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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第九章 名前の奔流

 黒刃ヌルが突き立てられた場所から、アガルタ核が裂けた。


 それは爆発ではなかった。


 崩落でもない。


 世界の底にあった縫い目が、音もなくほどけるような現象だった。


 水没した駅のホームが、白紙の旧新聞部室が、終わらない観測室が、暗い取調室が、旧地下鉄の保守区画が、名前欄のない巨大な台帳が、それぞれの形を保てなくなる。


 別々の人間に別々の姿を見せていた核が、無記層へ引きずられながら、一瞬だけすべてを混ぜた。


 レイの足元で、水面が盛り上がる。


 黒い。


 だが、その黒の中に、無数の白い文字が浮かんでいた。


 名前だった。


 消されかけた名前。


 切られた名前。


 呼べなかった名前。


 呼ぶことを恐れられた名前。


 守るために非公開にされた名前。


 罪から逃がさないために呼ばれた名前。


 それらが、アガルタ核の底から一斉に噴き上がる。


 水ではなく、名前の奔流だった。


 最初に浮かんだのは、赤い光だった。


 舞台の照明。


 古いクラブの床。


 熱を持ったスポットライト。


 羽根飾りの影。


 血の匂い。


 誰かが最後まで自分の名前を手放さないように、胸の奥で震えている。


 文字が浮かぶ。


 **エミー・グレイス・ハーパー。**


 レイは、呼吸を失った。


 彼女のステージが見える。


 観客席のざわめき。


 グラスの音。


 ショーライトに照らされる横顔。


 誇り高く笑う女。


 そして、黒い傘。


 黒い刃。


 名前を切られる瞬間の痛み。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 彼女は、レイではない。


 そう分かっているはずなのに、痛みが自分の喉を通る。


 自分が踊っていた気がする。


 自分が舞台の上で血の匂いを嗅いだ気がする。


 自分が、最後に名前を失った気がする。


 水面が変わる。


 赤い光が消え、雨音が近づく。


 古いノクターン書房。


 本の匂い。


 銀色の髪留め。


 濡れた傘。


 貸出票の裏。


 丁寧な文字で書かれたメモ。


 **名前が怖いなら、今日は呼ばない。**


 文字が浮かぶ。


 **天沢灯里。**


 真昼の声に似た、でも真昼ではない少女の息遣い。


 記録する手。


 呼ばない優しさ。


 呼ばなかったことの痛み。


 ノクターン書房の青年が、名前を避けて視線を伏せる。


 灯里は、そこで踏み込まなかった。


 優しかった。


 その優しさが、後に取り返しのつかない沈黙になったのかもしれない。


 レイの胸が苦しくなる。


 その苦しさは、真昼のものではない。


 灯里のものだ。


 だが、真昼の記憶と重なって、境界が薄くなる。


 次に、地下の作業灯が揺れた。


 黄色いライト。


 古いヘルメット。


 濡れた作業手袋。


 安全確認票。


 メモ帳。


 何度も書かれた名前。


 **古河千景。

 古河千景。

 古河千景。**


 文字が浮かぶ。


 **古河千景。**


 最初に殺された同魂者。


 普通に生きようとした青年。


 自分の異常を病気だと思い、地下で働き、誰にも深く踏み込まれないまま、黒い傘に出会った人。


 レイの右手が震える。


 ペンを握っている感覚。


 安全確認票に名前を書く感覚。


 古河、と書いて、千景、と書く。


 書けた。


 まだ自分だ。


 そう思った瞬間、黒刃が入る。


 レイは呻いた。


 膝が揺れる。


 だが、名前の奔流は止まらない。


 次に、工具箱の音がした。


 金属が触れる乾いた音。


 旧地下鉄の保守通路。


 黄色い電車のキーホルダー。


 油の匂い。


 姪の声。


 誰かに「ゆう兄」と呼ばれた時の、くすぐったい安心。


 黒い封筒から戻された痛み。


 痛い。


 でも、俺の名前だ。


 文字が浮かぶ。


 **倉科悠斗。**


 今も生きている同魂者。


