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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第十章 真木彼方

 レイが立ち上がった瞬間、アガルタ核の底で別の崩壊が始まった。


 最初は、細いひびだった。


 水没した駅のホーム、その足元に流れていた名前の奔流。その中で、ひとつの番号だけが、異様に強く点滅している。


 **K-117**


 黒い水面に浮かび、沈み、また浮かぶ。


 まるで溺れている人間の手のようだった。


 レイは、その番号を見た瞬間、胸の奥を掴まれた。


 白い検査室。


 固定椅子。


 識別バンド。


 先生、と呼ぶ声。


 まだ呼ばないで、と言った少年。


 名前を呼んでほしいと願いながら、まだ呼ばないでと頼んだ少年。


 その番号が、無記層へ引かれている。


 K-117の文字が、黒い水面で崩れ始めた。


 **K-117**


 **K-11-**


 **K-1--**


 **----**


 レイは叫んだ。


「黒江さん!」


     *


 透子は、終わらない観測室の中にいた。


 観測窓が増えていた。


 先ほどまで無数に並んでいた被験者用の窓が、今は一つだけになっている。


 K-117観測室。


 窓の向こうに、白い検査着の少年が座っている。


 手首には識別バンド。


 だが、そこに書かれた番号が、目の前で崩れていた。


 K-117。


 K-11。


 K。


 空白。


 番号が消える。


 番号が消えれば、もう彼を示すものがなくなる。


 彼は名前を失ったまま、番号すら失い、Null-03の事故も、O-00が生まれた絡まりも、観測局が何をしたのかも、全部が「なかったこと」になる。


 透子は、観測窓に手をついた。


「待って」


 自分でも、誰に言ったのか分からなかった。


 少年へか。


 無記層へか。


 過去の自分へか。


 それとも、今にも消えようとしている番号へか。


 少年は、窓の向こうから透子を見ていた。


 顔は青白い。


 けれど、目だけははっきりしている。


「先生」


 その声は、先ほどより近かった。


 透子は、喉の奥で名前を押し止める。


 呼びたい。


 今度こそ呼びたい。


 だが、まだ、と言われた。


 本人がそう言った。


 ここで呼ぶことが、彼を助けるのか、もう一度切ることになるのか、分からない。


 霧生の声が、どこか遠くの取調室から響いた。


「黒江透子!」


 透子は答えた。


「います!」


「判断を急ぐな!」


「急がなければ、消えます!」


「だからって、お前の後悔で呼ぶな!」


 透子の胸に、鋭く刺さる。


 その通りだった。


 呼びたいのは、自分だ。


 あの時呼べなかった自分を、今ここで救いたい。


 少年を救うためではなく、自分の罪悪感を終わらせるために呼びたいのなら、それはまた間違いだ。


 真昼の声が重なる。


「黒江さん!」


 白い部室の遠くから、紙をめくる音と一緒に届く。


「今、何が見えていますか!」


 透子は、窓の向こうを見た。


「K-117の番号が崩れています」


「名前は?」


「呼べません」


「呼びたいですか」


「呼びたいです」


「でも、まだ?」


 透子は、目を閉じた。


 少年の声が先に答えた。


「先生、まだ呼ばないで」


 真昼は、息を呑んだようだった。


 透子は、観測窓に手を置いたまま、震える声で言った。


「まだ、なんですね」


 少年は頷いた。


「まだ、僕が僕の名前を持てていない」


 透子の指先が冷える。


「あなたは、名前を望んでいた」


「はい」


「私に、呼んでほしいと言った」


「言いました」


「それなのに、今はまだ呼ばないでと言う」


 少年は、少しだけ笑った。


 それは、子どもが大人を困らせる時の笑いではなかった。


 自分の矛盾を、自分で抱えようとしている笑いだった。


「名前がほしかったんです。でも、名前を呼ばれた瞬間に、また切られるのが怖い」


 透子は、息を止めた。


 その言葉の意味が分かる。


