第九章 名前の奔流
黒刃が突き立てられた場所から、アガルタ核が裂けた。
それは爆発ではなかった。
崩落でもない。
世界の底にあった縫い目が、音もなくほどけるような現象だった。
水没した駅のホームが、白紙の旧新聞部室が、終わらない観測室が、暗い取調室が、旧地下鉄の保守区画が、名前欄のない巨大な台帳が、それぞれの形を保てなくなる。
別々の人間に別々の姿を見せていた核が、無記層へ引きずられながら、一瞬だけすべてを混ぜた。
レイの足元で、水面が盛り上がる。
黒い。
だが、その黒の中に、無数の白い文字が浮かんでいた。
名前だった。
消されかけた名前。
切られた名前。
呼べなかった名前。
呼ぶことを恐れられた名前。
守るために非公開にされた名前。
罪から逃がさないために呼ばれた名前。
それらが、アガルタ核の底から一斉に噴き上がる。
水ではなく、名前の奔流だった。
最初に浮かんだのは、赤い光だった。
舞台の照明。
古いクラブの床。
熱を持ったスポットライト。
羽根飾りの影。
血の匂い。
誰かが最後まで自分の名前を手放さないように、胸の奥で震えている。
文字が浮かぶ。
**エミー・グレイス・ハーパー。**
レイは、呼吸を失った。
彼女のステージが見える。
観客席のざわめき。
グラスの音。
ショーライトに照らされる横顔。
誇り高く笑う女。
そして、黒い傘。
黒い刃。
名前を切られる瞬間の痛み。
エミー・グレイス・ハーパー。
彼女は、レイではない。
そう分かっているはずなのに、痛みが自分の喉を通る。
自分が踊っていた気がする。
自分が舞台の上で血の匂いを嗅いだ気がする。
自分が、最後に名前を失った気がする。
水面が変わる。
赤い光が消え、雨音が近づく。
古いノクターン書房。
本の匂い。
銀色の髪留め。
濡れた傘。
貸出票の裏。
丁寧な文字で書かれたメモ。
**名前が怖いなら、今日は呼ばない。**
文字が浮かぶ。
**天沢灯里。**
真昼の声に似た、でも真昼ではない少女の息遣い。
記録する手。
呼ばない優しさ。
呼ばなかったことの痛み。
ノクターン書房の青年が、名前を避けて視線を伏せる。
灯里は、そこで踏み込まなかった。
優しかった。
その優しさが、後に取り返しのつかない沈黙になったのかもしれない。
レイの胸が苦しくなる。
その苦しさは、真昼のものではない。
灯里のものだ。
だが、真昼の記憶と重なって、境界が薄くなる。
次に、地下の作業灯が揺れた。
黄色いライト。
古いヘルメット。
濡れた作業手袋。
安全確認票。
メモ帳。
何度も書かれた名前。
**古河千景。
古河千景。
古河千景。**
文字が浮かぶ。
**古河千景。**
最初に殺された同魂者。
普通に生きようとした青年。
自分の異常を病気だと思い、地下で働き、誰にも深く踏み込まれないまま、黒い傘に出会った人。
レイの右手が震える。
ペンを握っている感覚。
安全確認票に名前を書く感覚。
古河、と書いて、千景、と書く。
書けた。
まだ自分だ。
そう思った瞬間、黒刃が入る。
レイは呻いた。
膝が揺れる。
だが、名前の奔流は止まらない。
次に、工具箱の音がした。
金属が触れる乾いた音。
旧地下鉄の保守通路。
黄色い電車のキーホルダー。
油の匂い。
姪の声。
誰かに「ゆう兄」と呼ばれた時の、くすぐったい安心。
黒い封筒から戻された痛み。
痛い。
でも、俺の名前だ。
文字が浮かぶ。
**倉科悠斗。**
今も生きている同魂者。
同じ根を持ちながら、レイの外側で立っている大人。
工具を握る手。
水位線を書くチョーク。
