第二章 名前を失う街
観測局の地上出口を出ると、雨は少し弱くなっていた。
止んだわけではない。
空は低いまま、灰色の雲を街の屋根に押しつけている。路面には昨夜からの水が残り、車のタイヤが通るたび、薄黒い飛沫が歩道の縁石へ散った。
霧生仁は、傘を差さなかった。
濡れたコートの襟を立て、市警の車両へ向かいながら、端末でどこかに怒鳴っている。
「だから令状は今すぐだ。文言はこっちで送る。アガルタ核関連施設への緊急立入。理由? 住民記録改竄、都市規模認知災害、未成年者強制回収未遂、殺人事件被疑者の逃走先。充分だろうが。……何? 前例がない? 前例があったら俺がこんな朝から濡れてるか」
端末の向こうで誰かが何かを言ったらしい。
霧生は、顔をしかめた。
「俺の態度は後で反省する。書類も後で出す。だから先に通せ。名前が消えた後で書類の宛名だけ残っても意味ねえんだよ」
通話を切り、彼は深く息を吐いた。
黒江透子は透明な傘を差している。
傘の縁から雨粒がまっすぐ落ち、彼女の肩だけは濡れていない。だが顔色は悪かった。旧ログ保管室で聞いた真木彼方の声が、まだ耳の奥に残っているのだろう。時々、視線が道路ではなく、もっと深い地下へ落ちている。
藍沢環は、青灰色の防護コートの内側に記録端末を抱え、観測局からの警告を確認していた。彼女の眼鏡には、赤い文字が映っている。
**個人名欠落、拡大中。**
**A-00関連記録、誘引傾向。**
**O-00関連記録、沈降継続。**
レイは、その文字を見ないようにしていた。
見なくても、視界の端に入る。
A-00。
その文字は、雨よりもしつこい。
真昼は、鞄を抱え直した。
中にはノートがある。
端末がある。
カメラがある。
濡れた紙片を入れるための透明袋がある。
そして、朝から何度も書いた自分の名前がある。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
書いても、胸の奥はまだ落ち着かない。
自分の署名が薄れた時の冷たさが、指先に残っている。
霧生が振り向いた。
「全員、一度市警へ戻る。装備と令状関係を整えて、旧地下鉄側へ移動する」
「その前に」
真昼は言った。
霧生の眉が動く。
「白瀬、嫌な予感しかしないぞ」
「現場を確認したいです」
「今から行く現場は地下だ」
「その前に、街を見たい」
「観光か」
「違います」
真昼は、雨の商店街の方角を見た。
「名前欠落がどう広がっているのか、見ておきたいんです。学校、病院、市役所、商店街。観測局のモニターには数字が出ます。でも、数字じゃ分からないことがあります」
藍沢が、少しだけ真昼を見た。
「白瀬真昼さんの意見には、一理あります。現象の分布は端末で確認できますが、市民側の認知変化は現地観測が必要です」
「お前まで乗るな」
霧生が言う。
藍沢は淡々と答えた。
「ただし、長時間の滞在は危険です。御影レイさんと白瀬真昼さんの相互呼称を維持しながら、短時間で複数地点を確認するのが妥当です」
「妥当って言えば通ると思ってるだろ」
「記録上、通る可能性は上がります」
「上げるな」
透子が口を開いた。
「霧生さん。地下へ入る前に、街の現象を直接見ておくべきです。アガルタ核で何を守るのかを曖昧にしたまま行くと、御影さんがA-00側へ引かれやすくなる」
レイが、少しだけ顔を上げる。
霧生は舌打ちした。
「本人の前で言うな」
「本人の前で言うべきです」
「黒江、お前そういうところだぞ」
「承知しています」
真昼はレイを見る。
「行けますか」
「行けます」
「嘘だったら怒ります」
「白瀬は最近、怒る宣言が多い」
「御影くんが怒られ案件を増やすからです」
「責任がこっちに寄ってる」
「正しい寄り方です」
霧生は、二人のやり取りを聞いて、短く息を吐いた。
「分かった。ただし条件付きだ。白瀬と御影は単独行動なし。黒江が同行。藍沢は通信で市内記録と照合。俺は市警との調整をしながら追う。危険反応が出たら即撤退。記事公開は禁止。写真も、人の顔が入るなら撮るな」
「はい」
「返事が早い時ほど怪しい」
「今回は守ります」
「今回はって言ったな」
真昼は視線を逸らした。
レイが小さく言う。
「今、そこを拾う元気あります?」
「ある。俺は刑事だからな」
霧生は、端末を真昼へ向ける。
