第十二章 呼ばないことで守れる名前
白瀬真昼のノートには、呼ばなかった名前がいくつもある。
呼べなかった名前ではない。
呼ばないと決めた名前だ。
その違いを、彼女はようやく理解し始めていた。
アガルタ学院の旧新聞部室は、夕方の雨に包まれていた。
窓の外では、細い雨が校庭をぼかしている。グラウンドの白線は薄く流れ、鉄棒の支柱には水滴が溜まり、旧校舎の窓枠からは時々、ぽたり、と水が落ちる音がした。
部屋の蛍光灯は点けている。
けれど、机の上だけは、別の夜に沈んでいるようだった。
天沢灯里の貸出票。
真木彼方の未呼称記録。
御影遥真/R-■■関連記録。
そして、まだ新しい非公開ファイル。
**篠宮――/未確定記録**
真昼は、四つの記録を机の上に並べていた。
紙の資料と、ノートと、端末画面。
どれも、人に見せるためのものではない。
公開記事ではない。
記事にする前のメモでもない。
誰かの名前が壊れないように、いったん置いておくための場所だった。
レイは向かいの席に座っている。
部屋には二人だけだった。
霧生は市警でノクターン書房の封鎖手続きを続けている。透子と藍沢は、Null-03の旧ログを安全に複写できる形式へ変換している。御堂は地下書庫の貸出票を相関図へ落とし込んでいる。
真昼は、そのどれにも参加せず、ここへ戻ってきた。
戻らなければならなかった。
この判断だけは、自分の記録の中で決める必要があったからだ。
「白瀬」
レイが静かに呼んだ。
「はい」
「もう三分くらい、灯里さんの貸出票を見ています」
「測ってたんですか」
「時計を見なくても分かるくらい」
「危ないですか」
「少し」
真昼は、貸出票から目を離した。
**天沢灯里**
利用者名欄には、灯里の名前がある。
その裏側には、もう文字は浮かんでいない。
**篠宮 凪**
あの一瞬だけ見えた名前は、今は消えている。いや、消えたのではない。見えないところへ沈んだだけだ。
真昼のノートには、すでに記録されている。
**篠宮凪。
まだ呼ばない。
でも、候補ではなく、名前として置く。**
書いてしまった。
置いてしまった。
だから、もう自分の中では引き返せない。
真昼は、灯里の古いメモを開いた。
紙の端は少し波打っている。
インクは薄い。
けれど、一文だけは今もはっきり読める。
**名前が怖いなら、今日は呼ばない。**
「優しいですよね」
真昼は言った。
レイは頷く。
「はい」
「灯里さんは、青年を傷つけないために呼ばなかった」
「うん」
「名前を聞くと苦しむって分かったから、今日は呼ばないって言った」
「それは、間違ってなかったと思います」
「私も、そう思います」
真昼は、指先で紙の端を押さえた。
触れすぎないように。
壊さないように。
「呼ばないことで守れる名前がある」
その言葉は、今まで何度も聞いてきた。
でも、今日ほど実感したことはなかった。
灯里は、呼ばないことで青年をその場では守った。
真木彼方も、呼ばないことで守った。
御影遥真も、無理に呼び戻さないことで守った。
真昼は、次の資料へ手を伸ばした。
真木彼方の未呼称記録。
表紙には、黒江透子の筆跡で小さく付記がある。
**本人希望:まだ呼ばないで**
真昼は、その文字を見るたびに、胸の奥が静かに痛む。
真木彼方。
名前を呼んでほしかった少年。
それなのに、今はまだ呼ばないでと言った存在。
その矛盾の中に、透子の後悔がある。
真昼は、ファイルを開いた。
録音記録の書き起こし。
出席簿の欠落。
K-117という番号。
旧観測局の症例メモ。
そして、透子が市警側で作り直した非公開記録。
そこには、こう書かれている。
**真木彼方。
K-117ではない。
ただし、現在は完全呼称しない。
本人の残響が、まだ呼ばないでと示したため。
未呼称のまま保全。**
レイが、その文字を見て息を吐いた。
「彼方さんの場合は、呼ばないことが約束なんですよね」
「はい」
「名前を消したわけじゃなくて」
「呼べる日まで、置いている」
「待つための記録」
真昼は頷いた。
「灯里さんの『今日は呼ばない』と近いです。でも、少し違います」
「どう違うんですか」
「灯里さんは、相手を傷つけないために、その場で呼ばなかった。彼方さんは、今呼ぶと本人が壊れるから、呼ばないことで守っている」
「どっちも、呼ばない」
「はい。でも、理由が違う」
真昼は、次に御影遥真のファイルを開いた。
レイが、少しだけ表情を変えた。
御影遥真。
失踪した父。
R-■■の中に沈んだ名前。
父であり、研究者であり、逃げた人であり、守ろうとした人。
完全には帰っていない。
でも、完全には消えていない。
そのファイルの表紙には、真昼自身が書いた文が残っている。
**御影遥真/R-■■関連記録**
その下に、短い注記。