 観測局の白い部屋で、名前を呼んでほしいと願った少年。


 けれど、その後にあったのはNull-03だった。


 救いではなく、切断だった。


 名前を求めた先に、刃が来た。


 なら、名前を呼ばれることも怖くなる。


「私は」


 透子は声を絞る。


「私は、もう切りません」


 少年は、じっと彼女を見ている。


 信じたい。


 でも、信じきれない。


 そういう目だった。


 それを見て、透子は言葉を失った。


 信じてもらえないことを責める資格は、自分にはない。


     *


 アガルタ核の中央で、篠宮凪は黒い傘を差したまま立っていた。


 黒刃ヌルは、核の水面に突き立てられている。


 刃の周囲から、黒い亀裂が広がる。


 その亀裂の中に、K-117の番号が流れ込もうとしている。


 篠宮凪は、それを見ていた。


「そこも、消えます」


 声は穏やかだった。


「K-117も。Null-03も。観測事故も。先生の後悔も。全部」


 レイは、彼の方を見た。


「それを消したら、あなたは彼方さんの欠落に隠れたままになる」


 篠宮凪の目がわずかに動いた。


「まだ、その名前を呼べないでしょう」


「今は呼べません」


「なら、同じです」


「違う」


 レイは、言い切った。


 まだ足元は揺れている。


 名前の奔流は止まっていない。


 自分の中へ流れ込む記憶は、相変わらず境界を壊そうとしている。


 それでも、ここだけは違うと言えた。


「呼ばないことと、消すことは違う」


 篠宮凪は、少しだけ傘を傾けた。


「そうやって、また引き延ばす」


「引き延ばしてでも、間違えないようにしてる」


「先生は間違えた。観測局も間違えた。名前を求めた少年に、刃を向けた」


「はい」


 透子の声が、観測室の方から届く。


 彼女は、篠宮凪にも聞こえるように言った。


「間違えました」


 声は震えていた。


 だが、逃げなかった。


「私は、彼を観測対象として扱いました。名前を呼んでほしいと言われたのに、番号で呼んだ。処置を止められなかった。救うための刃だと言われて、切ることを許した」


 黒い水が、彼女の声に反応して揺れる。


「でも、その間違いを消しません」


 篠宮凪の表情が冷える。


「消さなければ、痛いだけです」


「痛くても、消しません」


「先生も、名前に縛られている」


「はい」


 透子は、認めた。


「私は、彼の名前に縛られています。私が呼べなかった名前に。私が番号で覆った名前に。私が失った少年に」


 霧生が低く言う。


「黒江」


「大丈夫です」


 透子は続ける。


「でも、縛られているから、もう一度間違えないでいられる」


 篠宮凪は、何も言わなかった。


 黒刃ヌルが、核の底で黒く震える。


     *


 観測窓の向こうで、少年の周囲が崩れ始めた。


 椅子が薄れる。


 心拍計が消える。


 記録端末の文字が白く抜ける。


 識別バンドのK-117が、さらに崩れる。


 透子は、窓越しに叫びそうになる。


 名前を。


 しかし、少年は首を振る。


「先生、まだ」


「でも、このままだと」


「まだ」


 少年の声は、弱い。


 けれど、はっきりしていた。


 彼はもう、ただ守られるだけの残響ではなかった。


 自分の名前を呼ぶタイミングを、自分で選ぼうとしている。


 透子は、そのことに気づいた。


 あの時、彼は選べなかった。


 観測室で、番号を付けられ、処置を決められ、切ってくださいという言葉すら、観測局の手順の中に回収された。


 今、彼は初めて「まだ」と言っている。


 それは拒絶ではない。


 自分の名前を他人に奪わせないための選択だった。


 透子は、両手を下ろした。


「分かりました」


 少年は、少しだけ目を見開く。


「待ちます」


「先生」


「あなたがいいと言うまで、呼びません」


 その時、検査室の奥に黒い刃の影が映った。


 アガルタ核の中心に突き立てられた黒刃ヌルの影が、観測室の中にも伸びてくる。


 刃は、過去と現在を貫いていた。


 Null-03として彼を切った刃。


 オメガが同魂者たちを切った刃。


