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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第十二章 多元人格アルファ

 篠宮凪が「覚えています」と言った瞬間、アガルタ核は崩れ始めた。


 崩れる、というより、保っていた形を諦めた。


 水没した駅のホームが割れる。


 旧新聞部室の白紙が舞い上がる。


 観測室の窓が砕ける。


 暗い取調室の机が沈む。


 旧地下鉄の保守区画の黄色い線が水に溶ける。


 巨大な記録台帳のページが、一斉にめくられる。


 それぞれの見ていた核の姿が、別々のまま壊れていく。


 一つに戻るのではない。


 それぞれの恐怖の形のまま、無記層へ引き剥がされようとしている。


 篠宮凪の手から黒刃ヌルが離れた。


 刃はまだ核に突き刺さっている。


 その周囲から、黒い亀裂が放射状に広がっていた。


 亀裂の底には何もない。


 闇ではない。


 闇なら、まだそこに何かがある。


 それは、記録のない空白だった。


 名前も。


 番号も。


 痛みも。


 罪も。


 呼び声も。


 そこへ落ちれば、存在したという痕跡ごと剥がれる。


 レイは、その穴を見た。


 胸の奥が冷たくなる。


 篠宮凪は逃げられなくなった。


 真木彼方の欠落にも、O-00にも、黒い傘にも隠れられない。


 それでも、無記層は開いたままだ。


 むしろ、篠宮凪が覚えていると認めたことで、核はさらに激しく反応していた。


 消したはずの名前。


 覚えていた罪。


 呼ばれた本人名。


 それらすべてが一気に浮上し、重さに耐えきれず、核そのものが裂けていく。


 水面に、今度は名前ではなく番号が浮かび始めた。


 学校の出席番号。


 病院の患者番号。


 市警の事件番号。


 観測局の症例番号。


 住民記録の個人識別番号。


 旧地下鉄の区画番号。


 図書館の貸出番号。


 診察券番号。


 職員番号。


 A-00。


 O-00。


 K-117。


 R-■■。


 C-04。


 Null-03。


 名前よりも、番号の方が濃く見えた。


 番号は、強い。


 揺れにくい。


 感情が入らない。


 誰かが泣いても変わらない。


 誰かが愛称で呼んでも乱れない。


 誰かが忘れても、機械の中に残る。


 今、この崩れかけた核の中で、番号だけが整列していた。


 人間の名前が水に流される中、番号は白く、冷たく、安定しているように見える。


 レイの視界に、A-00が浮かんだ。


 大きく。


 はっきりと。


 御影レイよりも、ずっと強く。


 黒い水面の中で、A-00という文字は救命具のように浮かんでいた。


 名前が剥がれそうな今、その番号を掴めば、残れるのではないか。


 御影レイは痛い。


 A-00は痛くない。


 御影レイは、エミーも千景も彼方も篠宮凪も、名前として切り分けなければならない。


 A-00なら、すべてを分類として扱える。


 そう囁くように、番号は白く光る。


 レイは、手を伸ばしかけた。


「御影レイ!」


 真昼の声が飛んできた。


 旧新聞部室の白紙の嵐の中から、彼女の声だけが届く。


 レイの指が止まる。


「御影レイ、返事!」


 霧生の声も重なった。


 暗い取調室のどこかで、机を叩く音がする。


「黙るな! 名前を言え!」


 佳乃の声が、通信の向こうから響く。


『レイ』


 その一語は、番号の白さよりも弱い。


 弱くて、柔らかい。


 だが、強制しない。


 ただ、待っている。


 レイは、歯を食いしばった。


「……いる」


 A-00の文字が、一瞬だけ揺らいだ。


 しかし、今度は別の番号が浮かぶ。


 K-117。


 それはすでに真木彼方の主記録ではなくなった。


 だが、番号としての強度は残っている。


 K-117。


 症例。


 処置記録。


 Null-03事故。


 もし番号だけを残せば、彼方の痛みを個人のものとして背負わなくて済む。


 真木彼方ではなく、K-117。


 その方が、記録としては扱いやすい。


 レイの中で、彼方の白い検査室が揺れる。


 透子の声が聞こえた。


「番号に戻さないで」


 観測室の砕けた窓の向こうから。


「お願い。彼を、番号に戻さないで」