「十五分。商店街、学院前、病院前。市役所は車内から確認。いいな」
「はい」
「御影」
「はい」
「名前を言え」
「御影レイ」
「白瀬」
「白瀬真昼」
「黒江」
「黒江透子」
「藍沢」
「藍沢環。通信側にいます」
「霧生仁。……よし、歩け」
雨の街へ、彼らは踏み出した。
*
商店街は、普段より静かだった。
朝の時間帯なら、アーケードの下にはもっと声がある。惣菜屋の揚げ物の匂い。喫茶店の豆を挽く音。八百屋の店先で、店主が濡れた段ボールを片づけながら客に冗談を言う声。自転車のベル。傘を閉じる音。
それらは、完全には消えていない。
だが、どの声も半歩だけ後ろへ退いている。
店は開いている。
看板も出ている。
シャッターには、店名が書かれている。
**喫茶アカネ**
**花工房ミズノ**
**山口精肉店**
**文具の白鳥**
店名は残る。
値札も残る。
営業時間も、電話番号も、ポイントカードの案内も残っている。
だが、店先に掲げられた店主紹介の札だけが、ところどころ白く抜けていた。
**店主 山口――**
**担当 水野――**
**焙煎責任者 ――**
**配達担当 佐伯――**
真昼は、足を止めた。
喫茶店の前。
黒板メニューには、今日のおすすめが書かれている。
**雨の日ブレンド**
**シナモントースト**
**モーニングセット**
その下に、チョークで書かれた一文。
**店主 ――が淹れます**
真昼は、その空白を見る。
見ているうちに、喉が苦しくなる。
店の中から、初老の男性が出てきた。
白いシャツに黒いエプロン。口元には、人のよさそうな笑みを作ろうとした跡がある。だが、その笑みは完成していなかった。
「今日は、なんだか変でね」
男性は、誰にともなく言った。
透子が穏やかに警察手帳を見せる。
「アガルタ市警です。お名前を確認してもよろしいですか」
「名前?」
男性は、少し笑った。
「山口です。山口……」
そこで止まった。
口は動く。
音が出ない。
彼は自分の胸の名札を見る。
そこには、
**山口**
だけが残っている。
下の名前の部分は、白いプラスチックのままだ。
「山口、なんだったかな」
男性は、笑おうとした。
「いや、変だね。自分の名前だろ」
レイの胸の奥が、きしんだ。
男性の表情には、恐怖だけではないものがあった。
戸惑い。
恥。
そして、ほんのわずかな安堵。
名前の先が出ない。
それは恐ろしい。
だが、同時に、何かから少し解放されたような顔でもあった。
常連客に呼ばれる自分。
昔の失敗。
家族との確執。
名前で背負ってきた仕事。
その全部が、一瞬だけ遠のいている。
真昼も、それに気づいた。
気づいてしまった。
「……怖いだけじゃないんですね」
真昼は小さく言った。
透子が横目で見る。
「何がですか」
「名前を失うこと」
真昼は、店主の名札を見た。
「怖い。でも、少し楽そうにも見える」
レイは、何も言わなかった。
その言葉は、自分の中にもあったからだ。
名前があるから、痛い。
篠宮凪はそう言った。
その意味が、街のあちこちで小さく実演されている。
責任も、過去も、恥も、期待も、名前に結びついている。
名前が薄れれば、それらも少し薄れる。
レイは、喫茶店のガラスに映った自分を見た。
濡れた制服の少年。
御影レイ。
その名前は、父の名にも、母の声にも、真昼の記録にも、A-00という分類にも引っ張られている。
もし、A-00だけになれば。
御影遥真の息子でもなく、佳乃の子でもなく、真昼の相棒でもなく、ただの接続媒体なら。
痛みは少し遠くなるのではないか。
思った瞬間、真昼の声が刺さった。
「また便利な番号の顔してる」
レイは、反射的に真昼を見た。
真昼は腕を組んでいた。
雨に濡れたポニーテールの先から、水滴が落ちている。顔色は悪い。自分の署名が欠けている恐怖は消えていない。けれど、目は逃げない。
「顔で分かるようになってきました」
「最近、それ言われると戻れます」
レイは苦く笑った。
「戻れるなら、何度でも言います」
「遠慮は?」
「御影くんが自分を番号に売りかける時は、遠慮しません」
「売るって」
「かなり近いです」
「……否定できない」
透子が、店主に簡単な確認をしている。
名前が完全に出ない場合は、無理に追及しない。店の営業を止めず、記録を残し、市警の相談窓口を案内する。藍沢から通信で、仮杭として店舗登録番号を残しながら、氏名欄を空白固定しないよう指示が入る。