 今、アガルタ核へ突き立てられ、名前の世界を終わらせようとしている刃。


 少年は、その黒い刃を見た。


 身体が震える。


 透子は、反射的に窓へ手を伸ばす。


「見なくていい」


 少年は、首を振った。


「見ます」


 透子は、黙る。


 少年は、黒刃を見つめた。


 長い沈黙。


 水音。


 遠くで真昼が名前を書き続ける音。


 霧生の点呼。


 倉科の通信。


 佳乃がレイを呼ぶ声。


 藍沢が番号と名前を分けて記録する声。


 そのすべての中で、少年は黒刃を見た。


「僕、ずっと」


 少年は言った。


「切ってほしかったんです」


 透子の顔が歪む。


「はい」


「知らない人の記憶が入ってくるのが怖かった。僕じゃなくなるのが怖かった。名前を書こうとして、手が止まるのが怖かった。だから、切れば楽になると思った」


 少年の手が、自分の左手首の識別バンドに触れる。


「でも、切られたら、僕の名前まで遠くなりました」


 透子は、涙をこぼさないように唇を噛む。


「先生」


「はい」


「もう、切らなくていい」


 その言葉は、静かだった。


 だが、アガルタ核全体に届いた。


 黒刃ヌルが、一瞬だけ震える。


 篠宮凪の表情が変わった。


 彼は初めて、明確に少年の方を見た。


「……何を」


 少年は、黒い刃から目を逸らさない。


「先生、もう切らなくていい」


 透子の目から、ついに涙がこぼれた。


 一滴だけ。


 それは観測室の白い床に落ちる前に、黒い水に吸われた。


 しかし、消えなかった。


 水面に小さな円を作った。


 透子は、震える声で聞いた。


「呼んでも、いいですか」


 少年は、透子を見た。


 その目は、まだ怖がっていた。


 でも、逃げていなかった。


 彼は、小さく頷いた。


「はい」


 透子は、深く息を吸った。


 霧生が、取調室の向こうから言う。


「黒江透子」


 透子は答える。


「います」


 真昼の声。


「黒江さん。書きます」


「お願いします」


 藍沢。


『記録保全部、本人名復帰準備。K-117タグ隔離。本人名を主記録に戻します』


 倉科。


『戻り道、持ってる。呼べ』


 佳乃の声も、遠くから届いた。


『レイ』


 レイが答える。


「いる」


 そして、レイも言った。


「黒江さん」


 透子は頷いた。


 観測窓の向こうの少年へ向き直る。


 これまで何度も喉で止めた名前。


 言えなかった名前。


 言わなかった名前。


 番号の下に隠した名前。


 まだ呼ばないことで守ってきた名前。


 今、本人が選んだ名前。


 透子は、初めて完全に呼んだ。


「真木彼方」


 その瞬間、観測室の白い壁にひびが入った。


 K-117の識別バンドが砕ける。


 砕けた破片は、黒い水に沈まない。


 白い光の粒になって、少年の周囲へ浮かぶ。


 観測端末に表示されていたK-117の文字が、一文字ずつ崩れていく。


 K。


 1。


 1。


 7。


 それらは消えるのではなく、名前の下へ移動するように沈んだ。


 分類番号は消滅しない。


 ただ、主記録ではなくなる。


 藍沢の声が震えた。


『K-117タグ、隔離成功。本人名復帰。主記録名――真木彼方』


 真昼は、白紙の旧新聞部室でノートへ書いた。


 大きく。


 はっきりと。


 **真木彼方。**


 書いた瞬間、ペン先が震えた。


 紙の白さが割れるように、名前が残る。


 レイの足元の水面にも、その名前が浮かんだ。


 **真木彼方。**


 それはもう、K-117ではなかった。


 レイの中へ流れ込んでいた白い検査室の痛みが、少し形を変える。


 消えるのではない。


 痛みは残る。


 観測事故も、Null-03も、彼方の恐怖も消えない。


 だが、それは番号の事故ではなく、真木彼方という少年に起きた出来事として記録される。


 透子は、観測窓の向こうを見つめた。


 少年――真木彼方は、立ち上がっていた。


 固定椅子から。


 ゆっくりと。


 初めて、自分の足で。


 白い検査着はそのまま。


 顔色も青白い。


 生きて戻ったわけではない。


