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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第一巻:エミー・グレイス・ハーパー
4/10

第三章 ミラー・ルージュの残響

 白瀬真昼は、約束を守る少女ではなかった。


 少なくとも、危ないから行くなと言われた場所へ本当に行かないほど、聞き分けのいい人間ではない。


 雨上がりのアガルタ学院旧校舎で、彼女は鞄を肩にかけ直した。授業終了から十五分。教師たちは職員室へ戻り、生徒の多くは部活か駅へ向かっている。旧校舎へ続く渡り廊下には、湿った木の匂いが残っていた。


 旧新聞部室の鍵は、正確には鍵ではない。


 古い引き戸の建て付けが悪く、特定の角度で持ち上げて引くと開く。真昼はそれを「先輩たちから受け継いだ伝統」と呼んでいたが、レイに言わせればただの不法占拠だった。


 中には、古い机、壁一面の切り抜き、都市伝説の地図、壊れかけたプリンター、積み上がった学院新聞のバックナンバー、そして《アガルタ観測録》を管理するノートパソコンがあった。


 真昼はその机の上に、取材用の小型カメラ、ボイスレコーダー、予備バッテリー、メモ帳、雨具を並べていた。


「行く気だね」


 背後から声がした。


 真昼は振り向かずに答えた。


「うん」


「警察に止められたはずだけど」


「止められたら止まる人は、最初から取材サイトなんてやってない」


「自慢にならない」


 御影レイは、開いた扉のところに立っていた。


 放課後の光が背中にあって、表情が少し見えにくい。けれど真昼には分かった。いつもより顔色が悪い。警察へ呼ばれたあとから、彼の周りだけ空気が少し冷えている。


 真昼はボイスレコーダーの電池残量を確認しながら言った。


「来ないと思ってた」


「僕も来たくなかった」


「じゃあ、なんで来たの?」


「君が勝手に死にに行くから」


「死にに行くんじゃなくて、取材に行くの」


「危険な場所に、危険を知りもしないで行くことを、だいたい死にに行くと言う」


「知ってるよ。黒い傘。顔のない犯人。警察が隠してる変な映像。エミーさんが殺された裏路地」


「それを知っているなら、余計に行くな」


「知ってるから行くんでしょ」


 真昼は振り返った。


 琥珀色の瞳が、まっすぐレイを捉える。


「御影くんは、エミーさんの最後を知ってるんだよね」


 レイの口元がわずかに強張った。


「たぶん」


「たぶん?」


「被害者の記憶はある。加害者の記憶もある。でも、それを知ってると呼ぶのかは分からない」


「じゃあ、なおさら行く」


「どうしてそうなる」


「だって、御影くんが分からないことがあるなら、別の方法で調べるしかないでしょ」


 真昼は机の上のメモ帳を鞄に入れた。


「私は、エミーさんがどう死んだかだけじゃなくて、どう生きてたかを知りたい」


「それが何になる」


「記事になる」


「軽いね」


「軽く言っただけ」


 真昼は少しだけ表情を硬くした。


「本当は、記事だけじゃない。私が知らないと、エミーさんはニュースの中の被害者で終わる。外国籍女性、歓楽街勤務、ショーダンサー、殺人事件。そういう言葉だけでまとめられる」


「それで十分な場合もある」


「誰にとって?」


 レイは答えなかった。


 真昼は畳んだ傘を持った。


「御影くんは、エミーさんの死を知ってる。でも私は、エミーさんの好きだったものを知らない。誰と仲がよかったのか、何を食べてたのか、どんな冗談を言う人だったのか、どうして店を出ようとしてたのか。そういうこと、たぶん御影くんの記憶にはないんでしょ」


