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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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序章 名前のない朝

 雨は、夜が明けても止まなかった。


 アガルタの朝は、本来ならもっと騒がしい。


 通学路を急ぐ生徒たちの声。駅前のバスロータリーで鳴る発車ベル。商店街のシャッターが上がる音。病院へ向かうタクシーのタイヤが水を跳ねる音。市役所前の横断歩道で、傘の群れが信号の色に合わせて動き出す気配。


 だが、その朝は違った。


 音はある。


 人もいる。


 生活は動いている。


 それなのに、街のどこかから、何かが抜け落ちていた。


 最初に異変に気づいたのは、アガルタ学院高等部二年B組の担任だった。


 朝のホームルーム。


 黒板には、いつものように日付が書かれている。窓の外では雨が校庭を白く煙らせ、濡れた傘を畳んだ生徒たちの制服から、湿った布の匂いが立っていた。


 担任は出席簿を開き、いつもの調子で名前を呼ぼうとした。


「出席を取るぞ。一番、青野――」


 そこで、声が止まった。


 出席簿の一番上。


 出席番号はある。


 性別欄もある。


 保護者連絡先も、住所も、備考欄もある。


 だが、氏名欄だけが薄い。


 青野、の後が読めない。


 インクが消えたのではない。


 紙が擦れたのでもない。


 そこに名前が書かれていた、という跡だけが白く抜けている。


 担任は眉をひそめた。


「……青野。いるか」


 教室の後ろで、一人の男子生徒が手を上げた。


「います」


「下の名前は」


「え?」


「いや、確認だ」


 男子生徒は笑いかけた。


 クラスメイトも、少しざわついた。


 朝から担任が妙なことを言い出した、という空気だった。


 だが、男子生徒の笑いはすぐに固まった。


「……あれ」


 自分の名前を言おうとして、口が止まる。


 青野。


 そこまでは出る。


 その先が、喉の奥で水に濡れた紙のように溶けている。


「先生、俺……」


 教室のざわめきが大きくなった。


 担任は慌てて次の行へ視線を落とす。


 出席番号二番。


 番号はある。


 氏名が薄い。


 三番。


 四番。


 五番。


 すべてではない。


 完全に消えているわけでもない。


 だが、何人かの名前だけが、雨で滲んだ鉛筆書きのように薄れている。


 担任は、職員室へ連絡を入れようとして、端末を手に取った。


 生徒検索システムを開く。


 画面に並ぶのは、出席番号、学籍番号、クラス、座席番号。


 名前の欄だけが、ところどころ空白だった。


「……なんだ、これ」


 その呟きは、教室の窓を打つ雨音に混ざって消えた。


     *


 アガルタ市立中央病院では、呼び出し番号だけが鳴っていた。


「二十四番の方、二番診察室へお入りください」


 電子音声は、いつものように滑らかだった。


 ロビーの大型モニターにも、番号が並んでいる。


 二十四番。


 三十一番。


 三十二番。


 四十番。


 番号は正確に表示される。


 受付時間も、診療科も、診察室も間違っていない。


 しかし、患者名の欄がない。


 看護師が受付端末を覗き込んだ。


「お名前、確認しますね。二十四番の……」


 そこで止まる。


 カルテ画面には、患者番号がある。


 生年月日がある。


 保険者番号がある。


 既往歴がある。


 薬剤アレルギーもある。


 だが、氏名欄だけが空白だった。


 患者は七十代の女性だった。


 雨に濡れた薄紫の傘を椅子の横に置き、膝の上で診察券を握っている。


 看護師は、なるべく穏やかに聞いた。


「すみません。お名前をフルネームでお願いできますか」


 女性は、不思議そうに笑った。


「やだ、毎月来てるのに」


「確認ですので」


「ええと……」


 女性は、診察券を見た。


 診察券には番号が印字されている。


 氏名欄は白い。


 女性の顔から、笑みが消えた。


「……私、何でしたっけ」


 周囲が静かになった。


 雨音だけが、病院のガラス壁を叩いている。


 看護師は、すぐに別の看護師を呼んだ。


