだった。


 静かすぎる。


 雨音も、本棚の匂いも、古い紙の気配もある。


 それなのに、青年自身に近づくと、記憶が沈黙する。


 空白ではない。


 無音。


 そこに誰かが立っているのに、世界のほうが彼を記録していないような静けさだった。


「こんにちは」


 真昼は一歩前へ出た。


「アガルタ学院新聞部の白瀬真昼です。調べ物をしたくて来ました」


「白瀬さん」


 青年は微笑んだ。


「お名前は、以前から見かけたことがあります。《アガルタ観測録》の方ですね」


「読んでくれてるんですか」


「時々。古い事件を丁寧に拾っていると思います」


 真昼は少し嬉しそうにした。


 レイは、青年を見続けていた。


「そちらは」


 青年の視線がレイへ向く。


「御影レイさんですね」


 レイの背筋が、わずかに冷えた。


「名乗りましたか」


「いいえ」


「じゃあ、なぜ」


「学院の制服と、白瀬さんの最近の記事予定から推測しました」


「最近の記事予定?」


 真昼が眉を上げる。


 青年は穏やかなまま言った。


「夜見坂の事件を調べているのでしょう。エミー・グレイス・ハーパーさんの。そこに御影さんが同行しているなら、あなたがそうかと」


「推理が飛びすぎてませんか」


 レイが言った。


「古書店は、足りない情報を補う場所ですから」


 青年はそう答えた。


 真昼は興味深そうに見ている。


 レイは警戒を強めた。


「今日は何をお探しですか」


 青年が聞く。


「古い学院新聞と、旧地下鉄関連の資料です」


 真昼は鞄からメモを出した。


「二年前の旧地下鉄閉鎖区画の作業事故。外部委託作業員。名前が新聞で一部欠けていました。あと、アガルタ学院の卒業生で、図書委員、旧新聞部の資料整理を手伝っていた人。名前は天沢……ここから先が欠けています。銀色のヘアピンの記事も」


