終章 エミー・グレイス・ハーパー
白瀬真昼は、生きていた。
その事実を確認するために、御影レイは何度も彼女の名前を呼ぶことになった。
「白瀬」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい。しつこい」
「白瀬真昼さん」
「急に他人行儀」
「白瀬真昼」
「だから、生きてるってば」
病院のベッドの上で、真昼は毛布を肩まで引き上げながらそう言った。
救急外来の白い照明は、彼女の顔色を余計に悪く見せていた。腕には点滴。額には小さな擦り傷。首筋には、地下の冷えた水に触れたような青白さがまだ残っている。
それでも、声は真昼のものだった。
怒る時の少し早い語尾も、照れをごまかすような目の逸らし方も、痛いところを突かれるとメモ帳を探そうとする癖も、ちゃんとそこにあった。
「確認したいだけ」
レイは言った。
「それ、私じゃなくて自分の安心のためでしょ」
「そうかもしれない」
「素直」
「今だけ」
「最近それ多いね」
真昼は少しだけ笑った。
すぐに、その笑いは薄くなる。
病室の窓には夜の雨が映っていた。ガラスに落ちる雨粒が、細い線になって流れていく。黒い傘の影はない。旧地下鉄の水音もない。銀色のヘアピンも、白い折りたたみ傘も、ここにはない。
それでも、真昼は時々、何もない場所を見る。
廊下の端。
窓の外。
ベッド脇の小さな棚。
誰もいないはずのドアの向こう。
レイには分かる。
彼女は、まだ見ている。
自分のものではないはずの記憶を。
「夢、見た?」
レイが聞くと、真昼は目を細めた。
「病人にいきなりそれ聞く?」
「怪我人じゃなくて観測対象として」
「黒江さんみたいなこと言わないで」
「じゃあ、友人として」
言ってから、レイは少しだけ詰まった。
友人。
その言葉を自分から使う日が来るとは思わなかった。
真昼もそれに気づいたらしい。
少しだけ目を丸くして、それからわざとらしく咳払いをした。
「友人なら、もう少し優しく聞いて」
「夢、見た?」
「変わってない」
「優しい声だった」
「声だけ」
真昼は、窓へ視線を向けた。
「見たよ」
「黒い傘?」
「それも。あと、銀色のヘアピン。白い傘。ノクターン書房の窓際。名前を聞けなかった誰か」
「誰かの顔は?」
「見えない」
「黒く滲む?」
「ううん」
真昼は少し考えた。
「顔は見えないんじゃなくて、私が見ないようにしてる感じ。見たら、その人が泣きそうな気がする」
「意味分からない」
「私も」
真昼は苦く笑った。
「でも、御影くんが見るものとは違うんでしょ」
「たぶん」
「私は、御影くんの同魂者じゃない?」
レイは答えに迷った。
そうだ、と言い切るには何も知らない。
違う、と言い切るにも、分からないことが多すぎる。
けれど、ひとつだけ確かなことはある。
「君は、白瀬真昼だ」
真昼は、しばらく黙っていた。
それから、毛布の端で口元を少し隠した。
「……それ、便利な答えだけど、嫌いじゃない」
「便利な答えは嫌いなんじゃなかった?」
「黒江さんのはね。御影くんのは、たまに不器用すぎて便利じゃない」
「褒めてる?」
「一応」
「分かりにくい」
「人間は分かりにくいんです」
真昼はそう言って、目を閉じた。
疲れている。
当然だった。
地下で黒い傘の人物と対峙し、名前を消すと脅され、自分のものではない記憶に引きずられ、それでも立っていた。
真昼は強い。
けれど、強い人間は壊れないという意味ではない。
エミーもそうだった。
強かった。
笑って踊っていた。
でも、痛かった。
逃げようとしていた。
明日へ行くつもりだった。
レイはベッド脇の椅子に座ったまま、病室の雨音を聞いていた。
真昼が眠りかけた頃、彼女は目を閉じたまま小さく言った。
「御影くん」
「なに」
「記事、書くから」
「知ってる」
「止めないの?」
「止めたら聞く?」
「聞かない」
「じゃあ止めない」
「でも、心配はして」
「してる」
「素直」
「今だけ」
真昼は、眠そうに笑った。
「超常部分は書かない」
「書かないの?」
「今はね。書いたら、エミーさんの記事じゃなくなる。黒い傘の人の記事になる。御影くんの記事になる。境界観測局の記事になる」
「それは違う?」
「違う」
真昼は、少しだけ目を開けた。
「最初の記事は、エミーさんの記事にする」
