第七章 観測応用部門、核侵入
御影遥真の研究室を抜けた先は、通路ではなかった。
最初は、細い廊下に見えた。
本棚の奥に開いた隙間。
古い研究室からさらに地下深くへ降りる、秘密の通路。
だが、数歩進むうちに、廊下の輪郭は変わっていった。
壁が遠くなる。
天井が高くなる。
床の感触が、コンクリートから濡れた紙のようなものへ変わる。
足元に文字が浮かんでいる。
人名ではない。
番号。
分類。
記録タグ。
**A-00**
**O-00**
**K-117**
**R-■■**
**C-04**
**Null-03**
それらが、水面に沈んだ駅名のように足元へ並び、踏むたびに薄く揺れた。
真昼は、足を止めそうになった。
数字と記号だけの道。
そこに人の名前はない。
これまで何度も見てきた番号たちが、まるで道案内のように奥へ伸びている。
レイの顔色も悪かった。
A-00の文字を踏むたび、わずかに肩が揺れる。
真昼はすぐに言った。
「御影レイ」
レイは返す。
「白瀬真昼」
霧生仁が振り向かずに言う。
「遅れるな。名前も落とすな」
「言い方が荷物みたいです」
真昼が言う。
「実際、荷物より落とすと面倒だ」
「否定できません」
倉科悠斗は、工具箱を抱え直しながら周囲を見ていた。
「ここ、線路じゃないのに線路っぽいな」
「何がですか」
レイが聞く。
「行き先が決まってる感じ。踏んだら勝手に運ばれるみたいな」
黒江透子が頷く。
「アガルタ核へ近づいています。空間そのものが記録の流路になっているのでしょう」
「また難しい言い方が来た」
「簡単に言うと、道に見えているだけで、本当は名前や記録が流される水路です」
「もっと嫌になった」
「正しい反応です」
通信端末から藍沢環の声が入る。
『位置情報が不安定です。こちらの地図上では、皆さんの現在地が旧地下鉄、観測局廃棄区画、御影遥真旧研究室、無名駅ホームの四か所に同時表示されています』
霧生が言う。
「つまり迷子か」
『通常の意味では、はい』
「通常じゃない意味では?」
『複数の記録層を同時に通過しています』
「やっぱり迷子だな」
藍沢は否定しなかった。
通路の奥で、金属音がした。
かちり。
かちり。
測定器の起動音。
警告灯の点滅。
人工的な足音。
霧生が手を上げる。
全員が止まった。
暗い通路の先に、白い光が浮かぶ。
それは懐中ライトではなかった。
観測局支給の深層作業灯。
無名駅の闇を切るには冷たすぎる光。
数人の人影が現れた。
濃紺の防護コート。
銀色の識別章。
携帯端末。
認知安定ヘッドセット。
円柱状の金属杭を収めた黒いケース。
観測応用部門。
その中心に、久我瀬玲央がいた。
彼は、こんな場所でも姿勢を崩していなかった。
髪も乱れていない。
コートの襟も整っている。
ただ、胸元の職員証だけが奇妙だった。
名前欄が薄れている。
**久我瀬玲央**
その文字のうち、玲央の部分が白く霞んでいる。
代わりに、職員番号が濃く表示されていた。
**OAD-01**
霧生は、それを見て口元を歪めた。
「先に来やがったか」
久我瀬は、穏やかに答える。
「別ルートです。観測局には、核周辺へ向かう深層接続経路が複数存在します」
「勝手に潜ったな」
「緊急災害対応です」
「こっちも緊急捜査だ」
「令状は?」
「通る。今、上が怒鳴ってる」
「まだ通っていないのですね」
「お前が未成年を媒体にしようとしてる命令書よりは、ましな紙になる」
久我瀬は、霧生の挑発には乗らなかった。
視線をレイへ移す。
「御影レイさん。ここから先は、A-00反応が急激に高まります。あなたが自力で進むことは危険です」
レイは答えた。
「A-00として回収される方が、もっと危険です」
「感情的判断です」
「名前で判断しているだけです」
久我瀬は、わずかに目を細めた。
「名前は、ここでは不安定です」
藍沢の声が通信から割り込む。
『不安定でも、本人名です』
久我瀬が端末へ視線を落とす。
「藍沢主任。記録保全部は正式に撤退命令を受けているはずです」
