第一章 A-00強制回収
境界観測局の会議室には、窓がなかった。
地下に作られた施設だからではない。
窓があると、人が外を見るからだ。
雨の気配。街の灯。誰かが歩いている音。遠くの救急車のサイレン。そういうものは、会議の邪魔になる。観測局の人間は、外の人間を守ると言いながら、外の人間を見ないようにして判断することに慣れていた。
藍沢環は、その窓のない会議室の隅に立っていた。
壁一面のモニターには、アガルタ市全域の記録安定度が表示されている。
赤。
黄色。
赤。
赤。
白く点滅する空白。
学校記録、医療記録、住民記録、警察資料、図書館蔵書記録、旧地下鉄保守ログ、民間通信登録、商店街の会員名簿。
名前欄だけが、削られている。
職種は残る。
番号は残る。
属性は残る。
生徒、患者、職員、母、店主、対象、被保護者、観測協力者、A-00、O-00。
人を人として呼ぶための欄だけが、都市全体で薄れていた。
藍沢の端末には、深層センサーの警告が固定表示されている。
**アガルタ核、無記層接続開始。**
消えない。
再起動しても、別端末へ移しても、紙に出力しても、警告は同じ場所に残り続けた。
記録保全部の職員たちは、誰も声を荒らげない。
だが、静けさはすでに平常ではなかった。
キーを打つ音が速すぎる。資料ケースを置く指先が硬すぎる。認知安定タグを首元にかけ直す職員の手が、かすかに震えている。
その静かな混乱の中央へ、扉が開いた。
久我瀬玲央が入ってきた。
灰色の観測局制服ではない。
観測応用部門の黒に近い濃紺の防護コート。胸元には、銀色の識別章。薄い手袋。片手には黒い資料ケース。背後には、同じ装備の職員が四人。
彼らは雨に濡れていなかった。
外から来たはずなのに、靴底にも、裾にも、水滴ひとつついていない。
それがかえって、人間味を失わせていた。
「記録保全部第一記録保全課。藍沢主任」
久我瀬は、いつものように丁寧だった。
丁寧すぎて、声が乾いている。
「都市規模記録災害対策本部より、緊急命令が発令されました」
藍沢は、目を細めた。
「対策本部の成立時刻は」
「午前九時十二分」
「構成部門は」
「観測応用部門、封鎖部、危機評価室、倫理審査室臨時委員二名」
「記録保全部は招集されていません」
「緊急性が高いため、省略されました」
「省略ではなく、排除です」
藍沢の声は一定だった。
周囲の職員が息を呑む。
久我瀬は、わずかに微笑んだ。
「解釈の違いです」
「記録上は違います。招集対象部門から意図的に外された場合、議決効力に留保がつきます」
「では、留保を記録してください」
「すでに開始しています」
藍沢は、端末へ視線を落とさずに言った。
久我瀬の微笑が、ほんの少しだけ薄くなる。
彼は資料ケースを開き、一枚の命令書を取り出した。
紙だった。
観測局の正式命令書は、一定以上の災害レベルになると紙で出される。端末上の記録は、境界干渉で改竄されることがある。紙なら安全というわけではない。それでも、人間はまだ、紙に押された印の方を信じたがる。
久我瀬は、その紙を机の上に置いた。
藍沢は読んだ。
最上段。
対象者名。
**御影レイ**
そこだけは、確かに名前だった。
だが、次の行から、文面は変わる。
**A-00は、現行都市規模記録災害における唯一の高位多元人格観測媒体である。**
**A-00をアガルタ核接続媒体として使用し、O-00系無記層沈降活動体との対向接続を実施する。**
**A-00の本人同意は、緊急災害対策特例により事後確認可能とする。**
**保護者同意は、都市機能維持を優先し、省略可能とする。**
**対象A-00の身柄を速やかに確保し、アガルタ支局深層接続室へ搬送すること。**
藍沢は、一度だけまばたきをした。
「……これは、回収命令ですか」
「保護命令です」
「本文には回収とあります」
「回収は手続き上の語です」
「本人同意省略。保護者同意省略。強制搬送。接続媒体として使用。これを保護とは呼びません」
久我瀬は、静かに答えた。
「都市全域から名前が消え始めています。通常の個人保護手続きでは間に合いません」
「だから、人間を媒体にする」
「A-00は特例です」
藍沢の指が、端末の側面に触れた。
強く握りすぎたせいで、白くなっている。
