第十一章 アルファとオメガ
真木彼方の名前が、記録層へ沈んだ。
沈むという言葉は、正確ではないのかもしれない。
彼は落ちたのではない。
消えたのでもない。
白い光の粒になり、黒い水の底ではなく、名前のある記録の奥へ戻っていった。
K-117という番号は、完全に消滅したわけではない。
藍沢環が言ったように、タグとして隔離された。過去の処置記録、Null-03事故、観測局の過ちを示すための仮杭として残る。だが、それはもう、彼を呼ぶ主たる名ではない。
真木彼方。
その名前が戻ったことで、アガルタ核の水面に小さな光が残った。
そして、その光が、黒い傘の影を裂いた。
篠宮凪の足元から、何かが剥がれ落ちる。
それは黒い靄のようにも、濡れた包帯のようにも見えた。
K-117の欠落。
真木彼方の「切ってほしい」という願い。
名前を呼ばれたいのに、呼ばれればまた切られるかもしれないという恐怖。
その空白に、篠宮凪は隠れていた。
自分の「名前が痛い」という願いを、彼方の欠落へ重ね、O-00という活動体の影に押し込めてきた。
だが、もうそれはできない。
真木彼方は、真木彼方として記録層へ戻った。
K-117の空白は、篠宮凪の逃げ場ではなくなった。
黒い傘の下で、篠宮凪の輪郭がはっきりしていく。
顔が見える。
目が見える。
怯えが見える。
怒りが見える。
疲労が見える。
そして、逃げ場を失った人間の、静かな絶望が見える。
レイは、黒い水面の上に立っていた。
足元の水はまだ膝近くまである。だが、さっきまでのように彼を沈めようとはしていない。御影レイという名前が、かろうじて彼の足元に杭を打っている。
遠くでは、真昼の声が聞こえる。
「御影レイ!」
レイは応える。
「いる!」
佳乃の声も通信の向こうから届く。
『レイ』
「いる」
霧生の声。
「返事を続けろ。黙ったら引きずり戻すぞ」
「それ、どうやって」
「根性で」
倉科の通信が混じる。
『主任、地下で根性論は危ない』
「うるさい。今は根性も装備だ」
真昼が遠くで少し笑った気配がした。
笑える。
まだ。
だから、世界は終わっていない。
篠宮凪は、その声のやり取りを聞いていた。
黒い傘の縁から、水滴のような影が落ちる。
彼は静かに言った。
「うるさいですね」
レイは、彼を見る。
「名前を呼び合っているだけです」
「だから、うるさいんです」
篠宮凪の声には、苛立ちがあった。
これまでのような、諦めに似た穏やかさではない。
剥き出しの感情。
その方が、ずっと人間に見えた。
「あなたたちは、どうしてそんなに呼ぶんですか。呼ばれれば、戻らなければならない。戻れば、覚えなければならない。覚えれば、痛む。何度でも痛む。なのに、どうして」
「それを、今から考えます」
「まだ考えるのですか」
「はい」
レイは、正直に答えた。
「僕は、まだ全部は言えません。名前を捨てない理由を、きれいに説明できるわけじゃない」
篠宮凪は、目を細めた。
「なら、私の方が正しい」
「かもしれません」
「……何ですか、それは」
「あなたの言葉が、全部嘘だとは思っていないからです」
レイは、黒い水面に浮かんだいくつもの名前を見た。
エミー・グレイス・ハーパー。
天沢灯里。
古河千景。
倉科悠斗。
真木彼方。
御影遥真。
白瀬真昼。
御影レイ。
そして、篠宮凪。
「名前は痛い。名前は責任を戻す。名前は、逃げたかった記憶を連れてくる。僕も何度も、A-00の方が楽だと思いました。御影レイじゃなくて、観測対象なら、接続媒体なら、番号なら、今より楽になれる気がした」
真昼の声が遠くで小さく震えた。
「御影くん」
「大丈夫です」
レイは答えた。
「今は、自分で言っています」
篠宮凪は、レイを見つめる。
「なら、あなたも私です」
黒い傘が、少し開く。
