表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
71/82

第三章 旧地下鉄、黒い水位

 旧地下鉄保守区画の入口は、商店街の裏手にあった。


 表から見れば、何の変哲もない業務用の鉄扉である。


 雨に濡れた路地の奥。排気口の低いうなり。古いビルの外壁に貼られた剥がれかけの点検予定表。錆びたインターホン。扉の横には、都市交通局の小さなプレートがついている。


 **幻都アガルタ都市交通局

 旧地下鉄保守課

 関係者以外立入禁止**


 ただし、その朝、プレートの文字は薄れていた。


 都市交通局。


 旧地下鉄保守課。


 関係者以外立入禁止。


 それらは読める。


 だが、下の管理責任者名だけが消えている。


 **管理責任者 ――**


 霧生仁は、そのプレートを見て舌打ちした。


「徹底してやがるな」


 黒江透子が、透明な傘を畳みながら言った。


「個人名だけを選択的に削っています。役職名、組織名、機能名は残る」


「嫌な世界の作り方だ」


「はい」


 その横で、倉科悠斗が鍵束を取り出していた。


 作業服の上に防水ジャケットを羽織り、ヘルメットを小脇に抱えている。顔色はまだ良くない。黒い封筒で名前と痛みを突き返された後、完全に回復したわけではない。


 それでも、彼の手つきは確かだった。


 古い鍵束の中から、迷わず一本を選ぶ。


 鍵を差し込み、少し持ち上げるようにして回す。


 がちゃり。


 鉄扉の奥で、古い機械が目を覚ますような音がした。


「地下は、鍵の癖まで残るんだよ」


 倉科が言った。


 霧生が眉を上げる。


「急に職人っぽいこと言うな」


「職人じゃない。整備士」


「似たようなもんだろ」


「違う。職人って言うと、なんか頑固でかっこいいだろ。俺はシフト表に追われる雇われ」


「現実的でよろしい」


 倉科は、少しだけ口元を緩めた。


 だが、扉を押し開けた瞬間、その笑みは消えた。


 下から、冷たい空気が上がってきた。


 地下鉄特有の匂い。


 鉄錆、古い油、湿ったコンクリート、電気設備の焦げた匂い。


 その奥に、別のものが混じっている。


 水。


 ただの雨水ではない。


 重く、暗く、名前を吸うような水の匂い。


 レイは、入口の前で足を止めた。


 真昼も、同じように息を詰める。


 階段の下から、低い水音が聞こえた。


 ぽたり、ではない。


 ざあ、でもない。


 もっと深い。


 都市の底で巨大なものがゆっくり回っているような音。


 倉科はヘルメットを被り、ライトを点けた。


「ここから先、足元滑る。壁際の黄色い線より内側を歩け。水に触るな。名前が怪しくなったら、すぐ言え」


 霧生が言う。


「お前が現場指揮みたいになってるな」


「地下は俺の職場だから」


「じゃあ任せる。ただし無理したら怒る」


「怒る人多すぎだろ、このチーム」


 真昼が小さく手を上げる。


「私も怒ります」


「白瀬さんまで」


「倉科さんはすぐ自分を後回しにするので」


「何で分かるんだよ」


「部屋を見ました」


「プライバシー」


「姪御さんのキーホルダー、工具箱につけてる人はだいたいそうです」


 倉科は、工具箱を持つ手をわずかに固くした。


 そこには、小さな黄色い電車のキーホルダーが揺れている。


 ひよりからもらったものだ。


 倉科は、苦い顔をして言った。


「……白瀬さん、刑事より見るとこ細かいな」


「記録者なので」


「怖い職業だな」


「よく言われます」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、階段の下の水音が、その緩みをすぐに押し流す。


 霧生が点呼した。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


「います」


「倉科悠斗」


「いる。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


 その言い方に、真昼が反応した。


 まだ地上側にいる。


 彼はもう、自分で境界を意識している。


 地下へ降りるが、まだ地上側。


 名前を持って、生者としてここにいる。


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「藍沢」


 通信から、藍沢環の声が返る。


『藍沢環。記録保全部側、接続維持しています』


「よし。降りるぞ」


 鉄扉の向こうへ、一行は入った。


     *


 階段は、いつもより長く感じた。


 地下へ降りるコンクリートの階段は、壁の蛍光灯が半分以上消えている。生き残った灯りも、青白く揺れていた。手すりには赤茶けた錆が浮き、ところどころに古い点検シールが貼られている。