「A-00は分類です。本人名の代替ではありません」
会議室の空気が変わった。
記録保全部の職員たちが、一斉に藍沢を見た。
久我瀬も、彼女を見た。
「藍沢主任」
「異議を正式に記録します」
「この状況で」
「この状況だからです」
「名前が消える都市で、分類の方が安定していることは、あなたが一番よく知っているはずです」
「安定しているからこそ、危険です」
藍沢は、命令書を机の上へ戻した。
「一行目に御影レイと書いている。あなたたちは、その名前を身柄確保のために使っています。ですが、本文では二行目からA-00と呼び、本人同意も保護者同意も省いている。名前を使って対象者を特定し、番号を使って人間性を省略している」
久我瀬は、笑わなかった。
「詩的な批判ですね」
「記録上の批判です」
「なら、記録してください。私たちは動きます」
その時、会議室の外が騒がしくなった。
観測局の施設内では珍しい、荒い足音。
扉が開く前に、霧生仁の声がした。
「おい。勝手に高校生を持ってく話してんじゃねえだろうな」
扉が開いた。
霧生仁は、古いコートの肩を濡らしていた。
施設内に入る前に傘を畳んだのだろうが、髪にも袖にも雨粒が残っている。靴底には水があり、会議室の床に小さな跡をつけた。
それが、この窓のない部屋に、外の街を持ち込んだ。
黒江透子が後ろに続く。
そのさらに後ろに、白瀬真昼と御影レイ。
真昼は制服の上にレインコートを羽織っていた。肩からかけた鞄の中にはノートと端末とカメラが入っている。顔色は悪いが、目だけは強い。
レイは静かだった。
いつもより静かすぎる。
濡れた前髪が目元にかかり、その奥の視線が会議室の文字を追っていた。
A-00。
O-00。
接続媒体。
強制搬送。
その文字を、見ている。
霧生は、机の上の命令書をつまみ上げた。
「これか」
「市警に開示する段階ではありません」
久我瀬が言う。
霧生は無視して読んだ。
読み進めるほど、顔から表情が消えていく。
怒る時ほど声が低くなる男だった。
「……御影レイって書いてあるな」
「対象者本人名です」
「一行目だけな」
霧生は、命令書を指で弾いた。
「名前を一行目に書いて、二行目から番号で呼ぶな」
会議室の空気が、さらに重くなった。
久我瀬の背後にいた応用部門職員の一人が、わずかに体勢を変える。
霧生はその動きを見逃さなかった。
「動くな。ここはまだ会議室だ。現場にしたいなら、俺は黄色いテープを貼るぞ」
「霧生主任。これは市警案件ではありません」
「人間を連れていこうとしてる時点で市警案件だ」
「都市災害です」
「だからって未成年者を機械の部品みたいに扱っていい理由にはならねえよ」
久我瀬は、視線を霧生からレイへ移した。
「御影レイさん」
その呼び方は、丁寧だった。
丁寧に、名前を呼んだ。
レイの肩がわずかに揺れる。
「あなたには、説明する権利があります」
「権利ね」
霧生が吐き捨てた。
「強制回収の説明を受ける権利か。立派だな」
久我瀬は続けた。
「現在、アガルタ市全域で個人名欠落が進行しています。中心はアガルタ核。原因はO-00系活動体、すなわち篠宮凪の無記層沈降行動と推定されます」
篠宮凪。
その名前が出た瞬間、真昼の指がノートを握りしめた。
彼女が呼んだ名前。
救うためではなく、逃がさないために呼んだ名前。
それが今、都市災害の原因名として、会議室の空気に置かれている。
久我瀬は、画面を操作した。
モニターの中央に、二つのタグが表示される。
**A-00**
**O-00**
その間に、細い線。
線は赤く点滅している。
「アルファとオメガは対です。A-00は記録層への高位接続能力を持ち、O-00は無記層への沈降能力を持つ。片方だけでは制御できない。都市規模の名前欠落を停止するには、A-00をアガルタ核へ接続し、O-00の沈降経路を対向固定する必要があります」
「対向固定?」
真昼が聞いた。
「簡単に言えば、綱引きです。O-00が無記層へ引き込む記録を、A-00側から記録層へ引き戻す」
「その綱の片方に、御影くんを結ぶんですか」
「比喩としては、近い」
「もう片方は篠宮凪さん」
「O-00です」
「篠宮凪さんです」
真昼の声が、強くなった。
久我瀬は彼女を見た。