 青年は、ほんの一瞬だけ沈黙した。


 それは短かった。


 真昼は気づかなかったかもしれない。


 だがレイは見た。


 青年の目の奥で、何かが沈んだ。


「古い学院新聞でしたら、奥の棚にあります」


 青年は言った。


「ただ、欠号が多いので、閉架書庫の保存分を出しましょう。旧地下鉄関連は、郷土資料の棚と、都市交通局の古い報告書があります」


「見せてもらえますか」


「もちろん」


「ありがとうございます」


「こちらへ」


 青年はカウンターの奥へ向かった。


 歩き方に無駄がない。


 静かで、店の床板を鳴らさない。


 レイはその背中を見ていた。


 黒い傘は持っていない。


 今は。


 だが入口の傘立てに、黒い傘が一本ある。


 何の変哲もない傘。


 レイはそれを見た瞬間、雨の路地を思い出しかけた。


 しかし、記憶は開かなかった。


 黒い傘がある。


 それだけだ。


 それが逆に不気味だった。


     *


 ノクターン書房の奥には、小さな閲覧席があった。


 窓際の席とは別に、本棚の間に隠れるようなテーブルがある。ランプの光は柔らかく、外の雨音が本棚で少し吸われている。


 青年はそこへ古い新聞の束を運んできた。


 学院新聞のバックナンバー。

 市内紙の切り抜き。

 旧地下鉄関連の地図。

 都市交通局の事故報告書の写し。

 郷土資料の索引カード。


「かなり古いものもありますので、丁寧に扱ってください」


「はい」


 真昼は真剣に頷いた。


 青年は、彼女の前に白い布手袋を置いた。


「必要でしたら、こちらを」


「ありがとうございます」


 真昼は手袋をつける。


 その所作が、旧新聞部室の時より慎重だった。


 青年はレイにも手袋を差し出した。


「御影さんも」


「僕は見ているだけです」


「見ているだけでも、触れたくなることがあります」


 レイは青年を見た。


「そういう経験が?」


「古い記録は、人を呼ぶことがありますから」


「本が?」


「名前が」


 青年は穏やかに言った。


 真昼がその言葉に反応した。


「名前が呼ぶって、分かります」


「白瀬さんは、そうでしょうね」


「え?」


「名前を探す人の手つきをしています」


 真昼は少し照れたように笑った。


「そんなの分かるんですか」


「本を探す人、事件を探す人、名前を探す人は、棚を見る目が違います」


「じゃあ、御影くんは?」


 真昼が悪戯っぽく聞いた。


 青年はレイを見た。


 長い沈黙ではなかった。


 だが、レイには妙に長く感じられた。


「御影さんは」


 青年は静かに言った。


「覚えたくないものまで覚えてしまう人の目をしています」


 レイの喉がわずかに動いた。


 真昼の表情も変わる。


「それ、どういう意味ですか」


 レイが聞いた。


「失礼でしたか」


「質問に答えてください」


「本屋の感想です」


「感想にしては、踏み込みすぎてる」


「そうですね」


 青年は微笑んだ。


「すみません」


 謝罪は柔らかかった。


 だが、引いた気配はなかった。


 レイはそのことに気づいた。


 この青年は、距離を取っているようで、こちらの内側を測っている。


 けれど、その測り方にも記憶の揺れがない。


 透子に観察された時は、まだ現実の重さがあった。医師として、刑事として、人間として、こちらを見る圧があった。


 この青年は違う。


 水の底から見られているようだった。


 真昼は新聞の束へ意識を戻した。


「この年代から見ます。御影くんは旧地下鉄の事故報告書。いい?」


「僕は監視だと言った」


「監視員も資料読めるでしょ」


 レイはため息をつき、古い報告書を引き寄せた。


 青年はカウンターへ戻ろうとして、ふと足を止めた。


「御影さん」


「まだ何か」


「たくさんの人生を覚えていたら」


 青年は、レイだけに届くような声で言った。


「自分の人生は軽くなりませんか」


 雨音が強くなった。


 真昼は資料に集中していて、その言葉を聞き逃したようだった。


 レイは、青年を見た。


「何の話ですか」


「本の話です」


「嘘ですね」