 同じ根を持ちながら、レイの外側で立っている大人。


 工具を握る手。


 水位線を書くチョーク。


 黒い水の前で名乗る声。


 **倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる。**


 その言葉が、奔流の中に杭のように刺さる。


 レイは、その声へ手を伸ばそうとした。


 だが、次の名前が流れ込む。


 白い検査室。


 固定椅子。


 識別バンド。


 **K-117**


 心拍音。


 観測端末。


 若い透子の白衣。


 少年の声。


 **先生、僕の名前を呼んでください。**


 文字が、浮かびかける。


 完全な名前ではない。


 まだ呼べない。


 けれど、そこにある。


 **真木彼方。**


 その名前は、声にならないまま、レイの中へ落ちた。


 知らない誰かの記憶が流れ込む恐怖。


 自分の一人称が揺れる感覚。


 知らない人生が、自分の中で泣いている感覚。


 切ってほしい。


 もう入ってこないように。


 でも、消えたいわけではない。


 名前を呼んでほしい。


 それだけだった。


 レイの目の奥が熱くなる。


 彼方の痛みは、自分の未来かもしれなかった。


 自分も、同じ椅子に座っていたかもしれない。


 自分も、先生に名前を呼んでほしいと願っていたかもしれない。


 次に、紙のめくれる音がした。


 古い研究室。


 雨の窓。


 ホワイトボード。


 R-■■の黒い滲み。


 机の上の白い封筒。


 宛名。


 **レイへ。**


 文字が浮かぶ。


 **御影遥真。**


 父の声。


 レイ。


 その一語。


 守ろうとして、隠した人。


 愛していたのかもしれない。


 利用したわけではないのかもしれない。


 でも、隠した。


 説明しなかった。


 許せない。


 それでも、R-■■だけにはしたくない。


 父さん。


 そう呼んだ瞬間の、胸の痛み。


 レイは、息を詰めた。


 名前の奔流は、さらに強くなる。


 黒い傘が開く音。


 ノクターン書房。


 白いシャツ。


 黒いカーディガン。


 店番の青年。


 黒い傘の影。


 黒刃ヌル


 名前を呼ばれる恐怖。


 名前を持つと人間に戻ってしまう恐怖。


 殺した人たちの名前を覚えてしまう恐怖。


 文字が浮かぶ。


 **篠宮凪。**


 その名前は、奔流の中でひときわ黒く光った。


 篠宮凪。


 オメガ。


 O-00。


 名前を消してきた殺人者。


 名前を恐れた人間。


 被害者の名前から逃げた者。


 レイの中に、その恐怖が流れ込む。


 見られたくなかった。


 知られたくなかった。


 人生を覗かれたくなかった。


 泣いた記憶も、惨めだった記憶も、誰かを殺した記憶も、誰にも持たれたくなかった。


 だから切った。


 だから消した。


 だから、最後には自分ごと消えようとした。


 レイの胸に、黒い穴が開く。


 分かってしまう。


 篠宮凪の恐怖が、分かってしまう。


 そのことが、怖い。


 次に、白い紙が舞った。


 旧新聞部室。


 雨の窓。


 ペン。


 ノート。


 《アガルタ観測録》。


 名前を書き続ける手。


 公開しない記録。


 消さないための非公開ファイル。


 名前を守るために書き、時には逃がさないために呼ぶ少女。


 文字が浮かぶ。


 **白瀬真昼。**


 レイは、喉を詰まらせた。


 真昼の視界が入ってくる。


 自分の署名が白瀬――になりかけた時の恐怖。


 それでもノートに白瀬真昼と何度も書いた手の震え。


 御影レイと呼んだ時の、戻ってくる感覚。


 篠宮凪と呼んだ時の、逃がさないための痛み。


 名前を呼ぶことが暴力にもなると知りながら、それでも書く覚悟。


 レイは、思わず叫ぼうとした。


 白瀬真昼。


 だが、その声は奔流に呑まれる。


 そして最後に、自分の名前が来た。


 雨の朝。


 御影家の二階。


 佳乃の声。


 学生証。


 住民記録端末。


 A-00。


 それに重なる、母の手書きメモ。