 レイは、胸に手を当てた。


 次に、R-■■が浮かぶ。


 父の記録。


 御影遥真という名前よりも、R-■■の方が広い。


 複数の世界線。


 複数の父。


 レイ系アニマの根。


 その全部を含むコード。


 御影遥真という不完全な父を抱えるより、R-■■として整理した方が楽かもしれない。


 レイは、父の手紙を思い出した。


 **父を知れ。

 ただし、父を背負うな。**


 そして、あの声。


 **レイ。**


 レイは、息を吸う。


「御影遥真」


 番号が揺らぐ。


 R-■■の奥で、父の名が薄い灰色の光として残る。


 同時に、藍沢環の声が核の全体へ響いた。


     *


 記録保全部の室内で、藍沢は巨大な台帳と向き合っていた。


 現実の端末の画面は、すでに通常のUIを保っていない。


 そこには、無数の記録欄が流れている。


 番号欄は残る。


 分類欄も残る。


 発生日、危険度、処理状況、関連タグも残る。


 氏名欄は、作っても作っても消えそうになる。


 藍沢は、両手で端末を押さえていた。


 青灰色の手袋は外している。


 指先が冷たい。


 爪の下にまで、無記層の冷気が入り込むようだった。


 彼女の前に、番号が並ぶ。


 A-00。


 O-00。


 K-117。


 R-■■。


 C-04。


 Null-03。


 番号は、美しい。


 安定している。


 管理しやすい。


 藍沢は、その誘惑を誰よりも知っている。


 名前は揺らぐ。


 名前は消える。


 名前は間違えられる。


 名前は、呼ぶ人の感情で変わってしまう。


 だから、番号を使ってきた。


 番号だけが残ると信じた。


 番号なら、せめて消滅を防げると思った。


 その考えは、すべて間違いだったわけではない。


 番号がなければ、救えなかった記録もある。


 K-117という番号がなければ、真木彼方の痕跡は完全に消えていたかもしれない。


 C-04という分類がなければ、古河千景の記録に辿り着けなかったかもしれない。


 O-00というタグがなければ、篠宮凪の活動体を追跡できなかったかもしれない。


 A-00という仮杭がなければ、御影レイを観測局の処分から一時的に守った場面もあった。


 番号は、悪ではない。


 だが、名前の代わりにした瞬間、人を削る。


 藍沢は、初めてその事実を、恐怖ではなく理解として受け止めた。


「番号は、名前が戻るまでの仮杭です」


 彼女は、端末へ向かってはっきり言った。


 声が記録保全部の部屋に響く。


 それは通信を通じて、アガルタ核にも届いた。


「本人名の代替にしてはいけない」


 巨大な台帳に、氏名欄が再び現れる。


 今度は一つではない。


 無数に。


 番号欄の横に。


 分類欄の上に。


 処理状況より前に。


 氏名欄が戻る。


 まだ空白だ。


 だが、欄がある。


 名前が帰る場所がある。


 藍沢は続けた。


「A-00。仮杭」


 端末に入力する。


 **本人名:御影レイ**


「O-00。隔離タグ」


 入力する。


 **本人名照合:篠宮凪**


「K-117。過去症例タグ」


 入力する。


 **本人名:真木彼方**


「C-04。旧観測分類」


 入力する。


 **本人名:古河千景**


「R-■■。R系列記録群」


 入力する。


 **関連本人名:御影遥真**


 藍沢の端末が激しく警告を発した。


 **規定外処理**


 **権限超過**


 **記録形式不一致**


 藍沢は、迷わず実行を押した。


「越権として記録してください」


 彼女は、自分でそう言った。


 その声には、少しだけ笑いに似たものが混じっていた。


     *


 アガルタ核の中で、番号の光が変わった。


 名前を押し潰すものではなく、名前が戻るまでの杭へ変わる。


 A-00の文字が、御影レイの足元から離れ、少し後ろへ下がった。


 消えない。


 消えなくていい。


 ただ、主ではない。


 レイは、その変化を感じた。


 番号を憎む必要はない。


 番号に逃げる必要もない。


 番号は、名前が戻るまで支えるためにある。


 名前の代わりではない。


 レイの胸の奥で、何かが整理されていく。


 まだ無記層は開いている。


 黒刃ヌルは核へ突き刺さったまま。


 篠宮凪は黒い傘の下で立っている。