「では、記憶の話かもしれません」


 青年は穏やかなままだった。


「誰かの喜び、誰かの痛み、誰かの死。そういうものをたくさん知ってしまうと、自分ひとりの人生は、薄い紙のように感じられるのではないかと思いまして」


「あなたに何が分かる」


「分かりません」


 青年は即答した。


「だから、聞いてみたかった」


「僕はあなたに何も話していない」


「はい」


「なら、聞く権利もない」


「そうですね」


 青年は少しだけ目を伏せた。


「失礼しました」


 今度の謝罪は、先ほどよりも静かだった。


 彼はカウンターへ戻った。


 レイはその背中を見送る。


 記憶は、やはり動かない。


 エミーでもない。


 地下鉄の男でもない。


 真昼に流れ込んだ銀色のヘアピンの少女でもない。


 同魂者に近づいた時のざわめきが、まったくない。


 それどころか、店番の青年の周囲だけ、レイの中の記憶が息を潜める。


 まるで、そこに近づくなと言われているようだった。


     *


 資料を読み始めてから、時間の感覚が少し曖昧になった。


 ノクターン書房の時計は、柱に掛かった古い振り子時計だった。針は動いているのに、音はあまりしない。雨音とページをめくる音だけが、店内の時間を作っている。


 真昼は集中していた。


 学院新聞の古い号を、年代順に確認する。見出し、写真、欄外の訂正、卒業生紹介、小さな投稿欄。普通なら読み飛ばすような記事に、彼女は何度も目を止める。


 レイは旧地下鉄の資料を見ていた。


 旧路線図。

 閉鎖区画。

 保守点検記録。

 漏水報告。

 事故対応表。


 その中に、先ほど旧新聞部室で見た記事と対応する報告書があった。


 外部委託作業員転落事故。

 発生地点:旧第三連絡線・雨宮坂下閉鎖区画。

 日時:二年前、六月十八日、深夜。

 作業内容:漏水確認、封鎖扉点検。

 被災者氏名:古河 千■。


 やはり、最後の一文字が潰れている。


 報告書のコピーなのに。


 手書きではない。活字だ。だが、名前の最後だけ黒い染みのように欠けている。


 備考欄には、さらに不自然な空白があった。


 同行者なし。

 照明器具破損。

 作業用懐中ライト破損。

 現場周辺の監視映像、一部欠損。

 本人所持メモ帳、回収不可。

 現場に黒色雨傘の目撃情報あり。


 黒色雨傘。


 レイは指先で、その文字の上をなぞりそうになった。


 触れる直前で止める。


 黒い傘は、ここにもある。


 エミーの事件だけではない。


「真昼」


「こっちも」


 二人の声が重なった。


 真昼は、自分の前の学院新聞を指していた。


「見て」


 レイは席を移動した。


 そこには、旧新聞部室で見つけた記事の保存版があった。


 紙の状態はよい。


 しかし、名前はやはり欠けている。


 天沢■■。


 真昼は、今度は記事に直接触れていなかった。白い手袋をした指先を、紙の少し上で止めている。


「写真はないんだね」


「卒業生紹介なのに?」


「小さい欄だからかも。でも、ここ」


 真昼は本文を読む。


「在学中は図書委員として、旧新聞部の保存資料整理に協力。欠番となった古い名簿、失踪者関連記事、旧地下鉄事故記録などの分類を行った――」


「旧地下鉄」


「うん」


 真昼の声が少し震えていた。


「銀色のヘアピンのことも書いてある」


 本文の最後に、記者の小さな一文があった。


 雨の日の取材にも、いつも白い折りたたみ傘と銀色のヘアピンを忘れない、静かな資料係だった。


 真昼はそこを見つめていた。


「知ってる気がする」


「何を」


「白い傘」


「記事に書いてある」


「そうじゃなくて。閉じ方。傘の端を、いつもハンカチで拭いてから畳む。濡れたまま本棚の近くに置くと、紙が湿るから」


 レイは黙った。


「銀色のヘアピンも。雨の日に前髪が広がるから、右側だけ留める。図書館のカウンターで、利用者に名前を聞く時、相手が言いにくそうだったら、先に自分の名前を書く」


「真昼」


「知らない。私、そんな人知らない」


 真昼は自分で言いながら、呼吸を浅くした。


「でも、知ってる気がする」


 レイは周囲を見た。


 店番の青年はカウンターの向こうで本を整理している。


