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第十章 名前は私を人間に戻してしまう

 黒い日記帳は、開かれたまま動かなかった。


 特異殺人対策室の照明の下で、透明な保全ケースに収められている。


 ページには、もう何も浮かんでいない。


 **S.**


 **Shino――**


 **凪**


 **O-00**


 **Ω**


 それらの署名は、記録を取った直後から薄れ、今はほとんど読めなくなっていた。まるで、そこに名前が現れたこと自体を忘れようとしているようだった。


 それでも、真昼のノートには残っている。


 **篠宮凪。

 まだ呼ばない。

 でも、候補ではなく、名前として置く。**


 その一文を書いてから、真昼は何度も自分の手を見た。


 震えていないか。


 書きすぎていないか。


 呼びすぎていないか。


 ノートの中に名前を置くことと、声に出して呼ぶことは違う。


 そう分かっている。


 けれど、名前は置かれた瞬間から、そこへ戻ろうとする力を持つ。


 いったん紙に書けば、ただの候補ではなくなる。


 記録の器ができてしまう。


 それを作ったのは自分だ。


 だから、次に何が起きても、自分は知らなかったとは言えない。


 霧生仁は、机の前で腕を組んでいた。


「本当にやるのか」


 その声は、いつもの皮肉より低かった。


 誰に聞いたのかは、明確ではなかった。


 黒江透子か。


 藍沢環か。


 御影レイか。


 あるいは、真昼か。


 最初に答えたのは透子だった。


「やらなければ、次の接触はO-00側からになります」


「今ならこっちが場を作れるってことか」


「はい。地下書庫の日記帳は、表層記録に近い反応を示しています。黒い傘の深層活動体より、ノクターン書房の青年側へ接続できる可能性が高い」


 藍沢が端末の数値を確認しながら言う。


「ただし、接続条件は限定的です。御影レイさん単独では危険です。白瀬真昼さん単独も危険です」


 霧生が眉を寄せる。


「二人一緒なら安全になる理屈が分からん」


「安全にはなりません」


「おい」


「相互呼称による帰還率が上がります」


「それを安全って呼ぶのは詐欺だ」


「安全とは言っていません」


 真昼は小さく息を吐いた。


 藍沢らしい。


 いや、以前よりずっと人間的な言い方になっているのかもしれない。


 危険を誤魔化さない。


 でも、止めるだけではない。


 必要な危険なら、名前をつけて管理する。


 それが今の藍沢だった。


 レイは、椅子に座って日記帳を見ていた。


 顔色は悪くない。


 だが、目は静かすぎた。


 真昼は、その静けさが少し怖かった。


「御影くん」


「何」


「今、便利な観測装置の顔してません?」


 レイは、苦い顔をした。


「先に刺してくる」


「予防です」


「してないつもり」


「つもり、ですね」


「……少ししてるかもしれない」


 霧生が、即座に言う。


「やめろ」


「はい」


「返事は早いな」


「でも、止められるかは分からない」


 レイは正直に言った。


「青年に会えるなら、見たいと思ってます。O-00のことも、篠宮――のことも。僕が見れば、止められる情報があるかもしれない」


「そこだ」


 霧生は指で机を叩いた。


「見れば止められるかもしれない。だから見る。そういう顔が危ねえ」


「分かってます」


「分かっててもやる顔だ」


「……はい」


 真昼は言った。


「だから、一緒に行きます」


 霧生が真昼を見る。


「お前が行くのも危ねえ」


「分かっています」


「分かってても行く顔だ」


「はい」


「お前ら、厄介なところばっかり似てきたな」


 レイが小さく言う。


「似てますか」


「不本意です」


 真昼が即答する。


「そこまで速く否定します?」


「御影くんも不本意でしょう」


「まあ」


「今の『まあ』は何ですか」


「少し似てるかも、とは思った」


「ひどい」


 軽口を挟んでも、緊張は消えなかった。


 透子が、机の上に白い紙を置く。


 帰還確認用の手順書。


 簡潔だった。


 接続開始。


 呼称確認。


 現在地確認。


 対象残響との接触。


 完全名呼称禁止。


 黒傘反応上昇時、即時切断。


