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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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第四章 無名駅、次発表示なし

 ゲートの向こうには、駅があった。


 ただし、駅名はなかった。


 ホームは地下の闇の中に沈んでいる。


 古いコンクリートの床。


 等間隔に並ぶ柱。


 天井を走る配管。


 壁際に取りつけられた朽ちたベンチ。


 線路の縁に残る黄色い警告線。


 何十年も前に貼られた安全ポスター。


 それらは、確かに駅の形をしていた。


 だが、そこがどこなのかを示すものだけが、すべて抜け落ちていた。


 ホーム名の看板は白い。


 路線図には線だけが残り、駅名がない。


 階段の上を指す案内板には、矢印だけがある。


 出口番号は残っている。


 乗換番号も残っている。


 しかし、どこへ出るのか分からない。


 次発表示器が、ホーム中央の天井からぶら下がっていた。


 以前ここに来た時、そこにはK-117やR-■■といった、名の代わりに置かれた記号が表示されていた。


 それだけでも充分に不気味だった。


 しかし、今は違う。


 表示器は点いている。


 黒い画面に白い文字が浮かびそうになっている。


 だが、何も出ない。


 次発もない。


 行先もない。


 時刻もない。


 ただ、空白だけが発光している。


 真昼は、その光を見上げた。


「……何もない方が、怖いですね」


 レイが頷く。


「うん」


「番号でも、出ていた時はまだ何かを指していました」


「今は、指す先ごと消えかけてる」


 ホームの奥から、黒い水音が響いている。


 無名駅は水没していなかった。


 だが、線路の下、ホームの端、排水溝の奥、閉じた自動改札の下。


 あらゆる低い場所に、黒い水が溜まっている。


 それは静かに増えていた。


 水位は目で見えるほど上がっているわけではない。


 それなのに、立っているだけで分かる。


 駅全体が、少しずつ下へ引かれている。


 地盤沈下ではない。


 場所そのものが、名前のない層へ沈もうとしている。


 倉科悠斗は、ホームへ踏み出してすぐに膝を曲げ、床をライトで照らした。


 作業員としての癖が出ている。


 床面の亀裂。


 水の流れ。


 柱の傾き。


 電源ケーブルの露出。


 駅がどれほど異常でも、彼はまず危険箇所を見る。


「黄色い線より外に出るな。線路側は水が上がってる。ベンチも信用するな。ああいうのは一見無事に見えて、座った瞬間に足元から抜ける」


 霧生仁が、懐中ライトを構えながら言った。


「お前、やっぱり現場指揮だな」


「旧地下鉄限定な」


「限定でも頼りになる」


「褒めても地下水は減らない」


「現実的で助かる」


 黒江透子は、ホームの壁を見ていた。


 そこには、古い広告枠が並んでいる。


 広告の絵柄は残っている。


 旅行会社の写真。


 病院の案内。


 学習塾のポスター。


 商店街の夏祭り告知。


 けれど、人物名だけが消えている。


 出演者名。


 院長名。


 塾長名。


 実行委員長名。


 顔写真の下にあるはずの名前欄だけが、白い穴になっていた。


 透子は静かに言う。


「駅は、人と場所を結ぶ記録です。ここが無記層へ引かれると、街の移動記録からも名前が失われる可能性があります」


「つまり?」


 霧生が聞く。


「誰がどこへ行ったのか、分からなくなる」


「最悪の監視カメラだな。映ってるのに身元が残らない」


「はい」


 霧生は、ホームの中央で足を止めた。


「点呼」


 その一言に、全員が反応する。


 霧生は、いつもより少し大きな声で言った。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


「います」


「倉科悠斗」


「いる。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「藍沢環」


 通信の向こうから声が返る。


『藍沢環。記録保全部側、接続維持。ただし、無名駅付近で音声遅延が発生しています』


「遅れても返事しろ」


『了解しました』


 霧生は、全員を見回した。


「名前を言え。返事しろ。ここではそれが命綱だ」


 それは、呪文ではなかった。


 異能でもない。


 霧生は多元記憶を見ない。


 記録層も、アニマ層も、無記層も、体感としては分からない。