その影が、水面に広がる。
「あなたも私です。名前に耐えきれなくなれば、同じところへ来る」
レイは、すぐには答えられなかった。
その言葉は、完全な嘘ではない。
御影レイと篠宮凪は、同じアニマの根を持つ。
同じように、名前と記憶の痛みに触れている。
レイも、もし真昼がいなければ。
佳乃が呼ばなければ。
霧生が点呼しなければ。
倉科が生きて外側から怒鳴らなければ。
透子が失敗を消さずに立っていなければ。
藍沢が番号を名前の代替にしないと踏みとどまらなければ。
父の手紙が残っていなければ。
自分も、ここへ来たかもしれない。
名前を終わらせる側へ。
篠宮凪は、それを知っている。
だからこそ、刺さる。
レイは、唇を噛んだ。
黒い傘の下で、篠宮凪はさらに言う。
「あなたは運が良かっただけです。呼んでくれる人がいた。書いてくれる人がいた。戻る家があった。だから、まだ御影レイでいられる」
「はい」
「私には、なかった」
その声が、初めて少しだけ低くなった。
「私は、名前が痛い時に、それを持っていろと言われただけでした。見られたくない記憶を、見られることに耐えろと言われただけでした。誰かが私の人生を観測し、記録し、分類し、そして同じ魂だからと自分のもののように扱う。それに耐えろと」
レイは、黙って聞いた。
「だから切った。私を見ている者たちを。私と同じ根を持つ者たちを。私の記憶を奪う可能性のある者たちを。名前を残そうとする者たちを」
真昼の方で、紙を握る音がした。
灯里の記憶が、白い部室の奥で揺れたのだろう。
篠宮凪は続ける。
「悪だと思いますか」
レイは、静かに答えた。
「はい」
篠宮凪の表情が固まる。
「理解できると言ったのに」
「理解できることと、悪くないことは違います」
「あなたは、本当に残酷ですね」
「そうかもしれない」
「私を人間に戻して、罪を覚えさせようとしている」
「はい」
「救うためではなく?」
「救うためだけじゃない」
レイは、篠宮凪の目を見た。
「逃がさないためです」
黒い水面が揺れる。
篠宮凪の指が、黒刃の柄を強く握った。
怒り。
恐怖。
それが、はっきり見える。
「あなたに、そんな権利があるんですか」
「ありません」
レイは言った。
「僕一人には、ありません。だから、僕一人で裁くわけじゃない。霧生さんがいる。市警がいる。真昼が記録する。藍沢さんが分類と名前を分ける。黒江さんが事故を消さない。倉科さんが地上側にいる。母さんが呼ぶ。僕だけがあなたを決めるわけじゃない」
「なら、あなたは何をするんですか」
レイは、一歩前へ出た。
水が重く足に絡む。
でも、もう止まらない。
「覚えます」
篠宮凪が眉を寄せる。
レイは言う。
「でも、奪いません」
その言葉に、篠宮凪の顔がかすかに歪んだ。
「……同じことです」
「違います」
「あなたの中に、私の記憶がある。私が殺した記憶も、恐れた記憶も、切った記憶も。あなたはそれを持っている。なら、奪っている」
「僕は、最初はそうでした」
レイは認めた。
これまでずっと、自分は無数の人生を知っていると思っていた。
自分の記憶だと思っていた。
同じ魂なら、自分だと。
誰かが死ねば、この世界で自分が一人死んだのだと。
その傲慢さを、もう誤魔化さない。
「僕は、エミーの死を最初、自分の死みたいに見ました。倉科さんの痛みを、自分のものみたいに感じました。古河千景さんの恐怖も、彼方さんの願いも、あなたの逃げたさも、全部、自分の中に入ってくる。だから、全部僕だと思いそうになる」
レイは、真昼の名前を思った。
白瀬真昼。
彼女が何度も記録してきた名前。
人を人として分けるための名前。
「でも、違う」
レイは言った。
「みんな、僕だったかもしれない。でも、僕じゃない」
アガルタ核の水面が、大きく波打った。
