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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第十一章 アルファとオメガ

 真木彼方の名前が、記録層へ沈んだ。


 沈むという言葉は、正確ではないのかもしれない。


 彼は落ちたのではない。


 消えたのでもない。


 白い光の粒になり、黒い水の底ではなく、名前のある記録の奥へ戻っていった。


 K-117という番号は、完全に消滅したわけではない。


 藍沢環が言ったように、タグとして隔離された。過去の処置記録、Null-03事故、観測局の過ちを示すための仮杭として残る。だが、それはもう、彼を呼ぶ主たる名ではない。


 真木彼方。


 その名前が戻ったことで、アガルタ核の水面に小さな光が残った。


 そして、その光が、黒い傘の影を裂いた。


 篠宮凪の足元から、何かが剥がれ落ちる。


 それは黒い靄のようにも、濡れた包帯のようにも見えた。


 K-117の欠落。


 真木彼方の「切ってほしい」という願い。


 名前を呼ばれたいのに、呼ばれればまた切られるかもしれないという恐怖。


 その空白に、篠宮凪は隠れていた。


 自分の「名前が痛い」という願いを、彼方の欠落へ重ね、O-00という活動体の影に押し込めてきた。


 だが、もうそれはできない。


 真木彼方は、真木彼方として記録層へ戻った。


 K-117の空白は、篠宮凪の逃げ場ではなくなった。


 黒い傘の下で、篠宮凪の輪郭がはっきりしていく。


 顔が見える。


 目が見える。


 怯えが見える。


 怒りが見える。


 疲労が見える。


 そして、逃げ場を失った人間の、静かな絶望が見える。


 レイは、黒い水面の上に立っていた。


 足元の水はまだ膝近くまである。だが、さっきまでのように彼を沈めようとはしていない。御影レイという名前が、かろうじて彼の足元に杭を打っている。


 遠くでは、真昼の声が聞こえる。


「御影レイ!」


 レイは応える。


「いる!」


 佳乃の声も通信の向こうから届く。


『レイ』


「いる」


 霧生の声。


「返事を続けろ。黙ったら引きずり戻すぞ」


「それ、どうやって」


「根性で」


 倉科の通信が混じる。


『主任、地下で根性論は危ない』


「うるさい。今は根性も装備だ」


 真昼が遠くで少し笑った気配がした。


 笑える。


 まだ。


 だから、世界は終わっていない。


 篠宮凪は、その声のやり取りを聞いていた。


 黒い傘の縁から、水滴のような影が落ちる。


 彼は静かに言った。


「うるさいですね」


 レイは、彼を見る。


「名前を呼び合っているだけです」


「だから、うるさいんです」


 篠宮凪の声には、苛立ちがあった。


 これまでのような、諦めに似た穏やかさではない。


 剥き出しの感情。


 その方が、ずっと人間に見えた。


「あなたたちは、どうしてそんなに呼ぶんですか。呼ばれれば、戻らなければならない。戻れば、覚えなければならない。覚えれば、痛む。何度でも痛む。なのに、どうして」


「それを、今から考えます」


「まだ考えるのですか」


「はい」


 レイは、正直に答えた。


「僕は、まだ全部は言えません。名前を捨てない理由を、きれいに説明できるわけじゃない」


 篠宮凪は、目を細めた。


「なら、私の方が正しい」


「かもしれません」


「……何ですか、それは」


「あなたの言葉が、全部嘘だとは思っていないからです」


 レイは、黒い水面に浮かんだいくつもの名前を見た。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 天沢灯里。


 古河千景。


 倉科悠斗。


 真木彼方。


 御影遥真。


 白瀬真昼。


 御影レイ。


 そして、篠宮凪。


「名前は痛い。名前は責任を戻す。名前は、逃げたかった記憶を連れてくる。僕も何度も、A-00の方が楽だと思いました。御影レイじゃなくて、観測対象なら、接続媒体なら、番号なら、今より楽になれる気がした」


