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第十一章 黒刃《ヌル》の記憶

 境界観測局アガルタ支局の廃棄区画は、地図に載っていなかった。


 正確には、地図には空白として載っていた。


 地下三層。


 記録保全部のさらに下。


 旧観測区画、旧収容補助区画、旧実験準備室、無記性境界物質保管庫跡。


 現在使われている観測局の白く整った廊下とは違い、そこへ続くエレベーターの扉は灰色で、傷が多かった。扉の縁には古い封鎖タグの跡が残っている。


 **廃棄済**


 **封鎖**


 **記録移管完了**


 そう書かれたシールが何重にも貼られ、剥がされ、また貼られている。


 藍沢環は、職員証をかざした。


 端末が一度、拒否音を鳴らす。


 彼女は表情を変えず、別の認証コードを入力した。


 今度は、緑のランプが点く。


 黒江透子は、その横で黙っていた。


 白衣ではない。


 市警の黒いコート。


 ただし、ここへ降りてくると、体が勝手に昔の姿勢を思い出す。


 観測局職員だった頃の歩幅。


 記録端末の位置。


 職員証を胸元で確認する癖。


 廊下の監視カメラへ無意識に目を向ける癖。


 嫌になるほど、体が覚えている。


「黒江先生」


 藍沢が言った。


 今の彼女は、昔のように「黒江さん」とは呼ばない。


 市警側の嘱託捜査官であり、元職員であり、外部協力者。


 その距離を、藍沢は呼び方に残している。


「無理なら、ここから先は私だけで確認します」


 透子は、エレベーターの扉を見たまま答えた。


「無理です」


 藍沢が横を見る。


 透子は続けた。


「ですが、行きます」


「それは、現場判断としては矛盾しています」


「承知しています」


「霧生主任がいたら、止めると思います」


「だから、彼を上に残しました」


 藍沢は、少しだけ眉を動かした。


「意図的ですか」


「はい」


「怒られます」


「後で」


 透子は、ようやく藍沢を見た。


「今ここで止まれば、私はまた、彼方の名前を言い訳にして立ち止まることになります」


 藍沢は、すぐには返事をしなかった。


 廃棄区画へ下りるエレベーターの前で、二人の影だけが白い照明に伸びている。


「真木彼方さんの件は、O-00とは別に扱うべきです」


「分かっています」


「ですが、完全には別にできない」


「それも分かっています」


 透子は、薄く笑った。


 笑いというより、疲れだった。


「分かっていることばかり増えますね」


「記録とは、そういうものです」


「救いがありません」


「記録は救いではありません」


 藍沢は、淡々と言った。


 昔なら、透子はその言葉に苛立ったかもしれない。


 けれど今は、少し違う。


 藍沢の言葉には冷たさがある。


 しかし、それは人を切り捨てる冷たさではない。


 熱に任せて誤って名前を焼かないための冷たさだった。


 透子は頷いた。


「行きましょう」


 エレベーターの扉が開いた。


 中は暗かった。


 照明は点いている。


 それでも暗い。


 古い金属の床。


 壁面に残る擦り傷。


 誰かが昔、爪を立てたような細い傷。


 透子は、その傷を見ないようにした。


 見てしまうと、思い出す。


 白い検査着の少年。


 識別バンド。


 K-117。


 そして、細い声。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 エレベーターが降りる。


 音が古い。


 ぎしり、という金属の軋みが、真っ直ぐ胸に響く。


 藍沢は端末を見ていた。


「地下三層、旧ログ保管室へ向かいます。Null-03事故関連の保全記録は、正式には移管済みです」


「正式には」


「はい」


「実際には?」


「移管対象から漏れたログがあります」


「漏れた、ですか」


「記録保全部の用語としては、そうなります」


「観測応用部門の用語なら?」


「不要記録」


 透子は、口元を歪めた。


「便利な言葉ですね」


「はい」


 エレベーターが止まった。


 扉が開く。


 冷たい空気が流れ込む。


 廃棄区画は、上の階よりも温度が低かった。


 壁の白は黄ばみ、床には古い搬送ラインの跡がある。天井の一部から水が落ちている。


 ぽたり。


 透子は足を止めた。


 藍沢も止まる。


「地下水です」


 藍沢が言う。


「分かっています」


「黒傘反応ではありません」


「それも、分かっています」


 透子は、濡れた床を見た。


 ただの水滴。


 それでも、この街では、ただの水滴がいつ境界になるか分からない。


