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第九章 篠宮凪

 ノクターン書房の地下書庫から持ち出せた資料は、少なかった。


 黒い日記帳。


 貸出票の写し数枚。


 名前のない本から抜き取られた、紙片状のしおり。


 黒い傘が崩れた床面から採取した水分反応の検体。


 それだけだった。


 それだけなのに、特異殺人対策室の机の上は、まるで地下書庫そのものを持ち帰ったように重くなっていた。


 黒い日記帳は、透明な保全ケースの中に置かれている。


 蓋を開けていなくても、存在感があった。


 古い布張りの表紙。


 題名のない背。


 触れれば指先から名前を吸われそうな黒。


 その横に、貸出票が並ぶ。


 **Emmy Grace H――**


 **天沢灯――**


 **古河千――**


 **K-117 / 真木――**


 **R-■■ / Mikage H――**


 **御影レ――**


 **白瀬真――**


 そして、別のケースに入れられた問題の紙片。


 日記帳の署名欄に何度も現れた文字。


 **S.**


 **Shino――**


 **凪**


 **O-00**


 **Ω**


 それらは、名前というより、名前になろうとして失敗した傷跡のようだった。


 真昼は、机の前に座っていた。


 ノートは開いている。


 ただし、ページの上でペンが止まっている。


 書けないわけではない。


 むしろ、書きたいことは多すぎる。


 でも、この名前を不用意に置くことが怖かった。


 篠宮凪。


 灯里の貸出票の裏に一瞬だけ浮かんだ名前。


 ノクターン書房の地下書庫で、日記の署名として崩れながら現れた名前。


 O-00。


 Ω。


 S.N.?


 それらと同じ場所に並ぶ名前。


 真昼は、まだ声には出していない。


 口の中で形にすることも避けている。


 今のところ、ノートにも完全には書いていなかった。


 **篠宮――**。


 そこまで。


 その先は、別の紙に小さく印をつけて伏せてある。


 レイは、真昼の斜め向かいに座っていた。


 彼もまた、静かだった。


 地下書庫から戻って以降、何度か「御影レイ」と呼ぶ必要があった。書庫の中で自分の名前が欠けた貸出票を見たせいだろう。彼は平静に見えるが、意識の奥がまだ少し水に濡れている。


 霧生仁は、窓際で缶コーヒーを持っていた。


 飲むためではなく、握っているためだ。


 黒江透子は、保全ケースの前で資料を一枚ずつ確認している。


 藍沢環は、観測局から持ち込んだ携帯端末を市警の独立端末につなぎ、記録保全用の照合表を開いていた。


 御堂圭吾は、壁の大型モニターに地下書庫資料の相関図を出している。


 中心には、O-00。


 そこから、ノクターン書房、黒い傘、黒刃ヌル、名前返却事件、天沢灯里、真木彼方、古河千景、御影レイ、白瀬真昼が線で結ばれている。


 御堂が言った。


「地下書庫内の貸出票は、通常の貸出記録としては成立していません。貸出日、返却期限、書名欄、すべて不完全です。ただし、利用者名欄だけが反応しています」


 霧生が顔をしかめる。


「名前だけ残ってるのか」


「はい。ただし、完全名ではなく断片です」


「嫌な残り方だな」


「同意します」


 御堂は端末を操作した。


 モニターの相関図の中央に、地下書庫の日記帳の署名候補が拡大される。


 **S.**

 **Shino――**

 **篠宮■■**

 **凪**

 **Nagi**

 **O-00**

 **Ω**


 その下に、別の赤い線が出る。


 **K-117 / 真木――**


 透子の手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、霧生は見逃さなかった。


「黒江」


「大丈夫です」


「まだ何も聞いてない」


「先に答えました」


「大丈夫じゃない時の返事だな」


 透子は、少しだけ息を吐いた。


「大丈夫ではありません。ただ、判断はできます」


「それならいい」


 霧生は、それ以上踏み込まなかった。


 透子は、モニターの赤い線を見た。


「篠宮凪という名前候補は、O-00表層名と強く結びついています。しかし、問題は真木彼方の欠落記録です」


 真昼は顔を上げる。


「彼方さんと、混ざっているんですか」


「完全に混ざっているわけではありません。ですが、O-00発生周辺にはNull-03事故、K-117記録欠落、黒刃ヌルの持ち出しが重なっています」


 藍沢が補足する。


「記録保全部側の整理では、O-00とK-117は別タグです。ただし、事故直後の記録層では、両者の境界に大きな損傷があります。表層名候補を固定しようとすると、K-117の欠落部分まで引きずる恐れがあります」