 霧生による点呼。


 佳乃への外部連絡待機。


 最後の項目を見て、レイが少し顔を上げた。


「母さんに?」


 透子が頷く。


「念のためです。今回は地下へ潜るわけではありませんが、O-00関連記録はA-00反応を強く引きます。御影佳乃さんの呼称は、あなたにとって最も強い帰還点です」


 レイは、少しだけ目を伏せた。


「母さん、怒りますね」


 霧生が言う。


「もう説明してある」


「いつの間に」


「お前らが地下書庫の資料見てる間」


「怒ってました?」


「静かだった」


 レイが顔をしかめた。


「それ、怒ってるやつです」


「だろうな」


「後で電話します」


「今しろ」


「今?」


「今だ」


 霧生は携帯を差し出した。


 レイは少し迷い、それを受け取った。


 佳乃への通話は、すぐにつながった。


『レイ』


 スピーカー越しではない。


 レイは携帯を耳に当てている。


 だが、部屋の空気が少し変わった。


 佳乃の声が聞こえた気がしただけで、レイの肩から力が抜ける。


「母さん」


『今から、危ないことをするのね』


「……うん」


『止めたら、やめる?』


 レイは黙った。


 その沈黙だけで、佳乃には答えが分かったのだろう。


『そう』


「ごめん」


『謝るのは、帰ってきてからにして』


「うん」


『怒るのも、帰ってきてからにするわ』


「やっぱり怒ってる?」


『もちろん』


「ですよね」


『でも、行くなら帰ってきなさい。レイ』


 レイは、目を閉じた。


「帰る」


『名前を忘れそうになったら?』


「母さんが呼ぶ」


『私だけじゃなくて、白瀬さんもいるでしょう』


 真昼は、思わず背筋を伸ばした。


 携帯越しに名前を呼ばれたわけではないのに、佳乃の声はまっすぐ届いた。


 レイが真昼を見る。


「うん。白瀬もいる」


『それなら、二人で帰ってきなさい』


「分かった」


『レイ』


「いる」


『行ってらっしゃい』


 通話が切れた。


 レイは、しばらく携帯を見ていた。


 それから霧生へ返す。


「怒ってました」


「だろうな」


「でも、行ってらっしゃいって」


「なら、ただいまを言え」


「はい」


 真昼は、そのやり取りをノートには書かなかった。


 書いてしまうと、何か大切なものを使ってしまう気がした。


 今は、胸の中に置く。


 透子が日記帳の保全ケースを開けた。


「接続を開始します」


 藍沢が端末を調整する。


「白瀬真昼さん、御影レイさん。手を触れ合う必要はありませんが、互いに見える位置にいてください」


 霧生が言う。


「名前を言え。先に」


 レイが真昼を見る。


「御影レイ」


 真昼が返す。


「白瀬真昼」


 霧生が続ける。


「黒江透子」


「います」


「藍沢環」


「います」


「霧生仁」


「いる」


 藍沢が、静かに日記帳のページを開いた。


 そこには、さっきまで薄れていた署名が、また浮かび始めていた。


 S.


 Shino――。


 凪。


 O-00。


 Ω。


 文字が雨粒のように滲む。


 部屋の照明が、一度だけ瞬いた。


 真昼の足元に、雨音が広がる。


 特殺室の床ではない。


 古い木の床。


 コーヒーの匂い。


 本の匂い。


 窓を叩く雨。


 次に目を開けた時、真昼とレイは、ノクターン書房の店内に立っていた。


     *


 店は営業中のように見えた。


 窓際のランプが灯っている。


 棚には本が並び、背表紙には名前がある。


 著者名も、訳者名も、出版社名も、きちんと読める。


 カウンターには磨かれたカップが並び、古いレジの横には貸出票の束がある。


 窓の外では、雨が降っていた。


 だが、客はいない。


 店内には、人の気配だけが残り、肝心の人間が抜け落ちている。


 真昼は、自分の足元を確認した。


 床がある。


 濡れていない。


 ノートは持っていない。


 鞄もない。


 だが、自分の名前はある。


「御影くん」


「いる」


 レイは隣にいた。


 制服姿のままだ。


 ただ、雨の光を受けて、少しだけ輪郭が薄い。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 確認して、二人はカウンターを見た。


