序章 名前のない朝
雨は、夜が明けても止まなかった。
アガルタの朝は、本来ならもっと騒がしい。
通学路を急ぐ生徒たちの声。駅前のバスロータリーで鳴る発車ベル。商店街のシャッターが上がる音。病院へ向かうタクシーのタイヤが水を跳ねる音。市役所前の横断歩道で、傘の群れが信号の色に合わせて動き出す気配。
だが、その朝は違った。
音はある。
人もいる。
生活は動いている。
それなのに、街のどこかから、何かが抜け落ちていた。
最初に異変に気づいたのは、アガルタ学院高等部二年B組の担任だった。
朝のホームルーム。
黒板には、いつものように日付が書かれている。窓の外では雨が校庭を白く煙らせ、濡れた傘を畳んだ生徒たちの制服から、湿った布の匂いが立っていた。
担任は出席簿を開き、いつもの調子で名前を呼ぼうとした。
「出席を取るぞ。一番、青野――」
そこで、声が止まった。
出席簿の一番上。
出席番号はある。
性別欄もある。
保護者連絡先も、住所も、備考欄もある。
だが、氏名欄だけが薄い。
青野、の後が読めない。
インクが消えたのではない。
紙が擦れたのでもない。
そこに名前が書かれていた、という跡だけが白く抜けている。
担任は眉をひそめた。
「……青野。いるか」
教室の後ろで、一人の男子生徒が手を上げた。
「います」
「下の名前は」
「え?」
「いや、確認だ」
男子生徒は笑いかけた。
クラスメイトも、少しざわついた。
朝から担任が妙なことを言い出した、という空気だった。
だが、男子生徒の笑いはすぐに固まった。
「……あれ」
自分の名前を言おうとして、口が止まる。
青野。
そこまでは出る。
その先が、喉の奥で水に濡れた紙のように溶けている。
「先生、俺……」
教室のざわめきが大きくなった。
担任は慌てて次の行へ視線を落とす。
出席番号二番。
番号はある。
氏名が薄い。
三番。
四番。
五番。
すべてではない。
完全に消えているわけでもない。
だが、何人かの名前だけが、雨で滲んだ鉛筆書きのように薄れている。
担任は、職員室へ連絡を入れようとして、端末を手に取った。
生徒検索システムを開く。
画面に並ぶのは、出席番号、学籍番号、クラス、座席番号。
名前の欄だけが、ところどころ空白だった。
「……なんだ、これ」
その呟きは、教室の窓を打つ雨音に混ざって消えた。
*
アガルタ市立中央病院では、呼び出し番号だけが鳴っていた。
「二十四番の方、二番診察室へお入りください」
電子音声は、いつものように滑らかだった。
ロビーの大型モニターにも、番号が並んでいる。
二十四番。
三十一番。
三十二番。
四十番。
番号は正確に表示される。
受付時間も、診療科も、診察室も間違っていない。
しかし、患者名の欄がない。
看護師が受付端末を覗き込んだ。
「お名前、確認しますね。二十四番の……」
そこで止まる。
カルテ画面には、患者番号がある。
生年月日がある。
保険者番号がある。
既往歴がある。
薬剤アレルギーもある。
だが、氏名欄だけが空白だった。
患者は七十代の女性だった。
雨に濡れた薄紫の傘を椅子の横に置き、膝の上で診察券を握っている。
看護師は、なるべく穏やかに聞いた。
「すみません。お名前をフルネームでお願いできますか」
女性は、不思議そうに笑った。
「やだ、毎月来てるのに」
「確認ですので」
「ええと……」
女性は、診察券を見た。
診察券には番号が印字されている。
氏名欄は白い。
女性の顔から、笑みが消えた。
「……私、何でしたっけ」
周囲が静かになった。
雨音だけが、病院のガラス壁を叩いている。
看護師は、すぐに別の看護師を呼んだ。
医師も出てきた。
受付では、似たような確認が次々に起きていた。
名前を言えない人。
家族の名前だけ出ない人。
診察券の氏名欄が白く抜けている人。
ただし、番号だけは残る。