 真昼の声が遠くで小さく震えた。


「御影くん」


「大丈夫です」


 レイは答えた。


「今は、自分で言っています」


 篠宮凪は、レイを見つめる。


「なら、あなたも私です」


 黒い傘が、少し開く。


 その影が、水面に広がる。


「あなたも私です。名前に耐えきれなくなれば、同じところへ来る」


 レイは、すぐには答えられなかった。


 その言葉は、完全な嘘ではない。


 御影レイと篠宮凪は、同じアニマの根を持つ。


 同じように、名前と記憶の痛みに触れている。


 レイも、もし真昼がいなければ。


 佳乃が呼ばなければ。


 霧生が点呼しなければ。


 倉科が生きて外側から怒鳴らなければ。


 透子が失敗を消さずに立っていなければ。


 藍沢が番号を名前の代替にしないと踏みとどまらなければ。


 父の手紙が残っていなければ。


 自分も、ここへ来たかもしれない。


 名前を終わらせる側へ。


 篠宮凪は、それを知っている。


 だからこそ、刺さる。


 レイは、唇を噛んだ。


 黒い傘の下で、篠宮凪はさらに言う。


「あなたは運が良かっただけです。呼んでくれる人がいた。書いてくれる人がいた。戻る家があった。だから、まだ御影レイでいられる」


「はい」


「私には、なかった」


 その声が、初めて少しだけ低くなった。


「私は、名前が痛い時に、それを持っていろと言われただけでした。見られたくない記憶を、見られることに耐えろと言われただけでした。誰かが私の人生を観測し、記録し、分類し、そして同じ魂だからと自分のもののように扱う。それに耐えろと」


 レイは、黙って聞いた。


「だから切った。私を見ている者たちを。私と同じ根を持つ者たちを。私の記憶を奪う可能性のある者たちを。名前を残そうとする者たちを」


 真昼の方で、紙を握る音がした。


 灯里の記憶が、白い部室の奥で揺れたのだろう。


 篠宮凪は続ける。


「悪だと思いますか」


 レイは、静かに答えた。


「はい」


 篠宮凪の表情が固まる。


「理解できると言ったのに」


「理解できることと、悪くないことは違います」


「あなたは、本当に残酷ですね」


「そうかもしれない」


「私を人間に戻して、罪を覚えさせようとしている」


「はい」


「救うためではなく?」


「救うためだけじゃない」


 レイは、篠宮凪の目を見た。


「逃がさないためです」


 黒い水面が揺れる。


 篠宮凪の指が、黒刃ヌルの柄を強く握った。


 怒り。


 恐怖。


 それが、はっきり見える。


「あなたに、そんな権利があるんですか」


「ありません」


 レイは言った。


「僕一人には、ありません。だから、僕一人で裁くわけじゃない。霧生さんがいる。市警がいる。真昼が記録する。藍沢さんが分類と名前を分ける。黒江さんが事故を消さない。倉科さんが地上側にいる。母さんが呼ぶ。僕だけがあなたを決めるわけじゃない」


「なら、あなたは何をするんですか」


 レイは、一歩前へ出た。


 水が重く足に絡む。


 でも、もう止まらない。


「覚えます」


 篠宮凪が眉を寄せる。


 レイは言う。


「でも、奪いません」


 その言葉に、篠宮凪の顔がかすかに歪んだ。


「……同じことです」


「違います」


「あなたの中に、私の記憶がある。私が殺した記憶も、恐れた記憶も、切った記憶も。あなたはそれを持っている。なら、奪っている」


「僕は、最初はそうでした」


 レイは認めた。


 これまでずっと、自分は無数の人生を知っていると思っていた。


 自分の記憶だと思っていた。


 同じ魂なら、自分だと。


 誰かが死ねば、この世界で自分が一人死んだのだと。


 その傲慢さを、もう誤魔化さない。


「僕は、エミーの死を最初、自分の死みたいに見ました。倉科さんの痛みを、自分のものみたいに感じました。古河千景さんの恐怖も、彼方さんの願いも、あなたの逃げたさも、全部、自分の中に入ってくる。だから、全部僕だと思いそうになる」