レイは頷いた。
「うん」
「エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた」
そのタイトルを、彼女は病室の白い天井へ向けて呟いた。
もう、匿名メッセージに書き換えられた下書きではない。
真昼自身の声だった。
「ちゃんと書く。書いちゃいけないことは書かない。でも、書くべきことは書く」
「難しそうだね」
「難しいよ」
「やめる?」
「やめない」
「だと思った」
真昼は、今度こそ目を閉じた。
数分後には、浅い寝息が聞こえ始めた。
その寝息が乱れないことを確認してから、レイは静かに病室を出た。
*
倉科悠斗は、退院後も作業日報に名前を書き続けた。
医師は、しばらく現場復帰を禁じた。
都市交通局は、形式上はそれに従った。
旧地下鉄保守課の事務所で、悠斗は机に座っていた。作業服ではなく、薄いグレーのシャツ。左脇腹の傷はまだ痛み、椅子に座るだけでも時々顔が歪む。それでも彼は、朝から事務処理をしていた。
田端が缶コーヒーを置く。
「病み上がりが書類仕事してるだけで、なかなか珍しい光景だな」
「うるさい」
「現場に降りようとしないだけ偉い」
「降りたら黒江さんに病院へ戻される」
「あの人、目が本気だったからな」
田端は笑い、すぐに悠斗の手元を見た。
作業日報の署名欄。
そこには、同じ名前が何度も練習するように書かれていた。
倉科悠斗。
倉科悠斗。
倉科悠斗。
「まだ、止まるのか」
田端が聞いた。
悠斗はペンを持ったまま、少し黙った。
「止まる時がある」
「名前が?」
「ああ」
彼は紙を見る。
「倉科までは出る。悠斗も、ほとんど出る。でも、たまに間が空く。その一秒が気持ち悪い」
「一秒なら、普通のど忘れだ」
「普通のど忘れじゃない」
「だろうな」
田端は缶コーヒーを開けた。
「で、何回書くつもりだ」
「必要なだけ」
「小学生の漢字練習か」
「悪いか」
「悪くない」
田端は少しだけ真面目な顔になった。
「書け。俺も呼ぶ」
「やめろ、気持ち悪い」
「倉科」
「やめろって」
「倉科悠斗」
悠斗は、露骨に顔をしかめた。
「本当に気持ち悪い」
「生きてる確認だ」
「お前に確認されなくても生きてる」
「ならいい」
田端は笑った。
悠斗は文句を言おうとして、やめた。
代わりに、もう一度署名欄の端に名前を書く。
倉科悠斗。
紙にインクが沈む。
地下の奥で黒い刃に削られかけた名前が、地上の安っぽい事務机の上に残る。
それは、誰に見せるためでもない。
自分が自分であることを、今日も確認するための署名だった。
*
黒江透子の報告書は、いつもより長くなった。
特異殺人対策室の机には、書類が積み上がっている。
エミー・グレイス・ハーパー殺害事件。
旧地下鉄閉鎖区画における倉科悠斗襲撃事件。
白瀬真昼誘導・脅迫事案。
黒い傘の人物、仮称オメガ。
黒刃による記憶接続損傷の可能性。
境界観測局による対象保護要請と、保護者拒否の記録。
どの見出しも、長い。
長いのに、まだ足りない。
透子は、パソコンの画面を見つめた。
以前の自分なら、もっと簡潔に分類したかもしれない。
E-XX。
Y-02。
M-観測対象。
記憶混線型接続者。
名前欠落反応者。
境界事案関連者。
番号は便利だ。
報告書を整理しやすい。
検索しやすい。
機密指定しやすい。
人間を抽象化しやすい。
だが、番号だけが残る時、名前は消える。
透子は、キーボードに指を置いた。
被害者氏名。
エミー・グレイス・ハーパー。
関連者氏名。
倉科悠斗。
白瀬真昼。
御影レイ。
彼らの名前を、ひとつずつ打ち込んだ。
名前を入力するたびに、報告書の重さが少し変わる。
事件は番号で管理される。
それでも、番号の中に名前を入れることはできる。
透子はそれを、今さらのように知った。
霧生仁が隣の机でコーヒーを飲みながら言った。
「まだ書いてんのか」
「まだです」
「お前の報告書、読む側が泣くぞ」
「泣くほど感情的には書いていません」
「長さで泣く」
「必要事項です」
「必要事項が多すぎるんだよ、この街は」
霧生は紙コップを置き、画面を覗き込もうとした。
透子は即座に画面を少し傾けた。
「覗かないでください」
「見られたらまずいこと書いてんのか」
「主任の愚痴を」
「消せ」
「冗談です」
「黒江の冗談、分かりにくいんだよ」
