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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第七章 観測応用部門、核侵入

 御影遥真の研究室を抜けた先は、通路ではなかった。


 最初は、細い廊下に見えた。


 本棚の奥に開いた隙間。


 古い研究室からさらに地下深くへ降りる、秘密の通路。


 だが、数歩進むうちに、廊下の輪郭は変わっていった。


 壁が遠くなる。


 天井が高くなる。


 床の感触が、コンクリートから濡れた紙のようなものへ変わる。


 足元に文字が浮かんでいる。


 人名ではない。


 番号。


 分類。


 記録タグ。


 **A-00**


 **O-00**


 **K-117**


 **R-■■**


 **C-04**


 **Null-03**


 それらが、水面に沈んだ駅名のように足元へ並び、踏むたびに薄く揺れた。


 真昼は、足を止めそうになった。


 数字と記号だけの道。


 そこに人の名前はない。


 これまで何度も見てきた番号たちが、まるで道案内のように奥へ伸びている。


 レイの顔色も悪かった。


 A-00の文字を踏むたび、わずかに肩が揺れる。


 真昼はすぐに言った。


「御影レイ」


 レイは返す。


「白瀬真昼」


 霧生仁が振り向かずに言う。


「遅れるな。名前も落とすな」


「言い方が荷物みたいです」


 真昼が言う。


「実際、荷物より落とすと面倒だ」


「否定できません」


 倉科悠斗は、工具箱を抱え直しながら周囲を見ていた。


「ここ、線路じゃないのに線路っぽいな」


「何がですか」


 レイが聞く。


「行き先が決まってる感じ。踏んだら勝手に運ばれるみたいな」


 黒江透子が頷く。


「アガルタ核へ近づいています。空間そのものが記録の流路になっているのでしょう」


「また難しい言い方が来た」


「簡単に言うと、道に見えているだけで、本当は名前や記録が流される水路です」


「もっと嫌になった」


「正しい反応です」


 通信端末から藍沢環の声が入る。


『位置情報が不安定です。こちらの地図上では、皆さんの現在地が旧地下鉄、観測局廃棄区画、御影遥真旧研究室、無名駅ホームの四か所に同時表示されています』


 霧生が言う。


「つまり迷子か」


『通常の意味では、はい』


「通常じゃない意味では?」


『複数の記録層を同時に通過しています』


「やっぱり迷子だな」


 藍沢は否定しなかった。


 通路の奥で、金属音がした。


 かちり。


 かちり。


 測定器の起動音。


 警告灯の点滅。


 人工的な足音。


 霧生が手を上げる。


 全員が止まった。


 暗い通路の先に、白い光が浮かぶ。


 それは懐中ライトではなかった。


 観測局支給の深層作業灯。


 無名駅の闇を切るには冷たすぎる光。


 数人の人影が現れた。


 濃紺の防護コート。


 銀色の識別章。


 携帯端末。


 認知安定ヘッドセット。


 円柱状の金属杭を収めた黒いケース。


 観測応用部門。


 その中心に、久我瀬玲央がいた。


 彼は、こんな場所でも姿勢を崩していなかった。


 髪も乱れていない。


 コートの襟も整っている。


 ただ、胸元の職員証だけが奇妙だった。


 名前欄が薄れている。


 **久我瀬玲央**


 その文字のうち、玲央の部分が白く霞んでいる。


 代わりに、職員番号が濃く表示されていた。