それが、いちばん不気味だった。
人が消えかけているのに、管理番号だけは何の問題もなく動いている。
*
市役所の住民記録課では、端末が一斉に小さな警告音を鳴らした。
午前八時三十二分。
始業から間もない時間だった。
窓口には、住民票の写しを取りに来た市民が数人。雨の日特有の湿った空気と、紙を扱う事務室の乾いた匂いが混ざっている。
若い職員が、住民記録端末の画面を見て首をかしげた。
「主任、これ、表示バグですか」
「どれ」
「氏名欄の置換候補が勝手に出てます」
「置換候補?」
主任職員が横から覗き込む。
画面には、検索中の住民記録が表示されていた。
**御影レイ**
その文字が、一度だけ薄くなる。
次の瞬間、氏名欄の下に灰色の候補表示が浮かんだ。
**A-00**
職員は、意味が分からず瞬きをした。
「これ、コードですか」
「住民記録にそんなコードはない」
「でも、勝手に出ます」
若い職員がカーソルを動かすと、A-00の文字は消えた。
だが、再読み込みするとまた浮かぶ。
御影レイ。
A-00。
御影レイ。
A-00。
まるで、名前の上に番号が重なろうとしている。
主任職員は、表情を硬くした。
「この記録、ロック。照会履歴を保存して、情報管理へ回して」
「本人に連絡しますか」
「いや、先に上へ」
「でも、もし本人の名前が」
若い職員がそこまで言って、自分の言葉に詰まった。
本人の名前が、どうなるというのか。
システム上の表示異常。
そう処理すれば簡単だった。
けれど、画面の中で御影レイの文字は、また薄くなった。
主任職員は、低く言った。
「今朝から、名前の問い合わせが多すぎる」
市役所の窓の外では、雨が降り続いている。
玄関前の案内板に書かれていた市民課長の名前も、いつの間にか苗字だけになっていた。
*
商店街では、店の名前は残っていた。
精肉店。
花屋。
文具店。
古い喫茶店。
クリーニング店。
シャッターに貼られた営業時間も、セール告知も、定休日の紙も残っている。
だが、店主の名前だけが消えていた。
喫茶店の入口に掲げられた小さな木札。
**店主 佐伯――**
花屋の配達伝票。
**担当 森――**
文具店の領収書。
**発行者 ――**
雨に濡れたアーケードの下で、人々は最初、それを印刷ミスだと思った。
だが、誰かが言う。
「そういえば、この店のご主人、下の名前なんだっけ」
「え、いつも呼んでるだろ」
「苗字じゃなくて?」
「いや、ええと……」
誰も答えられない。
店の中から出てきた喫茶店の店主は、自分の胸の名札を見た。
苗字だけが残っている。
名前の部分は、白いプラスチックのまま。
「……冗談だろ」
彼は、笑おうとした。
笑えなかった。
商店街の放送が流れる。
『本日、雨天のため、足元にお気をつけください。なお、落とし物のお知らせです。黒い傘をお忘れの――』
そこで、放送が途切れた。
黒い傘。
その言葉だけが、アーケードの天井に残った。
誰かが空を見上げる。
雨は屋根の上を叩いている。
黒い傘の持ち主の名前は、最後まで放送されなかった。
*
アガルタ市警察局・特異殺人対策室では、朝から誰も座れていなかった。
机の上には、夜のうちに持ち帰った報告書、ノクターン書房関連の押収記録、黒い貸出票の写し、観測局から届いた未整理ログが山になっている。
その紙の山の中で、人名だけが薄れていた。
事件番号は残る。
現場住所も残る。
発生時刻も、担当者名の役職も、部署名も残る。
しかし、対象者名の欄だけが白く抜け始める。
霧生仁は、朝食代わりの缶コーヒーを開けずに机へ置いた。
目の前の報告書には、こう書いてあるはずだった。
御影レイ。
白瀬真昼。
篠宮凪。
だが、印字は薄い。
御影――。
白瀬――。
篠宮――。
霧生はペンを取った。
乱暴に、しかし読める字で書き足す。