 アガルタ核は崩れ続けている。


 だが、レイの中に流れ込む同魂者たちの記憶が、少しずつ別々の輪郭を取り始めた。


 真昼の声が届く。


「御影レイ!」


「いる!」


「書きます!」


「お願いします!」


 白い旧新聞部室で、真昼は机に向かっていた。


 白紙が嵐のように舞っている。


 ペンは何度もかすれる。


 書いた文字が消えかける。


 それでも、彼女は書く。


 **エミー・グレイス・ハーパー。**


 紙が赤く光る。


 ステージの照明。


 **天沢灯里。**


 白いメモ。


 銀色のヘアピン。


 **古河千景。**


 安全確認票。


 濡れた作業手袋。


 **倉科悠斗。**


 工具箱。


 黄色い電車のキーホルダー。


 **真木彼方。**


 白い識別バンドが砕けた光。


 **御影遥真。**


 未送信の手紙。


 レイへ。


 **篠宮凪。**


 黒い傘。


 震える手。


 **白瀬真昼。**


 ペンを握る自分の手。


 **御影レイ。**


 雨の中で立つ少年。


 真昼は、書くたびに息を吐いた。


 名前は重い。


 名前は責任を連れてくる。


 でも、書く。


 白紙の部室の奥で、紙の嵐が少しずつ静まる。


     *


 霧生は、暗い取調室で点呼を続けていた。


 机の向こうにいる顔のない影は、もう黙っている。


 霧生は事件ファイルを片端から開き、空白の氏名欄へ声を叩き込むように点呼する。


「霧生仁!」


 自分。


「黒江透子!」


「います!」


 遠くから返事。


「倉科悠斗!」


『いる! 旧地下鉄保守課!』


「白瀬真昼!」


「います!」


「御影レイ!」


「いる!」


「藍沢環!」


『接続維持!』


「御影佳乃!」


『います』


 霧生は一瞬、少しだけ驚いた顔をした。


 だが、すぐに頷く。


「よし。お母さんも点呼対象だ」


『よろしくお願いします』


「妙に落ち着いてるな」


『母ですので』


「強いな、母親」


 そのやり取りが、核の暗がりに生活の温度を戻す。


 霧生は、さらに声を張った。


「名前を言え! 返事しろ! 番号は後で書類に残せる! 今は名前だ!」


     *


 佳乃は、御影家のリビングで通信を握っていた。


 端末の画面は何度も乱れる。


 レイの名前が薄くなる。


 A-00が浮かぶ。


 そのたびに、彼女は画面を指で押さえる。


 押さえたところで、機械的に何かが変わるわけではない。


 それでも、押さえずにはいられない。


「レイ」


 返事が遅れる。


 佳乃は、もう一度呼ぶ。


「レイ」


『いる』


「御影レイ」


『いる』


「あなたは、私の息子よ」


 通信の向こうで、短い沈黙。


 それから。


『うん』


 佳乃は、息を吐いた。


 御影遥真の手紙のことを、まだ考えない。


 夫への怒りも、悲しみも、今は脇に置く。


 今、呼ぶべき名前は一つだった。


「レイ」


『いる』


「帰ってきなさい」


『うん』


     *


 レイは、アガルタ核の中央で立っていた。


 周囲には、名前と番号と記憶が渦を巻いている。


 篠宮凪は、黒い傘の下で、レイを見ている。


 その顔には、怯えがある。


 怒りがある。


 そして、少しだけ、諦めに似たものもある。


 だが、まだ終わっていない。


 黒刃ヌルは核を裂き続けている。


 無記層の穴は拡大している。


 このままでは、名前を取り戻した者たちも、また引き剥がされる。


 レイは、自分の内側へ目を向けた。


 そこには、無数の記憶がある。


 全部が自分の中にある。


 だからこそ、危うい。


 自分の中にあるから、自分のものだと思ってしまう。


 それが、これまでのレイだった。


 同じ魂なら、自分。


 同魂者なら、自分の別の人生。


 殺されたのは、別の自分。


 苦しんだのは、別の自分。


 それは、痛みから逃げるための雑な統合だった。


 個人の名前を奪う、別の形の暴力だった。


 レイは、ゆっくり息を吸った。


 水面に、エミーの赤い光が浮かぶ。


「エミー・グレイス・ハーパーは」


 声が震える。


 だが、止まらない。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 ステージの光が、水面から切り離される。