 **OAD-01**


 霧生は、それを見て口元を歪めた。


「先に来やがったか」


 久我瀬は、穏やかに答える。


「別ルートです。観測局には、核周辺へ向かう深層接続経路が複数存在します」


「勝手に潜ったな」


「緊急災害対応です」


「こっちも緊急捜査だ」


「令状は?」


「通る。今、上が怒鳴ってる」


「まだ通っていないのですね」


「お前が未成年を媒体にしようとしてる命令書よりは、ましな紙になる」


 久我瀬は、霧生の挑発には乗らなかった。


 視線をレイへ移す。


「御影レイさん。ここから先は、A-00反応が急激に高まります。あなたが自力で進むことは危険です」


 レイは答えた。


「A-00として回収される方が、もっと危険です」


「感情的判断です」


「名前で判断しているだけです」


 久我瀬は、わずかに目を細めた。


「名前は、ここでは不安定です」


 藍沢の声が通信から割り込む。


『不安定でも、本人名です』


 久我瀬が端末へ視線を落とす。


「藍沢主任。記録保全部は正式に撤退命令を受けているはずです」


『記録保全部第一記録保全課主任として、撤退命令に異議を記録済みです。現在は、市警の現場同行要請に基づき、通信支援を継続しています』


「越権です」


『はい。越権として記録してください』


 霧生が小さく笑った。


「言い慣れてきたな、藍沢」


『不本意です』


「でも言うんだろ」


『必要ですので』


 久我瀬の背後にいた職員が、ケースを床に置いた。


 中には、金属製の杭が三本入っている。


 細長い円柱。


 表面には観測局の識別刻印。


 **O-00 CONTROL PILE**


 **A-00 COUNTER ANCHOR**


 **NULL-LAYER FLOW REGULATOR**


 英字の刻印が、黒い水の光を受けて鈍く光っている。


 真昼は、それを見ただけで嫌な感覚を覚えた。


 杭。


 固定するもの。


 逃げないようにするもの。


 だが、そこに人名はない。


 あるのはO-00、A-00、NULL-LAYER。


 篠宮凪も、御影レイも、どこにもない。


「それで何をするつもりですか」


 真昼が聞いた。


 久我瀬は、真昼へ顔を向ける。


「O-00沈降経路を物理的に固定します。同時にA-00を対向媒体として接続し、無記層への流出を閉じる」


「御影くんの同意は」


「緊急災害対応下では、現場判断により省略可能です」


「篠宮凪さんの名前は」


「不要です」


「不要?」


「O-00は、すでに深層活動体です。個人名は制御上の誤差になります」


 真昼の目が冷えた。


「誤差」


「はい」


 久我瀬は、淡々と言った。


「名前は誤差です。番号と機能が残れば、管理は可能です」


 その一言で、空気が凍った。


 レイは、息を止めた。


 真昼の指がノートを握りしめる。


 透子の表情が消える。


 倉科が低く「うわ」と呟いた。


 霧生は、久我瀬を睨んだ。


「お前、今、自分で何言ったか分かってるか」


「分かっています」


「なら重症だ」


 通信の向こうで、藍沢の声が入る。


『久我瀬主任』


「何でしょう」


『番号だけが残った状態を、管理とは呼びません』


 久我瀬は、わずかに眉を動かした。


『それは、記録の残骸です。人間の管理ではありません。名前が揺らぐから番号で仮止めする。それは必要です。ですが、本人名を誤差として切り捨てた瞬間、番号は保全杭ではなく、削除命令になります』