 だが、その点検者名が消えていた。


 **点検者 ――**


 **承認者 ――**


 **作業責任者 ――**


 日付は残っている。


 チェック項目も残っている。


 不具合内容も、交換部品も残っている。


 人の名前だけがない。


 真昼は、その一枚一枚を見ながら降りた。


 全部を書きたい。


 全部残したい。


 けれど、今書き始めたら、階段から戻れなくなる。


 だから、視線だけで記録する。


 後で書く。


 消えなければ。


 自分の名前も、記録する力も、後で残っていれば。


 レイが横から言った。


「白瀬真昼」


 真昼は、すぐに返す。


「御影レイ」


「今、少し遠かった」


「すみません」


「謝らなくていい」


「でも、助かりました」


「僕も、呼んで戻ってるから」


 階段の下で、倉科が振り向く。


「お二人さん、いちゃつくなら地上でやってくれ」


 真昼が即座に言う。


「相互呼称です」


「便利な言葉だな」


「命綱です」


「命綱なら仕方ない」


 霧生が低く笑った。


「倉科、慣れてきたな」


「慣れたくないけどな」


 階段を下りきると、保守区画の通路に出た。


 旧地下鉄の裏側。


 乗客が通る駅構内ではなく、整備士や保守員が使う通路である。


 天井には低い配管が走り、床には黄色い誘導線が描かれている。壁際には工具棚、古い交換部品の箱、非常用ライト、排水ポンプ制御盤。


 その奥に、黒い水があった。


 通路の先、床の低い部分に溜まっている。


 水たまりというには広い。


 浸水というには静かすぎる。


 光をほとんど反射しない。倉科のヘルメットライトを当てても、黒い布のように沈んだまま、表面だけがわずかに揺れた。


 そこから、一段ずつ水位が上がっている。


 階段の方へではない。


 無名駅方面へ向かう通路から、こちらへ押し寄せている。


 倉科がしゃがみ、床の水位計を見た。


 透明な筒の中に、黒い水が上がっている。


 目盛りには数字だけがある。


 だが、隣に貼られていた古い手書きのメモから、担当者名が消えていた。


「昨日の夜より、三センチ上がってる」


 倉科が言う。


 霧生が聞く。


「三センチって危険なのか」


「普通の水なら、まだ余裕。でもこれは普通じゃない」


「黒いからか」


「黒いだけじゃない」


 倉科は、ライトを水面へ向けた。


「水が流れてる方向が逆だ。ここの排水は地上側のポンプへ抜ける。なのに今は、奥から押し返してる」


 透子が言った。


「無記層側からの逆流」


「言い方は分からないけど、たぶんそれ」


 倉科は、工具箱から白いチョークを取り出し、床の端に水位線を引いた。


 **現在水位**


 そう書きかけて、手が止まる。


 彼は、一瞬だけ自分の手元を見る。


 チョークの文字が、少し滲んだ。


 **現在――**


 倉科は、舌打ちした。


「倉科悠斗」


 自分で言った。


 声は低い。


「旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


 チョークの文字が安定する。


 彼はもう一度書いた。


 **現在水位 倉科悠斗確認**


 真昼は、その背中を見た。


 痛みを覚えながら、名前を使う。


 倉科は、名前を呼ばれるだけではなく、自分で名乗っている。


 痛いけど俺の名前だ。


 あの言葉は、まだ続いている。


 藍沢の声が通信から入る。


『倉科悠斗さんの自己呼称により、保守区画記録が一部安定しました。地上側記録との接続を維持しています』


 倉科が眉をひそめる。


「俺、今、何かの設備扱いされてる?」