 聞こえているのか、聞こえていないのか分からない。


「一度、外へ出よう」


「待って。もう少し」


「無理するな」


「御影くんに言われたくない」


「今は冗談じゃない」


「分かってる」


 真昼は、もう一度記事を見た。


 その時、カウンターの青年が静かに近づいてきた。


「その記事ですか」


 真昼が顔を上げる。


「知ってるんですか」


「この店に、その方の整理した資料が少し残っています」


 レイの警戒が強くなった。


「名前を知っているんですか」


 青年は、レイを見た。


 数秒だけ沈黙した。


「残念ながら、記録上は欠けています」


「記録上は?」


「古い資料には、そういうことがあります」


「名前だけが?」


「アガルタでは、珍しいことではありません」


 その言い方は、あまりにも自然だった。


 真昼が食いつく。


「珍しくないんですか」


「失踪者、事故記録、古い名簿。名前の一部が欠けることはあります。湿気、紙の劣化、印刷の問題、保存状態」


「それだけじゃない場合は?」


 真昼が聞いた。


 青年の目が、ほんの少しだけ細くなった。


「白瀬さんは、どう思いますか」


「誰かが消した」


「なぜ」


「残したくなかったから」


「誰が」


「それを調べてます」


 真昼の声は、まだ震えていた。


 それでも、まっすぐだった。


 青年はしばらく彼女を見た。


 その視線は、優しくも冷たくもない。


 ただ、何かを思い出しているようだった。


「名前を残す仕事は、難しいですね」


 青年は言った。


 真昼は息を呑んだ。


「……それ」


「何か?」


「聞いたことがある気がする」


「よくある言葉です」


「そう、ですか」


 真昼は胸元を押さえた。


 レイは青年を見る。


「あなたは、彼女を知っていたんですか」


「彼女?」


「天沢――」


 レイはそこで止まった。


 名前の後半が欠けている。


 呼ぼうとしても、呼べない。


 青年は穏やかに答えた。


「この店には、いろいろな方が来ます」


「答えになっていない」


「名前が欠けた方について、断定して語るのは難しい」


「便利な逃げ方ですね」


「ええ」


 青年は否定しなかった。


「本屋には、逃げるための棚もありますから」


 レイは立ち上がった。


 真昼が驚いて見上げる。


「御影くん」


「この人は何か知ってる」


 青年は、少しだけ困ったように微笑んだ。


「そう見えますか」


「見える」


「なら、御影さんは何を知っていますか」


「質問で返すな」


「すみません。ただ、あなたが知っていることも、かなり不思議なものに見えます」


 レイの右手が強張った。


 黒いナイフの感覚が戻りかける。


 しかし、戻らない。


 青年の前では、それすら静かになる。


 それが、さらに不気味だった。


「あなたは、エミー・グレイス・ハーパーを知っていますか」


 レイは聞いた。


 青年は、初めて少しだけ目を伏せた。


「ニュースで」


「それ以前は」


「知りません」


 同じ答え。


 レイが警察で言ったのと同じ答えだった。


 知りません。


 会ったことはありません。


 けれど、同じ答えなのに、重さが違う。


 青年の言葉は、空の箱みたいだった。


「黒い傘を持っていますね」


「雨の日ですから」


「入口にある」


「はい」


「あなたの?」


「店の備品です。お客様に貸すこともあります」


「便利ですね」


「雨の街ですから」


 レイは一歩近づいた。


 真昼が立ち上がる。


「御影くん、落ち着いて」


「君は座ってろ」


「その言い方、よくない」


「今は」


「今こそ」


 真昼が間に入った。


 彼女の手が、レイの袖を掴む。


 その瞬間、また断片が来た。


 黒い傘。


 白い傘。


 古書店のカウンター。


 名前を聞こうとして、聞けない少女。


 雨の日の青年。


 声。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 レイは息を止めた。