 彼方も、そうだった。


 最初は、ただの症状だった。


 ただの不眠。


 ただの悪夢。


 ただの名前忘れ。


 その「ただの」が重なって、戻れなくなった。


 旧ログ保管室は、廊下の奥にあった。


 扉には、古い表示が残っている。


 **N-03関連補助記録**


 その下に、手書きで上書きされた赤い文字。


 **廃棄対象外**


 さらにその上から貼られた灰色の封鎖紙。


 **移管済**


 矛盾している。


 残すべきなのか、廃棄すべきなのか、移したのか、残っているのか。


 記録そのものが、自分の扱いを決められずにいる。


 藍沢が認証する。


 扉は重い音を立てて開いた。


     *


 旧ログ保管室には、紙の資料と古い端末が混在していた。


 観測局の現行システムではない。


 十年以上前の保存規格。


 廃棄された磁気媒体。


 光学ディスク。


 熱転写紙。


 紙の症例ファイル。


 そして、番号だけが残った遺留品袋。


 透子は、部屋に入った瞬間、呼吸が浅くなった。


 この匂いを知っている。


 消毒薬。


 古い紙。


 電子機器の熱。


 睡眠不足の朝に飲んだ苦いコーヒー。


 検査室の空調。


 少年が泣くのを我慢していた時の、乾いた喉の音。


 藍沢が言った。


「黒江先生」


「大丈夫です」


「名前」


 透子は、少し遅れて答えた。


「黒江透子」


「藍沢環」


 藍沢も自分の名を置いた。


 透子は、苦く笑った。


「霧生さんみたいですね」


「彼の点呼は、現場手順として有効です」


「本人が聞いたら、妙な顔をしますよ」


「記録しません」


「それでいいです」


 二人は奥の端末へ向かった。


 藍沢が古い起動コードを入力する。


 画面に砂嵐が走る。


 数秒後、古いインターフェースが表示された。


 **Null-03観測事故 / 補助ログ**


 **閲覧権限:旧観測部・記録保全部**


 **状態:破損**


 藍沢は、無言でデータを展開した。


 一覧が出る。


 事故当日の入退室ログ。


 検査室映像。


 保管庫アクセス記録。


 Null-03刃体管理台帳。


 被験者安定化処置記録。


 K-117症状推移。


 透子の手が、机の縁を掴んだ。


 K-117。


 彼方の名前ではない。


 番号。


 それだけで胸が痛む。


 でも、今はその番号を見なければならない。


 藍沢が言う。


「まず、黒刃ヌルの保管記録から確認します」


「はい」


 画面が切り替わる。


 **Null-03刃体管理台帳**


 事故後処理の欄に、こう記されていた。


 **対象刃体:Null-03**

 **状態:封印保管**

 **保管場所:旧境界物質保管庫 B-2**

 **責任者:■■■■**

 **移管予定:記録保全部保管庫**


 そこまでは、書類上の整った記録だった。


 だが、その下が欠けている。


 移管完了日時。


 確認者名。


 封印タグ番号。


 すべて空白。


 藍沢は、目を細めた。


「移管完了記録がありません」


「保管されていなかった?」


「台帳上は、封印保管とされています。しかし、実際の移管確認がない」


「当時は混乱していた」


「はい。ですが、黒刃ヌルほど危険な試作品の移管確認が空白のまま放置されるのは異常です」


 透子は、画面を見つめた。


 知っている。


 あの事故の後、観測局は混乱した。


 職員が記録を失い、廊下の表示が消え、被験者の名前が口から抜け落ち、映像が破損した。


 しかし、それでも。


 黒刃ヌルは、保管されているはずだった。


 そう報告された。


 そう聞かされた。


 だから、透子はずっと、どこかで思っていた。


 オメガが黒刃を持っているなら、誰かが盗んだのだと。


 観測局から持ち出したのだと。


 藍沢が、保管庫アクセス記録を開く。


 画面が乱れる。


 いくつかの時間帯が黒く抜けている。


 事故当日深夜。


 Null-03保管庫前。


 監視映像あり。


 藍沢が再生を押す。


 映像は粗い。


 白黒に近い。


 廊下。


 保管庫の扉。


 警告灯。


 誰もいない。


 時刻表示が流れる。


 00:17:32。


 00:17:33。


 00:17:34。


 突然、画面の端に黒い揺らぎが現れた。


 透子は息を止めた。


 人影。


 顔は映らない。


 映っているはずなのに、そこだけ黒く潰れている。


 黒い傘。


 廊下の中で、開いている。


 地下の廃棄区画に、雨は降らない。


 それなのに、傘から水滴が落ちる。