「白瀬真昼さん。あなたの記録は確認しています。あなたは名前に強く拘泥する傾向がある」
「拘泥じゃありません」
「では、執着ですか」
「違います。人を人として扱っているだけです」
「その態度が、時に記録災害を加速させる可能性もあります」
「名前を呼んだから、ですか」
真昼の声がわずかに震えた。
レイが彼女を見た。
真昼は、自分の震えを隠さなかった。
「篠宮凪と呼んだから、街がこうなったって言いたいんですか」
「因果は未確定です。ただし、呼称によってO-00の表層名が固定され、深層活動体が急激に無記層へ沈降した可能性はあります」
真昼の顔から血の気が引いた。
だが、次に出た声は弱くなかった。
「なら、なおさら名前を消すわけにはいきません」
「感情論です」
「いいえ」
真昼は、一歩前へ出た。
「篠宮凪さんが逃げたのは、自分の名前からです。罪の記録からです。被害者の名前からです。あなたたちはそれを止めると言いながら、御影くんをA-00にして、篠宮凪さんをO-00にして、二人を都市災害の装置にするつもりなんですね」
「管理です」
「管理するんじゃない。利用するんですね」
久我瀬の表情が、そこで初めてほんの少し動いた。
怒りではない。
不快感でもない。
分析対象が予想外の言葉を返した時の、小さな反応だった。
「利用という言葉を使うなら、都市インフラも人命救助も、すべて何かを利用しています」
「人の名前を剥いで使うこととは違います」
「では、何もしないのですか」
久我瀬の声が、少しだけ硬くなった。
「学校では生徒名が欠落しています。病院では患者が自分の名前を言えなくなっている。市役所では住民記録が番号に置換され始めている。警察報告書も、あなたの署名も、御影レイさんの住民記録も、すでに侵食されています。時間がない」
その言葉は、正しかった。
だからこそ、会議室に沈黙が落ちた。
レイは、モニターを見ていた。
A-00。
O-00。
二つの番号。
その間を走る赤い線。
対。
片方は、自分。
もう片方は、篠宮凪。
自分が行けば、止まるかもしれない。
街の名前が戻るかもしれない。
病院の女性が、自分の名前を思い出せるかもしれない。
教室で立ち尽くした生徒が、下の名前を言えるかもしれない。
商店街の店主が、名札を見て笑えるかもしれない。
真昼の署名が、白瀬真昼に戻るかもしれない。
母の家に届く郵便物から、A-00が消えるかもしれない。
なら。
自分が行くべきなのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい穴が開いた。
怖い、ではなかった。
むしろ、楽だった。
自分の名前を手放す理由ができる。
御影レイとして悩まなくていい理由。
A-00として都市を救う、という役割。
それは自己犠牲の形をしていた。
だが、その内側には、逃避が混ざっていた。
レイは、自分でそれに気づいた。
気づいたのに、まだ揺れる。
「……僕が行けば」
小さな声だった。
真昼が振り向く。
透子の目が鋭くなる。
霧生が舌打ちした。
「御影」
「僕が接続すれば、少なくとも時間は稼げるかもしれない」
「お前、今どの顔で言ってる」
霧生の声が低い。
「街を救う顔か。それとも、面倒くさいから自分を番号に渡す顔か」
レイは答えられなかった。
霧生は近づいた。
「俺はな、自己犠牲が嫌いなんじゃない。現場じゃ誰かが危ねえ方へ行かなきゃならないこともある。だが、自分が消えたい奴の自己犠牲は信用しない」
「消えたいわけじゃ」
「少し思っただろ」
レイは黙った。
図星だった。
真昼が、レイの前に立った。
いつものように距離が近い。
逃げ道を塞ぐような近さ。
「御影くん」
「……何」
「また便利な制御装置の顔してる」
レイは苦い顔をした。
「その言い方、ひどくない?」
「ひどいです。わざとです」
「自覚あるんだ」
「あります。御影くんが自分を雑に扱う時は、こっちも雑に止めます」
真昼は、端末を取り出した。
画面には、署名欄が映っている。
**白瀬――**
まだ薄い。
完全には戻っていない。
真昼は、その画面をレイに見せた。
「私の名前、今こうです」
レイの喉が詰まった。