**記録として置く。
ただし、R-■■から無理に呼び戻さない。
誤結合防止。
御影レイ本人の意思を優先。**
レイは、その文字をしばらく見ていた。
「父さんの場合は、呼ばないというより、引っ張らない、ですね」
真昼は頷く。
「はい。御影遥真という名前は置く。でも、R-■■の中から無理に引き出さない」
「僕が、まだ許すとか許さないとかの前に、知るって決めたから」
「それもあります」
「白瀬が、名前が戻る場所を作った」
「作っただけです」
「それが必要だったんだと思います」
レイの声は、静かだった。
以前よりも、御影遥真という名前に触れた時の揺れが少ない。
消えたわけではない。
怒りも、寂しさも、疑問も残っている。
けれど、名前が置かれたことで、レイの中に少しだけ距離ができたのだと思う。
名前を置くことは、すぐ呼ぶことではない。
すぐ許すことでもない。
ただ、無かったことにしないための場所を作ることだ。
真昼は、三つの記録を並べ直した。
天沢灯里。
真木彼方。
御影遥真。
三つの記録は、同じことを言っているようで、少しずつ違う。
呼ばないことで守る。
呼ばないことで待つ。
呼び戻さずに置く。
では、篠宮凪は。
真昼は、四つ目のファイルへ視線を移した。
**篠宮――/未確定記録**
まだ途中で止めている表題。
その途中の線が、今は逃げ道に見えた。
自分のための逃げ道。
まだ確定していない。
まだ呼ばなくていい。
まだ篠宮――でいい。
そう言い続けるための線。
真昼は、唇を結んだ。
それが本当に慎重さなのか。
それとも、逃がしているだけなのか。
レイが、静かに言った。
「怖いですね」
「はい」
「名前を確定したら、動くかもしれない」
「はい」
「青年が壊れるかもしれない」
「はい」
「彼方さんまで、引きずられるかもしれない」
「はい」
「それでも、書くんですか」
真昼は、すぐには答えなかった。
窓の外で、雨が強くなる。
旧新聞部室のガラスに、水滴が筋を作る。
ぽたり。
窓枠から落ちた水が、床の古い木に小さな染みを作った。
真昼は、その染みを見た。
名前のようだと思った。
最初はただの水滴。
でも、時間が経つと、紙や木の中へ入って跡になる。
記録もそうだ。
呼び声もそうだ。
なかったことにはできない。
「御影くん」
「はい」
「灯里さんは、今日は呼ばないと言いました」
「はい」
「彼方さんは、まだ呼ばないでと言いました」
「はい」
「御影遥真さんは、無理に呼び戻すと壊れるかもしれなかった」
「はい」
「でも、篠宮凪さんは」
真昼は、そこで少しだけ息を止めた。
まだ、声に出すだけで胸が痛む。
でも、言った。
「篠宮凪さんは、呼ばれないことで守られているんじゃない。呼ばれないことで、逃げている」
レイの表情が硬くなった。
「逃げている」
「はい」
「本人は、呼ばないでって言いました」
「言いました」
「名前は自分を人間に戻してしまうって」
「言いました」
「人間に戻れば、殺した人たちの名前を覚えてしまうって」
「言いました」
真昼の声は、少しずつ低くなっていく。
思い出すだけで、怒りが戻ってくる。
でも、その怒りをそのまま名前にぶつけてはいけない。
だから、言葉を選ぶ。
「呼ばないことで守れる名前もあります」
真昼は言った。
「でも、呼ばれずに逃げていい名前ではない」
レイは黙った。
その言葉は、静かに部屋の中へ落ちた。
蛍光灯の音が、かすかに聞こえる。
レイは、四つのファイルを見た。
灯里。
彼方。
遥真。
篠宮――。
その違いを、自分の中で確かめているようだった。
「呼んだら、あの人は壊れるかもしれない」
レイは、低く言った。
その声には、恐れがあった。
責めているわけではない。
本当に心配している。
青年の表層残響で見た、あの怯えた顔。
黒い傘に飲み込まれる前の、「まだ呼ばないでください」。
あれを、レイは忘れていない。
真昼も忘れていない。
だから苦しい。
「分かっています」
「それでも?」
「それでもです」
真昼は、レイを見た。
「壊れないために、他の人の名前を壊してきたんです」
レイは言葉を失った。
真昼の胸も痛んだ。
言った自分が痛い。
青年が壊れるかもしれない。
それは怖い。
でも、青年が壊れないために、他の人が壊されてきた。
エミー・グレイス・ハーパー。
古河千景。
天沢灯里。
倉科悠斗。
真木彼方の欠落にも触れている。
御影遥真の記録にも触れている。
杏奈は泣いた。
倉科は床に膝をついた。
灯里は死んだ。
それでも、まだ「呼ばないで」という言葉だけを優先するのか。
灯里の優しさは、呼ばないことで青年をその場では守った。
でも今は、その優しさの先で、多くの名前が傷ついている。
真昼は、机の端を握った。