 医師も出てきた。


 受付では、似たような確認が次々に起きていた。


 名前を言えない人。


 家族の名前だけ出ない人。


 診察券の氏名欄が白く抜けている人。


 ただし、番号だけは残る。


 それが、いちばん不気味だった。


 人が消えかけているのに、管理番号だけは何の問題もなく動いている。


     *


 市役所の住民記録課では、端末が一斉に小さな警告音を鳴らした。


 午前八時三十二分。


 始業から間もない時間だった。


 窓口には、住民票の写しを取りに来た市民が数人。雨の日特有の湿った空気と、紙を扱う事務室の乾いた匂いが混ざっている。


 若い職員が、住民記録端末の画面を見て首をかしげた。


「主任、これ、表示バグですか」


「どれ」


「氏名欄の置換候補が勝手に出てます」


「置換候補?」


 主任職員が横から覗き込む。


 画面には、検索中の住民記録が表示されていた。


 **御影レイ**


 その文字が、一度だけ薄くなる。


 次の瞬間、氏名欄の下に灰色の候補表示が浮かんだ。


 **A-00**


 職員は、意味が分からず瞬きをした。


「これ、コードですか」


「住民記録にそんなコードはない」


「でも、勝手に出ます」


 若い職員がカーソルを動かすと、A-00の文字は消えた。


 だが、再読み込みするとまた浮かぶ。


 御影レイ。


 A-00。


 御影レイ。


 A-00。


 まるで、名前の上に番号が重なろうとしている。


 主任職員は、表情を硬くした。


「この記録、ロック。照会履歴を保存して、情報管理へ回して」


「本人に連絡しますか」


「いや、先に上へ」


「でも、もし本人の名前が」


 若い職員がそこまで言って、自分の言葉に詰まった。


 本人の名前が、どうなるというのか。


 システム上の表示異常。


 そう処理すれば簡単だった。


 けれど、画面の中で御影レイの文字は、また薄くなった。


 主任職員は、低く言った。


「今朝から、名前の問い合わせが多すぎる」


 市役所の窓の外では、雨が降り続いている。


 玄関前の案内板に書かれていた市民課長の名前も、いつの間にか苗字だけになっていた。


     *


 商店街では、店の名前は残っていた。


 精肉店。


 花屋。


 文具店。


 古い喫茶店。


 クリーニング店。


 シャッターに貼られた営業時間も、セール告知も、定休日の紙も残っている。


 だが、店主の名前だけが消えていた。


 喫茶店の入口に掲げられた小さな木札。


 **店主 佐伯――**


 花屋の配達伝票。


 **担当 森――**


 文具店の領収書。


 **発行者 ――**


 雨に濡れたアーケードの下で、人々は最初、それを印刷ミスだと思った。


 だが、誰かが言う。


「そういえば、この店のご主人、下の名前なんだっけ」


「え、いつも呼んでるだろ」


「苗字じゃなくて?」


「いや、ええと……」


 誰も答えられない。


 店の中から出てきた喫茶店の店主は、自分の胸の名札を見た。


 苗字だけが残っている。


 名前の部分は、白いプラスチックのまま。


「……冗談だろ」


 彼は、笑おうとした。


 笑えなかった。


 商店街の放送が流れる。


『本日、雨天のため、足元にお気をつけください。なお、落とし物のお知らせです。黒い傘をお忘れの――』


 そこで、放送が途切れた。


 黒い傘。


 その言葉だけが、アーケードの天井に残った。


 誰かが空を見上げる。


 雨は屋根の上を叩いている。


 黒い傘の持ち主の名前は、最後まで放送されなかった。


     *


 アガルタ市警察局・特異殺人対策室では、朝から誰も座れていなかった。


 机の上には、夜のうちに持ち帰った報告書、ノクターン書房関連の押収記録、黒い貸出票の写し、観測局から届いた未整理ログが山になっている。


 その紙の山の中で、人名だけが薄れていた。


 事件番号は残る。


 現場住所も残る。


 発生時刻も、担当者名の役職も、部署名も残る。


 しかし、対象者名の欄だけが白く抜け始める。


 霧生仁は、朝食代わりの缶コーヒーを開けずに机へ置いた。


 目の前の報告書には、こう書いてあるはずだった。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 篠宮凪。