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃありません」
「でも」
「御影くんがA-00になったら、たぶん私の名前も戻りません」
レイは、顔を上げた。
「どうして」
「だって、御影くんが御影レイとして私を呼べなくなるから」
真昼の声は、静かだった。
「私がどれだけ自分の名前を書いても、消えそうになる。御影くんが呼ぶと、少し戻る。さっき分かりました。だから、御影くんが番号になったら困ります。すごく困ります」
「白瀬」
「はい」
「白瀬真昼」
真昼の目が揺れた。
端末の署名欄が、かすかに濃くなる。
白瀬真昼。
まだ薄いが、戻る。
久我瀬が、それを見ていた。
観測対象を見る目で。
「興味深い」
霧生が即座に睨んだ。
「その言い方やめろ」
「相互呼称による記録安定化。A-00単独接続より効率的な補助因子になる可能性があります」
「おい」
霧生の声が、さらに低くなる。
「今度は白瀬まで部品にする気か」
「可能性を述べただけです」
「口に出した時点で同じだ」
透子が、そこで一歩前へ出た。
「久我瀬さん。あなたたちの計画書を全開示してください」
「権限がありません」
「一部はもう見えています」
透子はモニターの端を指した。
そこには、久我瀬が表示したA-00とO-00の対向図の下に、細かい折り畳み項目が並んでいた。
**第二接続対象:O-00表層名固定体**
**第三接続対象:記録者系アニマ反応個体**
**補助杭:R系列残響/K-117接触点**
藍沢の表情が変わった。
「白瀬真昼さんまで、対象候補に入れているのですか」
久我瀬は、わずかに目を伏せた。
「記録者系アニマは、名前欠落に対する補助杭として機能する可能性があります」
「本人同意は」
「未取得」
「保護者同意は」
「未取得」
「つまり、これも省略予定」
「災害特例下では」
「認めません」
藍沢の声は、初めて少し強くなった。
「A-00、O-00、記録者系アニマ反応個体、K-117、R系列残響。あなたたちは、これまで失敗し、傷つけ、消えかけた人たちの名前を、すべて接続部品として並べている」
「感情的な表現です」
「いいえ。記録上の事実です」
藍沢は端末に入力した。
「記録保全部第一記録保全課主任、藍沢環の名で正式異議を提出します。A-00強制回収命令は、本人名を特定に使用しながら、本文で分類番号へ置換している。これは本人名の不当な代替使用です。加えて、O-00表層名固定体、記録者系アニマ反応個体への未承認接続計画を含む可能性があるため、記録倫理および保全規定に重大な違反があります」
「藍沢主任」
「記録します」
「今、組織内対立をしている場合ではありません」
「人間を番号で消す組織内一致なら、今こそ対立します」
会議室が静まった。
真昼が、藍沢を見た。
少し驚いた顔だった。
かつてなら、藍沢は番号で残すと言った。
番号は揺らがないと。
その彼女が今、番号を名前の代わりにするなと言っている。
変わったのだ。
少しずつ。
痛みを通して。
レイは、端末の通知音で我に返った。
母からだった。
短いメッセージ。
**レイ。
今どこにいても、返事をして。**
その下に、もう一行。
**あなたが何を覚えていても、ここでは御影レイよ。**
レイは、画面を見つめた。
A-00ではない。
御影レイ。
母の文面は、端末上でも消えていなかった。
不思議なくらい、濃く残っていた。
レイは、返信を打つ。
**いる。**
送信。
すぐに既読がつく。
それだけで、胸の奥の冷たい穴が少し塞がった。
真昼が横から覗き込む。
「佳乃さん?」
「うん」
「返しました?」
「返した」
「よし」
「白瀬、母親みたい」
「今の御影くんは、誰かが口うるさくしてないとすぐ番号になります」
「ならない」
「さっきなりかけてました」
「……否定しにくい」
霧生が、二人を見て短く息を吐いた。
「よし。御影レイはまだ御影レイ。白瀬真昼はまだ白瀬真昼。黒江、藍沢、ここからどうする」
透子は、モニターを見た。
「久我瀬さんたちは、A-00とO-00の対向接続で災害を固定しようとしている。成功すれば、一時的には名前欠落が止まる可能性があります」
「ただし?」