『記録保全部第一記録保全課主任として、撤退命令に異議を記録済みです。現在は、市警の現場同行要請に基づき、通信支援を継続しています』
「越権です」
『はい。越権として記録してください』
霧生が小さく笑った。
「言い慣れてきたな、藍沢」
『不本意です』
「でも言うんだろ」
『必要ですので』
久我瀬の背後にいた職員が、ケースを床に置いた。
中には、金属製の杭が三本入っている。
細長い円柱。
表面には観測局の識別刻印。
**O-00 CONTROL PILE**
**A-00 COUNTER ANCHOR**
**NULL-LAYER FLOW REGULATOR**
英字の刻印が、黒い水の光を受けて鈍く光っている。
真昼は、それを見ただけで嫌な感覚を覚えた。
杭。
固定するもの。
逃げないようにするもの。
だが、そこに人名はない。
あるのはO-00、A-00、NULL-LAYER。
篠宮凪も、御影レイも、どこにもない。
「それで何をするつもりですか」
真昼が聞いた。
久我瀬は、真昼へ顔を向ける。
「O-00沈降経路を物理的に固定します。同時にA-00を対向媒体として接続し、無記層への流出を閉じる」
「御影くんの同意は」
「緊急災害対応下では、現場判断により省略可能です」
「篠宮凪さんの名前は」
「不要です」
「不要?」
「O-00は、すでに深層活動体です。個人名は制御上の誤差になります」
真昼の目が冷えた。
「誤差」
「はい」
久我瀬は、淡々と言った。
「名前は誤差です。番号と機能が残れば、管理は可能です」
その一言で、空気が凍った。
レイは、息を止めた。
真昼の指がノートを握りしめる。
透子の表情が消える。
倉科が低く「うわ」と呟いた。
霧生は、久我瀬を睨んだ。
「お前、今、自分で何言ったか分かってるか」
「分かっています」
「なら重症だ」
通信の向こうで、藍沢の声が入る。
『久我瀬主任』
「何でしょう」
『番号だけが残った状態を、管理とは呼びません』
久我瀬は、わずかに眉を動かした。
『それは、記録の残骸です。人間の管理ではありません。名前が揺らぐから番号で仮止めする。それは必要です。ですが、本人名を誤差として切り捨てた瞬間、番号は保全杭ではなく、削除命令になります』
「理想論です」
『いいえ。記録保全部の実務です』
「実務で都市は救えません」
『番号だけでも救えません』
久我瀬は、通信を切ろうと端末に触れた。
しかし、端末の表示が一瞬乱れた。
職員証と同じように、画面上の彼の名前が薄れる。
**久我瀬――**
残ったのは、
**主任研究官**
そして、
**OAD-01**
久我瀬は、その表示を見た。
表情は変わらない。
だが、指先だけがわずかに止まった。
真昼は、その小さな変化を見逃さなかった。
「名前、薄れてますよ」
「問題ありません」
「本当に?」
「職員番号は残っています」
「それで、あなたはあなたなんですか」
久我瀬は答えなかった。
代わりに、背後の職員へ指示する。
「制御杭、設置開始」
観測応用部門の職員たちが動いた。
床に黒いケースを展開し、三本の杭を取り出す。
そのうち一本を、足元のA-00表示の上へ。
一本を、O-00表示が浮かんでいる黒い水際へ。
残る一本を、通路奥の暗い穴の手前へ。
穴。
そこには、まだ見えていないが、無記層への裂け目があるのだろう。
藍沢の通信が警告を発する。
『やめてください。そこは無記層接続前縁です。外部杭を打てば、流路が固定されるのではなく、拡張される可能性があります』
久我瀬は答えない。
職員の一人が杭を起動する。
低い機械音。
杭の表面に青白い文字が走る。
**CONTROL START**
次の瞬間、足元の番号が揺れた。
A-00。
O-00。
K-117。
R-■■。
Null-03。
それらが、床の上で液体のように溶け始める。
真昼は息を呑む。
「番号が」
藍沢の声が鋭くなる。
『番号保持率低下。異常です。無記層近傍では、識別番号も安定しません』