 青年がいた。


 黒いカーディガン。


 白いシャツ。


 濡れたような黒髪。


 細い指。


 穏やかな顔。


 ノクターン書房で何度も見た青年。


 黒い傘はない。


 黒刃もない。


 彼はカウンターの奥で、本を一冊閉じたところだった。


 まるで、客が来たことに気づいて顔を上げる店番のように。


「いらっしゃいませ」


 青年は、静かに言った。


 その声に、真昼の胸が締めつけられた。


 ミラー・ルージュで聞いた黒い傘の声とは違う。


 穏やかで、少し疲れていて、逃げ場を探すような声。


 でも、奥に同じ水音がある。


 レイが、一歩前へ出た。


「ここは、ノクターン書房ですか」


「そう見えますか」


「見えます」


「では、そうなのでしょう」


「本物ですか」


 青年は微笑んだ。


「本物の定義によります」


 真昼は、その言い方に覚えがあった。


 名前を聞かれると、笑って話を変える。


 灯里のメモ通りだった。


「あなたに、聞きたいことがあります」


 レイが言う。


 青年は、静かに本をカウンターへ置いた。


「答えられることなら」


「あなたはオメガなんですか」


 青年は答えなかった。


 微笑みも消えない。


 ただ、店内の雨音が少しだけ強くなった。


 窓ガラスを打つ雨粒が、細かく震える。


 レイは、答えを待った。


 青年は本の表紙へ視線を落とす。


「その名前は、あなたがつけたものですね」


「はい」


「終わりの名前」


「僕にとっては、反対側の名前です」


「アルファの反対」


「はい」


 青年は、小さく頷いた。


「よくできた名前です」


「あなたの名前ではないんですか」


「名前は、誰が呼ぶかで意味が変わります」


「逃げてる」


 レイの声が少し強くなる。


「答えてください。あなたはオメガなんですか」


 青年は、レイを見た。


 その目は、黒い傘の人物の目とは違った。


 深く暗いが、底が抜けているわけではない。


 そこには、恐怖があった。


「私は、そう呼ばれるものを知っています」


「それは、あなたですか」


「私の中にあります」


「ずるい答えです」


「そうですね」


 青年は、認めた。


 その素直さが、逆にレイを黙らせた。


 真昼は、カウンターの近くまで進んだ。


 心臓が強く打っている。


 呼んではいけない。


 まだ完全には。


 でも、聞かなければならない。


 真昼は、声を整えた。


「篠宮凪さん、ですか」


 その瞬間、店内の本棚が一斉に軋んだ。


 窓の外の雨が、黒く濃くなる。


 青年の顔から血の気が引いた。


 手が震える。


 カウンターの上の本が、指先から滑りそうになる。


 真昼は、すぐに言い足した。


「呼んだのではありません。確認です」


 青年は、苦しそうに笑った。


「確認も、時には呼び声になります」


「すみません」


「謝らないでください」


「でも、苦しそうです」


「名前は、そういうものです」


 青年は、片手で胸元を押さえた。


 その仕草は、杏奈がエミーの名を思い出した時にも、倉科が自分の名を見た時にも似ていた。


 名前が痛む。


 ただ、青年の場合は、痛みだけではなかった。


 恐怖がある。


 名前を見つけられた人の恐怖。


 レイが言った。


「名前が怖いんですか」


 青年は、雨の窓を見た。


「名前は、私を人間に戻してしまう」


 真昼は、その言葉を胸で受けた。


 人間に戻す。


 名前は、その人を人間として世界に置く。


 真昼はずっと、そう信じてきた。


 でも、青年はそれを恐怖として言った。


 レイは、静かに聞いた。


「人間に戻るのが怖いんですか」


 青年は、しばらく答えなかった。


 雨が降る。


 店内のランプが小さく揺れる。


 棚の本の背表紙に書かれた名前が、ほんの少しだけ滲む。


 やがて、青年は言った。