「御影レイはA-00として固定される危険が高い。篠宮凪はO-00として封じられ、罪の記録が処理不能になる。白瀬さんやK-117、R系列残響まで補助杭に使われれば、巻き込み範囲が広がる」
藍沢が続けた。
「さらに、アガルタ核はすでに無記層へ接続を開始しています。外部から強制的に対向接続をかけると、制御に失敗した場合、A-00とO-00を通じて名前欠落が全域から多元記録層へ逆流する可能性があります」
「もっと嫌な言い方で頼む」
霧生が言う。
「街だけじゃなく、他の世界線の同魂者記録まで削れるかもしれません」
「充分だ」
久我瀬は、静かに割り込んだ。
「代案は?」
誰もすぐには答えなかった。
久我瀬は、その沈黙を待っていたように言う。
「批判は理解しました。倫理的懸念も記録してください。ですが、災害は進行しています。代案がないなら、我々は実行します」
雨の音は聞こえない。
会議室に窓がないからだ。
だが、誰もが雨を感じていた。
街の上に降る雨。
学校の出席簿を濡らすように名前を薄める雨。
病院の呼び出し番号だけを響かせる雨。
御影家の窓を叩く雨。
ノクターン書房の扉を閉ざした雨。
アガルタ核へ沈む黒い傘の上に落ちる雨。
透子が言った。
「先に行きます」
久我瀬を見る。
「あなたたちが強制接続を始める前に、市警側でアガルタ核へ入る」
「無謀です」
「強制回収よりましです」
「市警にアガルタ核深層への立入権限はありません」
霧生が警察手帳を出した。
「都市規模の名前欠落、住民記録改竄、未成年者強制回収未遂、過去の連続殺人事件被疑者である篠宮凪の逃走先。充分だろ」
「アガルタ核は観測局管理区域です」
「じゃあ令状を取る」
「時間がありません」
「だから今から取る。こっちの上司を叩き起こす」
霧生は端末を取り出した。
「安積室長に繋げ。あと市警本部長の秘書課。寝てたら起こせ。名前が消えかけてる街で寝てる奴は、起こされても文句言えねえ」
御堂から通信が入る。
『主任、もう室長は起きてます。むしろこっちに怒鳴ってます。観測局から何か来たかって』
「来た。腐った命令書が」
『表現、そのまま伝えます?』
「やめろ。俺が後で直接言う」
真昼が手を上げた。
「私も行きます」
霧生は即答した。
「却下」
「早い」
「危ない」
「もう危ない街です」
「地下はもっと危ない」
「でも、私の名前も削れてます。記録者系アニマ反応個体って、たぶん私のことですよね。なら、現象の中心に近づけば、分かることがあります」
「自分から部品になりに行くな」
「部品にはなりません。記録しに行きます」
「言い方変えれば許されると思うな」
真昼は、霧生をまっすぐ見た。
「霧生さん。私は、篠宮凪さんの名前を呼びました。逃がさないために呼びました。その後に街がこうなった。責任を感じているから行く、というだけなら止められても仕方ありません」
「分かってるなら」
「でも、それだけじゃありません」
真昼は、自分のノートを開いた。
そこには、朝から何度も書かれた名前が並んでいる。
白瀬真昼。
御影レイ。
篠宮凪。
エミー・グレイス・ハーパー。
天沢灯里。
古河千景。
倉科悠斗。
真木彼方。
御影遥真。
まだ消さない。
「名前を消す場所へ行くなら、名前を書く人間が必要です」
霧生は、苦い顔をした。
「未成年が言う台詞じゃねえ」
「知ってます」
「保護者同意」
「取ります」
「父親に電話しろ。母親にもだ」
「はい」
「あと、お前の親に俺が怒られる」
「それは……すみません」
「本当にすまなそうな顔をしろ」
真昼は、少しだけ口元を緩めた。
「努力します」
「努力じゃ足りねえ」
レイが言った。
「僕も行きます」
霧生は、レイを見る。
「それは最初から止めても無駄そうだな」
「止めてくださいよ、一応」
「止める。行くな」
「行きます」
「ほら無駄だ」
レイは、少しだけ笑った。
だが、次の声は静かだった。
「A-00としてじゃありません。御影レイとして行きます」
会議室の空気が、わずかに変わった。
「篠宮凪を止めます。オメガを止めます。僕が接続媒体になるんじゃなくて、僕が、僕の名前で行く」
久我瀬が、レイを見た。
「それでは都市を救えない可能性があります」
「あなたの方法でも、僕は救われない」
「個人の救済と都市の救済は、常に両立するとは限りません」