 ぽたり。


 映像に音はない。


 だが、透子には聞こえた。


 ぽたり。


 人影は、保管庫の前に立つ。


 扉の認証端末に触れない。


 鍵も使わない。


 ただ、そこに立つ。


 すると、端末の表示が白く抜けた。


 保管庫扉の識別番号が消える。


 扉に貼られていた警告文から、**Null-03**の文字だけが消える。


 そして扉が開く。


 人影は中へ入る。


 画面が黒くなる。


 次に映像が戻った時、保管庫の扉は閉まっていた。


 人影はいない。


 傘もない。


 時刻だけが進んでいる。


 00:17:34。


 00:17:35。


 まるで、何も起きていなかったように。


 藍沢は、映像を止めた。


 室内の空気が重くなった。


「これは盗難ではありません」


 彼女は言った。


「記録上は、最初から存在しなかったことになっています」


 透子は、その言葉を噛みしめた。


 盗まれたのではない。


 存在しなかったことにされた。


 保管庫にあったはずの黒刃ヌルは、記録から消され、その結果として持ち出された。


 物を盗む前に、物があったという記録を消す。


 O-00。


 名前を切る存在。


 記録を消す存在。


 それは、黒刃を持ち出した時点で、すでにそうだったのだ。


「初期反応は」


 透子は聞いた。


 声が、自分でも驚くほど乾いていた。


 藍沢がログを開く。


 **O-00初期観測反応**


 時刻は、保管庫映像の直後。


 観測地点、旧廃棄区画。


 記録状態、不安定。


 反応名、未定。


 のちに追記された分類。


 **O-00**


「ここで初めて?」


「はい。少なくとも、記録保全部側で確認できる最古のO-00反応です」


「Null-03の持ち出しと同時」


「同時、または直後です」


 透子は、椅子に座った。


 立っていると、膝が崩れそうだった。


「彼方は」


 それだけ言って、言葉が止まる。


 藍沢は、彼女が言い直すのを待った。


 透子は、唇を噛む。


「K-117は、その時どこにいましたか」


 藍沢は、別のログを開いた。


 映像ではない。


 音声ログ。


 破損が多い。


 タイトルには、


 **K-117安定化処置後観測音声**


 とある。


 透子の背中が冷える。


「これは」


「あなたの旧部署が記録したものです。完全ではありません」


「聞きます」


 藍沢は、一度だけ透子を見る。


 それから再生した。


 ノイズ。


 息遣い。


 機械音。


 誰かの泣く声。


 そして、少年の声。


『先生』


 透子の心臓が止まりそうになった。


 真木彼方の声。


 まだ幼い。


 まだ人間の声。


 透子は両手を握りしめた。


『先生、切ってください』


 ノイズが走る。


 別の職員の声。


 記録が欠ける。


『これ以上、知らない人が入ってくるのは、いやです』


 彼方の声が震えている。


『僕が、僕じゃなくなる』


 透子は目を閉じた。


 見たくない。


 でも、聞く。


『先生、僕の名前を』


 そこで音声が欠ける。


 ザザ、というノイズ。


 そして、彼方の声が、かすれる。


『先生、切ってください』


 その直後、別の声が入った。


 青年の声か。


 オメガの声か。


 性別も年齢も、判断しにくい。


 しかし、透子は聞いた瞬間、ノクターン書房の青年を思い出した。


『切れば、名前は痛くなくなるんですか』


 藍沢の指が止まる。


 透子も動けない。


 音声の向こうで、機械音が乱れる。


 誰かが叫ぶ。


 職員の足音。


 警告音。


 そして、彼方の声。


『先生』


 それが、最後だった。


 音声は途切れる。


 再生終了の表示だけが、古い画面に残った。


 透子は、しばらく息ができなかった。


 藍沢も、何も言わない。


 旧ログ保管室の空調音だけが、低く響いている。


 やがて、透子は自分で名を呼んだ。


「黒江透子」


 声が震えている。


 藍沢が応じる。


「藍沢環」


 透子は、もう一度言った。


「黒江透子」


「藍沢環」


 三度目で、ようやく呼吸が戻った。


 藍沢が静かに言う。


「K-117の音声に、未確認音声が混入しています。これがO-00表層記録かどうかは、まだ」


「分かっています」


 透子は、遮った。


 強い言い方になった。


 でも、止められなかった。


「同一とは断定できない。彼方とO-00を同一視してはいけない。それは、分かっています」


 藍沢は、何も言わなかった。


 透子は、画面を見る。