 真昼は、ゆっくり聞き返した。


「つまり、篠宮――の名前を安易に呼ぶと、真木彼方さんの名前まで巻き込む可能性がある?」


 藍沢は頷いた。


「はい。呼称固定による誤結合のリスクがあります」


「誤結合」


 その言葉は、冷たい。


 でも、意味は重い。


 間違った名前同士が結びつく。


 誰かの罪が、別の誰かに流れる。


 誰かの痛みが、別の誰かの名前へ貼りつく。


 第4巻で、御影遥真をR-■■へ固定しすぎれば、複数の父の記録が遥真に流れ込む危険があった。


 今度は、それがO-00と真木彼方で起きるかもしれない。


 真昼は、喉の奥に固いものを感じた。


「彼方さんは、まだ呼ばないでって言いました」


 透子が目を伏せる。


「はい」


「なのに、別の人の名前を呼んだせいで彼方さんまで引きずるのは」


「避けるべきです」


 透子の声は硬かった。


 その硬さの奥に、恐怖がある。


 真木彼方。


 名前を呼んでほしかった少年。


 でも、今はまだ呼ばないでと言った存在。


 透子にとって、彼方の名前は傷口であり、約束でもある。


 真昼は、ノートに書く。


 **篠宮――を呼ぶ危険。

 O-00表層名候補。

 K-117/真木彼方の欠落記録と近接。

 安易な呼称固定は、彼方さんを巻き込む可能性。

 名前を呼ぶことが、別の名前を傷つける場合がある。**


 書いた瞬間、胸が重くなった。


 名前を呼ぶことは、ますます簡単ではなくなっていく。


 霧生が、缶コーヒーを机に置いた。


「だが、呼ばなきゃ逃げるんだろ」


 誰もすぐには答えなかった。


 霧生は続ける。


「呼べば壊れる。呼ばなきゃ逃げる。間違えれば別の奴を巻き込む。最悪の三択だな」


 藍沢が言う。


「そのために、段階的照合が必要です」


「段階って何だ」


「まず、篠宮凪を完全呼称せず、候補名として記録上に置く。次に、O-00表層反応とK-117欠落反応を分離して測定する。さらに、ノクターン書房の青年と黒い傘の人物を同一視しない」


「面倒だが、分かった」


 霧生は、レイを見た。


「御影。お前はどうだ」


 レイは、モニターの文字を見ていた。


 篠宮凪。


 篠宮■■。


 凪。


 Nagi。


 O-00。


 Ω。


 真木――。


 複数の文字が、彼の瞳の奥に映っている。


「近いです」


 レイは言った。


 声がいつもより低い。


「何が」


「記憶が。名前が近い。見ようとしなくても、向こうから来る感じがする」


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


 レイは返す。


「白瀬真昼」


 返事はあった。


 でも、その声は少し遠かった。


 透子が立ち上がる。


「御影さん、画面から目を離してください」


「分かってます」


 レイはそう言った。


 でも、目を離せなかった。


 モニターの文字が、雨に濡れた窓のように滲む。


 篠宮凪。


 Nagi。


 O-00。


 Ω。


 真木――。


 文字が重なり、ほどけ、また重なる。


 次の瞬間、レイの視界が、特殺室から外れた。


     *


 雨のノクターン書房。


 店内には、柔らかい灯りが点いている。


 棚の本は、今よりもまだ名前を持っていた。


 背表紙には著者名があり、訳者名があり、誰かが誰かへ贈った献辞が残っている。


 窓の外には雨。


 カウンターの奥に、青年が立っている。


 黒いカーディガン。


 白いシャツ。


 指の細い手。


 その手は本を扱うための手だ。


 刃を持つための手ではない。


 少なくとも、その時は。


 店内に、天沢灯里がいる。


 彼女は制服の上に濡れたカーディガンを羽織り、手帳を持っている。髪には銀色のヘアピン。顔は真昼に少し似ているが、真昼より静かで、踏み込む前に相手の沈黙を待つ目をしている。