 彼女の笑み。


 彼女の痛み。


 彼女の最期。


 それはレイの中に記憶としてある。


 でも、レイではない。


「古河千景は、古河千景」


 作業灯が独立する。


 濡れた手袋。


 安全確認票。


 普通に生きようとした青年。


 レイは、その恐怖を覚えている。


 でも、古河千景は古河千景。


「倉科悠斗は、倉科悠斗」


 工具箱の音。


 黄色いキーホルダー。


 通信の向こうから、倉科が返す。


『そうだ。俺は俺だ』


 レイは頷く。


「真木彼方は、真木彼方」


 白い光。


 砕けた識別バンド。


 透子の声が震える。


「はい」


 レイは続ける。


「篠宮凪は、篠宮凪」


 黒い傘の下で、篠宮凪の顔が苦痛に歪む。


 だが、消えない。


 レイは目を逸らさない。


「御影遥真は、御影遥真」


 雨の研究室。


 未送信の手紙。


 父さん、と呼んだ痛み。


 許しではない。


 でも、番号ではない。


 そして、最後に。


 レイは、自分の胸に手を当てた。


「僕は、御影レイ」


 その言葉が、核の中心に落ちた。


 水面が、大きく割れる。


 黒い亀裂の中から、白い光が浮かぶ。


 A-00の文字が、レイの背後へ下がる。


 消えない。


 分類として残る。


 だが、レイの前には出ない。


 御影レイという名前が、A-00より前に立つ。


 その瞬間、アルファという言葉の意味が変わった。


 観測局がつけた分類ではない。


 始まりの番号でもない。


 すべての自分を統括する王でもない。


 同じアニマから伸びた別々の人生を、別々の名前として覚えていられる者。


 自分の中に記憶が流れ込んでも、それを自分にしない者。


 忘れない。


 でも、奪わない。


 それが、アルファ。


 レイは、篠宮凪を見た。


 そして、はっきり言った。


「僕は、多元人格アルファじゃない」


 篠宮凪の目が揺れる。


 真昼のペンが止まる。


 霧生の点呼が、一瞬だけ止まる。


 レイは続けた。


「僕は、御影レイだ」


 アガルタ核の底で、無記層の穴が一瞬だけ縮む。


 だが、まだ閉じない。


 レイは、さらに言った。


「でも、みんなの名前を忘れない」


 その言葉が、名前の奔流の中へ広がった。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 天沢灯里。


 古河千景。


 倉科悠斗。


 真木彼方。


 篠宮凪。


 御影遥真。


 白瀬真昼。


 御影レイ。


 名前たちは、レイの中へ吸い込まれるのではなく、周囲にそれぞれの光として立った。


 別々に。


 混ざらずに。


 消えずに。


 真昼の白紙の部室に、記事の見出しのような文字が浮かぶ。


 **名前のある世界。**


 藍沢の台帳に、氏名欄が固定される。


 霧生の取調室で、返事のない椅子に、初めて人影が戻る。


 倉科の保守区画で、水位線が止まる。


 佳乃の端末で、御影レイの名前が濃く戻る。


 透子の観測室で、K-117のタグが主記録から離れ、真木彼方の名が残る。


 篠宮凪は、黒い傘の下で立ち尽くしていた。


 彼の手には、まだ黒刃ヌルの柄が残っている。


 だが、その刃は震えている。


 無記層へすべてを落とすには、名前の光が強すぎる。


 篠宮凪は、レイを見た。


「……そんなものは、すぐに壊れます」


 声は弱かった。


「名前は痛い。覚えれば、また壊れる」


 レイは頷いた。


「そうかもしれない」


「なら」


「でも、消さない」


 レイは、そう答えた。


「壊れそうになっても、呼び直す。書き直す。記録し直す。間違えたら、訂正する。番号で支える。でも、名前の代わりにはしない」


 篠宮凪は、唇を噛んだ。


「そんなこと、続くわけがない」


「一人では続きません」


 レイは、遠くの声を聞いた。


 真昼。


 霧生。


 透子。


 倉科。


 藍沢。


 佳乃。


 そして、もう記録層へ沈んだ名前たち。


「だから、一人でやらない」


 アガルタ核が、再び大きく揺れた。


 無記層の穴は閉じきっていない。


 黒刃ヌルも砕けていない。


 篠宮凪もまだ立っている。


 だが、レイはもうA-00の方を見ていなかった。


 御影レイとして立っていた。


 そして、自分の外側にいる名前たちを、外側のまま覚えていた。

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