 レイは、静かに真昼を見た。


 図星だった。


 赤いヒールの痛みは覚えている。


 雨の路地の恐怖は覚えている。


 黒いナイフの重さは覚えている。


 けれど、エミーが朝に何を飲んでいたかは知らない。


 膝を痛めた日のことも知らない。


 初めて舞台に立った時、誰に拍手されたのかも知らない。


 死の瞬間に強く焼きついたものばかりが、レイの中にある。


「行くなら、一人で行くな」


 レイは言った。


 真昼の表情が少しだけ明るくなる。


「同行してくれるんだ」


「監視するだけ」


「それ、同行って言うんだよ」


「言わない」


「言う」


「言わない」


「じゃあ、現地監視員」


「もっと嫌だ」


 真昼は笑った。


 レイは笑わなかった。


 ただ、彼女が旧新聞部室の灯りを消すのを待った。


 廊下へ出ると、旧校舎の窓に雨雲が映っていた。


 まだ降ってはいない。


 けれど、アガルタの空はいつでも雨の準備をしている。


     *


 昼の夜見坂歓楽街は、眠り損ねた獣のようだった。


 夜のあいだ赤や紫の光で隠されていたものが、曇天の下で露出している。古い看板の錆。割れたタイル。閉じたシャッターに貼られた求人ポスター。路地裏の油染み。湿気を吸ってふくらんだゴミ袋。消毒液と酒と雨水が混ざった匂い。


 通りには人が少なかった。


 開いている店もあるが、どこか声を潜めている。事件のせいだ。規制線が解かれた場所にも、まだ人々は近づきたがらない。遠巻きに見る。噂する。スマホを向ける。けれど、すぐに目を逸らす。


 クラブ《ミラー・ルージュ》は、大通りから一本入った裏通りにあった。


 赤いネオンは消えている。


 Mirror Rouge。


 看板の英字は、昼の光の中では薄汚れて見えた。かつては洒落た店だったのだろう。正面入口の両脇には古い鏡を模した装飾があり、扉には赤いビロード風の布が垂れている。だが布の端は擦り切れ、金属の取っ手には指紋と雨染みが残っていた。


 真昼は店の前で足を止めた。


「……思ったより、古いね」


「歓楽街の店なんて、昼に見れば大体こうだろ」


「御影くん、こういう店よく知ってるの?」


「知らない」


「じゃあ知ったふうなこと言わない」


「一般論」


 レイは店の看板を見上げた。


 胸の奥で、赤い照明が揺れた。


 夜のミラー・ルージュ。


 音楽。


 拍手。


 くすんだ鏡。


 痛む膝。


 エミーの笑顔。


 目の前の古びた建物と、記憶の中の赤い舞台が重なる。


 同じ場所なのに、違う。


 夜は、嘘をつく。


 けれど、嘘だけではない。


 エミーは確かにここで踊っていた。


「入るよ」


 真昼が言った。


「許可は?」


「取る」


「誰に」


「中にいる人」


「順番が逆」


「取材って、だいたいそういうものだよ」


 真昼が入口へ向かおうとした時、店の扉が内側から開いた。


 出てきたのは、黒いスーツの男だった。


 年齢は三十代後半。細身で、整った顔立ちをしている。黒いシャツに、古いシルバーリング。香水の匂いが微かにした。笑えば紳士的に見えるのだろうが、今は目の奥が冷えていた。