 だが、印字は薄い。


 御影――。


 白瀬――。


 篠宮――。


 霧生はペンを取った。


 乱暴に、しかし読める字で書き足す。


 **御影レイ。**


 **白瀬真昼。**


 **篠宮凪。**


 書いたそばから、紙の端が黒く滲んだ。


「主任、それ、正式文書に手書きで」


 御堂圭吾が言いかける。


 霧生は顔を上げずに言った。


「消えるよりましだ」


「あとで清書が必要になります」


「あとでやれ」


「私が?」


「お前が一番字が読める」


「手書き評価で仕事が増えるとは思いませんでした」


 綾瀬直央が、別のファイルを抱えて駆け込んできた。


「主任、病院から照会です。搬送記録の瀬尾杏奈さんの名前が一部欠落。あと、住民課から御影レイさんの記録にA-00が浮かぶと」


 霧生の手が止まった。


「もう来たか」


 黒江透子が、部屋の奥から言った。


「予想より早いです。ノクターン書房内だけで収まらず、住民記録、医療記録、学校記録へ広がっています」


「朝から最悪の言葉を聞かせるな」


「事実です」


「事実が最悪なんだよ」


 霧生は、壁のホワイトボードへ向かった。


 そこには、夜の事件の後に書かれた文字が残っている。


 **篠宮凪/O-00**


 **アガルタ核**


 **無記層**


 その下に、霧生は新しく書いた。


 **全域名前欠落**


 少し考え、さらに書き足す。


 **人名のみ。番号・役職・機能は残る。**


 書いてから、舌打ちした。


「嫌な残り方だな」


 透子は頷く。


「名前を消し、管理情報だけ残す。無記層への沈降が始まる時に見られる初期現象として、観測局の資料には記載があります」


「それを早く言え」


「資料自体が欠落していました」


「便利だな、欠落」


「便利ではありません。最悪です」


「お前がそれ言うと重いな」


 透子は、答えなかった。


 机の上には、K-117の旧ログも置かれている。


 そこに書かれた真木彼方の名前も、朝から何度か薄れた。


 そのたびに、透子は声に出さず、紙へ書き直している。


 まだ呼べない。


 だが、消さない。


 その線を踏み外さないように。


 霧生は全員を見回した。


「点呼」


 それだけで、特殺室の空気が少し締まった。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


「います」


「綾瀬直央」


「います」


「御堂圭吾」


「います」


 少し間を置いて、通信に切り替える。


「倉科悠斗」


『いる。旧地下鉄側、まだ地上』


「御影レイ」


 通信の向こうで、少し遅れて声が返った。


『いる』


「白瀬真昼」


 さらに別の回線。


 呼吸音。


 それから、震えた声。


『います』


 霧生は、短く言った。


「よし。生きてるな。名前があるうちは仕事するぞ」


     *


 旧新聞部室で、真昼は自分の名前を書いていた。


 朝だというのに、部屋は薄暗い。


 雨雲が低く垂れ、旧校舎の廊下には生徒の足音が少ない。いつもなら部室の外で騒ぐ一年生たちも、今日は誰も来ない。


 真昼の端末には、《アガルタ観測録》の管理画面が開いている。


 署名欄。


 **白瀬真昼**


 その文字が、薄い。


 保存しても戻らない。


 再入力しても、数秒後に「真昼」の部分から滲む。


 白瀬――。


 そうなりかけるたび、胸が冷たくなる。


 他人の名前が消えるのを、真昼は何度も見てきた。


 エミーの名が、舞台ポスターから抜け落ちるところ。


 天沢灯里の記録が、貸出票の裏で震えるところ。


 古河千景の名が、旧地下鉄の資料から消えかけるところ。


 御影レイがA-00に置き換えられそうになるところ。


 篠宮凪という名前を、逃がさないために呼んだ瞬間。


 そのすべてを見てきた。


 記録してきた。


 だが、自分の名前が薄れる恐怖は、想像よりずっと冷たかった。