**御影レイ。**
**白瀬真昼。**
**篠宮凪。**
書いたそばから、紙の端が黒く滲んだ。
「主任、それ、正式文書に手書きで」
御堂圭吾が言いかける。
霧生は顔を上げずに言った。
「消えるよりましだ」
「あとで清書が必要になります」
「あとでやれ」
「私が?」
「お前が一番字が読める」
「手書き評価で仕事が増えるとは思いませんでした」
綾瀬直央が、別のファイルを抱えて駆け込んできた。
「主任、病院から照会です。搬送記録の瀬尾杏奈さんの名前が一部欠落。あと、住民課から御影レイさんの記録にA-00が浮かぶと」
霧生の手が止まった。
「もう来たか」
黒江透子が、部屋の奥から言った。
「予想より早いです。ノクターン書房内だけで収まらず、住民記録、医療記録、学校記録へ広がっています」
「朝から最悪の言葉を聞かせるな」
「事実です」
「事実が最悪なんだよ」
霧生は、壁のホワイトボードへ向かった。
そこには、夜の事件の後に書かれた文字が残っている。
**篠宮凪/O-00**
**アガルタ核**
**無記層**
その下に、霧生は新しく書いた。
**全域名前欠落**
少し考え、さらに書き足す。
**人名のみ。番号・役職・機能は残る。**
書いてから、舌打ちした。
「嫌な残り方だな」
透子は頷く。
「名前を消し、管理情報だけ残す。無記層への沈降が始まる時に見られる初期現象として、観測局の資料には記載があります」
「それを早く言え」
「資料自体が欠落していました」
「便利だな、欠落」
「便利ではありません。最悪です」
「お前がそれ言うと重いな」
透子は、答えなかった。
机の上には、K-117の旧ログも置かれている。
そこに書かれた真木彼方の名前も、朝から何度か薄れた。
そのたびに、透子は声に出さず、紙へ書き直している。
まだ呼べない。
だが、消さない。
その線を踏み外さないように。
霧生は全員を見回した。
「点呼」
それだけで、特殺室の空気が少し締まった。
「霧生仁」
「いる」
「黒江透子」
「います」
「綾瀬直央」
「います」
「御堂圭吾」
「います」
少し間を置いて、通信に切り替える。
「倉科悠斗」
『いる。旧地下鉄側、まだ地上』
「御影レイ」
通信の向こうで、少し遅れて声が返った。
『いる』
「白瀬真昼」
さらに別の回線。
呼吸音。
それから、震えた声。
『います』
霧生は、短く言った。
「よし。生きてるな。名前があるうちは仕事するぞ」
*
旧新聞部室で、真昼は自分の名前を書いていた。
朝だというのに、部屋は薄暗い。
雨雲が低く垂れ、旧校舎の廊下には生徒の足音が少ない。いつもなら部室の外で騒ぐ一年生たちも、今日は誰も来ない。
真昼の端末には、《アガルタ観測録》の管理画面が開いている。
署名欄。
**白瀬真昼**
その文字が、薄い。
保存しても戻らない。
再入力しても、数秒後に「真昼」の部分から滲む。
白瀬――。
そうなりかけるたび、胸が冷たくなる。
他人の名前が消えるのを、真昼は何度も見てきた。
エミーの名が、舞台ポスターから抜け落ちるところ。
天沢灯里の記録が、貸出票の裏で震えるところ。
古河千景の名が、旧地下鉄の資料から消えかけるところ。
御影レイがA-00に置き換えられそうになるところ。
篠宮凪という名前を、逃がさないために呼んだ瞬間。
そのすべてを見てきた。
記録してきた。
だが、自分の名前が薄れる恐怖は、想像よりずっと冷たかった。
頭では分かっている。
これは現象だ。
オメガがアガルタ核へ向かった反動。
無記層接続の初期症状。
記録者である自分が、名前欠落の干渉を受けている。
そう分析はできる。
できるのに、手が震える。
真昼はノートを開いた。
端末では駄目だ。
画面の文字は薄れる。
なら、自分の手で書く。
ペン先を紙に押し当てる。
最初の一行。
**白瀬真昼。**
少し歪んだ。
二行目。
**白瀬真昼。**
三行目。
