第八章 アガルタ核
黒い裂け目の向こうへ足を踏み入れた瞬間、音が変わった。
それまでは、水音だった。
地下のどこかで溜まった水が流れる音。
古い排水路を叩く雨水の音。
線路の下を抜けていく地下水の音。
だが、裂け目の先にあったのは、水音というにはあまりにも大きかった。
街の底で、何かが息をしている。
そんな音だった。
ざあ、とも、どくん、とも聞こえる。
水が落ちているのか。
記録が流れているのか。
名前が削れていく音なのか。
レイには、最初から分からなかった。
ただ、その音の中に、無数の声が混じっていることだけは分かった。
呼びかける声。
途中で途切れる声。
名乗ろうとして、名前の先を失う声。
誰かを呼んだのに、返事が返らない声。
そして、それらすべての下に、黒い傘が開くような低い音がある。
ばさり。
アガルタ核。
その名を何度も聞いてきた。
観測局が追い、御影遥真が沈み、篠宮凪が向かった場所。
都市の心臓であり、記録の排水口。
無記層へつながる裂け目。
けれど、そこに巨大な機械はなかった。
神殿もなかった。
白い研究施設の最深部でもなければ、地下水の大聖堂でもない。
レイの目に映ったのは、駅だった。
水に沈んだ、無数のホーム。
線路は何本もある。
だが、どの線路も水の下に消えている。
ホームは遠くまで続いているのに、行先表示はない。駅名もない。柱に貼られた案内板には、かつて誰かの名前だったらしい空白が並んでいる。
ベンチには、誰かが座っていた跡がある。
改札機は動いていない。
それでも、次発表示だけが点滅している。
何も表示しないまま。
次の人生。
次の記録。
次の同魂者。
それらを示すはずの場所が、すべて水に沈んでいる。
レイは、足元を見た。
水は足首まである。
冷たい。
けれど濡れない。
身体ではなく、記憶に触れている。
隣にいたはずの真昼がいない。
霧生も、透子も、倉科もいない。
レイは息を呑んだ。
「白瀬真昼」
声は、広いホームに反響した。
返事は、すぐにはなかった。
心臓が冷える。
もう一度呼ぼうとした時、遠くから声が返った。
「御影レイ!」
真昼の声。
ただし、姿は見えない。
レイは胸を押さえた。
「いる!」
別の方向から、霧生の声がした。
「点呼! 聞こえる奴は返事しろ!」
その声は、駅ではなく、もっと狭く暗い場所から聞こえた。
*
霧生仁には、そこは取調室に見えていた。
暗い。
古い。
天井の蛍光灯が一本だけ点いている。
机がある。
向かいの椅子がある。
壁には時計があるが、針がない。
書類棚には事件ファイルが並んでいる。
ただし、ファイルの背表紙に被害者名がない。
事件番号だけがある。
犯人名もない。
被疑者不詳。
被害者不詳。
関係者不詳。
それなのに、机の上には供述調書が山のように積まれている。
どの調書も、冒頭の氏名欄が空白だった。
霧生は、椅子に座っていた。
いつの間にか座らされていた。
向かいの椅子には、誰かがいる。
顔が見えない。
性別も年齢も分からない。
ただ、声だけがする。
「名前を確認できません」
霧生は立ち上がった。
「ふざけるな」
「事件番号を提示してください」
「名前だ」
「事件番号を提示してください」
「名前を言え」
「記録がありません」
机の上のファイルが、勝手に開く。
白紙。
白紙。
白紙。
霧生は、舌打ちした。
「嫌な取調室だな」
その時、遠くから真昼の声が聞こえた。
「霧生さん!」
続いてレイ。
「霧生仁!」
霧生は、顔を上げる。
「いる!」
暗い取調室の壁に、ひびが入った。
別の場所から透子の声がする。
「黒江透子、います!」
倉科。
「倉科悠斗! 旧地下鉄保守課、まだ地上側にいる!」
霧生は、机を拳で叩いた。
「名前を言え! 返事しろ! 返事がある限り、事件は終わってない!」
その声は、暗い取調室の壁を越えた。
*
真昼には、そこは旧新聞部室に見えていた。
ただし、終わりがない。
机が並んでいる。
椅子が並んでいる。
掲示板がある。
窓がある。
だが、外は雨ではない。
白い。
何も書かれていない白紙が、窓の外まで無限に続いている。