『いいえ。現象上、有効な地上側アンカーとして記録されています』


「それも設備っぽい」


 霧生が言う。


「諦めろ。俺たち全員、今は半分くらい備品だ」


「嫌な現場だな」


「だから名前を言うんだよ」


 通路の奥に、古い駅名表示板が見えた。


 倉科は、そこへ向かう。


 真昼とレイも続いた。


 表示板は、旧地下鉄の保守用ホームへ出る手前にある。通常なら、作業員用に現在位置と接続路線を示している。


 だが、今はおかしい。


 路線番号は残っている。


 **旧三号線**


 **連絡線 7**


 **保守通路 B-2**


 番号、記号、矢印は残る。


 しかし、駅名がない。


 **――**


 **――**


 **――**


 まるで、駅が自分の名前を忘れたようだった。


 真昼は、息を呑む。


「ここまで」


 透子が頷く。


「駅名は、地名と人名の中間です。人の生活と結びつきすぎている」


 レイは、表示板を見上げた。


 旧地下鉄。


 番号だけが残る地下。


 名前のない駅。


 A-00という番号が、また視界の端に浮く。


 ここでは、番号の方が強い。


 路線番号は消えない。


 保守通路番号も消えない。


 駅名だけが消える。


 名前は、弱い。


 番号は、強い。


 それが、地下全体から囁かれているようだった。


 真昼が言う。


「御影レイ」


 レイは、少し遅れて返した。


「白瀬真昼」


「遅い」


「ごめん」


「遅いと怒ります」


「さっきから怒ってばっかり」


「怒る理由が多いんです」


 倉科が、表示板の下にある旧式端末を操作した。


「ここから保守記録が見られる。ネットから切れてる古い端末だから、逆に残ってるものがあるかもしれない」


 端末は、緑色の古い画面だった。


 倉科がキーを叩く。


 指先は慣れている。


 古いメニューが表示される。


 **保守履歴**


 **事故報告**


 **閉鎖区画点検**


 **未処理記録**


 倉科は、事故報告を開いた。


 画面が一度、黒くなる。


 それから、古い記録が浮かび上がった。


 **旧地下鉄閉鎖区画内転落事故**


 **発生日:二年前**


 **区画:旧三号線 保守通路 C-04付近**


 C-04。


 レイの呼吸が止まった。


 透子の表情も変わる。


 真昼は、鞄から非公開記録端末を取り出した。


「古河千景さんの」


「はい」


 透子が答える。


「オメガが最初に殺したレイ系同魂者の記録です」


 端末画面の文字が揺れた。


 **対象者名:古河――**


 そこで止まっている。


 古河千景。


 その名が、完全には表示されない。


 倉科が歯を食いしばった。


「またかよ」


 彼は端末を叩きそうになって、止めた。


 代わりに、自分の胸を押さえる。


「痛いな」


 霧生がすぐに聞く。


「どこだ」


「胸。あと、右手。古い作業手袋をしてる感覚がある。俺のじゃない」


 レイも同じものを感じていた。


 右手。


 濡れた作業手袋。


 懐中ライト。


 ヘルメットの内側にこもる息。


 地下水の匂い。


 足音。


 自分のものではない恐怖。


 古河千景。


 彼は、ここにいた。


 普通に働いていた。


 自分を普通だと思おうとしていた。


 知らない記憶を病気だと考え、地下の仕事で疲れているだけだと思い込み、メモ帳に何度も自分の名前を書いた。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 レイの視界が、保守区画からずれた。


