第六章 御影遥真からの未送信
K-117観測室の奥に現れた扉は、古かった。
観測局の白い扉ではない。
金属製でも、防水ゲートでも、保守区画の鉄扉でもない。
木の扉だった。
濃い茶色の木目。
真鍮の古いドアノブ。
小さな曇りガラス。
そして、表面に貼られた研究室のプレート。
そこに書かれていたはずの文字は、ほとんど消えている。
ただ、一瞬だけ、雨に濡れた紙の下から浮き上がるように、名前の断片が見えた。
**御影――**
レイの喉が、乾いた。
自分の苗字。
父の苗字。
母が今も呼ぶ家の名前。
それが、無名駅の奥、K-117観測室のさらに奥にある。
ありえない。
だが、この街で「ありえない」は、もう何の盾にもならない。
霧生仁は、扉の前で足を止めた。
「御影」
レイは答える。
「いる」
「顔色、悪いぞ」
「いい時が少ないので」
「冗談にする余裕はあるな」
「あることにしてます」
「白瀬」
「白瀬真昼、います」
「黒江」
「黒江透子、います」
「倉科」
「倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」
「藍沢」
通信の向こうで、わずかにノイズが走る。
『藍沢環。記録保全部側、接続維持。ただし、R系列反応が強くなっています。御影レイさん、注意してください』
レイは、通信端末に向かって答えた。
「分かりました」
『A-00誘引とは違う反応です。これは、父系記録、R系列、アガルタ核関連記録が重なっています』
「つまり?」
霧生が聞く。
『非常に危険です』
「お前らは難しく言って最後は全部それだな」
『事実です』
「知ってる」
霧生は、扉を見た。
「鍵は?」
倉科が近づき、ドアノブをライトで照らす。
「鍵穴はあるけど、旧地下鉄のじゃない。研究室の鍵だな。俺の鍵束じゃ無理」
透子が言う。
「残響の扉です。物理的な鍵ではなく、記録側の認証に反応する可能性があります」
「認証って」
真昼が小さく言う。
「名前、ですか」
その場に沈黙が落ちた。
レイは、扉のプレートを見る。
御影――。
その先。
御影遥真。
父の名前。
声に出せば、開くのかもしれない。
だが、以前この名前へ近づいた時、R-■■という巨大な記録がレイを引き込もうとした。父の名前は、父だけを指していなかった。レイ系アニマの根、複数の記録、観測局が封じた分類、そのすべてと絡まっていた。
呼べば、開く。
開けば、また父を知る。
そして、父を知ることは、許すことではない。
それも、もう分かっている。
レイは、扉の前に立った。
真昼が隣に来る。
「御影くん」
「大丈夫、ではないです」
「はい」
「でも、開けます」
「はい」
「もし、僕がR-■■の方へ引かれたら」
「名前で呼びます」
「僕が父さんの名前を言えなかったら」
「無理には言わせません」
「僕が、許したみたいな顔をしたら」
真昼は少しだけ考えてから言った。
「それは、あとで確認します。ここで決めることじゃありません」
レイは、小さく笑った。
「頼もしい」
「怒る準備もあります」
「それは頼もしいのかな」
「かなり」
霧生が背後から言う。
「開けるなら開けろ。ここで家族会議を長引かせるな」
「霧生さん」
「何だ」
「家族会議じゃないです」
「父親の研究室の前で何を言ってる」
レイは、息を吸った。
扉に向かって、名前を言う。
「御影レイ」
扉は動かない。
だが、プレートの文字が少し濃くなる。
レイは続けた。
「御影遥真の息子です」
扉の奥で、紙がめくれる音がした。
真鍮のドアノブが、ゆっくり回る。
扉が内側へ開いた。
*
そこは、研究室だった。
地下の奥にあるにもかかわらず、部屋には雨の光が差していた。
窓がある。
ありえない。
無名駅のさらに奥、K-117観測室の奥に、外へ通じる窓があるはずがない。
だが、その窓の外には、雨のアガルタ市が見えていた。
遠くに学院の尖塔。
市立図書館の屋根。
旧地下鉄の換気塔。
御影家の住宅街へ続く細い道路。
すべてが、現実より少し淡い。
記憶の窓。