床にも、机にも、壁にも、白紙が積まれている。
新聞用紙。
ノート。
原稿用紙。
観測記録。
貸出票。
報告書。
手紙。
すべて白紙。
書かれる前の紙。
あるいは、書かれた後にすべて消えた紙。
真昼は、机の前に立っていた。
目の前に、自分の端末がある。
《アガルタ観測録》の管理画面。
記事タイトル欄は空白。
本文欄も空白。
署名欄には、
**白瀬――**
とだけ表示されている。
真昼は、すぐにノートを開こうとした。
だが、手元のノートも白い。
朝から何度も書いた自分の名前も、御影レイの名前も、篠宮凪の名前も、古河千景の名前も、真木彼方を守る未呼称の記録も、すべて白紙になっている。
喉が詰まる。
書かなければ。
今、書かなければ消える。
真昼はペンを握った。
紙へ押し当てる。
インクが出ない。
「嘘」
声が震えた。
ペンを振る。
何度も書こうとする。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
頭の中では書ける。
だが、紙に落ちない。
その時、遠くからレイの声が聞こえた。
「白瀬真昼!」
真昼は、息を吸った。
「御影レイ!」
インクが出た。
紙の上に、震えた文字が浮かぶ。
**白瀬真昼。**
次の行。
**御影レイ。**
白紙の部室の奥で、何かが揺れた。
霧生の声。
「名前を言え! 返事しろ!」
透子の声。
「黒江透子!」
倉科の声。
「倉科悠斗!」
藍沢の声が、端末越しにではなく、部屋の書類棚の奥から聞こえた。
「藍沢環。接続維持」
真昼は、ペンを握り直した。
まだ書ける。
なら、まだ残せる。
*
透子には、終わらない観測室に見えていた。
K-117観測室と似ている。
だが、そこには窓がいくつもあった。
すべての窓の向こうに、別々の被験者がいる。
K-117。
A-00。
O-00。
C-04。
R-■■。
それぞれの椅子。
それぞれの識別バンド。
それぞれの記録端末。
だが、誰の顔も見えない。
名前欄は空白。
数値だけが流れる。
自己名保持率。
アニマ接続率。
記憶混線指数。
無記層沈降リスク。
観測可能性。
制御可能性。
透子は、観測室の中央に立っていた。
白衣を着た若い自分が、向こう側にいる。
端末を持ち、数値を見ている。
その背後で、少年の声がした。
「先生」
透子は、振り向く。
そこには誰もいない。
別の窓から、また声。
「先生、僕の名前を」
透子は、口を開きかける。
呼びたい。
だが、ここはまだ呼ぶ場所ではない。
真木彼方。
その名前は、喉の奥で止める。
代わりに言う。
「黒江透子」
自分の名前。
若い自分が、こちらを見る。
その顔には、理解できないという表情がある。
なぜ名前を言うのか。
なぜ番号では駄目なのか。
透子は、若い自分へ言った。
「あなたは、間違えた」
若い透子は答えない。
「でも、今の私は、もう同じ間違いをしない」
窓の向こうで、K-117の識別バンドが揺れた。
少年の声が、小さく聞こえる。
「先生、まだ」
「はい」
透子は答える。
「まだ呼ばない。でも、消さない」
*
倉科には、旧地下鉄の保守区画に見えていた。
ただし、すべてが水に沈んでいる。
工具棚。
制御盤。
水位計。
通路。
ゲート。
そして、足元に浮かぶ黄色い電車のキーホルダー。
ひよりからもらったものと同じ形。
だが、拾おうとすると、少し遠ざかる。
遠くで、誰かが言う。
「保守員二号」
倉科は振り返る。
無数の作業服の影がいる。
全員、顔がない。
胸には番号だけ。
保守員一号。
保守員二号。
誘導担当。
排水担当。
電源担当。
誰も名前で呼ばれない。
仕事はできる。
地上へ戻らなくても、作業は続けられる。
ここにいれば、痛みも少ない。
倉科悠斗という名前にくっついている生活も、姪の声も、黒い封筒で返された痛みも、少し遠くなる。
だが、遠くで声がした。
「倉科悠斗!」
レイの声だった。
続いて真昼。
「倉科さん!」
霧生。
「倉科悠斗、返事!」
倉科は、舌打ちした。
「うるせえな」
そう言って、笑った。
「倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる!」
キーホルダーが、足元へ戻ってきた。
倉科はそれを拾い上げ、工具箱につけ直した。
「俺は保守員二号じゃない。ひよりのゆう兄だ」
*
藍沢環は、現実の記録保全部にいた。
しかし、彼女もまた、アガルタ核の姿を見ていた。
端末の画面が変質していた。
そこに映っているのは、巨大な記録台帳だった。
紙ではない。
データでもない。
天井まで届くほど巨大な台帳が、無数に並んでいる。
すべてのページに欄がある。
識別番号。
分類。
発生時刻。
関連事象。
危険度。
処理状況。
保全状態。
だが、氏名欄だけがない。
最初から作られていない。
藍沢は、画面越しにその台帳を見た。
記録としては安定している。
番号は美しく並ぶ。
分類は乱れない。
検索性は高い。
だが、誰の記録なのか分からない。
この台帳は、完全であるように見えて、最も大事な欄を持たない。
藍沢は、青灰色の手袋を外した。
素手で端末に触れる。
指先が冷える。
「藍沢環」
自分の名前を言う。
台帳の一ページに、初めて氏名欄が現れた。
空白の欄。
まだ誰の名前も入っていない。
それでも、欄ができた。
藍沢は、端末へ入力する。
**氏名欄、作成。
識別番号は本人名の代替として使用しない。**
画面の向こうで、無数の台帳がざわめいた。
*
現実側で、御影佳乃は電話を握っていた。
御影家のリビング。
窓の外は雨。
テーブルの上には、住民記録端末、破れた封筒の破片、レイの幼い頃の写真がある。
佳乃は、アガルタ核の中へは行けない。
そこへ入る資格も、力も、技術もない。
母であることは、観測局の深層に入る権限にはならない。
だが、声は届く。
何度も途切れそうになる通信に、佳乃は息子の名前を乗せる。
「レイ」
返事は、すぐには来ない。
ノイズ。
水音。
誰かの呼ぶ声。
そして、かすかに。
『いる』
佳乃は、目を閉じた。
「レイ」
『いる』
「御影レイ」
『いる』
彼女は、それだけを続ける。
朝ではない。
起こす時間ではない。
それでも、佳乃は息子を呼ぶ。
レイ。
帰ってくるための名前として。
*
レイの見ている水没した駅に、声が戻ってきた。
白瀬真昼。
霧生仁。
黒江透子。
倉科悠斗。
藍沢環。
御影佳乃。
それぞれの名前が、違う方向から届く。
同じ場所にはいない。
同じものを見ていない。
それでも、名前が互いを結んでいる。
手を繋いでいるのではない。
一つに混ざっているのでもない。
別々の場所に立ったまま、呼び合っている。
御影遥真の声が言っていた。
名前を持って、別々に立て。
レイは、水没したホームを歩き出した。
水は足首から膝へ、膝から腰へと上がっていく。
濡れない。
だが、重い。
水の中には、無数の記憶がある。
エミーの赤い照明。
古河千景の作業灯。
倉科の工具。
彼方の識別バンド。
遥真の手紙。
真昼のノート。
佳乃の声。
それらが、まだ形を持たないまま足元を流れている。
ホームの中央。
黒い傘を差した青年が立っていた。
篠宮凪。
もう、顔は隠れていない。
傘の影は深いが、その下の表情は見える。
疲れている。
怯えている。
それでも、静かだ。
黒いコート。
濡れたような髪。
片手に黒刃。
刃は、今までよりも輪郭がはっきりしていた。
アガルタ核の中心に近づいたことで、黒刃は自分の故郷へ戻ったように安定している。
篠宮凪は、レイを見た。
「来たんですね」
声は穏やかだった。
ノクターン書房で聞いた店番の声に近い。
だが、もう隠れていない。
「来ました」
レイは答えた。
「御影レイとして」
篠宮凪は、少しだけ笑う。
「まだ、その名前を持っている」
「持っています」
「重いでしょう」
「重いです」
「痛いでしょう」
「痛いです」
「なら、なぜ」
篠宮凪は、傘を少し傾けた。
周囲の水没したホームが、別の姿を見せる。
真昼の白紙の部室。
透子の観測室。
霧生の取調室。
倉科の保守区画。
藍沢の台帳。
それらが一瞬重なり、また離れる。