「何か用かな」


 男は二人を見た。


 まず真昼のカメラ。


 次にレイの制服。


 最後に、二人の顔。


「営業はしていない」


「営業中に来たわけじゃありません」


 真昼は一歩前へ出た。


「白瀬真昼です。アガルタ学院新聞部、兼、個人取材サイト《アガルタ観測録》を運営しています。エミー・グレイス・ハーパーさんの件で、お話を聞かせてください」


 男の表情が、ほんの少し歪んだ。


「高校生の遊びに付き合う気はない」


「遊びじゃありません」


「警察にも同じことを言われた。記者にもだ。今は誰とも話したくない」


「あなたは九条燈馬さんですね。クラブ《ミラー・ルージュ》のオーナー。エミーさんの元恋人」


 燈馬の目が細くなる。


「どこで聞いた」


「公開されている店の情報、過去のインタビュー、SNS、それから関係者の投稿です」


「便利な時代だな。女子高生でも人の傷口に手を入れられる」


「傷口を隠した人がいると、膿むんです」


「真昼」


 レイが低く止めた。


 燈馬の視線がレイへ向く。


「君は?」


「付き添いです」


「彼氏か」


「違います」


 二人が同時に言った。


 燈馬は笑わなかった。


「警察には話した。エミーを殺したのは俺じゃない」


「まだ聞いてません」


「聞きたい顔をしてる」


 真昼は黙らなかった。


「エミーさんは、店を出るつもりだったんですよね」


 燈馬の表情が、硬くなった。


 その沈黙だけで、真昼は何かを拾った。


「あなたは止めた」


「当然だ」


「どうして」


「この店の看板だった」


「人を看板って呼ぶんですか」


「言葉尻を取るな。あいつはこの店で輝いた。ここに来た時、行く場所もなかった。俺が舞台に立たせた。客を呼んだ。部屋も手配した。言葉も、契約も、全部助けた」


「それは、助けたことになります」


 真昼は言った。


「でも、助けた人をずっと自分のものにしていい理由にはならない」


 燈馬の顔が、一瞬だけ怒りで歪んだ。


 だが、すぐに整えた。


「君は何も知らない」


「だから聞きに来ました」


「帰れ」


 燈馬が扉を閉めようとした。


 その時、店内から別の声がした。


「入れてやりな、トーマ」


 低く、少し掠れた女性の声だった。


 燈馬が振り返る。


「亜紀さん」


「警察もまだ中にいる。今さら高校生二人増えたところで、壊れるもんでもない」


 店の奥から現れたのは、短い黒髪の女性だった。


 黒いパンツスーツ。首から鍵束。疲れた顔をしているが、背筋はまっすぐ伸びている。目の周りに濃い隈があり、昨夜から寝ていないことが分かった。


「榛名亜紀さん」


 真昼が言った。


「舞台監督兼フロアマネージャー」


「よく調べてるね」


「エミーさんのことを聞きたいんです」


「なら、入りな」


 亜紀は燈馬を押しのけるように扉を開けた。


「ただし、勝手に撮るな。警察の邪魔をするな。関係者を追い詰めるな。約束できる?」


「できます」


「嘘ついたら叩き出す」


「できます」


「よし」


 亜紀はレイを見た。


 その視線が、真昼を見る時とは少し違った。


「君は?」


「御影レイです」


「警察の子?」


「違います」


「じゃあ、黒江さんの関係者?」


 レイは答えに詰まった。


 その一瞬で、亜紀は何かを察したようだった。


「まあいい。変な顔してるけど、死人みたいな顔の子はこの店じゃ珍しくなかった」


「それ、褒めてますか」


「褒めてない」


 亜紀は店の奥へ歩き出した。


 真昼は目を輝かせながらメモ帳を出す。


 レイは小さく息を吐き、彼女の後に続いた。


     *


 昼の《ミラー・ルージュ》の内部は、舞台の裏側そのものだった。


 赤いカーテンは重く垂れ、端にはほこりが溜まっている。客席のテーブルは拭かれているが、木目の隙間に酒の匂いが染みついていた。壁の鏡は、夜には照明を反射して広く見せるためのものだったのだろう。今は曇って、そこに映る人間を少しずつ古く見せる。


 ステージは小さい。


 だが、レイはそこを見た瞬間、足元が揺れた。


 赤い照明。


 曲の最後のサビ。


 膝を庇う体重移動。


 客席に投げる笑顔。


 まだ踊れる。


 エミーの声ではない。


 言葉ですらない。


 身体の奥に残った、祈りのような感覚。


 レイはステージから目を逸らした。


「大丈夫?」


 真昼が小声で聞いた。


「何が」


「顔」


「また死人みたい?」


「今は、死人を見た人みたい」


「大体合ってる」


 真昼は何か言いかけ、やめた。


 店内には警察関係者がいた。


 壁際で霧生仁が関係者に聞き取りをしている。綾瀬直央は資料を抱え、舞台袖と控え室の位置関係を確認していた。鑑識の牧野佐和は、照明卓近くで二階堂透らしき男と話している。


