第十章 真木彼方
レイが立ち上がった瞬間、アガルタ核の底で別の崩壊が始まった。
最初は、細いひびだった。
水没した駅のホーム、その足元に流れていた名前の奔流。その中で、ひとつの番号だけが、異様に強く点滅している。
**K-117**
黒い水面に浮かび、沈み、また浮かぶ。
まるで溺れている人間の手のようだった。
レイは、その番号を見た瞬間、胸の奥を掴まれた。
白い検査室。
固定椅子。
識別バンド。
先生、と呼ぶ声。
まだ呼ばないで、と言った少年。
名前を呼んでほしいと願いながら、まだ呼ばないでと頼んだ少年。
その番号が、無記層へ引かれている。
K-117の文字が、黒い水面で崩れ始めた。
**K-117**
**K-11-**
**K-1--**
**----**
レイは叫んだ。
「黒江さん!」
*
透子は、終わらない観測室の中にいた。
観測窓が増えていた。
先ほどまで無数に並んでいた被験者用の窓が、今は一つだけになっている。
K-117観測室。
窓の向こうに、白い検査着の少年が座っている。
手首には識別バンド。
だが、そこに書かれた番号が、目の前で崩れていた。
K-117。
K-11。
K。
空白。
番号が消える。
番号が消えれば、もう彼を示すものがなくなる。
彼は名前を失ったまま、番号すら失い、Null-03の事故も、O-00が生まれた絡まりも、観測局が何をしたのかも、全部が「なかったこと」になる。
透子は、観測窓に手をついた。
「待って」
自分でも、誰に言ったのか分からなかった。
少年へか。
無記層へか。
過去の自分へか。
それとも、今にも消えようとしている番号へか。
少年は、窓の向こうから透子を見ていた。
顔は青白い。
けれど、目だけははっきりしている。
「先生」
その声は、先ほどより近かった。
透子は、喉の奥で名前を押し止める。
呼びたい。
今度こそ呼びたい。
だが、まだ、と言われた。
本人がそう言った。
ここで呼ぶことが、彼を助けるのか、もう一度切ることになるのか、分からない。
霧生の声が、どこか遠くの取調室から響いた。
「黒江透子!」
透子は答えた。
「います!」
「判断を急ぐな!」
「急がなければ、消えます!」
「だからって、お前の後悔で呼ぶな!」
透子の胸に、鋭く刺さる。
その通りだった。
呼びたいのは、自分だ。
あの時呼べなかった自分を、今ここで救いたい。
少年を救うためではなく、自分の罪悪感を終わらせるために呼びたいのなら、それはまた間違いだ。
真昼の声が重なる。
「黒江さん!」
白い部室の遠くから、紙をめくる音と一緒に届く。
「今、何が見えていますか!」
透子は、窓の向こうを見た。
「K-117の番号が崩れています」
「名前は?」
「呼べません」
「呼びたいですか」
「呼びたいです」
「でも、まだ?」
透子は、目を閉じた。
少年の声が先に答えた。
「先生、まだ呼ばないで」
真昼は、息を呑んだようだった。
透子は、観測窓に手を置いたまま、震える声で言った。
「まだ、なんですね」
少年は頷いた。
「まだ、僕が僕の名前を持てていない」
透子の指先が冷える。
「あなたは、名前を望んでいた」
「はい」
「私に、呼んでほしいと言った」
「言いました」
「それなのに、今はまだ呼ばないでと言う」
少年は、少しだけ笑った。
それは、子どもが大人を困らせる時の笑いではなかった。
自分の矛盾を、自分で抱えようとしている笑いだった。
「名前がほしかったんです。でも、名前を呼ばれた瞬間に、また切られるのが怖い」
透子は、息を止めた。
その言葉の意味が分かる。
観測局の白い部屋で、名前を呼んでほしいと願った少年。
けれど、その後にあったのはNull-03だった。