 それでも、彼はもう観測対象の椅子に縛られていなかった。


「先生」


 透子は、涙を拭わずに答える。


「はい」


「僕は、番号じゃなかったでしょう」


 透子の顔が崩れた。


 今度は、涙を止めなかった。


「はい」


 声が震える。


 それでも、はっきり言った。


「あなたは、真木彼方です」


 真木彼方は、微笑んだ。


 子どものようでもあり、ずっと苦しんできた人のようでもある笑顔だった。


「よかった」


 透子は、窓に手をついた。


「ごめんなさい」


 真木彼方は、少しだけ首を振る。


「先生、謝るのは、後でいいです」


「後で?」


「僕は、もう戻れません」


 その言葉に、透子の表情が固まる。


 彼方は、静かに続ける。


「生きて、外へは出られません。僕はもう、ここに沈んだ記録です」


「それでも」


「でも、番号じゃなくなりました」


 透子は、声を失う。


 彼方は、白い光の中で少しずつ薄くなる。


 消えるのではない。


 記録層へ戻っていく。


 無記層ではなく。


 誰にも観測されない穴ではなく。


 名前のある記録の場所へ。


「先生」


「はい」


「次は、間違えないで」


「はい」


「僕だけじゃなくて」


 彼方の視線が、黒い傘の方へ向いた。


 篠宮凪。


 黒刃ヌル


 O-00。


 彼方は、静かに言った。


「僕の欠けたところに、隠れないで」


 その言葉は、透子へ向けたものではなかった。


 篠宮凪へ向けたものだった。


     *


 アガルタ核の中央で、黒い傘が揺れた。


 篠宮凪の足元から、黒い影が剥がれた。


 それは、これまで彼の背後にまとわりついていたものだった。


 K-117。


 Null-03。


 切ってほしいという願い。


 名前を呼んでほしいという願い。


 それらの欠落が、篠宮凪の「名前が痛い」という逃避と絡まり、O-00という活動体の足場になっていた。


 だが、今、真木彼方の名前が戻った。


 K-117は主記録ではなくなった。


 彼方の欠落は、彼方自身の記録へ戻った。


 篠宮凪の足元にあった隠れ場所が、崩れる。


 黒い傘の影が薄くなる。


 篠宮凪は、初めてわずかに後ずさった。


「違う」


 彼は呟いた。


「まだ、終われる」


 レイは、彼を見た。


 篠宮凪の輪郭が、はっきりしていく。


 O-00ではなく。


 黒い傘の活動体でもなく。


 真木彼方の欠落に隠れたものでもなく。


 篠宮凪として。


 レイは、まだ篠宮凪へ最終的な言葉を持っていない。


 だが、今、ひとつ分かった。


 もう彼方の影には隠れられない。


 罪も、恐怖も、名前も、篠宮凪自身へ戻る。


 黒刃ヌルが、核に突き刺さったまま震える。


 無記層の穴は、まだ開いている。


 だが、その縁から一つの名前が救い上げられた。


 真木彼方。


 レイは、その名前を水面に見た。


 自分だったかもしれない少年。


 でも、僕じゃない。


 真昼の声が、白い部室から届く。


「御影レイ!」


 レイは返す。


「白瀬真昼!」


 霧生。


「黒江透子、聞こえるか!」


 透子は、涙を拭いながら答える。


「黒江透子。います」


 藍沢。


『主記録更新完了。真木彼方名、記録層へ復帰。O-00との誤結合、解離を開始』


 倉科。


『御影、見えたか』


「見えました」


『なら、覚えとけ。番号じゃなかった』


「はい」


 観測室の窓の向こうで、真木彼方は最後にもう一度だけ透子を見た。


 透子は、その目を見返した。


 今度は、観測対象としてではない。


 救えなかった少年としてでもない。


 名前のある一人として。


「真木彼方」


 透子は、もう一度呼んだ。


 彼方は、微笑んだ。


 そして、白い光の粒になって、記録層の奥へ静かに沈んでいった。


 生身では戻らない。


 けれど、無記層へは落ちなかった。


 彼は、名前のある場所へ戻った。


 その事実が、アガルタ核の黒い水面に小さな光を落とした。

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