「私、怖いです」
レイが顔を上げる。
「はい」
「本当は、灯里さんみたいに言いたいです。名前が怖いなら、今日は呼ばないって。そう言えたら、優しい人でいられる気がします」
「白瀬は、優しくないわけじゃない」
「今は、優しさだけでは足りないです」
真昼は、灯里の貸出票を見る。
「灯里さんは、あの時、正しかったと思います。でも、私は同じことを繰り返してはいけない」
「灯里さんと違う答えを出す?」
「はい」
「同じアニマなのに?」
「同じアニマでも、同じ人間ではないので」
レイは、その言葉に少しだけ目を見開いた。
それは、彼自身が何度も辿ってきた答えでもあった。
エミーはレイではない。
倉科悠斗はレイではない。
古河千景も、真木彼方も、オメガも、レイそのものではない。
そして、白瀬真昼は天沢灯里ではない。
同じ根を持っていても、同じ答えを出さなくていい。
真昼は、自分の答えを出さなければならない。
「白瀬」
レイは、少し苦しそうに言った。
「もし、呼ぶ時が来たら」
「はい」
「僕は、止めるかもしれません」
「はい」
「本当に壊れると思ったら」
「はい」
「でも、止められないかもしれない」
「はい」
「その時、僕は」
言葉が詰まる。
真昼は、待った。
無理に促さない。
レイは、少しだけ息を吸う。
「その時、僕はオメガを自分の未来みたいに見るんじゃなくて、篠宮凪として見る努力をします」
真昼は、胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃないです」
「藍沢さんみたい」
「今のは嫌です」
「でも、似てました」
「不本意」
短い軽口の後、真昼は端末を開いた。
非公開記録管理フォルダ。
公開用サイトとは完全に切り離した、暗号化された保存領域。
そこには、いくつものファイルがある。
**天沢灯里/非公開補助記録**
**真木彼方/未呼称記録**
**御影遥真/R-■■関連記録**
**篠宮――/未確定記録**
真昼は、最後のファイル名にカーソルを合わせた。
手が止まる。
ここを変える。
ただのファイル名ではない。
記録の器の表題を変える。
線を消す。
名前を置く。
まだ公開しない。
まだ声にはしない。
でも、自分の中では逃がさない。
真昼は、一度目を閉じた。
灯里の声を思い出す。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
彼方の声を思い出す。
まだ呼ばないで。
御影遥真の記録を思い出す。
無理に呼び戻さない。
そして、青年の声を思い出す。
まだ呼ばないでください。
真昼は、目を開けた。
「今日は、まだ呼びません」
レイが見ている。
「でも、名前として置きます」
真昼は、ファイル名を書き換えた。
旧題。
**篠宮――/未確定記録**
削除する。
一文字ずつ。
新しい表題を入力する。
**篠宮凪/O-00関連記録**
入力し終えた瞬間、端末の画面が一度だけ暗くなった。
真昼の胸が詰まる。
レイがすぐに呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は答える。
「御影レイ」
画面が戻る。
ファイル名は消えていない。
**篠宮凪/O-00関連記録**
そこに残っている。
カーソルが点滅している。
雨音が強くなる。
ぽたり。
窓の外ではなく、端末の中から聞こえたような気がした。
でも、文字は滲まなかった。
真昼は、ファイルを開いた。
最初のページに、短く書く。
**この記録は公開しない。
ただし、篠宮凪という名前を、O-00という分類だけに沈めない。
本人の「まだ呼ばないでください」は記録する。
同時に、エミー・グレイス・ハーパー、古河千景、天沢灯里、倉科悠斗、真木彼方、御影遥真、その他の被害者の名前を消さない。
呼ばないことで守れる名前もある。
しかし、呼ばれずに逃げていい名前ではない。**
書き終えて、保存する。
端末は、少しだけ遅れて保存完了を表示した。
真昼は、肩の力を抜いた。
怖さは消えない。
苦しさも消えない。
でも、決めた。
レイが静かに言う。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
「保存されましたね」
「はい」
「戻せますか」
「戻しません」
「ですよね」
真昼は、画面のファイル名を見た。
篠宮凪。
まだ声には出さない。
でも、もう途中で止めない。
雨は降り続いていた。
旧新聞部室の窓ガラスに、水滴が幾筋も流れる。
その向こうのアガルタの街で、どこかの黒い傘が開く気配がした。
真昼は、端末を閉じなかった。
記録は開いたままにしておく。
名前が逃げないように。
そして、自分が逃げないように。