霧生は頭を掻き、部屋の外へ向かった。
「仮眠取る。二時間で起こせ」
「了解しました」
「三時間でもいい」
「二時間ですね」
「鬼か」
霧生が出ていくと、部屋は少し静かになった。
透子は、報告書の余白にカーソルを置いた。
そこに書く必要はない。
書いてはいけない、と言ったほうが正しい。
事件の正式な関連者ではない。
まだ名前を出す段階ではない。
生死も、状態も、公式には曖昧なまま。
観測不能状態へ移行。
その冷たい言葉の裏に置かれた少年。
透子は、紙のメモを一枚引き寄せた。
報告書ではない。
正式記録でもない。
ただの余白。
そこに、ペンで書いた。
真木彼方。
文字は小さかった。
誰にも見せるつもりはない。
書いた直後、胸の奥が締めつけられる。
白い病室。
識別バンド。
名前を呼んでほしいと言った声。
救えなかった記録。
透子は、ペンを止めたまましばらくその名前を見ていた。
それから、黒い線で消した。
一本。
もう一本。
読めないように。
しかし、紙に筆圧の跡は残る。
書いた事実は消えない。
消した事実も、消えない。
透子はそのメモを、鍵付きの引き出しではなく、報告書の下に挟んだ。
今度は、完全には隠さなかった。
*
《アガルタ観測録》の記事は、三日後の夜に公開された。
超常現象の話は、ひとつも書かれていなかった。
黒い傘の人物。
黒刃。
旧地下鉄。
境界観測局。
御影レイ。
倉科悠斗。
銀色のヘアピン。
それらは、記事には出てこない。
代わりに、そこにはエミーがいた。
タイトルは、予定通りだった。
エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた
記事は、クラブ《ミラー・ルージュ》の外観写真から始まっていた。
昼に見ると古びた店。
赤いカーテン。
曇った鏡。
狭い控え室。
雨音が聞こえる裏口。
真昼は、事件の詳細を煽らなかった。
殺害現場の写真も載せなかった。
憶測も書かなかった。
代わりに、エミーがどんな人だったのかを書いた。
彼女は、赤いヒールで舞台に立っていた。
右膝を痛めていたが、客席にはそれを見せなかった。
新人ダンサーには、膝を壊さないターンを教えていた。
疲れている時は腕で見せること。
舞台を降りる時、最後まで背中を丸めないこと。
客は最後の背中を覚えるということ。
彼女は、友人に逃亡資金を預けていた。
店を出るつもりだった。
誰かの看板ではなく、自分の名前で踊るつもりだった。
彼女は、名前を覚えてほしがっていた。
エミー。
エミー・グレイス・ハーパー。
記事の最後に、真昼はこう書いた。
彼女の死を、事件の見出しだけで終わらせたくありません。
彼女はここにいました。
この街で踊り、笑い、傷を隠し、誰かにステップを教え、明日へ行こうとしていました。
エミー・グレイス・ハーパー。
彼女の名前を、ここに記録します。
公開ボタンを押す時、真昼の手は少し震えた。
旧新聞部室のノートパソコンの画面には、管理画面が開いている。
レイは隣に座っていた。
窓の外では雨が降っていた。
旧校舎の木の床が湿気を吸い、古い新聞の匂いが部屋に広がっている。
「押すよ」
真昼が言った。
「僕に聞くこと?」
「聞いてない。宣言」
「なら、どうぞ」
「もう少し感情を込めて」
「押せ」
「命令形」
「公開してください」
「よし」
真昼は、公開ボタンを押した。
画面が一瞬だけ白くなる。
次に、記事が表示された。
エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた
真昼は、しばらく画面を見つめていた。
「公開、できたね」
「うん」
「消えない?」
「今のところ」
「怖いね」
「怖い?」
「うん」
真昼は素直に言った。
「黒い傘の人に、また何かされるかもしれない。記事が消されるかもしれない。コメント欄が荒れるかもしれない。警察に怒られるかもしれない」
「最後のは黒江さんならやりそう」
「でも、今は怒られてもいい」
「よくはない」
「御影くん、そういうところ現実的だよね」
「君が現実的じゃないから」
真昼は少し笑った。
それから、画面のタイトルに視線を戻す。
「エミーさん、怒るかな」
「どうして」
「勝手に記事にしたから」
「分からない」
「そこは慰めてよ」