久我瀬の背後で、職員の一人が自分の端末を見て固まった。
「主任、職員番号が」
その声は震えていた。
彼の端末には、表示がある。
名前欄はすでに空白。
職員番号も、崩れ始めている。
**OAD-04**
が、
**OAD-0-**
になり、
さらに、
**---**
へ近づいていく。
「記録タグ再固定」
久我瀬が命じる。
「認知安定タグを起動」
職員たちが慌てて首元のタグを操作する。
だが、タグの表示も乱れる。
名前はない。
番号も欠ける。
残るのは、機能だけ。
**観測員**
**接続担当**
**杭操作**
**補助者**
その文字が胸元に浮かぶ。
倉科が、低く言った。
「終わってるだろ、これ」
透子が続ける。
「名前が消え、番号も崩れ、機能だけが残っている」
霧生が言う。
「久我瀬、止めろ。お前の理屈が今そこで壊れてる」
「まだ制御可能です」
「見えてねえのか」
「見えています」
「じゃあ何で止めない」
「ここで止めれば、無記層への沈降を止める手段を失います」
「その杭が穴を広げてんだよ」
久我瀬は、初めて声を強めた。
「名前を呼び合っているだけで都市が救えるなら、観測局は不要です」
霧生も低く返す。
「その観測局が何度失敗したか、ここまで歩いて見てきただろうが」
「失敗を恐れて手を止めることはできません」
「失敗を認めずに同じことするのは、手を止めるより悪い」
その時、O-00制御杭が黒く染まった。
青白い文字が、一斉に消える。
杭の表面から、黒い水が逆流するように噴き出した。
水ではない。
名前のない記録。
消された呼び声。
途中で切られた署名。
番号すら失った識別の残骸。
それらが、黒い泥のように周囲へ広がった。
真昼のノートの端が黒く滲む。
レイの視界にA-00が浮かび、すぐにその文字が崩れる。
**A-00**
**A-0-**
**--0**
空白。
レイは、その空白を見て、ぞっとした。
番号さえ残らない。
A-00になれば楽になると思った、その逃げ道すら、無記層の前では残らない。
名前を捨てても、番号すら最後には消える。
そこにあるのは、何もなかったことだけ。
真昼が叫ぶ。
「御影レイ!」
レイは、すぐに返した。
「白瀬真昼!」
霧生が続ける。
「霧生仁!」
透子。
「黒江透子!」
倉科。
「倉科悠斗! 旧地下鉄保守課、まだ地上側にいる!」
通信の向こうから、藍沢。
『藍沢環! 記録保全部、接続維持!』
名前が響くたび、足元の黒い泥が少しだけ避ける。
しかし、応用部門の職員たちは遅れた。
彼らは互いを番号で呼ぼうとした。
「OAD-04、杭を――」
「OAD-04が、どれだ」
「接続担当、応答を」
「補助者、位置確認」
「私の番号、表示されません」
「主任、指示を」
名前を呼ばない。
番号も崩れる。
残った機能名だけで互いを探そうとして、彼らは混乱した。
黒い泥が、足元から膝へまとわりつく。
一人が倒れかける。
透子がすぐに駆け出そうとしたが、霧生が制した。
「全員助ける。だが水に入るな」
「ではどうやって」
「倉科!」
倉科は、すでに工具箱を開けていた。
中から絶縁ロープと点検用のフックを取り出す。
「保守用の落下防止ロープ。黒い水にどれだけ持つか分からんけど、素手よりまし」
「よし」
倉科はロープを霧生へ投げる。
霧生はそれを受け取り、倒れかけた職員へ投げた。
「掴め!」
職員は反応しない。
胸元には「補助者」とだけ表示されている。
霧生が怒鳴る。
「おい、お前の名前は!」
職員の顔が歪む。
「分かりません」
「番号は!」
「出ません!」
「じゃあ今は補助者でもいい! 掴め! 返事しろ!」
「……はい!」
職員はロープを掴んだ。
霧生と倉科が引く。
透子も加わる。
真昼はノートを抱えながら、応用部門職員たちの状態を見ていた。
呼べる名前がない。
今、彼らの本名を知らない。
勝手に名付けられない。
けれど、役割名のまま沈ませることもできない。
真昼は、歯を食いしばった。
「藍沢さん、応用部門の職員名簿、出せますか!」