 それでも彼は、現場で何が命綱になるかを知っている。


 返事。


 声。


 名前。


 まだそこにいるという確認。


 真昼はノートを開いた。


 ページの端が湿っている。


 インクが滲みそうだった。


 それでも書く。


 **霧生仁。

 黒江透子。

 倉科悠斗。

 御影レイ。

 白瀬真昼。

 藍沢環。**


 書き終えると、少しだけ足元が安定した気がした。


 駅そのものが沈んでいるのに、自分たちの立つ場所だけが、紙の上に杭を打たれたように残る。


 レイは、そのノートを見た。


「効きますね」


「効いてほしいから書いてます」


「白瀬の字、少し震えてる」


「怖いので」


「うん」


「御影くんは?」


「怖いです」


 短いやり取り。


 それでも、今は必要だった。


 怖いと言えるうちは、まだ自分の感覚が残っている。


     *


 ホームには、人影がいた。


 最初は、柱の影に見えた。


 次に、待合ベンチに座っている誰かの背中に見えた。


 やがて、それが一人ではないと分かる。


 ホームの端。


 改札跡。


 階段の下。


 広告枠の前。


 線路を見下ろす黄色い線の内側。


 人々が立っている。


 しかし、はっきりとは見えない。


 輪郭が薄い。


 雨の日の窓ガラス越しに見る通行人のように、顔も服も少しずつ水に溶けている。


 彼らは、生きている人間ではなかった。


 残響。


 この駅に引っかかった、名前を失った人たちの痕跡。


 その一人が、こちらを見た。


 作業服姿の男。


 ヘルメットを被っている。


 胸の名札は白い。


 男は、隣の影に向かって言った。


「保守員二号、点検終わったか」


 隣の影が答える。


「作業中。乗客三名、誘導済み」


 別の影が、改札跡で言う。


「患者番号三十七、出口五へ」


 さらに別の影。


「生徒番号十二、ホーム内待機」


「職員番号九、報告書提出」


「母親役、子ども役を確認」


 真昼は、息を呑んだ。


 彼らは会話している。


 だが、誰も名前を呼ばない。


 番号。


 役割。


 機能。


 そこに人間の輪郭はある。


 しかし、名前がない。


 名前がないのに、会話は成立している。


 作業は進む。


 誘導もできる。


 報告もできる。


 そのことが、ひどく怖かった。


 レイが、低く言う。


「ここだと、番号で生きられるんだ」


 真昼は、すぐ横を見た。


 レイの顔が、少し遠い。


「御影レイ」


 レイは瞬きをした。


「白瀬真昼」


「今の言い方、危なかったです」


「分かってます」


「本当に?」


「少し、分かってなかったかも」


 レイは、残響たちを見る。


 番号と役割で動く人々。


 名前がなくても、困っていないように見える。


 むしろ、苦しみが薄い。


 自分が何者か考えなくていい。


 誰に傷つけられたのか、誰を傷つけたのか、誰を愛していたのか、何を失ったのか、思い出さなくていい。


 保守員二号。


 患者番号三十七。


 生徒番号十二。


 職員番号九。


 A-00。


 その中に入れば、楽かもしれない。


 だが、その楽さは、死に近い。


 いや、死よりも悪い。


 死んだことすら残らない。


 レイは、自分の胸元を押さえた。


「御影レイ」


 自分で言った。


 真昼が返す。


「白瀬真昼」


 倉科が、ホームの残響を睨むように見た。


「気分悪いな」


 霧生が聞く。


「水か」


「それもあるけど、あいつらの会話」


「番号ばっかりだからか」


「仕事だけなら、それで済む時もある。地下だと、無線で名前より役割を呼ぶこともある。保守一班、誘導担当、電源担当とか」


 倉科は、工具箱についた黄色い電車のキーホルダーを握った。


「でも、仕事が終わったら名前に戻るんだよ。ゆう兄って呼ばれて、ああ帰る場所があるって分かる。ずっと保守員二号のままは、嫌だ」


 真昼は、その言葉をノートに書きそうになって、止めた。


 本人の前で書くには、少し近すぎる言葉だった。


 代わりに、短く書く。


 **役割は必要。

 でも、帰るには名前が必要。**


 透子がホームの残響へ近づきすぎない位置で立ち止まった。


「彼らは、完全な死者ではありません。名前を失ったまま、場所の機能に縛られている」


「戻せるのか」


 霧生が聞く。


「名前が分かれば、可能性はあります。ただし、ここで無理に呼べば、残響が崩れる危険もある」


「面倒な駅だな」


「はい」


 霧生は、残響たちへ声を張った。


「こっちは市警だ。分かる奴、返事しろ」


 人影たちは、ゆっくりこちらを見た。