**白瀬真昼。**
インクは消えない。
まだ。
真昼は息を吸い、また書いた。
**白瀬真昼。
白瀬真昼。
白瀬真昼。**
文字が並ぶ。
自分の名前が、紙の上に残る。
それだけで、目の奥が熱くなった。
こんなに怖かったのか。
名前が消えるということは。
呼ばれないということは。
自分で書いても、そこに自分がいなくなるかもしれないということは。
端末が鳴る。
レイからだった。
真昼は、すぐに出る。
「御影レイ」
先に言った。
通話の向こうで、レイが少しだけ息を呑む。
『白瀬真昼』
「御影レイ」
『白瀬真昼』
名前が行き来する。
それだけで、胸の中に杭が打たれるようだった。
レイの声は、いつもより低い。
『そっちも始まってる?』
「はい。署名が薄れています」
『こっちも。端末にA-00が出る』
真昼は、ペンを握り直した。
「見ないでください」
『見ないようにしてる』
「でも、見えますよね」
『うん』
「御影レイ」
『白瀬真昼』
短いやり取り。
それだけで、二人は少し戻る。
真昼は、ノートへさらに書いた。
**御影レイ。**
すると、端末の署名欄の「真昼」が少しだけ濃くなった。
完全ではない。
でも、戻ろうとしている。
真昼は、その変化を見て、思わず笑った。
泣きそうな笑いだった。
「私、たぶん今、初めて分かりました」
『何を』
「名前を呼ばれることが、こんなに物理的に助かるんだって」
レイは少し黙った。
それから言う。
『僕は、ずっと少し分かってました』
「そうですよね」
『でも、今朝は僕も、改めて分かってます』
通話の向こうで、扉越しの声がした。
柔らかい女の声。
佳乃の声。
『レイ』
レイが、電話越しではなく、部屋の外へ答える。
『いる』
その声を聞いて、真昼は少しだけ笑った。
御影家の朝だ。
雨でも、名前が薄れても、佳乃はレイを呼ぶ。
その声がある限り、レイはまだ御影レイでいられる。
*
御影家の二階で、レイは窓の外を見ていた。
雨に濡れた住宅街。
向かいの表札が、少し薄い。
配達員の制服に付いた名札も、苗字だけになっている。
街の遠くで、救急車のサイレンが鳴る。
レイの机の上には、学生証、住民記録照会画面を開いた端末、破られた封筒の写し、母が書いたメモが置かれている。
端末画面では、氏名欄が何度も揺れていた。
**御影レイ**
その下に、灰色の文字が浮かぶ。
**A-00**
見たくないのに、視界の端に入る。
A-00。
分類。
番号。
役割。
名前よりも安定している文字。
その事実が、ひどく嫌だった。
そして同時に、ひどく楽にも見えた。
A-00なら、悩まなくていい。
御影遥真の息子であることも、佳乃の子であることも、真昼に呼ばれる自分であることも、エミーや千景や彼方や篠宮凪の記憶に揺れることも、全部、分類の中に入る。
アルファ。
観測対象。
A-00。
そう呼ばれれば、痛みは少し遠くなるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、レイは自分で学生証を伏せた。
見てはいけない。
今、番号が楽に見えるのは危ない。
階下から、佳乃の声がした。
「レイ」
レイは、すぐに答えた。
「いる」
声が思ったより小さかった。
階段を上がる足音。
佳乃が部屋の前に来る。
ドアは少し開いている。
彼女は、勝手には入らない。
いつものように、扉の外で止まる。
「入っていい?」
「うん」
佳乃は部屋へ入った。
生成り色のカーディガン。
まとめた黒髪に、少し白いものが混じっている。
手には、温かいマグカップが二つ。
レイの机の上に置かれた端末を見て、佳乃の目が一瞬だけ硬くなった。
A-00。
彼女はそれを見た。
だが、端末に触れる前に、レイを見た。
「レイ」
「いる」
「御影レイ」
「いる」
佳乃は頷いた。
それから、端末を閉じた。