救いではなく、切断だった。
名前を求めた先に、刃が来た。
なら、名前を呼ばれることも怖くなる。
「私は」
透子は声を絞る。
「私は、もう切りません」
少年は、じっと彼女を見ている。
信じたい。
でも、信じきれない。
そういう目だった。
それを見て、透子は言葉を失った。
信じてもらえないことを責める資格は、自分にはない。
*
アガルタ核の中央で、篠宮凪は黒い傘を差したまま立っていた。
黒刃は、核の水面に突き立てられている。
刃の周囲から、黒い亀裂が広がる。
その亀裂の中に、K-117の番号が流れ込もうとしている。
篠宮凪は、それを見ていた。
「そこも、消えます」
声は穏やかだった。
「K-117も。Null-03も。観測事故も。先生の後悔も。全部」
レイは、彼の方を見た。
「それを消したら、あなたは彼方さんの欠落に隠れたままになる」
篠宮凪の目がわずかに動いた。
「まだ、その名前を呼べないでしょう」
「今は呼べません」
「なら、同じです」
「違う」
レイは、言い切った。
まだ足元は揺れている。
名前の奔流は止まっていない。
自分の中へ流れ込む記憶は、相変わらず境界を壊そうとしている。
それでも、ここだけは違うと言えた。
「呼ばないことと、消すことは違う」
篠宮凪は、少しだけ傘を傾けた。
「そうやって、また引き延ばす」
「引き延ばしてでも、間違えないようにしてる」
「先生は間違えた。観測局も間違えた。名前を求めた少年に、刃を向けた」
「はい」
透子の声が、観測室の方から届く。
彼女は、篠宮凪にも聞こえるように言った。
「間違えました」
声は震えていた。
だが、逃げなかった。
「私は、彼を観測対象として扱いました。名前を呼んでほしいと言われたのに、番号で呼んだ。処置を止められなかった。救うための刃だと言われて、切ることを許した」
黒い水が、彼女の声に反応して揺れる。
「でも、その間違いを消しません」
篠宮凪の表情が冷える。
「消さなければ、痛いだけです」
「痛くても、消しません」
「先生も、名前に縛られている」
「はい」
透子は、認めた。
「私は、彼の名前に縛られています。私が呼べなかった名前に。私が番号で覆った名前に。私が失った少年に」
霧生が低く言う。
「黒江」
「大丈夫です」
透子は続ける。
「でも、縛られているから、もう一度間違えないでいられる」
篠宮凪は、何も言わなかった。
黒刃が、核の底で黒く震える。
*
観測窓の向こうで、少年の周囲が崩れ始めた。
椅子が薄れる。
心拍計が消える。
記録端末の文字が白く抜ける。
識別バンドのK-117が、さらに崩れる。
透子は、窓越しに叫びそうになる。
名前を。
しかし、少年は首を振る。
「先生、まだ」
「でも、このままだと」
「まだ」
少年の声は、弱い。
けれど、はっきりしていた。
彼はもう、ただ守られるだけの残響ではなかった。
自分の名前を呼ぶタイミングを、自分で選ぼうとしている。
透子は、そのことに気づいた。
あの時、彼は選べなかった。
観測室で、番号を付けられ、処置を決められ、切ってくださいという言葉すら、観測局の手順の中に回収された。
今、彼は初めて「まだ」と言っている。
それは拒絶ではない。
自分の名前を他人に奪わせないための選択だった。
透子は、両手を下ろした。
「分かりました」
少年は、少しだけ目を見開く。
「待ちます」
「先生」
「あなたがいいと言うまで、呼びません」
その時、検査室の奥に黒い刃の影が映った。
アガルタ核の中心に突き立てられた黒刃の影が、観測室の中にも伸びてくる。
刃は、過去と現在を貫いていた。
Null-03として彼を切った刃。
オメガが同魂者たちを切った刃。