「人間に戻れば、私が殺した人たちの名前を覚えてしまう」


 その言葉は、静かだった。


 静かすぎた。


 真昼は、一瞬、意味を受け取れなかった。


 次の瞬間、怒りが胸の奥から立ち上がった。


 名前を消した理由。


 誰にも見られたくないから。


 自由になりたいから。


 自分の人生を自分だけのものにしたいから。


 それもあるのだろう。


 でも、今、青年はもっと深いことを言った。


 殺した人たちの名前を覚えたくない。


 彼らを、名前のある人間として見たくない。


 罪から逃げるために、名前を消した。


 真昼の手が震えた。


 ノートはない。


 だから、書けない。


 書けない分、言葉がそのまま口から出た。


「覚えてください」


 青年が、真昼を見る。


「覚えてください」


 真昼は、もう一度言った。


「エミー・グレイス・ハーパー。古河千景。天沢灯里。倉科悠斗。真木彼方。御影遥真。あなたが切った名前。あなたが傷つけた名前。覚えてください」


 青年の顔が強張る。


「やめてください」


「嫌です」


「呼ばないでください」


「今は、あなたの名前は呼んでいません。あなたが消した人たちの名前です」


「それも、痛い」


「痛くていいです」


 真昼の声は震えていた。


 怒りで。


 怖さで。


 それでも、止めなかった。


「あなたが痛いからって、他の人を消していい理由にはなりません」


 青年は、カウンターに手をついた。


 指先が白い。


「覚えたら、私は壊れます」


「壊れないために、他人を消してきたんですか」


 その言葉は、店内に深く刺さった。


 青年の表情が、初めて崩れた。


 穏やかな店番の顔ではなくなった。


 泣きそうな顔。


 怒りそうな顔。


 助けを求める顔。


 そして、それを全部拒む顔。


「あなたには、分からない」


「分かりません」


 真昼は言った。


「分からないから、消していいとは思いません」


 青年の目が揺れる。


 そこに、黒い傘の人物とは違う、人間の揺れがあった。


 レイは、静かに青年を見ていた。


「僕は、少し分かる気がします」


 真昼がレイを見る。


 レイは続けた。


「知らない誰かの記憶が入ってくること。自分のものじゃない痛みを覚えること。自分の名前が、その全部を背負わされる気がすること。分かる気がする」


 青年は、レイを見る。


 初めて、本当にレイを見たようだった。


「だから」


 レイは言った。


「それを理由に、他の人の名前を切らないでください」


 青年の唇が震える。


「アルファ」


「御影レイです」


「あなたは、覚えていられる」


「覚えているだけで、背負っていないと言いたいんですか」


 青年は黙った。


 レイは、少しだけ苦い顔をした。


「そう言われたことがあります。でも、今は違うと思っています。覚えるだけでは足りない。だから、名前を返すだけでも足りない。痛みをどう扱うか、考えないといけない」


「痛みは、扱えない」


「扱えないなら、なおさら他人に投げ返しちゃいけない」


 その言葉に、青年の目がまた揺れた。


 真昼は、青年の胸元を見る。


 そこに名札はない。


 何もない。


 彼は名前を持っていないのではない。


 名前を外している。


 自分で。


 痛いから。


 怖いから。


 罪を覚えたくないから。


 青年は、ゆっくり首を振った。


「まだ、無理です」


 彼の声は、途切れそうだった。


「まだ、呼ばれたら戻ってしまう」


「戻ってください」


 真昼は言った。


 青年は、泣きそうに笑った。


「あなたは、灯里さんより厳しい」


 真昼の胸が痛んだ。


「灯里さんは、優しかったんです」


「はい」


「私は、まだ優しくできません」


「いいえ」


 青年は、小さく首を振る。


「あなたも優しい。だから怖い」


「怖い?」


「優しい人は、名前を残すから」


 その時、店内の奥で、傘が開く音がした。