「なら、両方諦めない方法を探します」
「理想論です」
「そうかもしれない」
レイは、久我瀬の目を見返した。
「でも、番号になるよりはましです」
沈黙。
それを破ったのは、倉科悠斗の通信だった。
『旧地下鉄側、聞こえてるか』
霧生が通信を開く。
「聞こえてる。お前、どこだ」
『旧保守課。無名駅方面の水位が上がってる。線路の奥から、変な音がする』
「変な音って何だ」
『でかい排水管の奥で、街全体の名前を流してるみたいな音』
「詩人になるな。具体的に言え」
『水音だよ。けど、ただの水じゃない。駅名表示が壊れた。今、全部「――」になってる』
透子が通信に近づく。
「倉科さん、零番線方面への地上入口は使えますか」
『一つだけなら。だけど、長くは持たない。観測局の封鎖部隊らしき連中も動いてる』
霧生が久我瀬を見る。
「早いな」
久我瀬は否定しなかった。
「封鎖は必要です」
「回収のためだろ」
「都市保全のためです」
霧生は、通信へ言った。
「倉科、入口を押さえろ。無理はするな」
『無理するなって言われて無理しない奴が、今そっちに何人いる?』
「お前まで口が悪くなるな」
『地下は口が悪い方が生き残る』
「知らねえ地下格言作るな」
レイが通信へ近づいた。
「倉科悠斗さん」
『いる。……お、名前で呼ぶと効くな』
「こっちも効いてます」
『なら、忘れるな。お前だけが行くんじゃない。地上には俺がいる。地下に入口がある限り、戻り道は作る』
「はい」
『あと、ひよりのキーホルダー落としたら許さないからな。縁起物として持ってけ』
「何の話ですか」
『後で渡す』
通信が切れる。
霧生が大きく息を吐いた。
「決まりだ。市警はアガルタ核方面を捜査対象として動く。黒江、深層の危険評価。藍沢、記録保全ルートと観測局内の封鎖情報を出せ。白瀬、親に連絡。御影、母親にもう一回返事しろ。久我瀬」
霧生は、久我瀬を正面から見た。
「お前らより先に行く」
久我瀬は、静かに答えた。
「阻止する可能性があります」
「やってみろ。現場で会ったら、公務執行妨害で処理する」
「観測局権限が優先されます」
「人間の名前を消す命令より、市警の方がまだましだ」
藍沢が端末を操作する。
「記録保全部として、市警の同行要請に応じます」
久我瀬が彼女を見る。
「それは、越権です」
「はい」
藍沢は、初めて明確に認めた。
「越権として記録してください」
会議室のモニターに、再び赤い警告が走る。
**アガルタ核、無記層接続率上昇。**
**A-00関連記録、誘引。**
**O-00関連記録、沈降。**
**個人名欠落、拡大中。**
レイの端末が、また震えた。
佳乃からだった。
**レイ。**
ただ一語。
レイは、すぐに返した。
**いる。**
そして、もう一行。
**行ってくる。御影レイとして。**
しばらくして、返信が来た。
**帰ってきなさい。レイ。**
その文字は、濃かった。
雨の街で、名前が消え始めている。
番号が、人の代わりに残り始めている。
その中で、御影レイは端末を閉じた。
真昼が隣に立つ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
「行きますよ」
「うん」
霧生が扉へ向かいながら、振り返らずに言った。
「点呼は移動中に何度でもやる。返事をサボった奴は置いていく」
「置いていくんですか」
真昼が言う。
「担いで帰る」
「それ、置いていくじゃないですよね」
「うるさい。言葉の綾だ」
透子が透明な傘を手に取る。
藍沢が記録端末と青灰色の手袋を確認する。
久我瀬は、彼らを見ていた。
その目には、まだ諦めはない。
観測応用部門は止まらない。
A-00とO-00を使う計画も、消えてはいない。
ただ、先に動く者が決まっただけだ。
扉が開く。
窓のない会議室の外へ出る。
廊下の奥から、かすかに雨の匂いがした。
地上へ戻るためではない。
さらに下へ降りるための雨の匂いだった。
アガルタ核へ。
名前が流れ落ちていく場所へ。
レイは、一度だけ背後のモニターを見た。
A-00。
その文字は、まだ赤く点滅している。
だが、彼はもう返事をしなかった。
呼ばれるなら、別の名前がある。
御影レイ。
その名前を、まだ手放さない。