 レイは、真昼の名前を思った。


 白瀬真昼。


 彼女が何度も記録してきた名前。


 人を人として分けるための名前。


「でも、違う」


 レイは言った。


「みんな、僕だったかもしれない。でも、僕じゃない」


 アガルタ核の水面が、大きく波打った。


 エミーの赤い照明が、遠くで瞬く。


 千景の作業灯が揺れる。


 倉科の工具が水面に浮かぶ。


 彼方の白い識別バンドが光になる。


 遥真の手紙が、濡れずに水の上を漂う。


 真昼のノートの文字が白く浮かぶ。


 篠宮凪の黒い傘だけが、動きを止めた。


 彼は、怒った。


 今までで一番はっきりと。


「なら、なぜ覚えている」


 声が裂けた。


「あなたのものではないなら、なぜ覚えている。エミーの痛みを。古河千景の恐怖を。真木彼方の願いを。私の恥を。私の逃げたさを。あなたのものではないなら、なぜあなたの中にある!」


 黒刃ヌルが、水面から引き抜かれた。


 刃は黒い。


 だが、その縁に、名前の白い光が反射している。


 篠宮凪は、黒刃を構えた。


「覚えることは侵害です。記録することは暴力です。呼ぶことは檻です。あなたも、白瀬真昼も、観測局も、市警も、みんな同じだ。私を世界へ縛り直そうとしている」


 レイは、避けなかった。


 足元の水が重いからではない。


 逃げれば、この問いからも逃げることになる。


 篠宮凪は、黒刃を振るった。


 刃は空間を切った。


 肉体ではない。


 名前の接続を切る刃。


 レイの右肩から左胸へ、冷たい線が走る。


 痛みは血の痛みではなかった。


 御影レイという名前の表面に、刃を当てられた感覚。


 視界の端に、A-00の文字がまた浮かぶ。


 しかし、レイは一歩も下がらない。


 篠宮凪がもう一度刃を振る。


 今度は、レイの背後に浮かぶ名前の光を狙った。


 レイは、声を出した。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 刃が止まる。


 赤いステージの光が、水面に広がる。


 エミーの名前が、黒い刃の前に浮かぶ。


 レイは続ける。


「彼女は、あなたに殺された。でも、僕じゃない。エミー・グレイス・ハーパーです」


 篠宮凪の顔が歪む。


「やめて」


 レイは止めない。


「古河千景」


 作業灯の光。


 濡れた手袋。


 安全確認票。


「彼は、あなたが最初に殺したレイ系同魂者です。僕じゃない。古河千景です」


「やめろ」


 篠宮凪の声が低くなる。


「天沢灯里」


 白いメモ。


 銀色の髪留め。


 ノクターン書房の静けさ。


「彼女は、あなたを無理に呼ばなかった。それでも、あなたに殺された。僕じゃない。真昼でもない。天沢灯里です」


 遠くで真昼が息を呑む音がした。


 それでも、彼女は言った。


「書いています」


 白い部室の中で、ペンが走る音。


 レイは続ける。


「倉科悠斗」


 工具箱。


 黄色い電車のキーホルダー。


 地上側の声。


「彼は生きている。僕じゃない。ここに飲まれてもいない。倉科悠斗です」


 通信の向こうで、倉科が怒鳴る。


『そうだ! 俺は俺だ! ついでに旧地下鉄保守課だ!』


 霧生が言う。


「自己紹介が長い」


『うるさい!』


 レイの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑いではない。


 でも、崩れそうな心に、生活の音が戻る。


 レイは、次の名前を呼ぶ。


「真木彼方」


 白い観測室の光。


 識別バンドが砕ける音。


 透子の涙。


「彼は、K-117じゃない。あなたの隠れ場所でもない。真木彼方です」


 篠宮凪が、黒刃を握り直す。


 彼の黒い傘の影がさらに薄くなる。


 レイは、父の名を呼ぶ。


「御影遥真」


 雨の研究室。


 未送信の手紙。


 レイへ。


「僕の父です。許していない。でも、R-■■だけじゃない。御影遥真です」


 佳乃の声が、遠くで小さく震えた。


『……レイ』


「いる」


 レイは、最後に黒い傘の下の青年を見た。


 篠宮凪は、首を振っていた。


 ゆっくりと。


 拒絶するように。


 懇願するように。


「呼ばないで」


 声が、初めて完全に震えた。


「それ以上、呼ばないでください」


 レイは、黒い水の中で立っている。


 刃が目の前にある。


 逃げたくなる。


 呼べば、この人は痛む。


 名前は鎖になる。


 名前は檻になる。