 ばさり。


 真昼とレイが同時に振り向く。


 黒い傘の影が、本棚の奥に立っていた。


 いや、影だけではない。


 傘の形をした黒。


 人の形をした黒。


 青年の背後から、ゆっくり広がってくる。


 青年の顔が、恐怖に歪んだ。


「だめだ」


 彼は呟く。


「まだ」


 黒い傘の影が、青年の肩にかかる。


 黒い水が、カウンターの足元から広がる。


 レイが一歩前へ出る。


「待って!」


 青年は、レイではなく真昼を見た。


 その目は、店番の青年の目だった。


 黒い傘の目ではない。


「まだ呼ばないでください」


 真昼の喉が詰まった。


 返事をしそうになった。


 分かりました、と。


 今日は呼びません、と。


 灯里のように。


 けれど、口は動かなかった。


 ここで約束していいのか分からなかった。


 まだ呼ばない。


 それは今の真実だ。


 でも、いつか呼ぶかもしれない。


 呼ばなければならないかもしれない。


 だから、真昼は返事をしなかった。


 青年の表情が、少しだけ揺れた。


 それが安堵だったのか、絶望だったのかは分からない。


 黒い傘の影が、彼を後ろから包んだ。


 カウンターのランプが消える。


 本棚の名前が一斉に白く抜ける。


 雨が窓を叩く音が、地下水の音へ変わる。


 レイが叫ぶ。


「御影レイ!」


 自分の名前を、自分で呼んだ。


 真昼は即座に返す。


「白瀬真昼!」


 視界が崩れる。


 ノクターン書房の床が、水になる。


 カウンターが遠ざかる。


 青年の姿は、黒い傘の内側へ消えていく。


 最後に、もう一度だけ声がした。


「名前は、私を人間に戻してしまう」


 その声が消えた瞬間、真昼とレイは特殺室の床へ戻っていた。


     *


「白瀬真昼!」


 霧生の声が飛ぶ。


 真昼は、床に膝をついていた。


 隣でレイも片膝をついている。


 透子がレイの肩を支え、藍沢が端末を確認していた。


「白瀬真昼、返事!」


 霧生の声。


 真昼は息を吸う。


「います」


「名前」


「白瀬真昼」


「御影」


「御影レイ」


 レイの返事もあった。


 霧生は、深く息を吐いた。


「戻ったな」


 真昼は、まだ胸が痛かった。


 ノートは机の上にある。


 自分の手にはない。


 けれど、青年の言葉が頭から離れない。


 人間に戻れば、私が殺した人たちの名前を覚えてしまう。


 覚えたら、私は壊れます。


 真昼は、ゆっくり立ち上がった。


 霧生が支えようとしたが、彼女は首を振った。


「書きます」


「今か」


「今です」


「大丈夫か」


「大丈夫じゃないです。でも、今じゃないと逃げます」


 霧生は、数秒だけ彼女を見た。


 それから、短く言った。


「短く書け。倒れる前に」


「はい」


 真昼はノートを開いた。


 手が震える。


 それでも、書いた。


 **ノクターン書房表層残響。

 青年と接触。

 黒い傘なし。黒刃なし。

 青年は穏やか。名前を問われると苦痛反応。**


 次の行。


 **「名前は、私を人間に戻してしまう」**


 次。


 **「人間に戻れば、私が殺した人たちの名前を覚えてしまう」**


 次。


 **名前を消した理由。

 自由になるためだけではない。

 罪から逃げるため。

 殺した人たちを、名前のある人間として見ないため。**


 そこまで書いて、真昼はペンを止めた。


 最後にもう一行。


 **まだ呼ばないでください。

 私は、返事をしなかった。**


 その文字を書き終えた瞬間、胸の痛みが少しだけ形を持った。


 それは怒りだった。


 悲しみだった。


 恐怖だった。


 そして、いつか名前を呼ぶための、まだ言葉にならない覚悟だった。

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