 真昼も同じものを感じたらしく、顔を強張らせる。


 青年は二人を見ていた。


 何も知らない顔ではなかった。


 だが、知っている顔とも言えなかった。


「大丈夫ですか」


 青年が聞いた。


 真昼は小さく頷いた。


「……大丈夫です」


「水をお持ちします」


 青年はそれ以上踏み込まず、カウンターへ戻った。


 レイは、彼を追わなかった。


 追えなかった。


 自分が今、何に怒っているのか分からなかった。


 青年が何かを隠しているからか。


 真昼に異変が起きているからか。


 同魂者かもしれない相手が、また目の前に現れたからか。


 それとも、青年の周囲で自分の記憶が静かになることが、怖いからか。


     *


 閉架書庫は、店のさらに奥にあった。


 青年は、真昼の体調が落ち着いたあと、追加資料を出してくれた。表向きには親切だった。どこまでも丁寧で、声を荒げることもなく、二人を追い出すこともしない。


 だからこそ、レイは彼を信用できなかった。


 閉架書庫の入口は低い木の扉で、鍵は青年が持っていた。


「本来は店員しか入りませんが、量が多いので、ここで確認していただいたほうが早いでしょう」


「いいんですか」


 真昼が聞く。


「はい。ただし、棚から勝手に抜かないでください。必要なものは私が取ります」


 中は狭かった。


 天井近くまで本棚があり、古い紙箱が積まれている。ラベルには、「学院新聞」「市内事故記録」「旧地下鉄」「夜見坂」「失踪者」「名簿欠損」と手書きで書かれていた。


 名簿欠損。


 真昼はそのラベルを見た瞬間、眉を寄せた。


「そんな分類、普通にあるんですか」


「この店では」


 青年は答えた。


「普通の分類です」


「普通じゃないですね」


「アガルタですから」


 その一言で済ませるには、重すぎる棚だった。


 青年は、旧地下鉄の箱を一つ下ろした。


 中には、古い路線図、駅名一覧、保守記録、新聞切り抜き、事故報告書の写しが入っていた。


 レイはその中に、手書きのメモを見つけた。


 C-04。


 ただそれだけ。


 赤い鉛筆で、小さく。


「これは?」


 レイが聞くと、青年は箱の中を覗いた。


「整理番号でしょう」


「この店の?」


「前の所有者のものかもしれません」


「前の所有者?」


「郷土資料は、いろいろな方から流れてきます。図書館、個人蔵、新聞社、閉店した古書店、時には出所の分からない箱も」


「C-04という番号に心当たりは」


「ありません」


 レイは、その答えを信じなかった。


 ただ、これ以上押しても、何も出ないことも分かった。


 真昼は別の箱を見ていた。


 ラベルには「学院・旧新聞部」とある。


 その中に、小さな封筒が入っていた。


 封筒には、鉛筆でこう書かれている。


 A. A./資料整理補助/未返却


 真昼の手が止まる。


「A. A.」


 声が掠れた。


 レイは近づいた。


「触るな」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


 真昼は白い手袋をしたまま、青年を見た。


「これ、開けてもいいですか」


「構いません。ただ、無理はしないほうが」


「無理って?」


 青年は少し黙った。


「古い記録には、読む人を選ぶものがあります」


「脅してます?」


「注意です」


 真昼は封筒を開けた。


 中には、小さな栞が入っていた。


 古い紙の栞。


 鉛筆で名前が書かれている。


 だが、名前は途中で擦れて読めない。


 天沢――。


 その横に、小さなスケッチがあった。


 銀色のヘアピン。


 真昼の呼吸が止まった。


 レイはすぐに彼女の手から封筒を離そうとした。


 だが、間に合わなかった。


 真昼の瞳が、遠くを見る。


 ノクターン書房の閉架書庫が、別の場所へ変わる。


 雨の日の店内。


 窓際の席。


 青年がカウンターの向こうにいる。


 名前を聞かれると、苦しそうに笑う。


 少女が言う。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 でも、忘れたいことと、なかったことにするのは違うと思う。