黒い水の前で名乗る声。
**倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる。**
その言葉が、奔流の中に杭のように刺さる。
レイは、その声へ手を伸ばそうとした。
だが、次の名前が流れ込む。
白い検査室。
固定椅子。
識別バンド。
**K-117**
心拍音。
観測端末。
若い透子の白衣。
少年の声。
**先生、僕の名前を呼んでください。**
文字が、浮かびかける。
完全な名前ではない。
まだ呼べない。
けれど、そこにある。
**真木彼方。**
その名前は、声にならないまま、レイの中へ落ちた。
知らない誰かの記憶が流れ込む恐怖。
自分の一人称が揺れる感覚。
知らない人生が、自分の中で泣いている感覚。
切ってほしい。
もう入ってこないように。
でも、消えたいわけではない。
名前を呼んでほしい。
それだけだった。
レイの目の奥が熱くなる。
彼方の痛みは、自分の未来かもしれなかった。
自分も、同じ椅子に座っていたかもしれない。
自分も、先生に名前を呼んでほしいと願っていたかもしれない。
次に、紙のめくれる音がした。
古い研究室。
雨の窓。
ホワイトボード。
R-■■の黒い滲み。
机の上の白い封筒。
宛名。
**レイへ。**
文字が浮かぶ。
**御影遥真。**
父の声。
レイ。
その一語。
守ろうとして、隠した人。
愛していたのかもしれない。
利用したわけではないのかもしれない。
でも、隠した。
説明しなかった。
許せない。
それでも、R-■■だけにはしたくない。
父さん。
そう呼んだ瞬間の、胸の痛み。
レイは、息を詰めた。
名前の奔流は、さらに強くなる。
黒い傘が開く音。
ノクターン書房。
白いシャツ。
黒いカーディガン。
店番の青年。
黒い傘の影。
黒刃。
名前を呼ばれる恐怖。
名前を持つと人間に戻ってしまう恐怖。
殺した人たちの名前を覚えてしまう恐怖。
文字が浮かぶ。
**篠宮凪。**
その名前は、奔流の中でひときわ黒く光った。
篠宮凪。
オメガ。
O-00。
名前を消してきた殺人者。
名前を恐れた人間。
被害者の名前から逃げた者。
レイの中に、その恐怖が流れ込む。
見られたくなかった。
知られたくなかった。
人生を覗かれたくなかった。
泣いた記憶も、惨めだった記憶も、誰かを殺した記憶も、誰にも持たれたくなかった。
だから切った。
だから消した。
だから、最後には自分ごと消えようとした。
レイの胸に、黒い穴が開く。
分かってしまう。
篠宮凪の恐怖が、分かってしまう。
そのことが、怖い。
次に、白い紙が舞った。
旧新聞部室。
雨の窓。
ペン。
ノート。
《アガルタ観測録》。
名前を書き続ける手。
公開しない記録。
消さないための非公開ファイル。
名前を守るために書き、時には逃がさないために呼ぶ少女。
文字が浮かぶ。
**白瀬真昼。**
レイは、喉を詰まらせた。
真昼の視界が入ってくる。
自分の署名が白瀬――になりかけた時の恐怖。
それでもノートに白瀬真昼と何度も書いた手の震え。
御影レイと呼んだ時の、戻ってくる感覚。
篠宮凪と呼んだ時の、逃がさないための痛み。
名前を呼ぶことが暴力にもなると知りながら、それでも書く覚悟。
レイは、思わず叫ぼうとした。
白瀬真昼。
だが、その声は奔流に呑まれる。
そして最後に、自分の名前が来た。
雨の朝。
御影家の二階。
佳乃の声。
学生証。
住民記録端末。
A-00。
それに重なる、母の手書きメモ。
**御影レイ。**
名前が浮かぶ。