 **御影レイ。**


 名前が浮かぶ。


 **御影レイ。**


 その文字は、他のどの名前よりも近かった。


 近すぎた。


 痛い。


 重い。


 逃げられない。


 御影遥真の息子。


 御影佳乃の息子。


 アルファ。


 A-00。


 同魂者たちの記憶を見てしまう少年。


 名前を失う街で、名前を持ち続けなければならない少年。


 そのすべてが、レイの中へ一斉に流れ込む。


     *


 レイは、もう水没した駅に立っていなかった。


 どこにいるのか分からない。


 舞台にいる。


 古書店にいる。


 旧地下鉄にいる。


 保守区画にいる。


 観測室にいる。


 研究室にいる。


 旧新聞部室にいる。


 御影家にいる。


 ノクターン書房にいる。


 黒い傘の下にいる。


 すべての場所が、自分の身体の内側に重なる。


 自分の手が、エミーの手になる。


 灯里のペンになる。


 千景の作業手袋になる。


 倉科の工具を握る手になる。


 彼方の震える指になる。


 遥真の筆跡になる。


 篠宮凪の黒刃を握る手になる。


 真昼のノートを押さえる手になる。


 そして、御影レイの手がどれだったか分からなくなる。


 声が聞こえた。


 篠宮凪の声。


 いや、オメガの声。


 黒い傘の内側から、すぐ耳元で囁く。


「すべて、あなたでしょう」


 レイは、答えられない。


 違う、と言いたい。


 だが、痛みは自分の中にある。


 記憶も、自分の中にある。


 呼吸も、涙も、恐怖も、血の匂いも、紙の匂いも、全部、自分のもののようにある。


「だから苦しい」


 その通りだった。


 苦しい。


 誰かの死。


 誰かの罪。


 誰かの愛。


 誰かの後悔。


 誰かの名前。


 それらが全部、自分の胸を内側から引き裂いている。


「だから、全部消せばいい」


 黒い傘の声は、優しかった。


 責めない。


 急かさない。


 ただ、逃げ道を差し出す。


「エミーも、灯里も、千景も、悠斗も、彼方も、遥真も、真昼も、篠宮凪も、御影レイも」


 名前が、一つずつ黒い水面に落ちていく。


「全部、あなたです」


 レイの膝が崩れた。


 水の中に膝をつく。


 冷たさはない。


 代わりに、名前が体内から剥がれていく感覚がある。


 御影レイ。


 その名前が、少しずつ薄くなる。


 視界の端に、文字が浮かぶ。


 **A-00**


 今度は、いつもよりはっきりしていた。


 A-00。


 分類。


 観測対象。


 接続媒体。


 それになれば、考えなくていい。


 誰が誰かを分けなくていい。


 全部を背負う必要も、全部を分ける必要もない。


 A-00。


 それだけでいい。


 レイは、水面に手をついた。


 自分の手が、誰のものか分からない。


 御影レイの手なのか。


 篠宮凪の手なのか。


 真木彼方の手なのか。


 古河千景の手なのか。


 分からない。


 分からないまま、沈みそうになる。


 その時、声がした。


「御影レイ!」


 白瀬真昼の声だった。


 白い旧新聞部室の方から。


 水没した駅の向こうから。


 すべての白紙を突き破るように、名前が届いた。


 レイの胸に、一筋だけ線が入る。


 自分と他人の間に。


 真昼が、もう一度叫ぶ。


「御影レイ!」


 レイは、顔を上げようとする。


 だが、A-00の文字が視界に浮かぶ。


 返事をするな。


 番号になれ。


 全部を消せ。


 そう囁く。


 次の瞬間、別の声が重なった。


『レイ』


 佳乃の声。


 御影家のリビングから。


 雨の窓の向こうから。


 朝でもない時間に、息子を呼び続ける母の声。


『レイ』


 レイの指が震える。


 御影レイ。


 母が呼ぶ名前。


 端末の氏名欄にA-00が浮かんでも、破って呼び直した名前。


 レイは、息を吸った。


 まだ、声が出ない。


 そこへ、さらに別の声が入った。


『御影!』


 倉科の通信。


 ノイズだらけで、地下の水音に削られている。


 それでも、声は太い。