 黒い傘。


 濡れた坂道。


 白い折りたたみ傘が、手から落ちる。


 銀色のヘアピンが、水たまりに沈む。


 誰かの声。


 また、お前なのか。


 真昼が膝から崩れそうになった。


 レイが支える。


「真昼!」


 青年が水の入ったグラスを置き、すぐに近づく。


「横に」


「触るな」


 レイは鋭く言った。


 青年の手が止まる。


 真昼はレイの腕を掴んだ。


「御影くん」


「喋るな」


「今の人」


「誰」


「分からない」


 彼女は震えていた。


「でも、ここにいた。たぶん、この店に。誰かと話してた。名前を聞けなかった。黒い傘があった。白い傘も。ヘアピンが落ちて――」


「もういい」


「よくない」


「今はよくなくていい」


 レイは真昼を椅子へ座らせた。


 閉架書庫の空気が重い。


 青年は何も言わずに立っている。


 レイは彼を見る。


「あなたは、今のことを知っているのか」


「白瀬さんが何を見たのか、私には分かりません」


「この資料を出したのはあなたです」


「探していると言われたので」


「天沢■■を知っているのか」


「記録上、欠けています」


「記録じゃなくて、あなたが」


 青年は、しばらくレイを見た。


 雨音が遠くなる。


 店の中で、振り子時計が一度だけ鳴った。


「御影さん」


 青年は静かに言った。


「名前を知ることは、救いになるのでしょうか」


「質問を返すな」


「失礼しました」


「あなたは、名前を知られたくないのか」


 青年の表情が消えた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、確かに消えた。


 微笑みも、柔らかさも、店番としての丁寧さも。


 そこにあったのは、冷たい空白だった。


 そして次の瞬間には、元に戻っていた。


「私はただの店番です」


「名前は?」


 レイは聞いた。


 真昼が息を呑む。


 青年は微笑んだ。


「必要でしたら、店主に確認しておきます」


「あなたの名前を聞いている」


「本の注文でしたら、カウンターで承ります」


 会話が、滑った。


 名前を聞くと、青年は自然に別の話へ逸らす。


 あまりにも滑らかに。


 まるで、名前を問われること自体を避ける技術を、長い時間かけて身につけたように。


 レイは、それ以上聞けなかった。


 聞いたら何かが壊れる。


 そんな予感があった。


 真昼は椅子に座ったまま、青年を見ていた。


「前にも」


 彼女が小さく言った。


「誰かが、あなたに名前を聞こうとしたんですか」


 青年は、真昼を見た。


 今度の沈黙は長かった。


「白瀬さん」


 彼は穏やかに言った。


「今日は、ここまでにしましょう」


 それは拒絶だった。


 柔らかく、丁寧で、隙のない拒絶。


 真昼は唇を噛んだ。


 レイは、彼女の肩に手を置いた。


「帰る」


「でも」


「帰る」


 真昼は悔しそうに目を伏せた。


 しかし、今度は反論しなかった。


     *


 店を出る頃には、雨が本降りになっていた。


 青年は入口まで見送った。


 真昼へ紙袋を渡す。


「こちらは、一般公開されている学院新聞の複写です。持ち出し可能なものだけ入れました。旧地下鉄の報告書は、後日改めて閲覧手続きをお願いします」


「……ありがとうございます」


 真昼は紙袋を受け取った。


「無理はなさらないでください」


「それ、心配ですか」


「助言です」


「黒江さんみたい」


 青年は少しだけ笑った。


「警察の方と似ていると言われたのは初めてです」


 レイは傘立てを見た。


 黒い傘はまだそこにある。


 青年は気づいたように言った。


「お貸ししましょうか」


「いりません」


「雨が強いですよ」


「持っています」


「そうですか」


 青年はそれ以上勧めなかった。


 二人は店を出た。


 鈴が鳴る。


 扉が閉まる。


 雨音が一気に大きくなった。


 坂道の途中で、真昼は一度振り返った。


 ノクターン書房の窓には、暖色の灯りが浮かんでいる。


 その中に、青年の姿が見えた。


 カウンターに戻り、本を整理している。


 普通の古書店の店番。


 静かで、丁寧で、少し変わった青年。


 それだけのはずだった。


「御影くん」


「なに」


「あの人、名前を言わなかった」


「そうだね」


「怖がってたのかな」


「分からない」


「それとも、言えないのかな」


 レイは答えなかった。