「理想論です」


『いいえ。記録保全部の実務です』


「実務で都市は救えません」


『番号だけでも救えません』


 久我瀬は、通信を切ろうと端末に触れた。


 しかし、端末の表示が一瞬乱れた。


 職員証と同じように、画面上の彼の名前が薄れる。


 **久我瀬――**


 残ったのは、


 **主任研究官**


 そして、


 **OAD-01**


 久我瀬は、その表示を見た。


 表情は変わらない。


 だが、指先だけがわずかに止まった。


 真昼は、その小さな変化を見逃さなかった。


「名前、薄れてますよ」


「問題ありません」


「本当に?」


「職員番号は残っています」


「それで、あなたはあなたなんですか」


 久我瀬は答えなかった。


 代わりに、背後の職員へ指示する。


「制御杭、設置開始」


 観測応用部門の職員たちが動いた。


 床に黒いケースを展開し、三本の杭を取り出す。


 そのうち一本を、足元のA-00表示の上へ。


 一本を、O-00表示が浮かんでいる黒い水際へ。


 残る一本を、通路奥の暗い穴の手前へ。


 穴。


 そこには、まだ見えていないが、無記層への裂け目があるのだろう。


 藍沢の通信が警告を発する。


『やめてください。そこは無記層接続前縁です。外部杭を打てば、流路が固定されるのではなく、拡張される可能性があります』


 久我瀬は答えない。


 職員の一人が杭を起動する。


 低い機械音。


 杭の表面に青白い文字が走る。


 **CONTROL START**


 次の瞬間、足元の番号が揺れた。


 A-00。


 O-00。


 K-117。


 R-■■。


 Null-03。


 それらが、床の上で液体のように溶け始める。


 真昼は息を呑む。


「番号が」


 藍沢の声が鋭くなる。


『番号保持率低下。異常です。無記層近傍では、識別番号も安定しません』


 久我瀬の背後で、職員の一人が自分の端末を見て固まった。


「主任、職員番号が」


 その声は震えていた。


 彼の端末には、表示がある。


 名前欄はすでに空白。


 職員番号も、崩れ始めている。


 **OAD-04**


 が、


 **OAD-0-**


 になり、


 さらに、


 **---**


 へ近づいていく。


「記録タグ再固定」


 久我瀬が命じる。


「認知安定タグを起動」


 職員たちが慌てて首元のタグを操作する。


 だが、タグの表示も乱れる。


 名前はない。


 番号も欠ける。


 残るのは、機能だけ。


 **観測員**


 **接続担当**


 **杭操作**


 **補助者**


 その文字が胸元に浮かぶ。


 倉科が、低く言った。


「終わってるだろ、これ」


 透子が続ける。


「名前が消え、番号も崩れ、機能だけが残っている」


 霧生が言う。


「久我瀬、止めろ。お前の理屈が今そこで壊れてる」


「まだ制御可能です」


「見えてねえのか」


「見えています」


「じゃあ何で止めない」


「ここで止めれば、無記層への沈降を止める手段を失います」


「その杭が穴を広げてんだよ」


 久我瀬は、初めて声を強めた。


「名前を呼び合っているだけで都市が救えるなら、観測局は不要です」


 霧生も低く返す。


「その観測局が何度失敗したか、ここまで歩いて見てきただろうが」


「失敗を恐れて手を止めることはできません」


「失敗を認めずに同じことするのは、手を止めるより悪い」


 その時、O-00制御杭が黒く染まった。


 青白い文字が、一斉に消える。


 杭の表面から、黒い水が逆流するように噴き出した。


 水ではない。


 名前のない記録。


 消された呼び声。


 途中で切られた署名。


 番号すら失った識別の残骸。


 それらが、黒い泥のように周囲へ広がった。


 真昼のノートの端が黒く滲む。


 レイの視界にA-00が浮かび、すぐにその文字が崩れる。


 **A-00**


 **A-0-**


 **--0**


 空白。


 レイは、その空白を見て、ぞっとした。


 番号さえ残らない。


 A-00になれば楽になると思った、その逃げ道すら、無記層の前では残らない。


 名前を捨てても、番号すら最後には消える。


 そこにあるのは、何もなかったことだけ。


 真昼が叫ぶ。


「御影レイ!」


 レイは、すぐに返した。


「白瀬真昼!」


 霧生が続ける。


「霧生仁!」


 透子。


「黒江透子!」


 倉科。


「倉科悠斗! 旧地下鉄保守課、まだ地上側にいる!」


 通信の向こうから、藍沢。


『藍沢環! 記録保全部、接続維持!』


 名前が響くたび、足元の黒い泥が少しだけ避ける。


 しかし、応用部門の職員たちは遅れた。


 彼らは互いを番号で呼ぼうとした。


「OAD-04、杭を――」


「OAD-04が、どれだ」


「接続担当、応答を」


「補助者、位置確認」


「私の番号、表示されません」


「主任、指示を」


 名前を呼ばない。


 番号も崩れる。


 残った機能名だけで互いを探そうとして、彼らは混乱した。