今、アガルタ核へ突き立てられ、名前の世界を終わらせようとしている刃。
少年は、その黒い刃を見た。
身体が震える。
透子は、反射的に窓へ手を伸ばす。
「見なくていい」
少年は、首を振った。
「見ます」
透子は、黙る。
少年は、黒刃を見つめた。
長い沈黙。
水音。
遠くで真昼が名前を書き続ける音。
霧生の点呼。
倉科の通信。
佳乃がレイを呼ぶ声。
藍沢が番号と名前を分けて記録する声。
そのすべての中で、少年は黒刃を見た。
「僕、ずっと」
少年は言った。
「切ってほしかったんです」
透子の顔が歪む。
「はい」
「知らない人の記憶が入ってくるのが怖かった。僕じゃなくなるのが怖かった。名前を書こうとして、手が止まるのが怖かった。だから、切れば楽になると思った」
少年の手が、自分の左手首の識別バンドに触れる。
「でも、切られたら、僕の名前まで遠くなりました」
透子は、涙をこぼさないように唇を噛む。
「先生」
「はい」
「もう、切らなくていい」
その言葉は、静かだった。
だが、アガルタ核全体に届いた。
黒刃が、一瞬だけ震える。
篠宮凪の表情が変わった。
彼は初めて、明確に少年の方を見た。
「……何を」
少年は、黒い刃から目を逸らさない。
「先生、もう切らなくていい」
透子の目から、ついに涙がこぼれた。
一滴だけ。
それは観測室の白い床に落ちる前に、黒い水に吸われた。
しかし、消えなかった。
水面に小さな円を作った。
透子は、震える声で聞いた。
「呼んでも、いいですか」
少年は、透子を見た。
その目は、まだ怖がっていた。
でも、逃げていなかった。
彼は、小さく頷いた。
「はい」
透子は、深く息を吸った。
霧生が、取調室の向こうから言う。
「黒江透子」
透子は答える。
「います」
真昼の声。
「黒江さん。書きます」
「お願いします」
藍沢。
『記録保全部、本人名復帰準備。K-117タグ隔離。本人名を主記録に戻します』
倉科。
『戻り道、持ってる。呼べ』
佳乃の声も、遠くから届いた。
『レイ』
レイが答える。
「いる」
そして、レイも言った。
「黒江さん」
透子は頷いた。
観測窓の向こうの少年へ向き直る。
これまで何度も喉で止めた名前。
言えなかった名前。
言わなかった名前。
番号の下に隠した名前。
まだ呼ばないことで守ってきた名前。
今、本人が選んだ名前。
透子は、初めて完全に呼んだ。
「真木彼方」
その瞬間、観測室の白い壁にひびが入った。
K-117の識別バンドが砕ける。
砕けた破片は、黒い水に沈まない。
白い光の粒になって、少年の周囲へ浮かぶ。
観測端末に表示されていたK-117の文字が、一文字ずつ崩れていく。
K。
1。
1。
7。
それらは消えるのではなく、名前の下へ移動するように沈んだ。
分類番号は消滅しない。
ただ、主記録ではなくなる。
藍沢の声が震えた。
『K-117タグ、隔離成功。本人名復帰。主記録名――真木彼方』
真昼は、白紙の旧新聞部室でノートへ書いた。
大きく。
はっきりと。
**真木彼方。**
書いた瞬間、ペン先が震えた。
紙の白さが割れるように、名前が残る。
レイの足元の水面にも、その名前が浮かんだ。
**真木彼方。**
それはもう、K-117ではなかった。
レイの中へ流れ込んでいた白い検査室の痛みが、少し形を変える。
消えるのではない。
痛みは残る。
観測事故も、Null-03も、彼方の恐怖も消えない。
だが、それは番号の事故ではなく、真木彼方という少年に起きた出来事として記録される。
透子は、観測窓の向こうを見つめた。
少年――真木彼方は、立ち上がっていた。
固定椅子から。
ゆっくりと。
初めて、自分の足で。
白い検査着はそのまま。