「でも」
レイは、画面の中のエミーの名前を見た。
「名前を間違えてない」
真昼は、少しだけ目を伏せた。
「うん」
「彼女を、被害者だけにしてない」
「うん」
「なら、少なくとも僕は、書いてよかったと思う」
「御影くんにしては、すごくいいこと言う」
「今だけ」
「それ、便利だね」
「便利だから使ってる」
真昼は笑った。
その笑い声は、旧新聞部室の湿った空気の中で、少しだけ明るかった。
だが、すぐに彼女は真面目な顔になる。
「でも、私の記事だけじゃ足りない」
「足りない?」
「エミーさんの記事は書けた。でも、古河 千■さんの名前はまだ欠けてる。天沢■■さんも分からない。黒い傘の人の名前も分からない」
「急ぐな」
「うん。急がない。でも、忘れない」
「怖くないの?」
「怖いよ」
真昼は言った。
「でも、怖い名前ほど、誰かが呼ばないと消える」
レイは、何も返せなかった。
彼女は同魂者ではないかもしれない。
少なくとも、レイと同じ形で記憶を受け取る人間ではない。
それでも、彼女は名前に近づいていく。
レイが見えない死者を、記録の中から拾おうとしている。
それが何なのか、まだ分からない。
分からないまま、隣にいる。
今はそれでいいのかもしれない。
*
その夜、レイは家へ帰った。
雨は上がっていた。
アガルタの街には、濡れたアスファルトの匂いが残っている。駅前の灯りが水たまりに映り、電線から最後の雨粒が落ちる。夜見坂のほうへ向かうバスが、遠くで赤い尾灯を引いて曲がっていった。
レイは、ふと足を止めた。
赤いヒール。
ステージの光。
星形のピアス。
雨の路地。
それらが、以前より少し遠くに感じられた。
忘れたわけではない。
薄れたわけでもない。
ただ、自分の内側に突き刺さっていた記憶が、少しだけ別の場所へ移ったようだった。
エミーの記憶は、レイの中にある。
けれど、彼女の人生はレイのものではない。
それが、ようやく分かり始めている。
家の玄関を開けると、温かい匂いがした。
味噌汁。
焼き魚。
白いご飯。
どこにでもあるような夕食。
けれど、レイにとっては現在へ戻るための匂いだった。
「おかえり、レイ」
御影佳乃の声がした。
レイは玄関で靴を脱ぎながら、少しだけ遅れて答えた。
「ただいま」
佳乃は、それ以上聞かなかった。
旧地下鉄のことも、真昼の記事のことも、境界観測局のことも、黒い傘のことも、今は聞かなかった。
ただ、食卓に箸を置いた。
「冷める前に食べなさい」
「うん」
「魚、今日は残さないで」
「努力する」
「努力じゃなくて、食べる」
「はい」
レイは席についた。
味噌汁を口に運ぶ。
味がした。
しじみの味。
味噌の塩気。
湯気の熱さ。
それが、少しだけ不思議だった。
誰かの死の記憶を持っていても、誰かの恐怖が胸の奥に残っていても、自分の舌は今日の味噌汁を味わう。
自分の身体はここにある。
御影家の食卓。
母の向かい。
御影レイとして。
佳乃は、レイが味噌汁を飲むのを見届けると、小さく頷いた。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
それだけだった。
その短いやり取りが、レイを現在へ引き戻す。
黒い傘でも、境界観測局でも、オメガでもない。
ただの食卓。
ただの夕食。
ただの名前。
おかえり、レイ。
その一言が、彼をここに留めていた。
*
エミーのダンスノートを、レイが再び見たのは、さらに二日後だった。
場所はアガルタ市警の特異殺人対策室ではなく、その隣にある小さな閲覧室だった。
黒江透子が許可を出した。
証拠品の原本には触れられない。
閲覧できるのは、必要箇所を複写したものだけ。
真昼はその条件に、珍しく素直に従った。
「黒江さんに、勝手に触ったら今度こそ本気で怒りますって言われた」
「本気じゃない時あった?」
「たぶん、今までのは六割くらい」
「全部本気だったと思う」
「そうかな」
閲覧室の机の上には、透明なファイルが置かれている。
その中に、エミーのダンスノートの複写があった。
振付。
曲名。
膝を痛めないステップ。
ミオへの注意。
リナへのメモ。
亜紀に怒られた日。
トーマと喧嘩した日。
赤いヒールの修理費。
小さな劇場の名前。
そして、雨の少年。
I saw the rain boy again.