 そして、黒江透子がいた。


 黒いスーツに白シャツ。現場用のロングコートは脱いでいる。手には細いファイル。隙のない姿勢で立っていた。


 透子はレイを見た。


 次に真昼を見た。


 ため息はつかなかった。


 だが、目が少しだけ「やはり来たか」と言っていた。


「白瀬さん」


 透子が近づいてくる。


「警察の現場に高校生が来るのは、褒められた行動ではありません」


「取材です」


「なお悪いです」


「でも許可は取りました」


「店の許可と捜査上の許可は別です」


 真昼は少しだけ口を尖らせた。


 透子はレイへ視線を移す。


「御影レイさん。あなたにも、昨夜言ったはずです。夜見坂へ一人で行かないように、と」


「一人ではありません」


「屁理屈です」


「白瀬が一人で来るよりはましだと思いました」


 透子は真昼を見た。


 真昼は目を逸らさなかった。


「私はエミーさんのことを調べたいんです。事件の邪魔はしません」


「邪魔をする人は、全員そう言います」


「じゃあ、邪魔にならないように見張ってください」


「なかなか面倒な提案ですね」


 霧生が横から口を挟んだ。


「いいんじゃないか、黒江。どうせこの嬢ちゃん、止めても来る顔してる」


「主任」


「現場の黄色いテープの内側には入れない。物には触らない。関係者への質問は、警察の聞き取りの後。録音するなら相手に許可を取る。記事にする前に確認を入れる。守れるなら、今だけ黙認」


 真昼の顔が明るくなった。


「守ります」


「破ったら補導じゃ済まんぞ」


「はい」


「いい返事ほど信用ならん」


 霧生はレイを見た。


「御影、お前はこっち側に寄るな。倒れそうな顔してる」


「倒れません」


「そう言う奴が倒れる。倒れたら面倒だ。俺の仕事を増やすな」


「努力します」


 透子はまだ納得していない顔だったが、最終的には口を閉じた。


「何かを思い出しても、その場で勝手に動かないでください。必ず私か霧生主任に伝えること」


 レイは頷いた。


「分かりました」


「本当に?」


「たぶん」


「不安な返事ですね」


「嘘よりは」


 透子は一瞬だけ視線を細めた。


「それはそうです」


     *


 関係者への聞き取りは、店の奥にある小さなラウンジで行われた。


 真昼は警察の正式な聴取には加われない。だが、霧生の「聞こえない距離で待て」という雑な許可により、店の一角でメモを取ることはできた。


 最初に話をしたのは、リナ・マルケスだった。


 同僚ダンサー。


 褐色の肌に、長い黒髪。舞台用ではない薄いメイクでも華やかさがある。だが、目は赤く腫れていた。何度も泣いたのだろう。手元の紙コップを握りしめる指には、明るい色のネイルが残っている。


「エミーは、強かったよ」


 リナは日本語と英語の間を揺れながら話した。


「でも、強い人って、壊れないわけじゃない」


 真昼は、許可を取って録音機を置いた。


「エミーさんは、店を出るつもりだったんですね」


「うん。やっと」


「やっと?」


「ずっと言ってた。ここは一時的な場所だって。次へ行くって。でも、トーマが止める。お金もない。ビザも、契約も、部屋も、全部ややこしい。膝も悪くなってた」


 リナは紙コップを見つめた。


「でも、最後の日、言ってた」


「何をですか」


「明日から、私の名前で踊る、って」


 その言葉を聞いた瞬間、真昼のペンが止まった。


 レイは少し離れた場所で壁にもたれていたが、その声だけははっきり聞こえた。


 明日から、私の名前で踊る。


 記憶の中に、その言葉はなかった。


 死の直前の映像にも、ナイフの感触にも、雨の路地にも、その言葉はなかった。


 でも、確かにエミーが言いそうな言葉だった。


 レイは胸の奥がざらつくのを感じた。


「今までは違ったんですか」


 真昼が尋ねる。


 リナは苦く笑った。


「この店のエミー。トーマのエミー。外国人ダンサーのエミー。お客さんが覚えるのは、だいたいそういうエミーだった」


「本人は?」


「エミー・グレイス・ハーパーって、ちゃんと言ってほしがってた。最初の頃はね。だんだん、言わなくなった」


「どうして」


「言っても覚えない人が多いから」


 真昼は、ペンを強く握った。


「リナさんは、逃亡資金を預かっていたと聞きました」


 リナの顔が強張る。


 少し離れた場所で、霧生の視線が鋭くなった。


「それ、警察にも話しました」


「責めてるわけじゃありません。なぜ預かったのか聞きたいんです」


 リナは唇を噛んだ。


「守るため。あの子が、ちゃんと逃げられるように」


「お金を持っていたことを、九条さんは?」


「知らない。知ってたら、止めた」


「橘ミオさんは?」


「少しだけ知ってたかも。エミーがいなくなるって聞いて、泣いて怒ってたから」


 その名前が出た時、ラウンジの端に座っていた少女が肩を震わせた。


 橘ミオ。


 十九歳。新人ダンサー。まだ舞台化粧が板についていないような、若さと不安定さが残る少女だった。髪は明るく染めているが、根元は黒い。目元のメイクは泣いたせいで少し崩れている。