顔色も青白い。
生きて戻ったわけではない。
それでも、彼はもう観測対象の椅子に縛られていなかった。
「先生」
透子は、涙を拭わずに答える。
「はい」
「僕は、番号じゃなかったでしょう」
透子の顔が崩れた。
今度は、涙を止めなかった。
「はい」
声が震える。
それでも、はっきり言った。
「あなたは、真木彼方です」
真木彼方は、微笑んだ。
子どものようでもあり、ずっと苦しんできた人のようでもある笑顔だった。
「よかった」
透子は、窓に手をついた。
「ごめんなさい」
真木彼方は、少しだけ首を振る。
「先生、謝るのは、後でいいです」
「後で?」
「僕は、もう戻れません」
その言葉に、透子の表情が固まる。
彼方は、静かに続ける。
「生きて、外へは出られません。僕はもう、ここに沈んだ記録です」
「それでも」
「でも、番号じゃなくなりました」
透子は、声を失う。
彼方は、白い光の中で少しずつ薄くなる。
消えるのではない。
記録層へ戻っていく。
無記層ではなく。
誰にも観測されない穴ではなく。
名前のある記録の場所へ。
「先生」
「はい」
「次は、間違えないで」
「はい」
「僕だけじゃなくて」
彼方の視線が、黒い傘の方へ向いた。
篠宮凪。
黒刃。
O-00。
彼方は、静かに言った。
「僕の欠けたところに、隠れないで」
その言葉は、透子へ向けたものではなかった。
篠宮凪へ向けたものだった。
*
アガルタ核の中央で、黒い傘が揺れた。
篠宮凪の足元から、黒い影が剥がれた。
それは、これまで彼の背後にまとわりついていたものだった。
K-117。
Null-03。
切ってほしいという願い。
名前を呼んでほしいという願い。
それらの欠落が、篠宮凪の「名前が痛い」という逃避と絡まり、O-00という活動体の足場になっていた。
だが、今、真木彼方の名前が戻った。
K-117は主記録ではなくなった。
彼方の欠落は、彼方自身の記録へ戻った。
篠宮凪の足元にあった隠れ場所が、崩れる。
黒い傘の影が薄くなる。
篠宮凪は、初めてわずかに後ずさった。
「違う」
彼は呟いた。
「まだ、終われる」
レイは、彼を見た。
篠宮凪の輪郭が、はっきりしていく。
O-00ではなく。
黒い傘の活動体でもなく。
真木彼方の欠落に隠れたものでもなく。
篠宮凪として。
レイは、まだ篠宮凪へ最終的な言葉を持っていない。
だが、今、ひとつ分かった。
もう彼方の影には隠れられない。
罪も、恐怖も、名前も、篠宮凪自身へ戻る。
黒刃が、核に突き刺さったまま震える。
無記層の穴は、まだ開いている。
だが、その縁から一つの名前が救い上げられた。
真木彼方。
レイは、その名前を水面に見た。
自分だったかもしれない少年。
でも、僕じゃない。
真昼の声が、白い部室から届く。
「御影レイ!」
レイは返す。
「白瀬真昼!」
霧生。
「黒江透子、聞こえるか!」
透子は、涙を拭いながら答える。
「黒江透子。います」
藍沢。
『主記録更新完了。真木彼方名、記録層へ復帰。O-00との誤結合、解離を開始』
倉科。
『御影、見えたか』
「見えました」
『なら、覚えとけ。番号じゃなかった』
「はい」
観測室の窓の向こうで、真木彼方は最後にもう一度だけ透子を見た。
透子は、その目を見返した。
今度は、観測対象としてではない。
救えなかった少年としてでもない。
名前のある一人として。
「真木彼方」
透子は、もう一度呼んだ。
彼方は、微笑んだ。
そして、白い光の粒になって、記録層の奥へ静かに沈んでいった。
生身では戻らない。
けれど、無記層へは落ちなかった。
彼は、名前のある場所へ戻った。
その事実が、アガルタ核の黒い水面に小さな光を落とした。