エミーの赤い照明が、遠くで瞬く。
千景の作業灯が揺れる。
倉科の工具が水面に浮かぶ。
彼方の白い識別バンドが光になる。
遥真の手紙が、濡れずに水の上を漂う。
真昼のノートの文字が白く浮かぶ。
篠宮凪の黒い傘だけが、動きを止めた。
彼は、怒った。
今までで一番はっきりと。
「なら、なぜ覚えている」
声が裂けた。
「あなたのものではないなら、なぜ覚えている。エミーの痛みを。古河千景の恐怖を。真木彼方の願いを。私の恥を。私の逃げたさを。あなたのものではないなら、なぜあなたの中にある!」
黒刃が、水面から引き抜かれた。
刃は黒い。
だが、その縁に、名前の白い光が反射している。
篠宮凪は、黒刃を構えた。
「覚えることは侵害です。記録することは暴力です。呼ぶことは檻です。あなたも、白瀬真昼も、観測局も、市警も、みんな同じだ。私を世界へ縛り直そうとしている」
レイは、避けなかった。
足元の水が重いからではない。
逃げれば、この問いからも逃げることになる。
篠宮凪は、黒刃を振るった。
刃は空間を切った。
肉体ではない。
名前の接続を切る刃。
レイの右肩から左胸へ、冷たい線が走る。
痛みは血の痛みではなかった。
御影レイという名前の表面に、刃を当てられた感覚。
視界の端に、A-00の文字がまた浮かぶ。
しかし、レイは一歩も下がらない。
篠宮凪がもう一度刃を振る。
今度は、レイの背後に浮かぶ名前の光を狙った。
レイは、声を出した。
「エミー・グレイス・ハーパー」
刃が止まる。
赤いステージの光が、水面に広がる。
エミーの名前が、黒い刃の前に浮かぶ。
レイは続ける。
「彼女は、あなたに殺された。でも、僕じゃない。エミー・グレイス・ハーパーです」
篠宮凪の顔が歪む。
「やめて」
レイは止めない。
「古河千景」
作業灯の光。
濡れた手袋。
安全確認票。
「彼は、あなたが最初に殺したレイ系同魂者です。僕じゃない。古河千景です」
「やめろ」
篠宮凪の声が低くなる。
「天沢灯里」
白いメモ。
銀色の髪留め。
ノクターン書房の静けさ。
「彼女は、あなたを無理に呼ばなかった。それでも、あなたに殺された。僕じゃない。真昼でもない。天沢灯里です」
遠くで真昼が息を呑む音がした。
それでも、彼女は言った。
「書いています」
白い部室の中で、ペンが走る音。
レイは続ける。
「倉科悠斗」
工具箱。
黄色い電車のキーホルダー。
地上側の声。
「彼は生きている。僕じゃない。ここに飲まれてもいない。倉科悠斗です」
通信の向こうで、倉科が怒鳴る。
『そうだ! 俺は俺だ! ついでに旧地下鉄保守課だ!』
霧生が言う。
「自己紹介が長い」
『うるさい!』
レイの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いではない。
でも、崩れそうな心に、生活の音が戻る。
レイは、次の名前を呼ぶ。
「真木彼方」
白い観測室の光。
識別バンドが砕ける音。
透子の涙。
「彼は、K-117じゃない。あなたの隠れ場所でもない。真木彼方です」
篠宮凪が、黒刃を握り直す。
彼の黒い傘の影がさらに薄くなる。
レイは、父の名を呼ぶ。
「御影遥真」
雨の研究室。
未送信の手紙。
レイへ。
「僕の父です。許していない。でも、R-■■だけじゃない。御影遥真です」
佳乃の声が、遠くで小さく震えた。
『……レイ』
「いる」
レイは、最後に黒い傘の下の青年を見た。
篠宮凪は、首を振っていた。
ゆっくりと。
拒絶するように。
懇願するように。
「呼ばないで」
声が、初めて完全に震えた。
「それ以上、呼ばないでください」
レイは、黒い水の中で立っている。
刃が目の前にある。
逃げたくなる。
呼べば、この人は痛む。
名前は鎖になる。