男性は、自分の名札を指で撫でた。
「下の名前、家内なら覚えてるかな」
「確認は、焦らずに」
透子が言う。
「ただ、店名だけでなく、ご自身の名前を書けるものがあれば、保管してください。昔の免許証、手紙、写真の裏書き、何でも」
「名前を書いたものね」
男性は、店の奥を見た。
「古いコーヒー豆の配達帳に、サインが残ってるかもしれない」
真昼は、その言葉を聞いてノートを開いた。
**店は残る。
役割も残る。
でも、店主の名前が欠ける。
本人は怖がる。
同時に、少しだけ楽にも見える。
それが怖い。**
書いた瞬間、手が止まった。
名前を失うことが楽に見える。
それを理解してしまうことが、怖かった。
*
アガルタ学院の正門前には、生徒がまばらに残っていた。
雨の日の遅刻者ではない。
教室に入ったものの、自分の名前が出席簿から薄れていることに気づき、保健室や職員室へ回された生徒たちだった。
真昼とレイは、校舎の入口で立ち止まる。
旧新聞部室のある校舎も、雨に濡れている。
窓の向こうに、朝の薄い光が入っている。
学院は、いつも通りに見えた。
だが、職員室前の掲示板が変だった。
**本日の欠席者**
そこに並ぶのは、クラスと出席番号だけ。
**二年B組 出席番号一番**
**二年D組 出席番号十三番**
**一年A組 出席番号二十七番**
名前がない。
真昼の手が、鞄の紐を握る。
「学校でこれ、きついですね」
「うん」
レイは、掲示板を見た。
学校は、名前と番号の両方で人を扱う場所だ。
出席番号。
学籍番号。
座席番号。
クラス。
名簿。
その中で、普段なら名前が中心にある。
だが、名前が薄れると、番号だけで回る。
教師たちは困惑しながらも、番号で呼べてしまう。
それが一番怖い。
校内放送が入った。
『二年B組、出席番号一番の生徒は、至急職員室へ来てください』
真昼は、顔をしかめた。
「名前で呼んで」
小さな声だった。
誰に向けたわけでもない。
だが、レイには聞こえた。
廊下の向こうから、生徒が一人歩いてくる。
さっき商店街で見た店主より若い分、困惑が剥き出しだった。
制服の胸についた名札には、苗字だけが残っている。
その生徒は、真昼に気づいて目を丸くした。
「白瀬先輩」
真昼は、すぐに反応した。
「はい。あなたは?」
言いかけて、彼女は止まった。
聞いていいのか。
言えない名前を無理に引き出すことが、今は傷になるかもしれない。
相手の顔が強張った。
「俺、名前、言えなくて」
真昼は、ゆっくり頷いた。
「無理に言わなくていいです」
「でも、先生が番号で呼ぶんです」
「はい」
「番号で呼ばれると、腹が立つんですけど」
生徒は、少し困ったように笑った。
「でも、楽なんです。怒らなくていい気がして。俺のことじゃないみたいで」
真昼の胸が、また痛んだ。
同じだ。
商店街の店主と。
名前がなくなる恐怖と、名前で背負っていたものから解放される楽さが、同時にある。
レイは、その生徒を見た。
自分のことじゃないみたいで。
その言葉は、レイの奥深くに沈む。
A-00。
それで呼ばれれば、今起きていることも、自分のことではなくなる。
御影レイがアガルタ核へ行くのではない。
A-00が接続されるだけ。
そう思えば、楽だ。
ぞっとするほど楽だった。
真昼が、横から言う。
「御影レイ」
レイは、短く息を吸った。
「白瀬真昼」
生徒が、二人を見る。
「名前、呼び合ってるんですか」
真昼は、少しだけ笑った。
「命綱みたいなものです」
「俺も、誰かに呼んでもらえば戻りますか」
その問いに、真昼はすぐ答えられなかった。
戻る、と言いたかった。
でも、保証できない。
代わりに言う。
「戻るかもしれません。少なくとも、番号だけにしない方がいい」
「でも、名前が出ない」
「書けるものはありますか。ノートとか、古い答案とか、友達とのメッセージとか」
生徒は、少し考えた。
「部活の寄せ書きなら、たぶん」
「それ、捨てないで」
「はい」
「あと、呼んでくれる人がいるなら、頼んでください。下の名前まで」
生徒は、頷いた。
少しだけ表情が戻る。
「白瀬先輩」
「はい」
「先輩の名前、薄くなってます?」
真昼は、少しだけ驚いた。
それから、正直に答えた。
「薄くなってます」