He looked like me, but he wasn’t me.
レイは、その英文を長く見つめた。
何度も見たはずなのに、今は違って見える。
彼は私に似ていた。
でも、私ではなかった。
エミーは、先に分かっていた。
同じ魂でも、同じ人生ではないこと。
似ていても、同じではないこと。
レイより先に、それを言葉にしていた。
真昼は、椅子に座ったまま静かに聞いた。
「今なら、言える?」
レイはすぐには答えなかった。
閲覧室の窓は曇っている。
外では、また雨が降り始めていた。
アガルタの雨は、本当によく降る。
雨の中でエミーは死んだ。
雨の中でレイは彼女を受け取った。
雨の中で真昼は名前を記録した。
雨の中で、オメガはまだどこかにいる。
レイは、膝の上で両手を握った。
右手には、もう黒いナイフの感覚はなかった。
代わりに、紙の重さを思い出す。
血で濡れた悠斗のメモ。
エミーのダンスノート。
真昼の記事。
透子の報告書。
名前は、刃とは違う形で人をつなぐ。
レイは口を開いた。
最初の音が、喉に引っかかる。
それでも、逃げなかった。
「エミー・グレイス・ハーパー」
声は小さかった。
けれど、最後まで途切れなかった。
真昼は頷いた。
余計なことは言わなかった。
レイは、続けた。
「彼女は、僕だった」
胸の奥で、赤い照明が揺れた。
喉の痛み。
雨の匂い。
右膝の古傷。
星形のピアス。
黒いナイフ。
それらは確かにレイの中にある。
彼女の最期を、彼は受け取った。
同じ根から伸びた枝として。
同じアニマを持つ者として。
彼女の死は、自分の中にある。
だから、嘘ではない。
彼女は、僕だった。
でも。
レイは、ダンスノートの文字を見た。
Dance Notes / Emmy G. Harper
その筆跡は、レイのものではない。
ステップを書いた手も、ヒールを直した手も、新人に教えた声も、店を出ようとした勇気も、全部、彼女のものだ。
レイは、ゆっくり言った。
「でも、僕じゃなかった」
真昼は、また頷いた。
「うん」
「エミー・グレイス・ハーパーは、エミー・グレイス・ハーパーだった」
「うん」
「僕のひとりじゃない」
「うん」
「僕の記憶の中にいるけど、僕のものじゃない」
「うん」
真昼の返事は、ひとつひとつ短かった。
けれど、その短さがちょうどよかった。
レイは、息を吐いた。
何かが劇的に変わったわけではない。
黒い傘の人物は捕まっていない。
エミーを殺した犯人の顔は、まだない。
オメガの本名も分からない。
古河 千■の最後の一文字も、天沢■■の正体も、真木彼方の生死も分からない。
だが、ひとつだけ変わった。
レイはもう、エミーを「僕がひとり死んだ」とだけは呼ばない。
真昼が、少しだけ笑った。
「言えたね」
「うん」
「じゃあ、次は倉科さんに怒られに行く?」
「どうして」
「勝手に心配したから」
「怒られるのは君じゃないの」
「私はもう怒られた」
「何をしたの」
「病室で、倉科さんの名前を三回呼んだら『点呼するな』って怒られた」
「当然だと思う」
「でも、返事したよ」
「ならよかった」
真昼は椅子から立ち上がり、ファイルを閉じた。
動きはまだ少しゆっくりだった。
けれど、彼女は立っている。
白瀬真昼として。
レイも立ち上がった。
閲覧室を出る前に、彼はもう一度だけファイルを見た。
透明な表紙越しに、エミーの文字が見える。
エミー・グレイス・ハーパー。
彼女は、ここにいた。
そのことだけは、もう消えない。
*
雨の夜。