**御影レイ。**
その文字は、他のどの名前よりも近かった。
近すぎた。
痛い。
重い。
逃げられない。
御影遥真の息子。
御影佳乃の息子。
アルファ。
A-00。
同魂者たちの記憶を見てしまう少年。
名前を失う街で、名前を持ち続けなければならない少年。
そのすべてが、レイの中へ一斉に流れ込む。
*
レイは、もう水没した駅に立っていなかった。
どこにいるのか分からない。
舞台にいる。
古書店にいる。
旧地下鉄にいる。
保守区画にいる。
観測室にいる。
研究室にいる。
旧新聞部室にいる。
御影家にいる。
ノクターン書房にいる。
黒い傘の下にいる。
すべての場所が、自分の身体の内側に重なる。
自分の手が、エミーの手になる。
灯里のペンになる。
千景の作業手袋になる。
倉科の工具を握る手になる。
彼方の震える指になる。
遥真の筆跡になる。
篠宮凪の黒刃を握る手になる。
真昼のノートを押さえる手になる。
そして、御影レイの手がどれだったか分からなくなる。
声が聞こえた。
篠宮凪の声。
いや、オメガの声。
黒い傘の内側から、すぐ耳元で囁く。
「すべて、あなたでしょう」
レイは、答えられない。
違う、と言いたい。
だが、痛みは自分の中にある。
記憶も、自分の中にある。
呼吸も、涙も、恐怖も、血の匂いも、紙の匂いも、全部、自分のもののようにある。
「だから苦しい」
その通りだった。
苦しい。
誰かの死。
誰かの罪。
誰かの愛。
誰かの後悔。
誰かの名前。
それらが全部、自分の胸を内側から引き裂いている。
「だから、全部消せばいい」
黒い傘の声は、優しかった。
責めない。
急かさない。
ただ、逃げ道を差し出す。
「エミーも、灯里も、千景も、悠斗も、彼方も、遥真も、真昼も、篠宮凪も、御影レイも」
名前が、一つずつ黒い水面に落ちていく。
「全部、あなたです」
レイの膝が崩れた。
水の中に膝をつく。
冷たさはない。
代わりに、名前が体内から剥がれていく感覚がある。
御影レイ。
その名前が、少しずつ薄くなる。
視界の端に、文字が浮かぶ。
**A-00**
今度は、いつもよりはっきりしていた。
A-00。
分類。
観測対象。
接続媒体。
それになれば、考えなくていい。
誰が誰かを分けなくていい。
全部を背負う必要も、全部を分ける必要もない。
A-00。
それだけでいい。
レイは、水面に手をついた。
自分の手が、誰のものか分からない。
御影レイの手なのか。
篠宮凪の手なのか。
真木彼方の手なのか。
古河千景の手なのか。
分からない。
分からないまま、沈みそうになる。
その時、声がした。
「御影レイ!」
白瀬真昼の声だった。
白い旧新聞部室の方から。
水没した駅の向こうから。
すべての白紙を突き破るように、名前が届いた。
レイの胸に、一筋だけ線が入る。
自分と他人の間に。
真昼が、もう一度叫ぶ。
「御影レイ!」
レイは、顔を上げようとする。
だが、A-00の文字が視界に浮かぶ。
返事をするな。
番号になれ。
全部を消せ。
そう囁く。
次の瞬間、別の声が重なった。
『レイ』
佳乃の声。
御影家のリビングから。
雨の窓の向こうから。
朝でもない時間に、息子を呼び続ける母の声。
『レイ』
レイの指が震える。
御影レイ。
母が呼ぶ名前。
端末の氏名欄にA-00が浮かんでも、破って呼び直した名前。
レイは、息を吸った。
まだ、声が出ない。
そこへ、さらに別の声が入った。
『御影!』
倉科の通信。
ノイズだらけで、地下の水音に削られている。
それでも、声は太い。
『御影、ひとりで終点になるな!』