 彼方の声。


 先生、切ってください。


 別の声。


 切れば、名前は痛くなくなるんですか。


 黒刃ヌルは、本来、記憶混線を止めるために作られた。


 流れ込む他者の記憶を切断し、本人を守るための道具。


 そう言われていた。


 だが、その刃は深く入りすぎた。


 名前まで切った。


 自己認識まで切った。


 観測記録まで切った。


 そして、誰かはその刃を拾った。


 名前が痛いから。


 記憶が痛いから。


 罪を覚えたくないから。


「黒刃は」


 透子は、ゆっくり言った。


「最初は逃げるために使われたのかもしれませんね」


 藍沢が答える。


「はい」


「名前と痛みから逃げるために」


「はい」


「でも、切った相手がいた」


「はい」


「切ることで、加害者になった」


「はい」


 その事実は、静かにそこにあった。


 O-00は、最初から殺人者として生まれたのではないかもしれない。


 名前が痛くて、見られることが怖くて、切れば楽になるのかと聞いた存在だったのかもしれない。


 だが、切った。


 そして、他者の名前を奪った。


 その瞬間から、被害者ではいられない。


 透子は、机の上の古い音声媒体を見つめた。


「彼方は、切ってほしいと言った」


 藍沢は、何も言わない。


「それを、私は止められなかった」


「黒江先生」


「いいえ。今は言わせてください」


 透子は、目を閉じた。


 彼方の声が、まだ耳に残っている。


 先生、切ってください。


 先生、僕の名前を。


 それは、透子にとって終わっていない過去だった。


 だが、ここで立ち止まれば、O-00は彼方の影へ隠れる。


 Null-03事故の被害者。


 記録欠落の産物。


 名前が痛かった存在。


 そう扱えば、罪が薄まる。


 エミーが消える。


 古河千景が消える。


 天沢灯里が消える。


 倉科悠斗の痛みが消える。


 それは、してはいけない。


「彼方を守る」


 透子は言った。


 声は小さかった。


 だが、藍沢は聞いていた。


「でも、オメガを彼方の影に隠させない」


 旧ログ保管室の空気が、少しだけ変わった。


 藍沢は、端末へその言葉を入力しなかった。


 記録しなかった。


 ただ、彼女自身の中に置いたように見えた。


「その判断に、記録保全部として同意します」


 透子は、少しだけ笑った。


「あなたにそう言われる日が来るとは思いませんでした」


「私もです」


「正直ですね」


「最近、周囲の影響で」


「白瀬さんですか」


「複数の記録による判断です」


 透子は、今度こそ少し笑った。


 笑った瞬間、背後の棚で何かが動いた。


 古い遺留品袋。


 番号だけが残った袋。


 そのひとつが、棚から滑り落ちる。


 藍沢がすぐに拾う。


 袋には、薄れた文字がある。


 **N-03 / 回収不能**


 中には何も入っていない。


 ただ、袋の内側に黒い水滴がひとつだけついていた。


 ぽたり。


 それは、袋の中で落ちた。


 落ちた先に、黒い小さな文字が浮かぶ。


 **O-00**


 そして、すぐに消えた。


 透子は、深く息を吸った。


「行きましょう」


 藍沢が頷く。


「このログは保全します。市警にも共有できる形式に変換します」


「観測応用部門に先に消される可能性は」


「あります」


「では、急いで」


「はい」


 藍沢は端末に複製処理をかける。


 進行バーが遅い。


 古い記録は、簡単には動かない。


 それでも、少しずつ保存されていく。


 透子は、画面の中の音声ログ名を見つめていた。


 K-117。


 O-00。


 Null-03。


 黒刃ヌル


 数字と記号の間に、人間の声が埋まっている。


 先生、切ってください。


 切れば、名前は痛くなくなるんですか。


 透子は、もう一度、自分の名前を心の中で呼んだ。


 黒江透子。


 私はここにいる。


 彼方を守る。


 でも、オメガを彼方の影に隠させない。


 旧ログ保管室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。


 それでも、記録は消えなかった。


 藍沢の端末に、複製完了の表示が出る。


 透子は、その文字を見てから、ようやく部屋を出た。


 廊下の向こうで、地下水がまた一滴落ちる。


 ぽたり。


 その音は、もうただの恐怖ではなかった。


 過去がまだ終わっていないことを告げる、冷たい合図だった。

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