 黒い泥が、足元から膝へまとわりつく。


 一人が倒れかける。


 透子がすぐに駆け出そうとしたが、霧生が制した。


「全員助ける。だが水に入るな」


「ではどうやって」


「倉科!」


 倉科は、すでに工具箱を開けていた。


 中から絶縁ロープと点検用のフックを取り出す。


「保守用の落下防止ロープ。黒い水にどれだけ持つか分からんけど、素手よりまし」


「よし」


 倉科はロープを霧生へ投げる。


 霧生はそれを受け取り、倒れかけた職員へ投げた。


「掴め!」


 職員は反応しない。


 胸元には「補助者」とだけ表示されている。


 霧生が怒鳴る。


「おい、お前の名前は!」


 職員の顔が歪む。


「分かりません」


「番号は!」


「出ません!」


「じゃあ今は補助者でもいい! 掴め! 返事しろ!」


「……はい!」


 職員はロープを掴んだ。


 霧生と倉科が引く。


 透子も加わる。


 真昼はノートを抱えながら、応用部門職員たちの状態を見ていた。


 呼べる名前がない。


 今、彼らの本名を知らない。


 勝手に名付けられない。


 けれど、役割名のまま沈ませることもできない。


 真昼は、歯を食いしばった。


「藍沢さん、応用部門の職員名簿、出せますか!」


『検索中です。現場班の名簿は一部封鎖されています』


「封鎖を破れますか!」


『記録保全部としては許可されません』


「藍沢さん個人としては!」


 一瞬、通信が黙った。


 それから、藍沢の声が返る。


『越権として記録します』


 端末に、名前が表示され始める。


 ただし、欠けている。


 **三枝――**


 **新堂――**


 **北見――**


 **大沢――**


 完全ではない。


 それでも、空白よりはましだった。


 真昼は、ノートに書いた。


 **三枝。新堂。北見。大沢。

 応用部門職員。完全名未確認。

 番号消失。機能名のみへ沈降中。

 仮に苗字を保全。**


 書いた瞬間、職員たちの胸元に、わずかに苗字が戻った。


 完全ではない。


 しかし、「補助者」だけではなくなった。


「三枝さん、ロープ!」


 真昼が叫ぶ。


 倒れかけていた職員が、はっと顔を上げる。


「……三枝?」


「たぶん! 今はそれで戻って!」


 職員は、ロープを掴んだ。


 霧生が引きずり出す。


「真昼さん!」


 レイが叫ぶ。


 O-00制御杭の黒い泥が、真昼の足元へ伸びていた。


 レイは手を伸ばし、真昼の腕を掴む。


「白瀬真昼!」


「御影レイ!」


 名前がぶつかる。


 黒い泥が、一瞬だけ下がる。


 だが、その奥で、杭がさらに沈む。


 O-00制御杭は床を突き破り、無記層の穴へ届いてしまっていた。


 穴が開く。


 音はなかった。


 ただ、周囲の空間から音が消えた。


 水音も、呼吸も、機械音も、一瞬だけ消えた。


 次の瞬間、空間の中央に黒い裂け目が開いた。


 縦に走る穴。


 底は見えない。


 そこには闇ではなく、記録のない空白があった。


 見ているだけで、自分が何を見ているのか忘れそうになる。


 久我瀬は、その穴を見つめていた。


 胸元の名札から、ついに名前が消える。


 **主任研究官**


 **OAD-01**


 次に、OAD-01の数字が乱れる。


 **OAD-0-**


 **O--**


 そして、機能名だけが残る。


 **主任**


 久我瀬玲央という名前が、彼自身から離れていく。


 真昼は叫んだ。


「久我瀬さん!」


 彼は振り向いた。


 その表情には、初めて明確な揺れがあった。


「久我瀬玲央さん!」


 真昼はもう一度呼ぶ。


 しかし、彼の顔は戻りきらない。


 久我瀬は、黒い裂け目へ一歩近づいていた。


 制御杭を引き抜こうとしているのか。


 それとも、杭の先にある無記層をまだ制御できると思っているのか。


 霧生が怒鳴る。


「久我瀬! 下がれ!」


「まだ、制御可能です」


 声が平坦になっている。


 名前が薄れたせいか、感情も削られているように聞こえた。


「番号と機能が残れば、管理は――」


「その番号が壊れてんだよ!」


 霧生は、ロープを倉科へ投げ返し、黒い裂け目へ走った。


 透子が叫ぶ。


「霧生さん!」


「止めるな!」


 黒い泥が靴底にまとわりつく。


 霧生の胸元に、市警の警察手帳がぶら下がっている。


 そこに刻まれた名前が、一瞬薄れた。


 **霧生――**


 真昼が叫ぶ。


「霧生仁!」


 霧生は、振り向かずに怒鳴った。


「いる!」


 その返事だけで、警察手帳の名前が濃くなる。


 彼は久我瀬の腕を掴んだ。


「離してください。主任権限で命じます」


「お前の主任権限は今、穴に吸われてる」


「私は、まだ」


「名前で呼ばれるのが嫌でも、死なせる理由にはならん」


 霧生は、久我瀬の腕を強く引いた。


 久我瀬は抵抗した。


 彼の視線はまだ制御杭に向いている。


「放せば、災害が広がります」


「放さなくても広がってる!」


「では、私が残って固定します」


「人柱のつもりか。さっきまで御影を媒体にしようとしてた奴が、急に自分を使えばきれいに済むと思うな」