「私、怒りました」


 ミオは自分から言った。


「でも、殺してない」


 声が震えていた。


「誰も、今それは聞いてない」


 亜紀が低く言った。


 ミオは亜紀を見て、また俯いた。


「エミーさんと、最後に口論したんですか」


 真昼が慎重に聞いた。


 ミオは頷いた。


「だって、急だったから。今日で辞めるって。私、エミーさんみたいになりたくてこの店に入ったのに。ステップも教えてくれて、衣装の直し方も教えてくれて、客に嫌なこと言われた時の笑い方も教えてくれて。それなのに、急にいなくなるって」


「責めた?」


「責めた」


 ミオの声が小さくなる。


「ひどいこと言いました。逃げるんだ、って。私たちを置いて、自分だけ助かるんだって」


 リナが目を閉じた。


 亜紀が小さく息を吐いた。


「エミーさんは、何て」


「笑ってました」


 ミオの涙がこぼれた。


「いつもの笑い方じゃなかった。舞台の笑顔じゃなくて……困ったみたいに笑って、『あなたも逃げていいのよ』って」


 真昼はメモを取る手を止めなかった。


 だが、その顔は少し痛そうだった。


「エミーさんは、ミオさんにステップを教えていたんですね」


「はい」


「どんな?」


「膝を痛めないターン。客席を見る時、目線を落としすぎないこと。疲れてる時は腕で見せること。ヒールが滑る床では、足首を固めないこと。あと……」


 ミオは涙を拭いた。


「舞台を降りる時、最後まで背中を丸めないこと」


「どうして?」


「お客さんは最後の背中を覚えるから、って」


 真昼は、その言葉を丁寧に書き留めた。


 レイは、また知らないエミーを見た気がした。


 自分の中のエミーは、死に際の恐怖と赤いステージの断片ばかりだった。


 でも、目の前の人たちが話すエミーは、新人にステップを教え、友人にお金を預け、膝の痛みを隠し、最後まで背中を丸めないようにしていた。


 同じ人間なのに、レイの中には欠けている。


 それが分かるほど、胸の奥が落ち着かなくなった。


     *


 次に話したのは、二階堂透だった。


 照明と音響を担当している男で、年齢は三十前後。長い前髪を後ろで結び、黒いパーカーを着ている。指先には小さな火傷跡があり、機材を触る人間特有の無愛想さがあった。


「事件当夜、照明に異常があったんですね」


 真昼が聞くと、二階堂は露骨に嫌そうな顔をした。


「それも警察に話した」


「もう一度、聞かせてください」


「高校生のサイトに載せるために?」


「エミーさんの最後のステージを知るために」


 二階堂は真昼を見た。


 しばらくして、舌打ちのように息を吐く。


「ラストの曲で、赤が一瞬飛んだ」


「赤?」


「照明の赤。ミラー・ルージュのステージは、最後のサビで赤を強める。エミーの顔と衣装が一番映えるように、俺が作った設定だ。でも、昨夜だけ、赤が黒く落ちた」


「黒く?」


「言い方が変なのは分かってる。普通、照明が落ちたら暗くなる。でも違った。暗くなったんじゃない。赤が吸われたみたいだった」


 レイの指が、無意識に動いた。


 黒いナイフ。


 光を反射しない刃。


 赤いネオンを飲むような黒。


 透子が少し離れた場所からこちらを見た。レイの反応に気づいたのだ。


「防犯カメラにも異常があったと聞きました」