     *


 水の音。


 ヘルメットライトの白い円。


 古いコンクリートの壁。


 反射ベストの胸元が湿っている。


 手袋の中で、指が冷たい。


 作業確認票に、名前を書かなければならない。


 ペンを持つ。


 古河。


 そこまで書ける。


 千景。


 少し遅れて書ける。


 書いた文字を見て、安心する。


 まだ自分の名前だ。


 まだ覚えている。


 まだ誰かに取られていない。


 背後で、傘が開く音がした。


 地下なのに。


 雨は降っていないのに。


 ばさり。


 振り向く。


 黒い傘。


 顔は見えない。


 黒い刃。


 光らない。


 声が聞こえる。


 あなたも、私です。


 違う。


 そう言いたい。


 自分は古河千景だ。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 言葉にする前に、刃が入る。


 痛みは、肉体の痛みだけではなかった。


 名前を書いた紙が、内側から破られる。


 自分の人生が、誰かの手で閉じられる。


 古河千景。


 その名前が、暗い水の中へ落ちていく。


     *


「御影レイ!」


 真昼の声で、レイは戻った。


 膝が少し落ちていた。


 倉科が肩を掴んでいる。


 霧生が正面にいる。


 透子は端末を見ながら、レイの瞳孔と呼吸を確認していた。


「御影、返事」


 霧生の声。


 レイは、息を吸う。


「御影レイ。いる」


 真昼が言う。


「白瀬真昼。います」


 倉科も続いた。


「倉科悠斗。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


 その言葉で、レイの足裏が床へ戻る。


 通路の冷たいコンクリート。


 黒い水の匂い。


 今の自分の身体。


 レイは、保守端末を見た。


 対象者名は、まだ薄い。


 古河――。


 真昼が非公開記録を開く。


 だが、声には出さない。


 彼女は、古河千景の記録を開き、紙のノートへ書いた。


 ゆっくり。


 濡らさないように。


 震えないように。


 **古河千景。消さない。**


 書いた瞬間、保守端末の対象者名欄が、一瞬だけ濃くなった。


 **古河千景**


 表示された。


 ほんの数秒。


 すぐにまた薄れる。


 しかし、見えた。


 レイも、倉科も、透子も、見た。


 霧生が言った。


「記録。今、全員見たな」


「見ました」


 透子が答える。


「古河千景の名前、一時表示。市警記録に反映します」


 真昼は、ノートを閉じなかった。


 その名前がまた薄れないように、ページを開いたままにする。


 レイは、端末の薄い文字を見つめた。


 古河千景。


 自分だったかもしれない少年。


 同じアニマを持ち、地下で働き、名前に違和感を覚え、それでも普通に生きようとしていた青年。


 オメガが最初に殺した、レイ系同魂者。


 レイの胸の奥で、古河千景の恐怖がまだ揺れている。


 黒い傘。


 黒刃。


 自分は古河千景だ、と言おうとした口。


 レイは、唇を噛んだ。


「古河千景は、僕じゃない」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 レイは続ける。


「僕だったかもしれないけど、僕じゃない」


 その言葉は、地下の湿った空気に落ちた。


 強い宣言ではなかった。


 まだ震えている。


 それでも、はっきりしていた。


「古河千景は、古河千景です。僕の中に記憶が入ってきても、僕が痛みを感じても、殺されたのは僕じゃない。古河千景です」


 真昼が、静かに頷いた。


「はい」


 透子も言う。


「その区別を維持してください。ここから先、その線が何度も揺れます」


「分かっています」


 倉科が、少し乱暴にレイの肩を叩いた。


「いいじゃん。ちゃんと言えてる」


「痛いです」


「痛くても戻るだろ」


「倉科さん、意外と荒い」


「地下育ちだから」


「地下ってそんな場所なんですか」


「いや、適当に言った」


 真昼が、少しだけ笑った。


 霧生も短く息を吐く。


 だが、すぐに表情を引き締めた。


「倉科、ゲートは?」


「この奥。保守通路C-04を抜けると、旧閉鎖区画。さらに先が無名駅方面」


「C-04って」


 真昼が言う。


 倉科は頷いた。


「古河千景の事故記録と同じ区画番号。偶然じゃないだろうな」


 彼は端末を閉じ、通路の奥へライトを向けた。


 黒い水は、すでに足首の高さ近くまで来ている場所がある。


 床の黄色い線が、ところどころ水に沈んでいた。