御影遥真が見ていた街の記録。
部屋の中央には、大きな机がある。
書類の束。
古い観測端末。
写真。
地図。
手書きのメモ。
壁一面のホワイトボードには、複雑な線が引かれている。
**R-■■**
**A-00**
**O-00**
**K-117**
**C-04**
**E.G.H.**
**A.T.**
**Mikage Rei**
いくつもの記号と名前が、矢印で結ばれていた。
ただし、その多くは欠けている。
書いた本人の名前も、共同研究者の名も、資料出典も、ところどころ空白になっている。
しかし、机の上に置かれた一枚の封筒だけは、はっきり残っていた。
白い封筒。
古い紙。
差出人なし。
宛名だけが、父の筆跡で書かれている。
**レイへ**
レイは、動けなかった。
その三文字は、R-■■ではなかった。
A-00でもない。
御影レイ、とも書いていない。
ただ、レイへ。
母が呼ぶ時のような短さ。
父が残したはずのない、近さ。
真昼は、封筒に触れなかった。
霧生も、透子も、倉科も、藍沢も、誰も急かさない。
レイだけが、机へ近づいた。
封筒の前に立つ。
指先が震える。
開けたい。
開けたくない。
父が何を書いたのか知りたい。
でも、そこに都合のいい言葉があったら、自分はどうすればいいのか。
謝罪があったら。
言い訳があったら。
愛情があったら。
観測記録しかなかったら。
レイは、封筒に手を伸ばした。
その瞬間、端末が震えた。
佳乃からの通話だった。
レイは、少し驚いて画面を見る。
真昼が言う。
「出てください」
「ここで?」
「ここだから、です」
レイは通話を繋いだ。
『レイ』
佳乃の声。
その一語で、部屋の空気が少しだけ現実へ戻る。
「母さん」
『今、少し名前が薄れた』
「僕の?」
『ええ。住民記録の方じゃなくて、私の記憶の中で。あなたの顔は分かるのに、名前の手触りが遠くなった』
レイは、息を止めた。
佳乃は続ける。
『だから呼んだの』
「……うん」
『そこにいる?』
「いる」
『何を見てるの』
レイは、机の上の封筒を見た。
「父さんの手紙」
通話の向こうが静かになった。
雨音だけが聞こえる。
御影家の窓を打つ雨だろうか。
それとも、この研究室の記憶の窓を打つ雨だろうか。
佳乃は、ゆっくり言った。
『読むのね』
「うん」
『読んだからって、許さなくていいわ』
レイの胸が詰まる。
『読まなかったことにもしなくていい』
「うん」
『あの人は、あなたの父親だった。でも、あなたに隠した人でもある。その両方を見なさい』
「母さん」
『レイ』
「いる」
『読んで。あなたの名前で』
レイは頷いた。
通話を切らないまま、封筒を開けた。
*
手紙は、一枚だけだった。
便箋は古い。
紙の端が少し黄ばんでいる。
だが、文字は濃い。
まるで、名前欠落に抵抗するため、強い筆圧で書かれたようだった。
レイは、最初の一行を見た。
**レイへ**
同じ宛名。
その下に、本文。
レイは、声に出して読んだ。
「レイへ」
その声は、自分のものなのに、少し遠く聞こえた。
「この手紙がお前に届く時、私はもう、御影遥真としてそばにはいないかもしれない」
御影遥真。
父の名前。
自分で読んだ瞬間、部屋の壁が少し揺れた。
R-■■の文字が、ホワイトボード上で黒く滲む。
真昼がすぐに言う。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
霧生も続ける。
「霧生仁」
透子。
「黒江透子」
倉科。
「倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」
藍沢。
『藍沢環。接続維持』
佳乃の声も、通信の向こうから重なる。
『レイ』
レイは、便箋を握り直した。
続きを読む。
「私は、お前を守るために多くを隠した。
だが、隠すことは守ることと同じではなかった。
そのことを、お前が知る頃には、私はもう説明する席にいないだろう」
レイの喉が痛くなる。
父は、知っていた。
自分が説明できなくなることを。