『検索中です。現場班の名簿は一部封鎖されています』
「封鎖を破れますか!」
『記録保全部としては許可されません』
「藍沢さん個人としては!」
一瞬、通信が黙った。
それから、藍沢の声が返る。
『越権として記録します』
端末に、名前が表示され始める。
ただし、欠けている。
**三枝――**
**新堂――**
**北見――**
**大沢――**
完全ではない。
それでも、空白よりはましだった。
真昼は、ノートに書いた。
**三枝。新堂。北見。大沢。
応用部門職員。完全名未確認。
番号消失。機能名のみへ沈降中。
仮に苗字を保全。**
書いた瞬間、職員たちの胸元に、わずかに苗字が戻った。
完全ではない。
しかし、「補助者」だけではなくなった。
「三枝さん、ロープ!」
真昼が叫ぶ。
倒れかけていた職員が、はっと顔を上げる。
「……三枝?」
「たぶん! 今はそれで戻って!」
職員は、ロープを掴んだ。
霧生が引きずり出す。
「真昼さん!」
レイが叫ぶ。
O-00制御杭の黒い泥が、真昼の足元へ伸びていた。
レイは手を伸ばし、真昼の腕を掴む。
「白瀬真昼!」
「御影レイ!」
名前がぶつかる。
黒い泥が、一瞬だけ下がる。
だが、その奥で、杭がさらに沈む。
O-00制御杭は床を突き破り、無記層の穴へ届いてしまっていた。
穴が開く。
音はなかった。
ただ、周囲の空間から音が消えた。
水音も、呼吸も、機械音も、一瞬だけ消えた。
次の瞬間、空間の中央に黒い裂け目が開いた。
縦に走る穴。
底は見えない。
そこには闇ではなく、記録のない空白があった。
見ているだけで、自分が何を見ているのか忘れそうになる。
久我瀬は、その穴を見つめていた。
胸元の名札から、ついに名前が消える。
**主任研究官**
**OAD-01**
次に、OAD-01の数字が乱れる。
**OAD-0-**
**O--**
そして、機能名だけが残る。
**主任**
久我瀬玲央という名前が、彼自身から離れていく。
真昼は叫んだ。
「久我瀬さん!」
彼は振り向いた。
その表情には、初めて明確な揺れがあった。
「久我瀬玲央さん!」
真昼はもう一度呼ぶ。
しかし、彼の顔は戻りきらない。
久我瀬は、黒い裂け目へ一歩近づいていた。
制御杭を引き抜こうとしているのか。
それとも、杭の先にある無記層をまだ制御できると思っているのか。
霧生が怒鳴る。
「久我瀬! 下がれ!」
「まだ、制御可能です」
声が平坦になっている。
名前が薄れたせいか、感情も削られているように聞こえた。
「番号と機能が残れば、管理は――」
「その番号が壊れてんだよ!」
霧生は、ロープを倉科へ投げ返し、黒い裂け目へ走った。
透子が叫ぶ。
「霧生さん!」
「止めるな!」
黒い泥が靴底にまとわりつく。
霧生の胸元に、市警の警察手帳がぶら下がっている。
そこに刻まれた名前が、一瞬薄れた。
**霧生――**
真昼が叫ぶ。
「霧生仁!」
霧生は、振り向かずに怒鳴った。
「いる!」
その返事だけで、警察手帳の名前が濃くなる。
彼は久我瀬の腕を掴んだ。
「離してください。主任権限で命じます」
「お前の主任権限は今、穴に吸われてる」
「私は、まだ」
「名前で呼ばれるのが嫌でも、死なせる理由にはならん」
霧生は、久我瀬の腕を強く引いた。
久我瀬は抵抗した。
彼の視線はまだ制御杭に向いている。
「放せば、災害が広がります」
「放さなくても広がってる!」
「では、私が残って固定します」
「人柱のつもりか。さっきまで御影を媒体にしようとしてた奴が、急に自分を使えばきれいに済むと思うな」
久我瀬の目が、わずかに揺れた。
霧生は、彼の襟を掴んで引き寄せる。
「久我瀬玲央!」
その名前に、久我瀬の顔が一瞬戻った。
名前欄に、薄く文字が浮かぶ。
**久我瀬玲央**
完全ではない。
だが、彼は自分の名前を聞いた。
霧生は続けた。
「お前が何を信じてようが、何を管理したがってようが、今ここで死なせる理由にはならん。戻れ!」
倉科のロープが飛ぶ。