「先輩でも?」
「私でも」
「じゃあ、白瀬真昼先輩」
真昼の目が揺れた。
生徒は、照れたように言う。
「呼んだら、少し戻るんですよね」
真昼は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「はい。ありがとうございます」
レイが小さく言う。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
掲示板では、まだ番号だけが並んでいる。
だが、その廊下で一人の生徒が、白瀬真昼の名前を呼んだ。
小さなことだった。
都市規模災害には、あまりに小さい。
それでも真昼は、その小ささをノートに残した。
*
中央病院の入口前では、タクシーが列を作っていた。
雨に濡れたロータリーで、車椅子を押す家族、傘を差す看護師、濡れた診察券を握りしめる患者たちが行き交っている。
病院の大型モニターには、番号だけが表示されていた。
**二十四番**
**三十七番**
**四十一番**
**五十二番**
その横にあるはずの患者名欄は、空白。
受付では、職員が必死に対応している。
「お名前を確認します」
「番号で呼ばれたんですけど」
「お名前を」
「だから、分からないんだよ」
声が荒くなる。
怒りではなく、恐怖だった。
だが、番号があるために、手続きは進んでしまう。
保険証番号がある。
診察券番号がある。
生年月日がある。
予約時刻がある。
名前がなくても、診察室へ呼べる。
薬も出せる。
会計もできる。
それが、不気味だった。
真昼は、ロビーの隅で立ち尽くした。
「病院で名前が消えるの、嫌ですね」
レイが頷く。
「うん」
「番号だけで進むから、余計に」
「止まらない」
「はい。止まらないんです」
透子は、病院側の担当者と話している。
患者名を無理に聞き出さないこと。
番号を仮杭として使うこと。
ただし、呼び出し時に可能なら氏名確認を併用すること。
家族が名前を覚えている場合は、本人の前でゆっくり呼ぶこと。
ただしパニックを起こした患者には強制しないこと。
その説明は、ほとんど災害時対応だった。
ベンチに座っていた老女が、診察券を握りしめている。
朝、市立病院で名前が言えなくなったという連絡があった女性かもしれない。
彼女は看護師に支えられながら、何度も呟いていた。
「番号は覚えてるの。二十四番。二十四番なの」
隣に座る若い女性が、涙をこらえている。
「おばあちゃん、違う。二十四番じゃないよ」
「でも、二十四番って呼ばれたの」
「名前で呼ぶよ。ねえ、聞いて」
若い女性は、老女の手を握った。
声が震える。
「おばあちゃんは、河野美代子。河野美代子。私のおばあちゃん。二十四番じゃない」
老女の目が、少しだけ揺れた。
「……みよこ?」
「そう。美代子」
「河野、みよこ」
「うん」
「私?」
「そう」
老女は、診察券を見た。
まだ氏名欄は白い。
でも、彼女の口から名前が出た。
「河野美代子」
真昼は、そっとノートを開いた。
涙が出そうだった。
この場面を記事にしてはいけない。
名前をそのまま公開してはいけない。
でも、記録したい。
名前が戻る瞬間。
番号だけの呼び出しから、人が人へ戻る瞬間。
真昼は、実名を書かなかった。
代わりに書く。
**二十四番ではない。
孫が祖母の名前を呼ぶ。
本人が復唱。
診察券の氏名欄は空白のまま。
でも、声には戻った。**
レイは、その様子を見ていた。
胸が痛む。
名前は、紙だけにあるのではない。
声にある。
呼び合う関係にある。
それを持たない名前は、すぐに番号へ置き換わる。
自分には、母がいる。
真昼がいる。
霧生が点呼する。
倉科が通信で呼ぶ。
名前を呼ぶ人が、まだいる。
だから、A-00になってはいけない。
そう思う。
思うのに、ロビーに流れる番号の音声は、耳に優しかった。
「五十二番の方、三番診察室へ」
名前を呼ばれない。
誰も自分を見ない。
誰の人生も背負わなくていい。
ただ、番号として進む。
それは、ひどく冷たく、ひどく楽だった。
真昼が、隣から低く言った。
「御影くん」
「……はい」
「顔」
「また?」
「はい。またです」
「便利な番号の顔?」
「完全に」
レイは、苦く笑う。
「最近、それ言われると戻れます」
「便利ですね」
「便利な使い方をしないで」
「番号よりはましです」