 真昼が続ける。


 二階堂は頷いた。


「店内カメラの一部がノイズを吐いた。トーマが映像を消したって疑われてるが、俺は違うと思う」


 奥にいた燈馬の顔が不快そうに歪んだ。


「俺は消してない」


 燈馬が言った。


 霧生が即座に突っ込む。


「一部のデータは手動で消してただろうが」


「それは店の経理の件だ。事件とは関係ない」


「関係ない悪事が出てくるの、刑事としては一番面倒なんだよ」


 燈馬は黙った。


 真昼はそのやり取りもメモした。


 赤いニシン。


 そういう言葉を、レイはどこかの記憶で知っていた。


 疑わしい人物。


 事件の真相へ向かう道をずらす存在。


 九条燈馬は、あまりにも怪しい。


 エミーを所有していた元恋人。

 店を出ることに反対していた。

 防犯カメラを一部消す立場にあった。

 アリバイも曖昧。


 だが、レイの記憶の中にある黒い傘の人物とは、違う。


 背格好が違う。


 声が違う。


 いや、声はそもそも曖昧だ。


 でも、違う。


 少なくとも、エミーが見た黒い傘の人物は、燈馬ではなかった。


「御影くん」


 真昼が小声で呼んだ。


「どう思う?」


「燈馬は犯人じゃない」


「言い切るね」


「たぶん」


「たぶんで言い切るの、やめたほうがいいよ」


「君にだけは言われたくない」


「でも、理由は?」


 レイは燈馬を見た。


 彼はエミーの話が出るたびに、怒りと悔しさと保身を混ぜた表情をしている。


 あれは、殺した人間の顔ではない。


 殺していないのに、許されないことをした人間の顔だ。


「彼は、エミーを縛った」


 レイは言った。


「でも、殺したのは別だ」


 真昼はその言葉をメモした。


「それ、記事に使っていい?」


「駄目」


「なんで」


「感想だから」


「感想も記録になるよ」


「なら余計に駄目」


 真昼は不満そうにしたが、書いた文字の横に小さく「未確認」と付け足した。


     *


 控え室は、店の奥にあった。


 亜紀が案内した。


「警察の確認は一通り終わってる。でも、勝手に触るなよ」


「はい」


 真昼は素直に頷いた。


 控え室は狭い。


 壁際に鏡台が三つ。電球のいくつかは切れていて、残った灯りだけが黄ばんだ光を投げている。衣装ラックには羽飾り、スパンコールのドレス、古いジャケット、派手な帽子が雑然と掛けられていた。床には靴箱、化粧道具、使いかけの湿布、ペットボトル、空の栄養ドリンク。


 夜の舞台の華やかさが、ここでは生活の匂いになっていた。


「ここで準備してたんですね」


 真昼が言った。


「そう。ここの右端がエミーの鏡台」


 亜紀が指した。


 レイはそこを見た瞬間、軽い眩暈を覚えた。


 鏡台の前。


 椅子。


 椅子の下に置かれていた黒いボストンバッグ。


 壊れかけのファスナー。


 鏡の前に置いた星形のピアス。


 左耳用。


 そこにあった。


 もう押収されている。


 でも、記憶の中にはある。


 レイは鏡台へ近づいた。


「御影くん、触らない」


 真昼が注意する。


「分かってる」


 鏡の縁に、古いシールが貼ってあった。


 英語で短く書かれている。


 Smile from your spine.