 灯里は、本棚の前で立ち止まる。


「このお店、雨の日だけ棚が増えますね」


 青年は、困ったように笑う。


「よく気づきますね」


「気づくのが仕事なので」


「新聞部ですか」


「はい。あと、記録するのが好きです」


 青年は、その言葉に少しだけ表情を曇らせる。


「記録は、苦手です」


「どうしてですか」


「残るので」


「残るのが嫌ですか」


「残ってほしくないものもあります」


 灯里は、すぐに詰めない。


 手帳を閉じる。


「じゃあ、今日は書きません」


 青年は、驚いたように彼女を見る。


「聞かないのですか」


「聞いたら、逃げそうなので」


 灯里は少し笑う。


 優しい笑みだった。


 相手を追い詰めない笑み。


 青年は、目を伏せる。


「名前を聞かないでください」


 灯里は、そこで初めて、青年の手が震えていることに気づく。


 名前がない人の震えではない。


 名前を持っていて、それを見られることを恐れている人の震え。


 灯里は、ゆっくり言った。


「名前が怖いなら、今日は呼ばない」


 青年は、何も言わなかった。


 ただ、カウンターの内側で、本を一冊抱きしめるように持った。


 その本の貸出票には、まだ何も書かれていない。


 灯里は、手帳の端に小さく書く。


 **名前が怖いなら、今日は呼ばない。**


     *


 別の雨。


 別の夜。


 ノクターン書房ではない。


 白い部屋。


 観測局のどこか。


 あるいは、その記録の残骸。


 床に、黒い刃が落ちている。


 Null-03。


 黒刃ヌル


 まだ誰のものでもないはずの刃。


 それを拾う手がある。


 青年の手だ。


 でも、手が震えている。


 指先に血はついていない。


 まだ。


 青年は、その刃を見下ろしている。


 刃は光らない。


 見るほどに、そこだけ世界が記録を失っているように見える。


 青年の背後に、声が重なる。


 誰の声か分からない。


 誰かが泣いている。


 誰かが名前を呼んでいる。


 誰かが、自分の人生を見ないでくれと言っている。


 誰かが、自分の罪を記録しないでくれと言っている。


 青年は耳を塞ごうとする。


 しかし、手には刃がある。


 黒い刃。


 塞ぐことができない。


 雨の音がない部屋で、傘が開く音がする。


 ばさり。


 黒い傘が開く。


 青年は顔を上げる。


 傘の下にいるのは、誰なのか分からない。


 自分なのか。


 別の誰かなのか。


 これから自分になるものなのか。


 青年の声が、震えている。


「名前があるから、痛い」


 刃を握る手が、少しだけ強くなる。


「名前があるから、見つかる」


 黒い傘の下から、声が返る。


 なら、切ればいい。


 青年は首を振る。


「切りたくない」


 なら、持ち続けるのですか。


「痛い」


 なら、切ればいい。


 青年の目に、水が浮かぶ。


 それが涙なのか、雨なのか分からない。


「名前があるから、痛い」


 その声は、やがて別の音へ変わる。


 O-00。


 Ω。


 S.


 Shino――。


 凪。


 どれも、完全には彼を救わない。


 どれも、完全には彼を消せない。


     *


「御影レイ!」


 真昼の声で、レイは現実へ戻った。


 特殺室の床。


 机。


 保全ケース。


 モニター。


 霧生の手が肩を掴んでいる。


 透子が正面にいる。


 藍沢が端末を見ている。


 真昼は、机越しに身を乗り出しかけていた。


「御影レイ!」


 もう一度呼ぶ。


 レイは息を吸った。


「白瀬真昼」


 声が掠れていた。


 それでも返事はできた。


 霧生が言う。


「現在地」


「特異殺人対策室」


「名前」


「御影レイ」


「今見たもの」


 レイは、少しだけ目を閉じた。


「雨のノクターン書房。灯里さん。青年。名前を聞かないでください。名前が怖いなら、今日は呼ばない」


 真昼の顔が強張る。


 レイは続ける。


「別の記憶。白い部屋。黒刃ヌル。青年が拾う。手が震えてる。黒い傘が開く。青年が言う」


 レイは、喉を押さえた。


 その言葉を口にするのが痛いようだった。


「名前があるから、痛い」


 室内に、重い沈黙が落ちた。


 透子が、ゆっくり息を吐く。


「Null-03事故後の残響……あるいは、O-00発生直前の表層記録かもしれません」


 藍沢は端末へ記録を打ち込む。


「御影レイさんの視認記録。O-00表層名候補と天沢灯里記録、Null-03残響が連続して接続。K-117反応は」


 彼女の手が止まる。


 画面を見る。


「微弱に上昇しています」


 透子の表情が硬くなる。


 霧生が言う。


「黒江」


「分かっています」


「分かってるなら、今は踏み込むな」


「分かっています」


 透子は、自分へ言い聞かせるように繰り返した。


 真昼は、レイの前へ回り込む。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないけど、戻ってます」


「どこまで見えました」


「はっきりとは、分からない」


 レイは額に手を当てる。


「青年は、最初から殺したかったわけじゃないと思う。名前が痛くて、見られるのが怖くて、切りたいと思った。でも、切りたくないとも思っていた」


「でも、切った」


「うん」


 レイの声が沈む。


「切ったんだと思う」


 真昼は、何も言えなかった。


 切りたくなかった。


 痛かった。


 怖かった。


 だからといって、切っていい理由にはならない。


 それは、杏奈が言ったことと同じだ。


 救いみたいに言わないで。


 透子が、地下書庫の日記帳のページをもう一度確認する。


「篠宮凪という名前候補について、整理します」


 彼女の声は、専門家としての冷静さを取り戻していた。


 ただし、少しだけ硬い。


「現時点で、日記署名、灯里さんの貸出票裏面、O-00関連未整理メモ、ノクターン書房地下書庫記録の複数箇所に、S.N.、Shino――、凪、Nagiという表記が現れています」