名前は檻になる。
それは本当だ。
それでも、呼ばないことが、逃がすことになる名前もある。
真昼が、遠くから言う。
「御影レイ」
レイは答える。
「白瀬真昼」
「呼んでください」
その声は、泣いていなかった。
揺れていた。
だが、逃げていなかった。
霧生が続ける。
「名前のない相手は裁けない」
透子。
「彼方の欠落へは、もう隠れられません」
藍沢。
『O-00タグ、本人名照合待機。分類は本人名の代替ではありません』
佳乃。
『レイ』
「いる」
倉科。
『御影、終点になるな。相手も番号に逃がすな』
レイは、黒い傘の下へ向かって言った。
「篠宮凪」
その名前が、アガルタ核の中心に落ちた。
黒い水が、大きく裂ける。
黒刃が、かすかに軋む。
篠宮凪は、崩れなかった。
消えもしなかった。
救われもしなかった。
ただ、逃げ場を失った。
O-00という分類の奥。
K-117の欠落。
黒い傘。
無記層。
それらがすべて剥がれ、篠宮凪という名前だけが彼の足元に残る。
彼は、黒刃を落としそうになるほど手を震わせた。
「……呼ばないで」
声は弱い。
レイは、さらに一歩近づく。
「篠宮凪」
「やめて」
「あなたは、篠宮凪です」
「違う」
「違いません」
「私は、オメガです」
「それは分類です」
「O-00です」
「それも分類です」
「黒い傘です」
「それは、逃げるための影です」
「私は」
篠宮凪は、言葉を失った。
黒い傘の下で、目が揺れる。
少年のようにも、青年のようにも、殺人者のようにも、ただ怯えた人間のようにも見えた。
レイは、静かに言った。
「あなたは、覚えています」
篠宮凪の唇が震える。
「覚えていない」
「覚えています」
「覚えていない」
「エミーを」
「知らない」
「古河千景を」
「知らない」
「天沢灯里を」
篠宮凪の顔が、はっきり歪んだ。
レイは、そこから目を逸らさない。
「真木彼方を」
「違う」
「御影遥真を」
「知らない」
「僕を」
「知らない!」
叫びが、アガルタ核に反響した。
黒い傘が大きく揺れる。
黒刃が再び振り上げられる。
だが、篠宮凪の腕は途中で止まった。
彼の視線が、水面に落ちる。
そこに、名前が並んでいる。
エミー・グレイス・ハーパー。
古河千景。
天沢灯里。
倉科悠斗。
真木彼方。
御影遥真。
御影レイ。
白瀬真昼。
そして。
篠宮凪。
名前は、彼を責めていた。
同時に、彼を世界に留めていた。
逃げることも、消えることも、もう簡単ではない。
長い沈黙が落ちた。
水音だけがある。
無記層の穴は、まだ開いている。
黒刃は、まだ彼の手にある。
だが、篠宮凪は動けない。
彼は、小さく息を吸った。
ほとんど聞こえない声で、言った。
「覚えています」
レイは、何も言わなかった。
真昼のペンが、遠くで止まった。
霧生も、透子も、倉科も、藍沢も、佳乃も、誰もすぐには声を出さなかった。
篠宮凪は、黒い傘の下で震えている。
「覚えています」
もう一度、彼は言った。
「エミー・グレイス・ハーパーを」
黒い水が揺れる。
「古河千景を」
作業灯が一瞬灯る。
「天沢灯里を」
白いメモが水面に浮く。
「真木彼方を」
白い光が遠くで瞬く。
「御影レイを」
レイは、息を止める。
篠宮凪は、顔を上げた。
その目に、涙はなかった。
救われた顔でもない。
ただ、逃げ切れなかった人間の顔だった。
「覚えています」
その言葉が、アガルタ核の中で、黒い傘の影をさらに薄くした。
篠宮凪はまだ立っている。
罪は消えていない。
黒刃も、無記層の穴も、まだ残っている。
だが、彼はもう、名前のない終わりへ逃げ込めない。
レイは、自分の胸に手を当てた。
そこにはまだ、御影レイという名前があった。
そして目の前には、篠宮凪という名前を持ったオメガがいた。