『御影、ひとりで終点になるな!』


 レイの目が見開かれる。


 ひとりで終点になるな。


 自分だけが同魂者ではない。


 倉科悠斗は生きている。


 地上側にいる。


 工具箱を持って、旧地下鉄の入口を守っている。


 全部が自分なら、倉科も自分になってしまう。


 それは違う。


 倉科悠斗は、倉科悠斗だ。


 それを、まだ完全には言葉にできない。


 でも、違うと感じる。


 強く。


 霧生の声が響く。


「御影レイ! 返事!」


 透子の声。


「御影さん、境界を維持してください!」


 藍沢の声。


『A-00誘引上昇。御影レイ名で応答してください』


 佳乃。


『レイ』


 真昼。


「御影レイ!」


 レイは、口を開いた。


 水が喉に入る感覚。


 黒い傘の影。


 A-00の文字。


 篠宮凪の囁き。


 全部が邪魔をする。


 それでも、彼は声を出した。


「……いる」


 小さい。


 それでも、返事だった。


 真昼の声がすぐに返る。


「白瀬真昼!」


 レイは、息を吸う。


「白瀬真昼」


 今度は、少し強く言えた。


 真昼の名前を呼んだ瞬間、白紙の旧新聞部室に文字が戻る気配がした。


 レイは、水の中で膝を立てる。


 まだ重い。


 体の中には、エミーの痛みも、灯里の優しさも、千景の恐怖も、倉科の工具の重みも、彼方の願いも、遥真の手紙も、篠宮凪の逃避も、真昼の筆圧も、全部ある。


 消えていない。


 軽くなってもいない。


 ただ、一つだけ分かった。


 それらを全部、自分だと言えば楽になる。


 全部消せば、もっと楽になる。


 でも、その楽さは、誰かの名前を二度殺す。


 レイは、片膝を立てた。


 A-00の文字が視界に浮かぶ。


 彼は、それを見る。


 逃げ道。


 分類。


 番号。


 役割。


 それに向かって、レイは言った。


「僕は、まだ」


 声が震える。


 だが、止まらない。


「御影レイです」


 水面が、大きく揺れた。


 A-00の文字が、少し遠のく。


 黒い傘の影が、不快そうに歪む。


 篠宮凪の声がする。


「まだ、言葉になっていませんよ」


 レイは、息を吐く。


「はい」


 まだ、完全な答えではない。


 名前を捨てない理由を、まだ全部は言えない。


 でも、立てる。


 立たなければ、次の言葉まで行けない。


 真昼が叫ぶ。


「御影レイ!」


 佳乃が呼ぶ。


『レイ!』


 倉科が怒鳴る。


『御影、立て! こっちはまだ入口持たせてる!』


 霧生が続ける。


「返事があるなら立て! 御影レイ!」


 透子。


「あなたは、まだ観測されています。自分の名前で戻ってください」


 藍沢。


『御影レイ名、再安定。A-00誘引、一時低下』


 レイは、両手を水の中についた。


 自分の手。


 今度は、そう思えた。


 エミーの手でも、千景の手でも、篠宮凪の手でもない。


 御影レイの手。


 震えている。


 弱い。


 痛い。


 それでも、今ここにある。


 レイは、立ち上がった。


 名前の奔流は、まだ止まっていない。


 むしろ、これからさらに強くなる。


 アガルタ核から、次の波が押し寄せている。


 真木彼方の名前が、まだ完全には戻っていない。


 篠宮凪は、黒い傘の下で待っている。


 無記層は開いたまま。


 だが、レイは立った。


 完全な答えを持たないまま。


 自分の名前だけを、かろうじて握って。


「御影レイ」


 自分で、もう一度言った。


 そして、真昼のいる方へ向かって呼んだ。


「白瀬真昼」


 白い部室の向こうから、即座に返る。


「います!」


 御影家から、佳乃の声。


『レイ』


「いる」


 旧地下鉄側から、倉科の声。


『よし。ひとりで沈むなよ』


「はい」


 レイは、黒い傘の方を見た。


 篠宮凪は、まだ微笑んでいた。


 だが、その微笑の奥に、ほんのわずかな苛立ちが混じっている。


 名前の奔流の中で、レイはようやく一歩を踏み出した。

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