 御堂がモニターに一覧を出す。


 **S.**

 **S.N.?**

 **Shino――**

 **篠宮■■**

 **凪**

 **Nagi**

 **O-00**

 **Ω**


「ただし、完全名として安定した記録はありません」


 藍沢が言う。


「灯里さんの貸出票裏に一瞬だけ現れた『篠宮凪』も、固定記録ではなく浮上反応です。正式記録としてはまだ扱えません」


 真昼は、唇を結んだ。


 分かっている。


 正式記録ではない。


 でも、見た。


 レイも見た。


 灯里の貸出票の裏に浮かんだ名前。


 地下書庫の日記に残った「凪」。


 青年の震える手。


 名前があるから、痛い。


 それらは、もう偶然ではない。


「候補じゃない」


 真昼は、小さく言った。


 藍沢が見る。


「白瀬真昼さん」


「分かっています。正式には候補です。呼称固定は危険です。真木彼方さんの欠落記録を巻き込むかもしれない。それも分かっています」


 真昼は、自分のノートを見る。


 そこには、まだ**篠宮――**までしか書いていない。


「でも、私の中では、もうただの候補ではありません」


 霧生が黙っている。


 透子も、藍沢も、レイも、真昼の言葉を待つ。


 真昼は、深く息を吸った。


「名前として、置きます」


 その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。


 怖い。


 本当に怖い。


 名前を置くことで、何かが動くかもしれない。


 誰かを傷つけるかもしれない。


 でも、置かなければ、また逃げる。


 O-00。


 Ω。


 危険分類。


 活動体。


 そういう言葉の奥に、名前が沈んでいく。


 真昼は、ノートの新しいページを開いた。


 ペン先を置く。


 一文字目を書く前に、手が止まる。


 レイが呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は答える。


「御影レイ」


 その返事を杭にして、書いた。


 **篠宮凪。**


 書いた瞬間、蛍光灯がかすかに瞬いた。


 藍沢の端末が小さく警告音を鳴らす。


 **O-00反応微上昇**


 透子がすぐに言う。


「真昼さん、続けて。止めないで」


 真昼は頷いた。


 止めると、文字に飲まれる気がした。


 だから、続ける。


 **まだ呼ばない。

 でも、候補ではなく、名前として置く。**


 最後の句点を書いた時、胸の痛みが少しだけ引いた。


 ノートの上の文字は、消えなかった。


 篠宮凪。


 その名前は、まだ声にはしない。


 まだ、呼ばない。


 でも、白瀬真昼の非公開記録の中に置かれた。


 藍沢は、端末を見つめながら言った。


「反応、安定。呼称ではなく、非公開記録内配置として受け取られたようです」


 霧生が短く息を吐く。


「心臓に悪いことするな」


「すみません」


「謝るな。必要だったんだろ」


「はい」


「なら、次は事前に言え」


「努力します」


「努力じゃ弱い」


「記録します」


 藍沢が横から言った。


 霧生が彼女を見る。


「今のはお前の台詞じゃない」


「失礼しました」


 少しだけ、場の緊張が緩んだ。


 けれど、透子はまだモニターを見ていた。


 K-117の赤い線。


 真木――。


 その欠落記録は、篠宮凪の文字と細くつながったままだ。


 透子は静かに言う。


「真木彼方を巻き込まないためにも、次に進む必要があります」


「次って何だ」


 霧生が聞く。


 透子は、黒い日記帳を見る。


「青年本人との対話です」


 真昼の胸が跳ねた。


 レイは、目を伏せる。


 雨のノクターン書房。


 名前を聞かないでください。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 名前があるから、痛い。


 それらの断片の先にいる青年。


 篠宮凪。


 まだ呼ばない名前。


 でも、もう候補ではない名前。


 真昼はノートを閉じた。


 閉じた表紙の下に、その名前がある。


 消さないために。


 逃がさないために。


 そして、まだ壊さないために。


 窓の外で、雨が降り始めていた。


 ぽたり。


 水滴が窓を打つ。


 その音は、どこかノクターン書房の地下で黒い傘が開く音に似ていた。

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