それでも隠した。
守るために。
傷つける形で。
「お前は、観測局の分類で言えばA-00に近い。
だが、その分類はお前自身ではない。
A-00は、お前を守るための仮杭にもなり得る。
同時に、お前を奪うための鎖にもなり得る」
藍沢が、通信の向こうで静かに息を呑んだ。
彼女が今たどり着こうとしている答えを、遥真はすでに書いていた。
レイは読み続ける。
「私は、R系列記録に触れた。
そこには、お前に連なる多くの人生の痕跡があった。
エミー・グレイス・ハーパー。
古河千景。
倉科悠斗。
真木彼方。
そして、まだ名を持てずに沈もうとする者。
彼らは、お前と同じ根を持っている。
だが、お前ではない」
レイの指が、便箋を強く掴む。
真昼は、黙って見ている。
ノートを開いているが、まだ書かない。
この手紙は、まずレイが読むべきものだからだ。
「お前がすべての同魂者を背負う必要はない。
アルファとは、すべてを自分にする者ではない。
すべてを別々の名前として覚えていられる者だ」
その一文が、研究室の中で響いた。
レイは、声を失った。
手紙の文字が、雨のように揺れる。
アルファ。
その言葉を、レイはずっと恐れていた。
自分が同魂者たちの記憶を見てしまうこと。
死や痛みや人生が流れ込むこと。
それを自分の中に抱えきれなくなること。
観測局に分類されること。
オメガに対置されること。
A-00になること。
父は、そこに別の意味を書いた。
すべてを自分にする者ではない。
別々の名前として覚えていられる者。
レイは、胸の奥で何かがずれるのを感じた。
崩れるのではない。
少しだけ、場所ができる。
エミーはエミー。
古河千景は古河千景。
倉科悠斗は、隣で工具箱を持っている生きた大人。
真木彼方は、まだ呼べない少年。
篠宮凪は、逃げた加害者。
御影遥真は、父。
そして、自分は御影レイ。
まだ完全には言えない。
でも、その形が見え始めた。
レイは続きを読もうとした。
だが、便箋の文字が、そこから先、薄くなっている。
名前欠落ではない。
意図的に書かれていないようにも見える。
手紙の最後に、短い文があった。
「私は、お前に許されるためにこれを書いているのではない。
お前が、私をR-■■だけにしないために書いている。
父を知れ。
ただし、父を背負うな。
お前は、私の失敗を継ぐために生まれたのではない」
その下。
署名。
文字は薄れている。
**御影――**
そこから先が、R-■■の黒い滲みに飲まれかけている。
レイは、便箋を見つめた。
父の名前。
御影遥真。
呼べば、この署名は戻るかもしれない。
だが、父の名前はまだ、R-■■と深く絡んでいる。
呼び方を間違えれば、研究室ごと崩れるかもしれない。
真昼が静かに言った。
「御影くん」
「はい」
「無理に、全部を名前で戻さなくていいと思います」
「でも」
「呼びたい名前と、今呼べる名前は違います」
その言葉は、真木彼方の時と同じだった。
呼びたい。
でも、まだ呼ばない。
ただ、父の場合は少し違う。
御影遥真という名を、レイはすでに知っている。
非公開記録にも置いている。
市警報告書にも書いた。
問題は、どう呼ぶかだった。
研究者としてか。
御影遥真としてか。
R-■■としてか。
父としてか。
部屋の奥から、声がした。
「レイ」
全員が動きを止めた。
佳乃の通信ではない。
部屋の中から。
ホワイトボードの奥。
R-■■の黒い滲みの向こう。
雨の窓の外。
記録層の奥から。
男の声が聞こえた。
低く、疲れていて、でも確かにレイを呼ぶ声。
「レイ」
レイの目が揺れた。
その声を、完全に覚えているわけではない。
幼い頃の記憶は断片的だ。
玄関で背中を見送ったこと。
資料に埋もれた横顔。
頭を撫でられた感触。
夜中に誰かが母と話している声。
そのどれもが曖昧だ。
けれど、声を聞いた瞬間、体が知っていた。
父だ。
御影遥真。
いや。
レイは、便箋を机に置いた。
ホワイトボードの前へ歩く。
R-■■の文字が、黒く渦を巻いている。