 それは本当だ。


 それでも、呼ばないことが、逃がすことになる名前もある。


 真昼が、遠くから言う。


「御影レイ」


 レイは答える。


「白瀬真昼」


「呼んでください」


 その声は、泣いていなかった。


 揺れていた。


 だが、逃げていなかった。


 霧生が続ける。


「名前のない相手は裁けない」


 透子。


「彼方の欠落へは、もう隠れられません」


 藍沢。


『O-00タグ、本人名照合待機。分類は本人名の代替ではありません』


 佳乃。


『レイ』


「いる」


 倉科。


『御影、終点になるな。相手も番号に逃がすな』


 レイは、黒い傘の下へ向かって言った。


「篠宮凪」


 その名前が、アガルタ核の中心に落ちた。


 黒い水が、大きく裂ける。


 黒刃ヌルが、かすかに軋む。


 篠宮凪は、崩れなかった。


 消えもしなかった。


 救われもしなかった。


 ただ、逃げ場を失った。


 O-00という分類の奥。


 K-117の欠落。


 黒い傘。


 無記層。


 それらがすべて剥がれ、篠宮凪という名前だけが彼の足元に残る。


 彼は、黒刃を落としそうになるほど手を震わせた。


「……呼ばないで」


 声は弱い。


 レイは、さらに一歩近づく。


「篠宮凪」


「やめて」


「あなたは、篠宮凪です」


「違う」


「違いません」


「私は、オメガです」


「それは分類です」


「O-00です」


「それも分類です」


「黒い傘です」


「それは、逃げるための影です」


「私は」


 篠宮凪は、言葉を失った。


 黒い傘の下で、目が揺れる。


 少年のようにも、青年のようにも、殺人者のようにも、ただ怯えた人間のようにも見えた。


 レイは、静かに言った。


「あなたは、覚えています」


 篠宮凪の唇が震える。


「覚えていない」


「覚えています」


「覚えていない」


「エミーを」


「知らない」


「古河千景を」


「知らない」


「天沢灯里を」


 篠宮凪の顔が、はっきり歪んだ。


 レイは、そこから目を逸らさない。


「真木彼方を」


「違う」


「御影遥真を」


「知らない」


「僕を」


「知らない!」


 叫びが、アガルタ核に反響した。


 黒い傘が大きく揺れる。


 黒刃ヌルが再び振り上げられる。


 だが、篠宮凪の腕は途中で止まった。


 彼の視線が、水面に落ちる。


 そこに、名前が並んでいる。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 古河千景。


 天沢灯里。


 倉科悠斗。


 真木彼方。


 御影遥真。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 そして。


 篠宮凪。


 名前は、彼を責めていた。


 同時に、彼を世界に留めていた。


 逃げることも、消えることも、もう簡単ではない。


 長い沈黙が落ちた。


 水音だけがある。


 無記層の穴は、まだ開いている。


 黒刃は、まだ彼の手にある。


 だが、篠宮凪は動けない。


 彼は、小さく息を吸った。


 ほとんど聞こえない声で、言った。


「覚えています」


 レイは、何も言わなかった。


 真昼のペンが、遠くで止まった。


 霧生も、透子も、倉科も、藍沢も、佳乃も、誰もすぐには声を出さなかった。


 篠宮凪は、黒い傘の下で震えている。


「覚えています」


 もう一度、彼は言った。


「エミー・グレイス・ハーパーを」


 黒い水が揺れる。


「古河千景を」


 作業灯が一瞬灯る。


「天沢灯里を」


 白いメモが水面に浮く。


「真木彼方を」


 白い光が遠くで瞬く。


「御影レイを」


 レイは、息を止める。


 篠宮凪は、顔を上げた。


 その目に、涙はなかった。


 救われた顔でもない。


 ただ、逃げ切れなかった人間の顔だった。


「覚えています」


 その言葉が、アガルタ核の中で、黒い傘の影をさらに薄くした。


 篠宮凪はまだ立っている。


 罪は消えていない。


 黒刃も、無記層の穴も、まだ残っている。


 だが、彼はもう、名前のない終わりへ逃げ込めない。


 レイは、自分の胸に手を当てた。


 そこにはまだ、御影レイという名前があった。


 そして目の前には、篠宮凪という名前を持ったオメガがいた。

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