 頭では分かっている。


 これは現象だ。


 オメガがアガルタ核へ向かった反動。


 無記層接続の初期症状。


 記録者である自分が、名前欠落の干渉を受けている。


 そう分析はできる。


 できるのに、手が震える。


 真昼はノートを開いた。


 端末では駄目だ。


 画面の文字は薄れる。


 なら、自分の手で書く。


 ペン先を紙に押し当てる。


 最初の一行。


 **白瀬真昼。**


 少し歪んだ。


 二行目。


 **白瀬真昼。**


 三行目。


 **白瀬真昼。**


 インクは消えない。


 まだ。


 真昼は息を吸い、また書いた。


 **白瀬真昼。

 白瀬真昼。

 白瀬真昼。**


 文字が並ぶ。


 自分の名前が、紙の上に残る。


 それだけで、目の奥が熱くなった。


 こんなに怖かったのか。


 名前が消えるということは。


 呼ばれないということは。


 自分で書いても、そこに自分がいなくなるかもしれないということは。


 端末が鳴る。


 レイからだった。


 真昼は、すぐに出る。


「御影レイ」


 先に言った。


 通話の向こうで、レイが少しだけ息を呑む。


『白瀬真昼』


「御影レイ」


『白瀬真昼』


 名前が行き来する。


 それだけで、胸の中に杭が打たれるようだった。


 レイの声は、いつもより低い。


『そっちも始まってる?』


「はい。署名が薄れています」


『こっちも。端末にA-00が出る』


 真昼は、ペンを握り直した。


「見ないでください」


『見ないようにしてる』


「でも、見えますよね」


『うん』


「御影レイ」


『白瀬真昼』


 短いやり取り。


 それだけで、二人は少し戻る。


 真昼は、ノートへさらに書いた。


 **御影レイ。**


 すると、端末の署名欄の「真昼」が少しだけ濃くなった。


 完全ではない。


 でも、戻ろうとしている。


 真昼は、その変化を見て、思わず笑った。


 泣きそうな笑いだった。


「私、たぶん今、初めて分かりました」


『何を』


「名前を呼ばれることが、こんなに物理的に助かるんだって」


 レイは少し黙った。


 それから言う。


『僕は、ずっと少し分かってました』


「そうですよね」


『でも、今朝は僕も、改めて分かってます』


 通話の向こうで、扉越しの声がした。


 柔らかい女の声。


 佳乃の声。


『レイ』


 レイが、電話越しではなく、部屋の外へ答える。


『いる』


 その声を聞いて、真昼は少しだけ笑った。


 御影家の朝だ。


 雨でも、名前が薄れても、佳乃はレイを呼ぶ。


 その声がある限り、レイはまだ御影レイでいられる。


     *


 御影家の二階で、レイは窓の外を見ていた。


 雨に濡れた住宅街。


 向かいの表札が、少し薄い。


 配達員の制服に付いた名札も、苗字だけになっている。


 街の遠くで、救急車のサイレンが鳴る。


 レイの机の上には、学生証、住民記録照会画面を開いた端末、破られた封筒の写し、母が書いたメモが置かれている。


 端末画面では、氏名欄が何度も揺れていた。


 **御影レイ**


 その下に、灰色の文字が浮かぶ。


 **A-00**


 見たくないのに、視界の端に入る。


 A-00。


 分類。


 番号。


 役割。


 名前よりも安定している文字。


 その事実が、ひどく嫌だった。


 そして同時に、ひどく楽にも見えた。


 A-00なら、悩まなくていい。


 御影遥真の息子であることも、佳乃の子であることも、真昼に呼ばれる自分であることも、エミーや千景や彼方や篠宮凪の記憶に揺れることも、全部、分類の中に入る。


 アルファ。


 観測対象。


 A-00。


 そう呼ばれれば、痛みは少し遠くなるかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、レイは自分で学生証を伏せた。