その奥に、人の輪郭が見える。
白衣ではない。
研究者のスーツでもない。
輪郭は揺れていて、顔ははっきりしない。
だが、声だけが届く。
「レイ」
レイは、唇を開いた。
御影遥真。
そう呼ぼうとして、止まった。
その名前は正しい。
でも、今最初に呼ぶべき言葉ではない。
レイの中で、怒りがまだある。
隠されたことへの怒り。
守ると言いながら、自分を知らないままにしたことへの怒り。
父が何をしたのか、まだ全部は分からない。
許していない。
これからも、簡単には許さない。
それでも、この声をR-■■だけにはしたくない。
観測局の番号だけにはしたくない。
レイは、声を絞った。
「父さん」
部屋のすべての水音が、一瞬止まった。
R-■■の黒い滲みが、激しく揺れる。
ホワイトボードの記号が乱れ、A-00、O-00、K-117、C-04、E.G.H.、A.T.の文字が一斉に浮かび上がる。
レイの視界が白くなる。
真昼が叫ぶ。
「御影レイ!」
霧生も呼ぶ。
「御影レイ!」
佳乃の通信が、少し遅れて重なる。
『レイ!』
レイは踏みとどまった。
R-■■の奥から、声が返る。
「レイ」
それは、父が息子を呼ぶ声だった。
研究対象を呼ぶ声ではない。
A-00を指す声ではない。
R系列記録を確認する声でもない。
レイ。
ただ、それだけだった。
レイは、息を吐いた。
「父さん」
もう一度言う。
今度は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
「僕は、あなたを許したわけじゃない」
声の輪郭が、微かに揺れる。
レイは続けた。
「隠したことも、観測局に近づいたことも、僕に説明しなかったことも、全部、まだ怒ってる」
真昼は、ノートを開いた。
この言葉は、残すべきだと思った。
許しではない。
和解でもない。
父を番号にしないための、怒りを含んだ呼び声。
レイは言う。
「でも、あなたをR-■■だけにはしない」
ホワイトボードの黒い滲みが、少しずつ薄くなる。
その奥から、署名のような文字が浮かぶ。
**御影遥真**
完全ではない。
ところどころ欠けている。
だが、読める。
藍沢の通信が震えた。
『R-■■記録、御影遥真名を保持。完全復元ではありません。しかし、R系列内部で本人名固定が発生しています』
霧生が低く言う。
「つまり?」
『R-■■に飲まれきらず、御影遥真として残りました』
レイは、目を閉じた。
胸の奥に、重いものが残る。
許しではない。
救いでもない。
ただ、父が父として、名前を持ってそこにいる。
それだけで、少し息ができた。
声が、もう一度届く。
「レイ」
「いる」
反射的に答えた。
父の声に。
母の声に答える時と同じように。
そのことに、レイ自身が少し驚いた。
声は静かに言った。
「核へ行くなら、全員を連れていくな」
霧生が顔を上げる。
透子も、倉科も、真昼も、藍沢も、全員がその声を聞いた。
「アガルタ核は、それぞれに違う姿を見せる。
同じ場所に立っても、同じものは見えない。
誰かを支えようとして、同じ名前に混ざれば、全員が沈む」
レイは、息を呑む。
「じゃあ、どうすれば」
「名前を持って、別々に立て」
声は、はっきりそう言った。
「記録者は記録者として。
刑事は刑事として。
観測者は観測者として。
生者は生者として。
母は、外から呼ぶ声として。
お前は、お前として」
レイは、便箋を見た。
そこに書かれていた言葉と、父の声が重なる。
すべてを自分にする者ではない。
別々の名前として覚えていられる者。
真昼が、静かに言った。
「全員で一つになるんじゃなくて、別々に名前を持って入る」
藍沢が通信の向こうで答える。
『理論的にも適合します。アガルタ核内では同一化が最も危険です。相互呼称は必要ですが、同一名への収束は避けるべきです』
霧生が、皮肉っぽく言う。
「分かりやすく言えば、手を繋いで溺れるなってことか」
『乱暴ですが、近いです』
「近いならいい」
倉科が、工具箱の持ち手を握り直す。
「生者は生者として、って俺のことか?」