 背骨から笑え。


「これ、エミーさんの?」


 真昼が亜紀に聞く。


「そう。昔、海外の先生に言われたらしい。顔だけで笑うと嘘になるから、背中から笑えって」


 真昼はメモした。


「膝、悪かったんですよね」


「右膝と左足首。本人は隠してたけどね」


「みんな気づいていた?」


「舞台の人間は気づく。客は気づかない。エミーは、それを誇りにしてた」


「痛くても踊っていた」


「痛いから、踊る場所を変えなきゃいけなかった」


 亜紀は鏡台を見た。


 声が少し低くなる。


「あの子は、まだ踊れた。でも、ここで踊らせ続けたら壊れてた」


 その言葉に、レイの中で序章のステージが開いた。


 大丈夫。


 まだ踊れる。


 でも、もう踊らない。


 この店では。


 レイは鏡に映る自分を見た。


 そこには十七歳の少年がいる。


 エミーはいない。


 しかし、鏡の奥で赤いライトが揺れている。


 その時、鏡台の下にある小さな傷が目に入った。


 板の端。


 わずかに浮いている。


 レイはしゃがみかけた。


「御影くん」


 真昼が止める。


 透子の声も背後から飛んだ。


「触らないでください」


 レイは手を止めた。


 いつの間にか透子が控え室の入口に立っていた。


「何か見つけましたか」


「ここ」


 レイは鏡台の下を指した。


「板が外れる」


 亜紀が眉を寄せた。


「そこ?」


「知ってるんですか」


 真昼が聞く。


「いや……そんなところ、普段は掃除もしない」


 透子が牧野を呼んだ。


 鑑識が手袋をつけ、鏡台の下の板を慎重に確認する。古い板は、確かに片側だけ浮いていた。工具を使うまでもなく、軽く押すと外れた。


 中には、薄い布袋があった。


 控え室の空気が止まる。


 牧野が袋を取り出し、透明な証拠袋の上で開く。


 中から出てきたのは、一冊のノートだった。


 表紙は擦り切れている。


 英語で、手書きの文字。


 Dance Notes / Emmy G. Harper


 真昼が息を呑んだ。


「ダンスノート……」


 レイは目を閉じた。


 バッグに入れるはずだった。


 いや、違う。


 レイの中にあった記憶では、黒いボストンバッグの中にダンスノートがあった。


 でも、ここにもある。


 古いノート。


 もしかすると、持ち出すノートは別のものだったのかもしれない。


 死の記憶は、全てではない。


 レイが見たものは、エミーの最後に近い断片にすぎない。


「御影さん」


 透子が言った。


「なぜ、そこにあると分かったのですか」


「分かったわけじゃない」


「では?」


「見えました」


「記憶ですか」


「たぶん」


 透子はしばらくレイを見た。


 追及はしなかった。


「牧野さん、中を確認してください。必要最小限で」


 牧野が頷き、ノートを慎重に開いた。


 ページには、びっしりと英語と日本語が混ざった文字が書かれていた。


 曲名。

 振付。

 ステップ。

 膝を庇う動き。

 新人への教え方。

 客席を見る角度。

 舞台で転びそうになった時の立て直し方。

 リナの癖。

 ミオへの注意。

 亜紀に怒られた日。

 トーマと喧嘩した日。


 エミーの人生が、そこにあった。


 死の記録ではない。


 踊り続けるための記録だった。


 真昼は、ノートを見ながら何も言わなかった。


 ただ、目だけが強く揺れていた。


 牧野がページをめくる。


 途中で、英語の短い文章があった。


 日付は事件の三日前。


 I saw the rain boy again.


 雨の少年を、また見た。


 透子の目が細くなる。


 レイは呼吸を忘れた。


 牧野が、さらに次の行を読む。


 He looked like me, but he wasn’t me.


 彼は私に似ていた。


 でも、私ではなかった。


 控え室に沈黙が落ちた。


 雨音が聞こえた。


 裏口の向こうで、また雨が降り始めている。


 真昼がゆっくりレイを見た。


「御影くん」


 彼女の声は、いつものように勢い任せではなかった。


 慎重で、少し震えていた。


「エミーさんも、御影くんを見てたんだ」


 レイは答えられなかった。


 自分がエミーを見た。


 エミーの死を見た。


 加害者の記憶まで受け取った。


 そう思っていた。


 けれど、エミーもまた、レイを見ていた。


 雨の少年として。


 私に似ているけれど、私ではない誰かとして。


 その一文は、レイの中の何かを静かに刺した。


 同じ魂なら、結局は自分。


 そう処理していたはずだった。


 だが、エミーは違うと書いていた。


 He looked like me, but he wasn’t me.


 似ている。


 でも、私ではない。


 真昼はノートから目を離さずに言った。


「記憶してるのと、知ってるのは違うよ」


 レイは、彼女を見た。


「何が違う」


「御影くんは、エミーさんの最後を覚えてる。痛みも、怖さも、黒いナイフも。たぶん、誰よりも近くで見た」


 真昼は、ノートの文字を指でなぞりそうになり、触れてはいけないと思い出して手を引いた。


「でも、エミーさんがどんな曲を好きだったか、誰にステップを教えてたか、膝の痛みをどう隠してたか、舞台裏でどんな冗談を言ってたかは、知らなかった」


 レイは何も言わなかった。


「私は、そっちも知りたい」


「それを知って、何になる」


「名前になる」


 真昼は答えた。


「エミー・グレイス・ハーパーって名前が、ただの被害者名じゃなくなる。踊ってた人。逃げようとしてた人。ミオさんに背中の見せ方を教えた人。リナさんにお金を預けた人。亜紀さんに逃げろって言われた人。膝が痛くても笑ってた人」