「それはそう」
真昼は、少しだけ表情を緩めた。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「レイ」
苗字ではなく、名前。
レイは、一瞬だけ驚いた。
「……いる」
「よし」
「急に母さんみたいな呼び方」
「佳乃さんほど上手くないです」
「十分効きます」
真昼は、そこで少し照れたように目を逸らした。
レイも、窓の外へ視線を逃がす。
病院のガラスには、雨が流れている。
その向こうの道路標識が、滲んで見えた。
*
市役所前は、いつもより人が多かった。
住民票、戸籍、保険証、学校提出用書類、診察券、運転免許、図書館カード。
人々は、自分の名前が本当に残っているかを確認するために集まっていた。
だが、窓口はすでに混乱している。
名前を確認したくても、端末の氏名欄が薄い。
職員は番号で呼ぶ。
市民は怒る。
しかし、番号で呼ばなければ順番が回らない。
真昼たちは、霧生の指示通り、車道を挟んだ向かいから確認するだけにした。
藍沢から通信が入る。
『市役所記録、現在も不安定です。御影レイさんの住民記録は、A-00置換未遂が三分間で六回発生』
レイは、黙った。
真昼がすぐに言う。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
藍沢は続ける。
『白瀬真昼さんの市民活動登録、署名欄欠落が進行。ただし、手書き記録と相互呼称により一時的に安定しています』
「ありがとうございます」
『礼ではなく、継続してください』
「藍沢さんらしい」
『記録上、そう評価されることが増えています』
透子が少しだけ口元を緩めた。
霧生の通信が割り込む。
『そろそろ戻れ。旧地下鉄側が動いてる。倉科が入口を押さえてるが、長くは保たん』
「了解しました」
真昼が答える。
その時だった。
市役所前の交差点で、信号待ちをしていた人々がざわついた。
誰かが上を指差す。
道路標識。
青い案内板。
白い文字で、こう書かれていたはずだった。
**アガルタ中央通り**
だが、その文字が揺れている。
アガルタ。
その四文字のうち、真ん中が薄くなる。
**ア――タ中央通り**
次に、別の標識。
**アガルタ市役所前**
それが、
**アガ――市役所前**
になる。
街そのものの名前が、欠け始めていた。
真昼は、息を呑んだ。
商店街の店主名。
学校の生徒名。
病院の患者名。
市役所の住民名。
そこまでは、人の名前だった。
でも、今度は違う。
街の名前。
幻都アガルタ。
この都市そのものを呼ぶ名前が、揺れている。
レイの視界が、わずかに歪んだ。
アガルタ。
それは舞台の名前だった。
帰る場所の名前だった。
事件が起きた街の名前。
母と暮らす家がある街。
真昼が記事を書く街。
エミーが踊り、倉科が地下を守り、千景が迷い、灯里が記録し、彼方が消え、遥真が沈み、篠宮凪が逃げた街。
その名前が、欠ける。
足元の水たまりに、標識の文字が映る。
**ア――タ**
水面が揺れる。
そこに、黒い傘の影が一瞬だけ映った気がした。
レイは、拳を握る。
「街ごと、沈める気だ」
真昼は、ノートを開いた。
雨が紙へ落ちる。
それでも、彼女は書いた。
**アガルタ。**
もう一度。
**アガルタ。**
さらに。
**幻都アガルタ。**
文字が少し滲む。
だが、消えない。
レイが、その横に立つ。
「御影レイ」
真昼は返す。
「白瀬真昼」
透子が言う。
「黒江透子」
通信から霧生。
『霧生仁』
藍沢。
『藍沢環』
少し遅れて、倉科。
『倉科悠斗。旧地下鉄入口、まだ開いてる』
真昼は、顔を上げた。
道路標識の「アガルタ」は、まだ完全には消えていない。
だが、薄い。
今にも白く抜けそうだった。
名前を失う街。
恐怖だけではなく、楽さを含んだ沈降。
番号と役割だけを残して、人間を軽くしていく誘惑。
その誘惑が、街そのものへ伸びている。
レイは、標識を見上げたまま言った。
「行こう」
「はい」
「この街の名前が消える前に」
真昼はノートを閉じた。
完全には閉じない。
ページの間に、今書いたばかりの「アガルタ」が挟まれている。
雨はまだ降っている。
道路標識の文字は揺れ続けている。
けれど、真昼のノートには残った。
**幻都アガルタ。**
名前のある街として、まだ。