 だが、誰も「はい」とは言わない。


 代わりに、番号が返る。


「対象外」


「権限外」


「呼称不明」


「記録なし」


 霧生は、眉を寄せた。


「人間に向かって対象外って言うな」


 それでも、彼らは表情を変えない。


 残響の一人が、白い顔をこちらへ向ける。


「お名前を確認できません」


 それは、病院の受付で聞いたような声だった。


 優しく、丁寧で、空っぽの声。


「番号を提示してください」


 レイの視界に、A-00が浮かぶ。


 提示すれば通れるのかもしれない。


 番号を差し出せば、この駅は自分を受け入れるのかもしれない。


 その考えが生まれた瞬間、霧生が言った。


「御影レイ」


 レイは、はっとする。


「いる」


「番号を聞かれても答えるな」


「分かってます」


「分かってる顔じゃなかった」


「すみません」


「謝るな。名前を言え」


「御影レイ」


「よし」


 霧生は、残響へ向き直った。


「こいつはA-00じゃない。御影レイだ。記録しろ」


 残響たちは、反応しない。


 だが、ホームの空気がわずかに揺れた。


 真昼は、それを見逃さなかった。


 ノートに書く。


 **霧生仁、無名駅残響へ御影レイ名を提示。

 反応微弱。

 番号拒否。**


 藍沢の通信が、少し遅れて入る。


『今の呼称で、A-00誘引が一時低下しました。霧生主任の点呼、現場安定に寄与しています』


 霧生が顔をしかめる。


「寄与とか言うな。変な実績にするな」


『事実です』


「事実が嫌なんだよ」


 倉科が笑いかけたが、すぐに顔をしかめた。


「笑ってる場合じゃないな。水位、また上がった」


 ホーム端の黒い水が、黄色い線へ近づいていた。


 まだ越えてはいない。


 だが、確実に上がっている。


 無名駅は沈み続けている。


     *


 ホームの奥へ進むと、残響の数が増えた。


 古い制服の学生。


 作業服の男。


 病院着の女性。


 スーツ姿の職員。


 小さな子どもを探す母親らしき影。


 だが、誰も互いを名前で呼ばない。


「母親役」


「子ども不在」


「職員番号五、確認」


「患者番号四十二、待機」


「生徒番号三、乗車不可」


 真昼は、呼べる名前だけをノートに書いていった。


 全員の名前は分からない。


 分からない名前を勝手に作ることはできない。


 だから、知っている名前だけを書く。


 **古河千景。**


 地下鉄に関わり、ここに近い場所で殺された青年。


 **倉科悠斗。**


 今、生きてここを案内している整備士。


 **御影レイ。**


 隣で揺れながらも戻り続ける少年。


 **白瀬真昼。**


 自分の名前。


 薄れないように。


 **黒江透子。**


 過去を抱えながら、まだ立っている人。


 **霧生仁。**


 名前を呼ぶ刑事。


 **藍沢環。**


 通信の向こうで番号と名前を分けようとしている人。


 書くたび、ホームの床に小さな釘が打たれるような感覚があった。


 ただし、すべての残響が戻るわけではない。


 真昼が名前を書くほど、名前を持たない残響たちがこちらを見る。


 恨むように。


 羨むように。


 なぜ自分の名前は呼ばれないのか、と問うように。


 真昼は、胸が痛くなった。


「ごめんなさい」


 小さく言った。


 レイが聞く。


「誰に?」


「名前を知らない人たちに」


「白瀬のせいじゃない」


「でも、私が書ける名前だけ書いてる」


「今は、それしかできない」


「はい」


 分かっている。


 分かっていても、痛い。


 それでも書く。


 知らない名前を勝手に埋めない。


 分かる名前を消さない。


 分からない名前は、分からないまま、空白として守る。


 真昼は、ノートにもう一行書いた。


 **不明名の残響多数。

 仮名付与しない。

 空白のまま保全。**


 透子が、それを横目で見た。


「良い判断です」


「褒められました?」


「はい」


「珍しい」


「必要な時は褒めます」


「もう少し頻度を上げてもらえると」


「検討します」


 短い会話。


 その途中で、透子の足が止まった。


 ホームの奥。


 線路へ降りる非常階段の前。


 そこに、一人の少年が立っていた。


 白い検査着。


 細い体。


 前髪が目にかかり、手首には識別バンド。


 バンドには、名前ではなく、


 **K-117**


 と書かれている。


 透子の呼吸が止まった。


 レイも気づいた。


 真昼も。


 倉科は、何かを感じたのか工具箱を持つ手を強くした。