 彼女はレイを見る。


「そういう全部があって、やっと名前になるんだと思う」


 透子が二人を見ていた。


 霧生も、入口のところで黙って聞いていた。


 亜紀は顔を伏せていた。


 リナは泣いていた。


 ミオは唇を噛み、声を殺している。


 燈馬だけが、少し離れた場所で腕を組んでいた。だが、その表情からも、いつもの支配的な色は抜けていた。


「……エミーは」


 燈馬が不意に言った。


 全員の視線が向く。


 彼は不愉快そうに顔を歪めた。


「よく、変な夢の話をしていた」


「夢?」


 透子が聞く。


「雨の中にいる少年だと。日本の学校。窓際の席。母親の声。俺は疲れてるんだと言った。病院に行けとも言った。真面目に聞かなかった」


「その少年の名前は?」


「知らない」


 燈馬はレイを見た。


「君なのか」


 レイは答えなかった。


 燈馬は、答えを待たずに視線を逸らした。


「馬鹿げてる」


 だが、その声は弱かった。


 真昼はメモ帳に書いた。


 エミーは雨の少年を見ていた。


 彼は私に似ていた。


 でも、私ではなかった。


 レイは、鏡台の前に立ち尽くしていた。


 鏡に、自分の顔が映っている。


 その奥に、エミーの姿はない。


 ただ、赤いライトの残響だけが、古い鏡の曇りに滲んでいる。


 レイは小さく息を吸った。


 そして、声にならないほど小さく、彼女の名前を口の中で作った。


 エミー。


 まだ、はっきりとは言えない。


 けれど、その音は以前より少しだけ、自分から遠い場所にあった。


 遠い。


 だからこそ、呼ばなければ届かない。


 雨音が強くなる。


 クラブ《ミラー・ルージュ》の裏口は、閉じられている。


 それでも、そこから夜の路地の気配が流れ込んでくるようだった。


 黒い傘の人物は、まだ顔を持たない。


 黒いナイフの正体も分からない。


 九条燈馬は怪しく、亜紀は何かを隠し、リナは金を預かり、ミオは最後に口論し、二階堂は照明の異常を見ていた。


 誰もが少しずつ嘘を持っている。


 誰もが少しずつ、エミーを失っている。


 その中で、古いダンスノートだけが、彼女の手の跡を残していた。


 透子は静かに言った。


「このノートは押収します」


 真昼が反射的に顔を上げる。


「記事には」


「今すぐは使えません」


「でも」


「白瀬さん」


 透子の声は厳しかった。


「これは証拠品です。同時に、彼女の私的な記録です。名前を残すことと、すべてを晒すことは違います」


 真昼は口を閉じた。


 その言葉は、彼女にも刺さったようだった。


「……分かりました」


「必要な範囲で、後日確認できるようにします」


「本当ですか」


「約束はできません。ただ、消させません」


 真昼は少しだけ頷いた。


「それなら、待ちます」


 霧生が小さく笑った。


「待てるのか?」


「待ちます。たぶん」


「不安な返事だな」


「御影くんよりはましです」


「急にこっちへ投げるな」


 レイが言うと、真昼はほんの少し笑った。


 その笑いが、控え室の重さをわずかに揺らした。


 けれど、すぐに雨音が戻ってくる。


 牧野がノートを証拠袋へ入れる。


 透明な袋の中で、エミーの文字が少しだけ歪んで見えた。


 I saw the rain boy again.


 He looked like me, but he wasn’t me.


 レイはその文字を見つめた。


 僕はエミーではない。


 そう言うことは、まだ怖かった。


 なぜなら、そう言ってしまえば、彼女の死は自分の中の出来事ではなくなる。


 彼女自身の人生が断ち切られたことになる。


 けれど、エミーは先に書いていた。


 彼は私ではなかった。


 レイは右手を握った。


 黒いナイフの感触は、まだそこにある。


 だが、その手で奪われたものが何だったのか、彼は少しだけ分かりかけていた。


 命だけではない。


 名前。


 明日。


 そして、自分の名前で踊るはずだった未来。


 雨の中で、ミラー・ルージュの赤い看板がかすかに揺れた。


 昼の店内にはもう照明も音楽もない。


 それでも、どこかで拍手の残響が聞こえた気がした。

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