レイの目が見開かれる。
ひとりで終点になるな。
自分だけが同魂者ではない。
倉科悠斗は生きている。
地上側にいる。
工具箱を持って、旧地下鉄の入口を守っている。
全部が自分なら、倉科も自分になってしまう。
それは違う。
倉科悠斗は、倉科悠斗だ。
それを、まだ完全には言葉にできない。
でも、違うと感じる。
強く。
霧生の声が響く。
「御影レイ! 返事!」
透子の声。
「御影さん、境界を維持してください!」
藍沢の声。
『A-00誘引上昇。御影レイ名で応答してください』
佳乃。
『レイ』
真昼。
「御影レイ!」
レイは、口を開いた。
水が喉に入る感覚。
黒い傘の影。
A-00の文字。
篠宮凪の囁き。
全部が邪魔をする。
それでも、彼は声を出した。
「……いる」
小さい。
それでも、返事だった。
真昼の声がすぐに返る。
「白瀬真昼!」
レイは、息を吸う。
「白瀬真昼」
今度は、少し強く言えた。
真昼の名前を呼んだ瞬間、白紙の旧新聞部室に文字が戻る気配がした。
レイは、水の中で膝を立てる。
まだ重い。
体の中には、エミーの痛みも、灯里の優しさも、千景の恐怖も、倉科の工具の重みも、彼方の願いも、遥真の手紙も、篠宮凪の逃避も、真昼の筆圧も、全部ある。
消えていない。
軽くなってもいない。
ただ、一つだけ分かった。
それらを全部、自分だと言えば楽になる。
全部消せば、もっと楽になる。
でも、その楽さは、誰かの名前を二度殺す。
レイは、片膝を立てた。
A-00の文字が視界に浮かぶ。
彼は、それを見る。
逃げ道。
分類。
番号。
役割。
それに向かって、レイは言った。
「僕は、まだ」
声が震える。
だが、止まらない。
「御影レイです」
水面が、大きく揺れた。
A-00の文字が、少し遠のく。
黒い傘の影が、不快そうに歪む。
篠宮凪の声がする。
「まだ、言葉になっていませんよ」
レイは、息を吐く。
「はい」
まだ、完全な答えではない。
名前を捨てない理由を、まだ全部は言えない。
でも、立てる。
立たなければ、次の言葉まで行けない。
真昼が叫ぶ。
「御影レイ!」
佳乃が呼ぶ。
『レイ!』
倉科が怒鳴る。
『御影、立て! こっちはまだ入口持たせてる!』
霧生が続ける。
「返事があるなら立て! 御影レイ!」
透子。
「あなたは、まだ観測されています。自分の名前で戻ってください」
藍沢。
『御影レイ名、再安定。A-00誘引、一時低下』
レイは、両手を水の中についた。
自分の手。
今度は、そう思えた。
エミーの手でも、千景の手でも、篠宮凪の手でもない。
御影レイの手。
震えている。
弱い。
痛い。
それでも、今ここにある。
レイは、立ち上がった。
名前の奔流は、まだ止まっていない。
むしろ、これからさらに強くなる。
アガルタ核から、次の波が押し寄せている。
真木彼方の名前が、まだ完全には戻っていない。
篠宮凪は、黒い傘の下で待っている。
無記層は開いたまま。
だが、レイは立った。
完全な答えを持たないまま。
自分の名前だけを、かろうじて握って。
「御影レイ」
自分で、もう一度言った。
そして、真昼のいる方へ向かって呼んだ。
「白瀬真昼」
白い部室の向こうから、即座に返る。
「います!」
御影家から、佳乃の声。
『レイ』
「いる」
旧地下鉄側から、倉科の声。
『よし。ひとりで沈むなよ』
「はい」
レイは、黒い傘の方を見た。
篠宮凪は、まだ微笑んでいた。
だが、その微笑の奥に、ほんのわずかな苛立ちが混じっている。
名前の奔流の中で、レイはようやく一歩を踏み出した。