 雨が傘を叩く。


 真昼は紙袋を抱え直した。


「私、あの人を知ってる気がする」


「会ったことが?」


「ないと思う。でも、知ってる気がする。名前を聞いちゃいけないと思った。聞きたいのに。聞いたら、壊れる気がした」


「それは君の記憶?」


「分からない」


「エミーの時とは違う?」


「全然違う」


 真昼は胸元を押さえた。


「エミーさんのことは、御影くんの話とノートで知った。でも、これは……もっと近い。自分のものじゃないのに、胸の奥にある」


 レイは、彼女を見た。


 同魂者。


 その言葉が頭をよぎる。


 真昼がレイと同じアニマを持つのか。


 それとも、別の何かなのか。


 今は分からない。


 だが、黒い傘の人物が同魂者を狙うのなら、真昼は危険だ。


 エミーは殺された。


 古河 千■も、おそらく殺されている。


 天沢■■は、失踪している。


 そして真昼は、欠けた名前に反応した。


 すべてが一本の線でつながるには、まだ足りない。


 けれど、線の存在だけは見え始めている。


「しばらく、一人で動くな」


 レイは言った。


「またそれ?」


「今回は本当に」


「何回目の本当?」


「数えてない」


「私は取材をやめないよ」


「やめろとは言ってない」


 真昼が少し驚いた顔をした。


「言ってない?」


「一人で動くなと言った」


「……それ、同行してくれるって意味?」


「監視」


「はいはい」


 真昼は少しだけ笑った。


 その笑いは弱かったが、確かに戻ってきていた。


 坂道を下ると、雨水が路面を流れていた。


 水たまりに、ノクターン書房の灯りが揺れる。


 その灯りの中に、レイは一瞬だけ別のものを見た。


 作業灯の黄色。


 暗い線路。


 濡れたヘルメット。


 作業日報に書かれる名前。


 倉科悠斗。


 その名前が、まだ知らない記憶の底から浮かび上がる。


 同時に、別の声が混ざった。


 俺は、お前じゃない。


 レイは足を止めた。


「御影くん?」


「……旧地下鉄」


「え?」


「次は、旧地下鉄だ」


 真昼は、紙袋を抱えたまま彼を見た。


「古河 千■の記事?」


「それだけじゃない」


 雨音の向こうから、水の滴る音がした気がした。


 地下の壁。


 使われていないホーム。


 封鎖扉。


 作業灯。


 工具箱。


 そして、誰かが何度も自分の名前を書く。


 倉科悠斗。

 倉科悠斗。

 倉科悠斗。


 今、言わないと消えそうだった。


 レイは喉の奥が乾くのを感じた。


 これは死の記憶ではない。


 まだ、生きている記憶だ。


「誰かがいる」


 レイは言った。


「たぶん、まだ生きてる」


 真昼の表情が変わった。


 恐怖と、理解と、決意が同時に浮かぶ。


「その人も、御影くんと同じ?」


「分からない」


「でも、狙われるかもしれない」


「たぶん」


 真昼は深く息を吸った。


「名前は?」


 レイは、雨の中で目を閉じた。


 暗い線路の奥で、男が作業日報に名前を書いている。


 手が止まる。


 ペン先が震える。


 それでも、彼は書く。


 自分が自分であることを、紙に押しつけるように。


「倉科悠斗」


 レイは言った。


「倉科悠斗。旧地下鉄の整備士」


 真昼はすぐにメモ帳を出した。


 雨の中でページが濡れる。


 それでも彼女は書いた。


 倉科悠斗。


 その文字を見て、レイはなぜか少しだけ息がしやすくなった。


 名前がある。


 まだ消えていない。


 なら、間に合うかもしれない。


 ノクターン書房の窓の向こうで、店番の青年がこちらを見ていた。


 遠すぎて、表情は分からない。


 ただ、その背後の傘立てにある黒い傘だけが、雨の中でも濡れていないように見えた。


 レイは一度だけ振り返り、それから真昼へ言った。


「行くぞ」


「どこへ」


「まず、黒江さんに連絡する」


「警察に?」


「今度は、死体になってからじゃ遅い」


 真昼は頷いた。


 二人は雨の坂道を下り始めた。


 背後で、ノクターン書房の灯りが静かに揺れている。


 古い本の匂い。

 欠けた名前。

 銀色のヘアピン。

 黒い傘。

 旧地下鉄の事故。


 すべてがまだ、断片だった。


 けれど断片は、もう沈黙していなかった。


 雨の下で、消えかけた名前たちが、誰かに読まれるのを待っている。

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