 霧生は、透子の顔を見て、即座に声を低くする。


「黒江」


 透子は、返事をしなかった。


 少年は、こちらを見ている。


 いや、透子を見ている。


 薄く、壊れそうな輪郭。


 それでも、その声だけははっきり聞こえた。


「先生」


 透子の唇が震える。


 その名前を呼びそうになる。


 真木彼方。


 呼びたい。


 ずっと呼びたかった。


 彼は、番号ではない。


 K-117ではない。


 真木彼方。


 そう呼べば、きっと少し戻る。


 そう思った瞬間、少年が首を振った。


「先生、まだ」


 透子の目が見開かれる。


 声にならない息が漏れた。


 真昼は、瞬間的に一歩前へ出た。


「黒江さん」


 透子の肩が揺れる。


「分かっています」


 声が掠れていた。


「分かっています」


 霧生が近づく。


「黒江透子」


 透子は、かすかに振り向く。


「います」


「名前を言え」


「黒江透子」


「今はそれだけだ」


「はい」


 真昼は、ノートを開いたまま、ペンを止めた。


 書きたい。


 真木彼方と書きたい。


 だが、ここで書いていいのか分からない。


 すでに非公開記録には置いている。


 しかし、無名駅のこの場所で名前を書くことは、呼ぶことに近い。


 少年は「まだ」と言った。


 だから、真昼は書かなかった。


 代わりに、別の行を書く。


 **K-117残響出現。

 本人声:「先生、まだ」。

 完全呼称しない。

 黒江透子、踏みとどまる。**


 書いている間、真昼の手も震えていた。


 灯里なら、今日は呼ばないと言ったかもしれない。


 自分も、今はそうする。


 逃がすためではない。


 守るために。


 少年は、透子を見ていた。


「先生」


 透子は、唇を噛む。


「……私は、ここにいます」


「先生、まだ」


「はい」


「まだ、呼ばないで」


「はい」


 それだけの会話だった。


 だが、透子の顔は、泣きそうだった。


 泣かない。


 彼女は泣かない。


 その代わり、両手を強く握りしめている。


 霧生は、彼女の横に立った。


「今は呼ばない」


 少年は、霧生を見た。


 霧生は、正面から見る。


「ただし、消さない。いいな」


 少年の輪郭が、少しだけ揺れた。


 それが頷きだったのか、風だったのかは分からない。


 次の瞬間、ホーム奥の壁に変化が起きた。


 これまで何もなかった場所。


 広告枠と配線盤の間。


 黒い水が壁を伝って上がり、四角い輪郭を描く。


 水の線が、扉の形になる。


 金属の扉。


 白い塗装。


 小さな観測窓。


 その中央に、黒いプレートが浮かび上がる。


 **K-117観測室**


 透子が息を止めた。


 藍沢の通信が乱れる。


『……反応……K-117……観測室残響……無名駅内部に……』


 ノイズ。


 水音。


 それから、かろうじて声が戻る。


『境界観測局地下廃棄区画ではありません。無名駅内に、観測室記録が再現されています』


 霧生が言う。


「つまり、次はそこか」


 透子は、扉を見つめている。


 少年の残響は、もう薄れ始めていた。


 白い検査着。


 識別バンド。


 K-117。


 名前を呼べない少年。


 彼は、最後にもう一度だけ透子を見た。


「先生」


 透子は、震える声で答えた。


「はい」


「次は」


 少年の声が、黒い水音に混じる。


「間違えないで」


 その言葉を残して、彼の姿は消えた。


 ホームには、K-117観測室へ続く扉だけが残った。


 黒い水が、その扉の下からゆっくり染み出している。


 霧生が、懐中ライトを握り直した。


「点呼」


 誰も動かなかった。


 ただ、返事だけが続く。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


 少し遅れて。


「います」


「倉科悠斗」


「いる。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「藍沢環」


『接続維持。……遅延あり。ですが、います』


 霧生は頷いた。


「よし」


 それから、K-117観測室の扉を見た。


「行くぞ。ただし、名前は落とすな。呼べない名前は、まだ呼ぶな。分かってるな」


 透子は、ゆっくり頷いた。


「分かっています」


 その声は、痛いほど静かだった。


 扉の向こうで、古い観測機器の起動音が聞こえた。

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