レイは振り向いた。
「たぶん」
「責任重いな」
「倉科さんがいてくれると、地上に戻る感じがします」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「なら受け取る」
透子は、ホワイトボードに浮かぶ御影遥真の名を見ていた。
「御影遥真さんは、完全には戻らないのですね」
父の声は、少しだけ遠くなる。
「戻るために沈んだのではない」
レイは、その言葉を聞いて、拳を握った。
「またそういう言い方をする」
声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「すまない」
「謝られても、困る」
「困らせた」
「はい」
「それも、すまない」
「だから、困ります」
真昼が、少しだけ目を伏せた。
親子の会話は、不器用だった。
届くのが遅すぎる。
言葉が足りない。
謝罪はあるが、償いにはならない。
でも、声はある。
名前はある。
それだけでも、無記層へ沈むよりはずっといい。
父の声が、最後に言った。
「レイ。私はここに残る。
R系列の奥で、御影遥真という名前を保持する。
お前が戻る道ではない。
だが、お前が自分を見失いそうになった時、父を番号にしなかったことを思い出せ」
レイは、静かに頷いた。
「分かった」
「レイ」
「いる」
「行きなさい」
「父さん」
その呼び声に、ホワイトボードの御影遥真という文字が一度だけ濃くなった。
それから、黒い滲みではなく、薄い灰色の線になって、R-■■の奥へ沈んでいく。
消えたのではない。
眠るように、閉じていった。
研究室の窓の外で、雨のアガルタが揺れる。
机の上の手紙は残っている。
封筒の宛名も、残っている。
**レイへ**
真昼は、その手紙を透明な資料袋へ入れた。
許可を求めるようにレイを見る。
レイは頷く。
「残してください」
「非公開記録で」
「はい」
「公開しません」
「でも、消さないで」
「もちろんです」
霧生が扉の方を見た。
「奥の壁、また変わってるぞ」
研究室の一番奥。
本棚の間に、細い通路が現れていた。
そこから、黒い水音が聞こえる。
これまでより、ずっと大きい。
水音というより、都市の心臓が深い場所で拍動しているようだった。
藍沢の通信が入る。
『アガルタ核方面への通路です。R系列記録を通過したことで、深層経路が開きました』
「ご案内どうも」
霧生が言う。
「楽しい道じゃなさそうだな」
『はい』
「たまには、いいえって言え」
『事実ですので』
レイは、最後に研究室を振り返った。
机。
手紙。
ホワイトボード。
雨の窓。
父がいた場所。
いなかった場所。
守ろうとして、隠した場所。
レイは、まだ父を許していない。
でも、父を知った。
そして、父をR-■■だけにはしなかった。
それで今は充分だ。
真昼が隣に立つ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
「行けますか」
「行けます」
「顔、少し変わりました」
「悪い方に?」
「いいえ」
真昼は、少しだけ笑った。
「父親を許していない息子の顔です」
「それ、いい方?」
「かなり」
レイも、ほんの少し笑った。
霧生が前へ出る。
「点呼」
全員が、それぞれの名前を言った。
霧生仁。
黒江透子。
倉科悠斗。
御影レイ。
白瀬真昼。
藍沢環。
通信の向こうから、遅れて佳乃の声も入る。
『御影佳乃。外にいるわ』
霧生が少し驚いた顔をした。
「お母さんまで点呼に入ってきたぞ」
レイは端末を見た。
「母さん」
『レイ』
「いる」
『聞いていたわ』
「うん」
『行ってきなさい。怒るのも、話すのも、帰ってきてから』
「うん」
『レイ』
「いる」
その返事を最後に、一行は研究室の奥へ向かった。
背後で、御影遥真の研究室の扉が静かに閉じる。
閉じる直前、机の上の便箋が一枚だけ揺れた。
そこに残された文字は、もう薄れていなかった。
**レイへ**
通路の先で、アガルタ核の水音が待っていた。