どこかの部屋で、誰かが目を覚ました。
部屋は暗い。
窓の外には雨が降っている。
カーテンは半分だけ開いていて、街灯の光が床に細く落ちている。机の上には、古い写真、切り抜き、湿った紙片、誰かのメモ、黒い手袋、そして折り畳まれた黒い傘が置かれていた。
目を覚ました者は、しばらく動かなかった。
呼吸だけが、浅く乱れている。
耳の奥で、音がする。
赤いヒールが舞台の床を踏む音。
拍手。
古い鏡に反射する赤い照明。
星形のピアスが水たまりへ落ちる音。
違う。
私はエミーよ。
その声が、まだ消えない。
殺したはずだった。
奪ったはずだった。
自分へ戻したはずだった。
なのに、エミー・グレイス・ハーパーの声は、まだ奥で踊っている。
さらに、別の声も混ざる。
男の声。
弱く、震えて、それでも最後に拒んだ声。
俺は、お前じゃない。
古い地下鉄の匂い。
割れた懐中ライト。
濡れた作業服。
何度も名前を書いたメモ。
それも、まだ消えない。
さらに、少女の声。
雨の日の古書店。
白い折りたたみ傘。
銀色のヘアピン。
窓際の席。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
私の名前は――
「やめろ」
部屋の中で、その声が漏れた。
男のようでも、女のようでも、少年のようでも、少女のようでもあった。
誰の声でもあり、誰の声でもない。
「呼ぶな」
両手で耳を塞ぐ。
それでも、声は内側から来る。
外ではない。
耳ではない。
殺した相手。
奪った記憶。
消したはずの名前。
切り取ったはずの人生。
それらが、内側から自分を呼ぶ。
机の上には写真があった。
御影レイ。
学校帰り、雨の坂道を歩いている写真。
顔は鮮明に写っている。
白瀬真昼。
旧新聞部室の窓際で、メモ帳を開いている写真。
その横に、薄く銀色の光が滲んでいる。
倉科悠斗。
旧地下鉄保守課の管理棟前で、作業服の胸ポケットに手を当てている写真。
その指先は、自分の名前を書いた紙に触れている。
そして、もう一枚。
古い写真。
顔だけが黒く滲んでいる。
誰が写っているのか、分からない。
分からないのに、見ると胸の奥が焼ける。
写真の裏には、名前ではなく識別番号だけが書かれていた。
K-117。
C-04。
R-■■。
その下に、かすれた鉛筆の跡がある。
名前を書こうとして、途中でやめた跡。
目を覚ました者は、写真を伏せた。
けれど、伏せても消えない。
紙の裏から、声が滲み出す。
僕の名前を呼んでください。
「黙れ」
黒い手袋を取る。
震えている指を隠す。
机の端に置かれた黒い傘へ手を伸ばす。
傘の布は濡れていない。
それでも、触れた瞬間、雨の匂いがした。
黒い傘を握る。
呼吸が少しだけ落ち着く。
名前は鎖だ。
記録は檻だ。
他人の人生は、自分を壊す毒だ。
だから切る。
だから消す。
だから戻す。
それでも、赤いヒールの音は止まない。
俺は、お前じゃない、という男の声も止まない。
私の名前は――という少女の声も、まだ途切れない。
窓の外で雨が強くなる。
目を覚ました者は、黒い傘を持って立ち上がった。
机の上には、伏せられた写真だけが残る。
写真の裏に書かれた識別番号は、雨音の中でも消えない。
K-117。
C-04。
R-■■。
名前はまだ、ない。
けれど、雨の街では、誰かがいつかそれを呼ぶ。
その前に消さなければならない。
黒い傘が開く。
部屋の中なのに、傘の縁から一滴だけ水が落ちた。
ぽたり。
その音は、旧地下鉄の奥へ続く水音とよく似ていた。