 久我瀬の目が、わずかに揺れた。


 霧生は、彼の襟を掴んで引き寄せる。


「久我瀬玲央!」


 その名前に、久我瀬の顔が一瞬戻った。


 名前欄に、薄く文字が浮かぶ。


 **久我瀬玲央**


 完全ではない。


 だが、彼は自分の名前を聞いた。


 霧生は続けた。


「お前が何を信じてようが、何を管理したがってようが、今ここで死なせる理由にはならん。戻れ!」


 倉科のロープが飛ぶ。


 霧生は片手でそれを掴み、もう片方で久我瀬を引く。


 透子とレイがロープを引いた。


 真昼も、ノートを抱えたまま加わる。


 藍沢の声が通信から響く。


『久我瀬玲央。OAD-01。本人名復帰率、微弱。呼称継続』


 藍沢は、淡々と、しかし強い声で続けた。


『久我瀬玲央。観測応用部門主任研究官。本人名、仮復帰。主任という機能名への沈降を停止してください』


 久我瀬の足が、黒い泥から抜けた。


 霧生が最後に強く引き、二人は床へ転がった。


 黒い裂け目のすぐ手前で、O-00制御杭が完全に沈む。


 杭が消える。


 その瞬間、裂け目が広がった。


 空間の奥へ、黒い穴が口を開く。


 だが、それはただの穴ではなかった。


 裂け目の向こうに、道が見えた。


 巨大な水音。


 白紙のような光。


 駅のホームのような足場。


 取調室のような暗がり。


 観測室のような白い壁。


 見る者によって形を変える、次の場所。


 アガルタ核への最終通路。


 藍沢の通信が、低く告げる。


『無記層前縁、拡大。制御杭は失敗しました。ですが、アガルタ核への通路が開いています』


 霧生は、床に座り込んだまま息を吐いた。


「最悪の扉の開け方だな」


 倉科が言う。


「でも、開いた」


「嬉しくねえ」


 久我瀬は、床に膝をついたまま、自分の職員証を見ていた。


 名前は戻っている。


 薄いが、読める。


 久我瀬玲央。


 彼はそれを指でなぞった。


 真昼は、彼を見た。


「久我瀬さん」


 彼は顔を上げる。


「あなたは、間違えました」


「……災害は、まだ止まっていません」


「はい。だから、先に進みます」


「あなたたちの方法で止まる保証はない」


「あなたたちの方法は、今、失敗しました」


 久我瀬は、反論しなかった。


 完全に改心したわけではない。


 その目には、まだ制御への執着が残っている。


 だが、少なくとも今、彼の計画は破綻した。


 A-00とO-00を杭で制御する。


 番号と機能で名前欠落を管理する。


 その考えは、無記層の前で番号ごと崩れた。


 霧生が立ち上がる。


「歩けるか、久我瀬」


「……問題ありません」


「問題あります、だろ」


「問題はあります」


「よし。少しは人間の返事になった」


 霧生は、裂け目の向こうを見た。


 巨大な水音が、さらに近づいている。


 そこから先へ入れば、もう全員が同じものを見るとは限らない。


 御影遥真の声が言っていた。


 全員を連れていくな。


 名前を持って、別々に立て。


 霧生は、全員を見回した。


「この先で、たぶん分かれる」


 真昼が頷く。


「はい」


 透子も。


「その可能性が高いです」


 倉科は、工具箱を持ち直した。


「地上側の戻り道は、俺が見ます」


 レイが彼を見る。


「倉科さん」


「お前だけが行くんじゃない。俺は俺の位置で踏ん張る」


 藍沢の声が通信から入る。


『記録保全部側も、外部接続を維持します。久我瀬主任、あなたの応用部門端末もこちらで隔離します』


 久我瀬は、少しだけ眉を寄せた。


「越権です」


『はい。越権として記録してください』


 霧生が短く笑った。


「それ、流行らせるなよ」


 真昼は、ノートを開いた。


 この場で消えかけた名前を書く。


 霧生仁。


 黒江透子。


 倉科悠斗。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 藍沢環。


 久我瀬玲央。


 応用部門職員たちの苗字。


 三枝。


 新堂。


 北見。


 大沢。


 完全名はまだ分からない。


 でも、機能名だけにはしない。


 レイは、裂け目の向こうを見た。


 そこから、黒い傘の気配がする。


 篠宮凪。


 O-00。


 アガルタ核。


 無記層。


 名前を捨てれば楽になるという誘惑。


 番号すら壊れる空白。


 そのすべてが、奥で待っている。


 真昼が隣で言った。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「行きます」


「うん」


 霧生が点呼を始めた。


 名前を言うたび、裂け目の縁に小さな光が点る。


 全員が返事をした。


 最後に、通信の向こうから佳乃の声が届く。


『レイ』


 レイは、目を閉じた。


 それから答える。


「いる」


 黒い裂け目の向こうで、水音が大きくなった。


 アガルタ核への道が、完全に開いた。

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