霧生は片手でそれを掴み、もう片方で久我瀬を引く。
透子とレイがロープを引いた。
真昼も、ノートを抱えたまま加わる。
藍沢の声が通信から響く。
『久我瀬玲央。OAD-01。本人名復帰率、微弱。呼称継続』
藍沢は、淡々と、しかし強い声で続けた。
『久我瀬玲央。観測応用部門主任研究官。本人名、仮復帰。主任という機能名への沈降を停止してください』
久我瀬の足が、黒い泥から抜けた。
霧生が最後に強く引き、二人は床へ転がった。
黒い裂け目のすぐ手前で、O-00制御杭が完全に沈む。
杭が消える。
その瞬間、裂け目が広がった。
空間の奥へ、黒い穴が口を開く。
だが、それはただの穴ではなかった。
裂け目の向こうに、道が見えた。
巨大な水音。
白紙のような光。
駅のホームのような足場。
取調室のような暗がり。
観測室のような白い壁。
見る者によって形を変える、次の場所。
アガルタ核への最終通路。
藍沢の通信が、低く告げる。
『無記層前縁、拡大。制御杭は失敗しました。ですが、アガルタ核への通路が開いています』
霧生は、床に座り込んだまま息を吐いた。
「最悪の扉の開け方だな」
倉科が言う。
「でも、開いた」
「嬉しくねえ」
久我瀬は、床に膝をついたまま、自分の職員証を見ていた。
名前は戻っている。
薄いが、読める。
久我瀬玲央。
彼はそれを指でなぞった。
真昼は、彼を見た。
「久我瀬さん」
彼は顔を上げる。
「あなたは、間違えました」
「……災害は、まだ止まっていません」
「はい。だから、先に進みます」
「あなたたちの方法で止まる保証はない」
「あなたたちの方法は、今、失敗しました」
久我瀬は、反論しなかった。
完全に改心したわけではない。
その目には、まだ制御への執着が残っている。
だが、少なくとも今、彼の計画は破綻した。
A-00とO-00を杭で制御する。
番号と機能で名前欠落を管理する。
その考えは、無記層の前で番号ごと崩れた。
霧生が立ち上がる。
「歩けるか、久我瀬」
「……問題ありません」
「問題あります、だろ」
「問題はあります」
「よし。少しは人間の返事になった」
霧生は、裂け目の向こうを見た。
巨大な水音が、さらに近づいている。
そこから先へ入れば、もう全員が同じものを見るとは限らない。
御影遥真の声が言っていた。
全員を連れていくな。
名前を持って、別々に立て。
霧生は、全員を見回した。
「この先で、たぶん分かれる」
真昼が頷く。
「はい」
透子も。
「その可能性が高いです」
倉科は、工具箱を持ち直した。
「地上側の戻り道は、俺が見ます」
レイが彼を見る。
「倉科さん」
「お前だけが行くんじゃない。俺は俺の位置で踏ん張る」
藍沢の声が通信から入る。
『記録保全部側も、外部接続を維持します。久我瀬主任、あなたの応用部門端末もこちらで隔離します』
久我瀬は、少しだけ眉を寄せた。
「越権です」
『はい。越権として記録してください』
霧生が短く笑った。
「それ、流行らせるなよ」
真昼は、ノートを開いた。
この場で消えかけた名前を書く。
霧生仁。
黒江透子。
倉科悠斗。
御影レイ。
白瀬真昼。
藍沢環。
久我瀬玲央。
応用部門職員たちの苗字。
三枝。
新堂。
北見。
大沢。
完全名はまだ分からない。
でも、機能名だけにはしない。
レイは、裂け目の向こうを見た。
そこから、黒い傘の気配がする。
篠宮凪。
O-00。
アガルタ核。
無記層。
名前を捨てれば楽になるという誘惑。
番号すら壊れる空白。
そのすべてが、奥で待っている。
真昼が隣で言った。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
「行きます」
「うん」
霧生が点呼を始めた。
名前を言うたび、裂け目の縁に小さな光が点る。
全員が返事をした。
最後に、通信の向こうから佳乃の声が届く。
『レイ』
レイは、目を閉じた。
それから答える。
「いる」
黒い裂け目の向こうで、水音が大きくなった。
アガルタ核への道が、完全に開いた。