「ここなら、終われます」
篠宮凪は言った。
「名前のある世界も、名前に縛られるあなたも」
レイの足元の水が、急に冷たくなる。
終われる。
その言葉は、甘かった。
ひどく甘い。
名前があるから、痛い。
レイは、それを知っている。
エミーの記憶を見た時。
古河千景の死を受けた時。
倉科の痛みを共有した時。
彼方の声を聞いた時。
父の手紙を読んだ時。
篠宮凪を呼んだ時。
名前はいつも、痛みと一緒にあった。
名前を持つということは、逃げられないということだ。
責任から。
過去から。
誰かの痛みから。
誰かの愛から。
誰かに呼ばれてしまうことから。
A-00になれば楽かもしれないと思った。
名前のない駅で、番号だけで済む世界が少し楽に見えた。
今、篠宮凪はその先を示している。
番号すらいらない場所。
呼ばれない場所。
覚えなくていい場所。
アルファもオメガも、最初からなかったことになる場所。
レイは、答えようとした。
だが、言葉が出ない。
名前を捨てない理由。
痛いのに持つ理由。
鎖にもなるものを、なぜ手放さないのか。
まだ、言葉にできない。
篠宮凪は、その沈黙を見ていた。
「あなたは、優しい人たちに呼ばれている」
「……はい」
「母親。記録者。刑事。観測者。生きている同魂者。救えなかった少年の影。父親の声」
篠宮凪の目が、黒い水のように揺れる。
「それは、救いに見えますね」
レイは黙っている。
「でも、呼ばれるたびに、あなたは戻らなければならない。戻れば、覚えなければならない。覚えれば、痛む。名前は、あなたを世界へ縛る鎖です」
レイは、拳を握った。
「鎖、かもしれない」
ようやく出た声は、弱かった。
篠宮凪が、わずかに首を傾げる。
「認めるのですか」
「認めます」
レイは、足元の水を見る。
そこに映る自分の顔は、揺れている。
「名前は、痛い。名前は、逃げられなくする。僕は何度も、A-00の方が楽だと思った。御影レイじゃなくて、何かの番号ならいいと思った。全部、分かります」
篠宮凪の表情が、少しだけ緩む。
共感を得たと思ったのかもしれない。
だが、レイは続けられなかった。
その先の言葉が見つからない。
でも、名前を捨てたくない理由は、確かにどこかにある。
母の声。
真昼のノート。
霧生の点呼。
倉科の「まだ地上側にいる」。
透子の「まだ呼ばない」。
藍沢の「本人名の代替ではありません」。
父の手紙。
それらは、ばらばらにある。
まだ一つの答えにならない。
篠宮凪は、静かに黒刃を持ち上げた。
「まだ、言えないのですね」
レイの背筋が冷えた。
黒刃の先が、足元の水面へ向く。
水面には、無数の名前が沈んでいる。
その中心。
アガルタ核の底。
黒い裂け目が脈打っている。
「なら、先に終わらせます」
「やめろ」
レイは一歩踏み出した。
だが、水が重い。
足が動かない。
篠宮凪は、黒い傘の下で微笑む。
その微笑は、救いを信じている人のものだった。
だからこそ、怖かった。
「ここなら、誰もあなたをアルファと呼ばない」
刃が、水面へ近づく。
「誰も私をオメガと呼ばない」
黒刃が、アガルタ核の水面に触れる。
「誰も、篠宮凪を呼ばない」
その瞬間、遠くで真昼が叫んだ。
「篠宮凪!」
霧生の声。
「止まれ!」
佳乃の声。
『レイ!』
レイは叫ぶ。
「篠宮凪!」
だが、黒刃は止まらなかった。
篠宮凪は、刃を逆手に持ち直し、アガルタ核の中心へ突き立てた。
音はなかった。
世界が一瞬、白く抜けた。
次に、すべての水が黒くなった。
駅も、部室も、観測室も、取調室も、保守区画も、記録台帳も。
それぞれの見ていた核の姿が、一斉に裂ける。
底から、何も記録しない層が口を開いた。
無記層接続。
始まった。
レイの足元から、名前が剥がれ始めた。
御影レイ。
白瀬真昼。
霧生仁。
黒江透子。
倉科悠斗。
藍沢環。
御影佳乃。
篠宮凪。
それらの名前が、水面に浮かび、黒い穴へ流れようとする。
篠宮凪は、黒い傘の下で静かに言った。
「名前のある世界を、終わらせましょう」
その声は、水音よりも深く、アガルタ核の底へ沈んでいった。