乱暴ではない。
でも、迷いはなかった。
「これは、今は見ない」
「母さん」
「見なくていいものもあるわ。逃げるためじゃなくて、戻るために」
佳乃はマグカップをレイへ渡した。
味噌汁ではなく、温かいほうじ茶だった。
「朝ごはん、食べられる?」
「少しなら」
「なら、一口から」
「小さい子みたい」
「名前が薄れかけてる息子には、小さい子扱いくらいします」
「理屈が強い」
「母親だから」
レイは、少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
佳乃は、机の上の学生証を手に取る。
御影レイ。
文字は少し薄い。
佳乃は、その名前を親指でそっと押さえた。
「名前はね、呼ぶ人がいるから残るの」
レイは、佳乃を見た。
「前にも、そんなこと言ってた」
「何度でも言うわ」
「何度でも?」
「必要なら、毎朝」
「迷惑」
「迷惑でも呼びます」
佳乃は、少しだけ笑った。
「レイ」
「いる」
「ほら、まだいる」
レイは、ほうじ茶を一口飲んだ。
温かさが喉を通る。
自分の体が、ここにある。
御影家の二階。
雨の朝。
母が部屋にいる。
端末にはA-00が浮かんだ。
でも、今、呼ばれた名前は違う。
レイ。
御影レイ。
彼は、その名前に返事をした。
*
境界観測局アガルタ支局・記録保全部では、朝から警告音が止まらなかった。
藍沢環は、端末の前に立ったまま、連続するログを見ていた。
職員たちは慌ただしく動いている。
誰も大声を出してはいない。
記録保全部では、大声は記録を乱すと教えられている。
だが、静かな混乱の方が時に恐ろしい。
壁面モニターには、アガルタ市全域の記録安定度が表示されている。
学校記録。
医療記録。
住民記録。
警察記録。
交通記録。
図書館資料。
氏名欄だけが、次々に黄色から赤へ変わっていく。
「藍沢主任、市役所記録でA-00置換未遂が複数回発生」
「御影レイさんの記録ですか」
「はい」
「本人名を主記録に固定。A-00タグは隔離補助欄へ」
「了解」
「病院カルテで患者氏名欠落」
「番号は残っていますか」
「残っています」
「番号を仮杭にして、氏名復元欄を開いてください。番号を主呼称にしないよう注意喚起」
「了解」
「学校記録で出席番号のみ残存」
「学籍番号と氏名を分離保存。教師側に口頭呼称確認を要請」
「要請文、出します」
藍沢は、次々に指示を出す。
冷静だった。
だが、顔色は悪い。
画面の中央には、深層センサーの表示があった。
**アガルタ核方面:反応上昇**
**無記層接続率:上昇中**
**O-00関連反応:深層移動**
**A-00関連反応:誘引傾向**
藍沢は、手元の端末に個人メモを開いた。
前夜に隔離保存した注記。
**O-00 / Shinomiya Nagi / 要照合**
まだ消えていない。
だが、周囲に黒いノイズが走っている。
篠宮凪という名前が、O-00タグの奥へ沈みそうになっている。
藍沢は、短く打ち込んだ。
**削除禁止。
拡散禁止。
本人名代替禁止。**
その瞬間、別の警告が鳴った。
それまでとは違う。
低い音。
部屋の空気そのものを震わせるような警告。
職員全員が、手を止めた。
壁面モニターの中央が黒くなる。
雨水のようなノイズが画面を流れる。
藍沢は、呼吸を整えた。
「深層センサー、読み上げ」
職員が、震える声で読み上げる。
「アガルタ核、境界反応急上昇」
モニターに、赤い文字が浮かぶ。
藍沢は、その文字を見つめた。
そこには、最終的な警告が表示されていた。
**アガルタ核、無記層接続開始。**
記録保全部の室内が、完全に静まり返った。
藍沢は、端末を握り直す。
そして、誰に聞かせるでもなく言った。
「名前を、主記録から外さないでください」
声は淡々としていた。
だが、その言葉は祈りに近かった。