 見てはいけない。


 今、番号が楽に見えるのは危ない。


 階下から、佳乃の声がした。


「レイ」


 レイは、すぐに答えた。


「いる」


 声が思ったより小さかった。


 階段を上がる足音。


 佳乃が部屋の前に来る。


 ドアは少し開いている。


 彼女は、勝手には入らない。


 いつものように、扉の外で止まる。


「入っていい?」


「うん」


 佳乃は部屋へ入った。


 生成り色のカーディガン。


 まとめた黒髪に、少し白いものが混じっている。


 手には、温かいマグカップが二つ。


 レイの机の上に置かれた端末を見て、佳乃の目が一瞬だけ硬くなった。


 A-00。


 彼女はそれを見た。


 だが、端末に触れる前に、レイを見た。


「レイ」


「いる」


「御影レイ」


「いる」


 佳乃は頷いた。


 それから、端末を閉じた。


 乱暴ではない。


 でも、迷いはなかった。


「これは、今は見ない」


「母さん」


「見なくていいものもあるわ。逃げるためじゃなくて、戻るために」


 佳乃はマグカップをレイへ渡した。


 味噌汁ではなく、温かいほうじ茶だった。


「朝ごはん、食べられる?」


「少しなら」


「なら、一口から」


「小さい子みたい」


「名前が薄れかけてる息子には、小さい子扱いくらいします」


「理屈が強い」


「母親だから」


 レイは、少しだけ笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 佳乃は、机の上の学生証を手に取る。


 御影レイ。


 文字は少し薄い。


 佳乃は、その名前を親指でそっと押さえた。


「名前はね、呼ぶ人がいるから残るの」


 レイは、佳乃を見た。


「前にも、そんなこと言ってた」


「何度でも言うわ」


「何度でも?」


「必要なら、毎朝」


「迷惑」


「迷惑でも呼びます」


 佳乃は、少しだけ笑った。


「レイ」


「いる」


「ほら、まだいる」


 レイは、ほうじ茶を一口飲んだ。


 温かさが喉を通る。


 自分の体が、ここにある。


 御影家の二階。


 雨の朝。


 母が部屋にいる。


 端末にはA-00が浮かんだ。


 でも、今、呼ばれた名前は違う。


 レイ。


 御影レイ。


 彼は、その名前に返事をした。


     *


 境界観測局アガルタ支局・記録保全部では、朝から警告音が止まらなかった。


 藍沢環は、端末の前に立ったまま、連続するログを見ていた。


 職員たちは慌ただしく動いている。


 誰も大声を出してはいない。


 記録保全部では、大声は記録を乱すと教えられている。


 だが、静かな混乱の方が時に恐ろしい。


 壁面モニターには、アガルタ市全域の記録安定度が表示されている。


 学校記録。


 医療記録。


 住民記録。


 警察記録。


 交通記録。


 図書館資料。


 氏名欄だけが、次々に黄色から赤へ変わっていく。


「藍沢主任、市役所記録でA-00置換未遂が複数回発生」


「御影レイさんの記録ですか」


「はい」


「本人名を主記録に固定。A-00タグは隔離補助欄へ」


「了解」


「病院カルテで患者氏名欠落」


「番号は残っていますか」


「残っています」


「番号を仮杭にして、氏名復元欄を開いてください。番号を主呼称にしないよう注意喚起」


「了解」


「学校記録で出席番号のみ残存」


「学籍番号と氏名を分離保存。教師側に口頭呼称確認を要請」


「要請文、出します」


 藍沢は、次々に指示を出す。


 冷静だった。


 だが、顔色は悪い。


 画面の中央には、深層センサーの表示があった。


 **アガルタ核方面:反応上昇**


 **無記層接続率:上昇中**


 **O-00関連反応:深層移動**


 **A-00関連反応:誘引傾向**


 藍沢は、手元の端末に個人メモを開いた。


 前夜に隔離保存した注記。


 **O-00 / Shinomiya Nagi / 要照合**


 まだ消えていない。


 だが、周囲に黒いノイズが走っている。


 篠宮凪という名前が、O-00タグの奥へ沈みそうになっている。


 藍沢は、短く打ち込んだ。


 **削除禁止。

 拡散禁止。

 本人名代替禁止。**


 その瞬間、別の警告が鳴った。


 それまでとは違う。


 低い音。


 部屋の空気そのものを震わせるような警告。


 職員全員が、手を止めた。


 壁面モニターの中央が黒くなる。


 雨水のようなノイズが画面を流れる。


 藍沢は、呼吸を整えた。


「深層センサー、読み上げ」


 職員が、震える声で読み上げる。


「アガルタ核、境界反応急上昇」


 モニターに、赤い文字が浮かぶ。


 藍沢は、その文字を見つめた。


 そこには、最終的な警告が表示されていた。


 **アガルタ核、無記層接続開始。**


 記録保全部の室内が、完全に静まり返った。


 藍沢は、端末を握り直す。


 そして、誰に聞かせるでもなく言った。


「名前を、主記録から外さないでください」


 声は淡々としていた。


 だが、その言葉は祈りに近かった。

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