 倉科は、工具箱を持ち直す。


「ここから先は、本当に足元気をつけろ。黒い水に靴先つけるな。名前が薄れるだけじゃ済まない気がする」


「気がする、で充分怖いな」


 霧生が言う。


「地下は、嫌な予感を信じた方が生き残る」


「今度は本物の地下格言か」


「これは本物」


 一行は、保守通路の奥へ進んだ。


 壁の表示は、進むほど壊れていく。


 駅名はない。


 区画名もない。


 残るのは番号。


 **C-04**


 **B-2**


 **連絡線 7**


 **旧三号線**


 番号だけが、暗い壁に浮いている。


 真昼は、番号の横にある空白を見ながら歩いた。


 ここにはかつて、誰かがいた。


 誰かが点検した。


 誰かが記録した。


 誰かが帰った。


 誰かが帰らなかった。


 その誰かの名前だけが、今、消えている。


 通路の突き当たりに、巨大な防水ゲートがあった。


 旧地下鉄の閉鎖区画へ続くゲート。


 厚い鋼鉄製で、中央には大きな丸いハンドルがある。周囲には警告灯、古い認証端末、手動開放用の工具差込口。


 その上の表示板には、かつて行先が出ていたはずだった。


 今は、


 **――方面**


 とだけ表示されている。


 無名駅。


 その名すら表示されない。


 倉科は、ゲートの前に立った。


 ヘルメットライトが黒い水面を照らす。


 水は、ゲートの下の隙間からにじみ出ている。


 ただ漏れているのではない。


 向こう側から、押している。


 何かが、開けろと言っているように。


 藍沢の通信が入る。


『ゲート向こう、無記層反応が上昇しています。開放すると、旧地下鉄側の記録欠落が一段進む可能性があります』


 霧生が聞く。


「閉じたままだと?」


『水位上昇により、別経路へ溢れます。市街側へ戻る可能性が高い』


「開けても閉めても面倒か」


『はい』


「なら、開けて進むしかねえな」


 倉科が、工具を差し込んだ。


 だが、ハンドルは動かない。


「固い」


「手伝うか」


 霧生が近づく。


「いや」


 倉科は首を振った。


「これは俺がやる。旧地下鉄保守課の仕事だ」


「お前、本当に無理するなよ」


「してる」


「おい」


「無理してるって言えるうちは、まだ戻れる」


 倉科は、ハンドルに両手をかけた。


 胸の奥に、また痛みが走る。


 倉科悠斗。


 その名前が、黒い水に引かれそうになる。


 地下が囁く。


 番号でいい。


 保守員でいい。


 旧地下鉄の担当者でいい。


 名前などなくても、作業はできる。


 水位は測れる。


 ゲートは開けられる。


 役割だけで充分だ。


 倉科は、歯を食いしばった。


「倉科悠斗」


 ハンドルに力を込める。


「旧地下鉄保守課」


 金属が軋む。


「まだ地上側にいる」


 ハンドルが、少し動く。


「倉科悠斗」


 さらに回す。


「痛いけど、俺の名前だ」


 ゲートの内部で、古いロックが外れる音がした。


 がこん。


 重い音。


 通路全体が震える。


 黒い水面に波紋が広がる。


 真昼は、ノートを胸に抱いた。


 レイは、表示板を見る。


 **――方面**


 その空白の奥から、巨大な水音が聞こえた。


 これまで聞こえていたものとは違う。


 近い。


 深い。


 街の地下すべてが、ひとつの喉になって水を飲み込んでいるような音。


 ざあああああ、と。


 底のない音。


 ゲートが、ゆっくり開き始める。


 隙間から、冷たい黒い風が吹いた。


 水の匂い。


 鉄の匂い。


 古い事故記録の匂い。


 名前のない駅の匂い。


 その奥に、ホームの影が見えた。


 照明はない。


 だが、闇の中で何かの表示がわずかに光っている。


 次発表示。


 行先はない。


 時刻もない。


 ただ、白い文字が一瞬だけ浮かんだ。


 **次発:――**


 そして、消えた。


 霧生がライトを構えた。


「点呼」


 誰も文句を言わなかった。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


「います」


「倉科悠斗」


「いる。旧地下鉄保守課。まだ地上側にいる」


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「藍沢環」


『記録保全部側、接続維持』


 霧生は頷いた。


「行くぞ。名前を落とすな」


 ゲートの向こうから、巨大な水音がさらに大きくなった。


 無名駅方面への道が、開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